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第七章 富田祐斗
第六十六話
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試合は一方的な展開で進んだ。二十一―十三で俺が一セット目を獲った。二セット先取したら勝利となる。間違いなくストレートで勝てるだろう。
二年生の主審がチェンジエンドを告げ、俺と先輩はそれぞれ反対側のエンドに入る。こちら側に立つと、意識の範疇から外していた人物の姿がどうしても目に入る。体育館の窓に沿ってぐるりともうけられた通路。そこに佇んでいるのは実果だった。
黒いカーテンを背景にしているので、遠目にも輪郭がくっきりと見える。通路に設けられた手すりにもたれ、無表情に俺のいるコートを見下ろしていた。
練習が始まる頃からそこにいて、誰もがちらちらと視線を向けながら何も言わなかった。無用なトラブルを避けたいからか、顧問も敢えて注意したりはしない。俺たちが体操したり、走ったり、シャトルを打っているあいだも、その風景をぼんやりと見ているだけ。時おり足を組み替えたりしていたものの、基本的には動かなかった。
ところが、俺と片桐先輩の試合が始まる段になって、急にこのコートの正面に移動してきたのである。実果はいったい何がしたいのだろう。
俺はいったん目を閉じて、実果を視界に入れないよう、うつむいて目を開いた。そのまま手元だけを見てサーブを打つ。
ラリーが始まれば、もうシャトルと相手の動き以外は気にならない。あっさりと一点目を取って、もう一度自分のサーブ。また手元だけ見て打つ。淡々とロングサーブを打っていればいい。
レシーブのときも、視線をいつもより下に落として、相手の手元にだけ集中する。軽快な音とともにシャトルが宙に舞い上がれば、もう相手とシャトル以外は見えなくなる。ここまでは強いショットで押していたので、意表をついてドロップ。ネット際にぽとりと落ちたシャトルを、相手は拾うことができない。
その調子で、二セット目は一セット目以上に一方的な試合になった。相手の攻め方、守り方のパターンはもう出尽くしていて、俺はその全てに対応できている。相手の構えがどんどん固くなり、ぎごちなさとなげやりさが現れてくる。あっさりと大差で勝利した。
握手して、三上先生に報告して、カバンを置いているところに戻って一息つく。ちらりと視線をやると、実果はそのままの位置で別の試合を見ていた。
確かに、今日を区切りにバドミントン部を辞めると実果には伝えてある。でも、わざわざ見に来る理由なんて実果にはないはずだ。俺はもう一度視線を上げて実果の横顔を見る。告白されたときは、ただ驚くばかりで、大きな感慨もなかった。
けれども、時間が経つにつれて、どんどん実果が好きになっていった。会話をリードしてくれるし、俺が何も持ってなくても、何かをやったことがなくても、絶対に見下したりはしなかった。実果の前で繕うことが少なくなっていった。すぐ飽きて、すぐに振られるんじゃないかと思ったけど、別れの気配もない。
ずっと実果と付き合っていたかったけれど、家がこんな状況ではどうしようもない。こちらから別れを切り出すのがせめてもの礼儀だ。親父がクビになって、バイトを始めて、会う時間もなければ、気力もなくなっていく。でも、相手の親父がクビになったから振ったなんて汚名を実果に着せるわけにはいかない。
「栢原さん、呼んだのか?」
声をかけてきたのは美晃だった。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、なんで来てるの?」
「さぁ。でも、今日は大事な試合があるって伝えてたから、多分、それで見に来たんじゃない?」
「副島先輩との試合?」
「うん」
「彼氏の試合を応援するなんていつの時代だよ。しかも部内戦」
「そうだよなぁ」
結局、俺が今日限りで部活を辞めると伝えたのは実果だけだった。美晃や田島にも伝えようと思ったけれど、副島先輩との件があるからには、やはり躊躇われた。この部内戦に挑む理由は、「最後に勝って、俺が強いところを見せつけてから辞めたい」ってことだ。
でも、俺は五十万円のためにそれを捨てた。建前だけになってしまったその理由を、美晃や田島に面と向かって言うことはどうしてもできなくて、延ばし延ばしにしているうちにこの日がやってきてしまっていた。
「祐斗、栢原さんが来てるの、どう思ってる?」
美晃は半歩寄って、やや声を潜めて聞いてきた。
「複雑」
俺は正直に答えた。嫌じゃない。それでも緊張はする。実果にいいところを見せたいという気持ちは自然と湧いてきて、どうしても抑えられない。
スポーツで活躍していたら歓心を得られるなんて、それこそ、いつの時代だという話だけれど、でも、そういう妙なプライドの存在は消しようがない。
「もし迷惑だったら、俺が適当に言って帰ってもらおうか? 他の部活の生徒は、って感じで」
客観的に見れば、バドミントン部にとって極めて重大な試合のはずで、美晃の意識も高まっているのが伝わってきた。
「いいよ、励みにする」
わざわざ見に来ているということは、実果にも何か事情や考えがあるはずだ。追い払ってしまうのも悪いだろう。それにどうせ、次の試合についてはコンディションなんて意味がない。
「そっか」
美晃が軽く返事をしたタイミングで、「副島、富田、早くやれよー」と三上先生から声がかかった。俺は大声で「はい」と返事をして、コートに早足で向かった。
「誰か審判」
俺より早くコートに入った副島先輩が周囲を見渡す。
「はい、はい、俺が主審やります」
美晃が俺の後ろから元気よく応答。必要な審判は三人。ネット横に立つ主審が一人と、それぞれのエンドの後ろに座る線審が二人。美晃は手近な二年生に視線を投げて誘い、二年生が頷いて線審の位置に入る。次の一人を探そうと逆方向を振り向いた美晃の視線の先にいたのは、意外なことに宮沢だった。
「わたし、やらせてもらっていいですか?」
「あぁ、どうぞ」
美晃はやや困惑しながら、空いている線審の定位置を手で示した。
男子が女子の、女子が男子の試合の審判に入ることは時々ある。でもそれは、審判が足りないときにわざわざ呼びに行って捕まえてくることがほとんどだ。こうやって、向こうから近づいてきて立候補するのは珍しい。
二年生の主審がチェンジエンドを告げ、俺と先輩はそれぞれ反対側のエンドに入る。こちら側に立つと、意識の範疇から外していた人物の姿がどうしても目に入る。体育館の窓に沿ってぐるりともうけられた通路。そこに佇んでいるのは実果だった。
黒いカーテンを背景にしているので、遠目にも輪郭がくっきりと見える。通路に設けられた手すりにもたれ、無表情に俺のいるコートを見下ろしていた。
練習が始まる頃からそこにいて、誰もがちらちらと視線を向けながら何も言わなかった。無用なトラブルを避けたいからか、顧問も敢えて注意したりはしない。俺たちが体操したり、走ったり、シャトルを打っているあいだも、その風景をぼんやりと見ているだけ。時おり足を組み替えたりしていたものの、基本的には動かなかった。
ところが、俺と片桐先輩の試合が始まる段になって、急にこのコートの正面に移動してきたのである。実果はいったい何がしたいのだろう。
俺はいったん目を閉じて、実果を視界に入れないよう、うつむいて目を開いた。そのまま手元だけを見てサーブを打つ。
ラリーが始まれば、もうシャトルと相手の動き以外は気にならない。あっさりと一点目を取って、もう一度自分のサーブ。また手元だけ見て打つ。淡々とロングサーブを打っていればいい。
レシーブのときも、視線をいつもより下に落として、相手の手元にだけ集中する。軽快な音とともにシャトルが宙に舞い上がれば、もう相手とシャトル以外は見えなくなる。ここまでは強いショットで押していたので、意表をついてドロップ。ネット際にぽとりと落ちたシャトルを、相手は拾うことができない。
その調子で、二セット目は一セット目以上に一方的な試合になった。相手の攻め方、守り方のパターンはもう出尽くしていて、俺はその全てに対応できている。相手の構えがどんどん固くなり、ぎごちなさとなげやりさが現れてくる。あっさりと大差で勝利した。
握手して、三上先生に報告して、カバンを置いているところに戻って一息つく。ちらりと視線をやると、実果はそのままの位置で別の試合を見ていた。
確かに、今日を区切りにバドミントン部を辞めると実果には伝えてある。でも、わざわざ見に来る理由なんて実果にはないはずだ。俺はもう一度視線を上げて実果の横顔を見る。告白されたときは、ただ驚くばかりで、大きな感慨もなかった。
けれども、時間が経つにつれて、どんどん実果が好きになっていった。会話をリードしてくれるし、俺が何も持ってなくても、何かをやったことがなくても、絶対に見下したりはしなかった。実果の前で繕うことが少なくなっていった。すぐ飽きて、すぐに振られるんじゃないかと思ったけど、別れの気配もない。
ずっと実果と付き合っていたかったけれど、家がこんな状況ではどうしようもない。こちらから別れを切り出すのがせめてもの礼儀だ。親父がクビになって、バイトを始めて、会う時間もなければ、気力もなくなっていく。でも、相手の親父がクビになったから振ったなんて汚名を実果に着せるわけにはいかない。
「栢原さん、呼んだのか?」
声をかけてきたのは美晃だった。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、なんで来てるの?」
「さぁ。でも、今日は大事な試合があるって伝えてたから、多分、それで見に来たんじゃない?」
「副島先輩との試合?」
「うん」
「彼氏の試合を応援するなんていつの時代だよ。しかも部内戦」
「そうだよなぁ」
結局、俺が今日限りで部活を辞めると伝えたのは実果だけだった。美晃や田島にも伝えようと思ったけれど、副島先輩との件があるからには、やはり躊躇われた。この部内戦に挑む理由は、「最後に勝って、俺が強いところを見せつけてから辞めたい」ってことだ。
でも、俺は五十万円のためにそれを捨てた。建前だけになってしまったその理由を、美晃や田島に面と向かって言うことはどうしてもできなくて、延ばし延ばしにしているうちにこの日がやってきてしまっていた。
「祐斗、栢原さんが来てるの、どう思ってる?」
美晃は半歩寄って、やや声を潜めて聞いてきた。
「複雑」
俺は正直に答えた。嫌じゃない。それでも緊張はする。実果にいいところを見せたいという気持ちは自然と湧いてきて、どうしても抑えられない。
スポーツで活躍していたら歓心を得られるなんて、それこそ、いつの時代だという話だけれど、でも、そういう妙なプライドの存在は消しようがない。
「もし迷惑だったら、俺が適当に言って帰ってもらおうか? 他の部活の生徒は、って感じで」
客観的に見れば、バドミントン部にとって極めて重大な試合のはずで、美晃の意識も高まっているのが伝わってきた。
「いいよ、励みにする」
わざわざ見に来ているということは、実果にも何か事情や考えがあるはずだ。追い払ってしまうのも悪いだろう。それにどうせ、次の試合についてはコンディションなんて意味がない。
「そっか」
美晃が軽く返事をしたタイミングで、「副島、富田、早くやれよー」と三上先生から声がかかった。俺は大声で「はい」と返事をして、コートに早足で向かった。
「誰か審判」
俺より早くコートに入った副島先輩が周囲を見渡す。
「はい、はい、俺が主審やります」
美晃が俺の後ろから元気よく応答。必要な審判は三人。ネット横に立つ主審が一人と、それぞれのエンドの後ろに座る線審が二人。美晃は手近な二年生に視線を投げて誘い、二年生が頷いて線審の位置に入る。次の一人を探そうと逆方向を振り向いた美晃の視線の先にいたのは、意外なことに宮沢だった。
「わたし、やらせてもらっていいですか?」
「あぁ、どうぞ」
美晃はやや困惑しながら、空いている線審の定位置を手で示した。
男子が女子の、女子が男子の試合の審判に入ることは時々ある。でもそれは、審判が足りないときにわざわざ呼びに行って捕まえてくることがほとんどだ。こうやって、向こうから近づいてきて立候補するのは珍しい。
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