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第七章 富田祐斗
第七十二話
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強い打ち合いしかしない。けれども、強打の中の読み合いと微妙なコース取りで徐々に主導権を握っていった。
俺の連続得点で、十七―十八になる。十七点目は副島先輩が空振りして、シャトルが地面にぽとりと落ちるような終わり方だった。ふと歓声も拍手も起きなくなり、固唾を飲む音が聞こえてきそうなくらい、体育館はしんとしている。
シャトルを掴んで、俺はネット越しに副島先輩をひたと見据えた。副島先輩は眉一つ動かさず、静かに構えている。ぎらぎらと燃える瞳でこちらを見ているだろうと思っていた俺は、かえってその冷たい視線に魅入ってしまった。
勝ち負けがはっきりしているとき、人間の情熱はまっすぐに昂ったりしない。副島先輩の卑屈な視線は、小学校のときに俺を虐めていたやつらに似ている。毎日同じ服で、流行りのゲームも漫画も持っていない。明らかに貧しい人間。それを見る目だった。
ということは、俺だって情熱的な表情などしていないだろう、彼らを見上げる俺の顔も、卑屈そのものだっただろうから。
中学生になって、ある日、そんな彼らが、まるで昔のことなどなかったかのように、微塵の遠慮もなく話しかけてきたことがある。一回だけじゃない。何回もあった。殴り飛ばしてやろうかと思うくらいに湧いた怒りをなんとか抑えて、俺はわざとよそよそしい態度をとって親しくなるのを避けていた。
ロングサーブを打つ。副島先輩はリターンでスマッシュ。鋭い打球はネットの上端に当たり、わずかばかり跳ねてネットを乗り越え、力なく落ちた。レシーブの構えをしていた俺はわずかに右足を前に出しただけ。十七―十九。
なにか大きな塊が心から抜け落ちたような感覚だった。あんなに激しく打ち合って奪い合った一点たちは、単なる偶然がもたらしたこの一点と何一つ変わりはしない。
俺は呆然としながら、ネット下に落ちたシャトルを拾った。手のひらに乗せた白いシャトルはあまりにも小さくて軽い。こんなものを打ち返すのに四苦八苦しているなんて、いまさらながら信じられないことだった。
俺は指の腹で羽根の部分を撫でてみた。ざらざらとした白い羽根の感触は、初めて触れた日と変わらない。バドミントン部に入った頃の、先輩のノックのためにひたすら投げたシャトルの感触と同じだった。
最後は十八―二十一で終わることになっている。俺が入れられる得点は次が最後だった。
俺は副島先輩にシャトルを投げ渡し、定位置に戻る。腰を沈めて、ラケットを頭上に構えて、副島先輩の手元を見据える。
終わらせたくない。俺はそう強く感じ始めていた。試合の趨勢を見守る仲間たちも、自分のバドミントン人生も裏切りたくなかった。
けれども、ここで俺が折れなければ、妹の修学旅行はない。五十万円はその代金を補って有り余る金額だ。お金がない。現実を考えれば、一点は一万円より軽く、一勝は五十万円より軽い。
副島先輩がサーブを放った。俺は後ろに下がって打ち返す。家族の顔が脳裏をよぎると、途端に試合への集中力が落ちていく。親は恨めしく、妹は可哀そうで、自分はどんなに不幸なことかと思う。
そして、自分は不幸だなどと言って、何もかもを親や貧しさのせいにしようとする自分への嫌悪もぶり返してくる。環境が悪い、運が悪い。それはあまりにも恥ずかしく、惨めで、この世で最もかっこ悪い言い訳に思われた。
単純に力負けして、俺はこのラリーを落とした。十七―二十。相手のマッチポイントだった。
俺が構えると、副島先輩はすぐサーブを放つ。俺はドライブ気味に返し、副島先輩はそれを無理に強打してネットに引っ掛けた。速足でシャトルを拾い、俺に投げ渡す瞬間、視線を投げかけてきた。
約束は果たす、ということだろう。十八―二十一とするには、俺があと一回ミスをすればよい。五十万円はあと一歩のところに届いている。
シャトルを受け取って、俺はしばらくサーブの構えに入れなかった。わざとらしく深呼吸をしてみたりして、渦巻く迷いを振り払おうとする。現実を見ろ、とぐずな心を𠮟責した。いったい、この一試合がこの先の人生でどういう意味を持つというのだろう。いまは注目していても、誰もかれもこの試合のことなど早晩忘れてしまう。
バドミントンだって、いつかは辞めなくてはいけない。どうせ実業団に入れる実力ではないのだから、どこかでバドミントンにどっぷりと浸かる時間にお別れをしなければいけないのだ。それが数年早まることが、いったいどうしたというのだろう。
体育館の高い位置に設置されたスピーカーから、気の抜けたメロディーが流れだしたのはその時だった。校内放送の始まりを告げる、上り調子の単純な音階。
「生徒の呼び出しをいたします。二年一組、西野さん、高濱さん、栢原さん、田島さん、富田さんは、至急、職員室に来てください」
俺の連続得点で、十七―十八になる。十七点目は副島先輩が空振りして、シャトルが地面にぽとりと落ちるような終わり方だった。ふと歓声も拍手も起きなくなり、固唾を飲む音が聞こえてきそうなくらい、体育館はしんとしている。
シャトルを掴んで、俺はネット越しに副島先輩をひたと見据えた。副島先輩は眉一つ動かさず、静かに構えている。ぎらぎらと燃える瞳でこちらを見ているだろうと思っていた俺は、かえってその冷たい視線に魅入ってしまった。
勝ち負けがはっきりしているとき、人間の情熱はまっすぐに昂ったりしない。副島先輩の卑屈な視線は、小学校のときに俺を虐めていたやつらに似ている。毎日同じ服で、流行りのゲームも漫画も持っていない。明らかに貧しい人間。それを見る目だった。
ということは、俺だって情熱的な表情などしていないだろう、彼らを見上げる俺の顔も、卑屈そのものだっただろうから。
中学生になって、ある日、そんな彼らが、まるで昔のことなどなかったかのように、微塵の遠慮もなく話しかけてきたことがある。一回だけじゃない。何回もあった。殴り飛ばしてやろうかと思うくらいに湧いた怒りをなんとか抑えて、俺はわざとよそよそしい態度をとって親しくなるのを避けていた。
ロングサーブを打つ。副島先輩はリターンでスマッシュ。鋭い打球はネットの上端に当たり、わずかばかり跳ねてネットを乗り越え、力なく落ちた。レシーブの構えをしていた俺はわずかに右足を前に出しただけ。十七―十九。
なにか大きな塊が心から抜け落ちたような感覚だった。あんなに激しく打ち合って奪い合った一点たちは、単なる偶然がもたらしたこの一点と何一つ変わりはしない。
俺は呆然としながら、ネット下に落ちたシャトルを拾った。手のひらに乗せた白いシャトルはあまりにも小さくて軽い。こんなものを打ち返すのに四苦八苦しているなんて、いまさらながら信じられないことだった。
俺は指の腹で羽根の部分を撫でてみた。ざらざらとした白い羽根の感触は、初めて触れた日と変わらない。バドミントン部に入った頃の、先輩のノックのためにひたすら投げたシャトルの感触と同じだった。
最後は十八―二十一で終わることになっている。俺が入れられる得点は次が最後だった。
俺は副島先輩にシャトルを投げ渡し、定位置に戻る。腰を沈めて、ラケットを頭上に構えて、副島先輩の手元を見据える。
終わらせたくない。俺はそう強く感じ始めていた。試合の趨勢を見守る仲間たちも、自分のバドミントン人生も裏切りたくなかった。
けれども、ここで俺が折れなければ、妹の修学旅行はない。五十万円はその代金を補って有り余る金額だ。お金がない。現実を考えれば、一点は一万円より軽く、一勝は五十万円より軽い。
副島先輩がサーブを放った。俺は後ろに下がって打ち返す。家族の顔が脳裏をよぎると、途端に試合への集中力が落ちていく。親は恨めしく、妹は可哀そうで、自分はどんなに不幸なことかと思う。
そして、自分は不幸だなどと言って、何もかもを親や貧しさのせいにしようとする自分への嫌悪もぶり返してくる。環境が悪い、運が悪い。それはあまりにも恥ずかしく、惨めで、この世で最もかっこ悪い言い訳に思われた。
単純に力負けして、俺はこのラリーを落とした。十七―二十。相手のマッチポイントだった。
俺が構えると、副島先輩はすぐサーブを放つ。俺はドライブ気味に返し、副島先輩はそれを無理に強打してネットに引っ掛けた。速足でシャトルを拾い、俺に投げ渡す瞬間、視線を投げかけてきた。
約束は果たす、ということだろう。十八―二十一とするには、俺があと一回ミスをすればよい。五十万円はあと一歩のところに届いている。
シャトルを受け取って、俺はしばらくサーブの構えに入れなかった。わざとらしく深呼吸をしてみたりして、渦巻く迷いを振り払おうとする。現実を見ろ、とぐずな心を𠮟責した。いったい、この一試合がこの先の人生でどういう意味を持つというのだろう。いまは注目していても、誰もかれもこの試合のことなど早晩忘れてしまう。
バドミントンだって、いつかは辞めなくてはいけない。どうせ実業団に入れる実力ではないのだから、どこかでバドミントンにどっぷりと浸かる時間にお別れをしなければいけないのだ。それが数年早まることが、いったいどうしたというのだろう。
体育館の高い位置に設置されたスピーカーから、気の抜けたメロディーが流れだしたのはその時だった。校内放送の始まりを告げる、上り調子の単純な音階。
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