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第六章 宮沢瑞姫
第五十八話
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そんな事件があった日から一週間後の今日。
わたしは部活をサボって図書室に来て、実果から富田くんの話を聞いた。
中学生のときから、わたしと富田くんは同じ部活に所属しているのに、わたしは何も気づかなかった。
兆候は、あるといえばあった。意地を張って体操服で貫き通し、ラケットもシューズも一本、一足きりしか持たない。練習中や試合中にガットが切れたら、平然と他人のラケットを借りていた。
でもそんなことくらいじゃ気づけない。別のクラスの人と一緒に受ける、数学の習熟度別授業。普通に制服を着て、学校指定鞄を持って、同じ教科書と、同じノートとで授業を受けていた富田くん。友達と一緒に笑う姿からも、一人でつまらなそうにスマートフォンを触る姿からも、とてもそういう家庭には見えなかった。
みんな気づいていなかったのか、それとも、薄々気づいている人もいたのか、わたしにはわからない。それでも、わたしは気づきたかった。気づいたところでわたしには何もできないし、何もしないのだろうけど、それでも、誰かがこっそりと我慢しているということに気づきたかった。
わたしだって、いつも強気に振舞っている。親にも教師にも、いつも「普通の学校生活を送っているよ」というアピールをしてしまう。強気に、笑顔で話すのと同時に、わたしは親や教師に、心の中で悪態をつく。簡単なことのなのに、どうして気づかないのかと。
図書室で一緒の時間を過ごした日も、わたしと実果は別々に帰宅する。帰路を共にするのは、歩きながら、肩を並べてお喋りをするのは、何となく「違う」とわたしは思っていたし、多分、実果もそう思っている。
学校の最寄り駅。改札の前でわたしは立ちすくむ。わたしが図書室をあとに出たから、実果が後ろから来るということはない。定期券入れをスカートのポケットから取り出して、印字された駅名と六か月分の値段を見て、わたしはそれをゆっくりとポケットに戻した。
富田くんは徒歩でこの学校に来ている。駅前の交差点を曲がって、橋を渡っていく姿を何度か見かけたことがある。富田くんは私立専願で明真学園高校の特進科を受けた。入学金も授業料も免除。
富田くんも明真学園高校に入学しているのだと知ったのは、ちょうどバドミントン部の体験入部で顔を合わせた時だった。目が合って、富田くんは少しだけ眉を上げて、そして会釈した。わたしも会釈を返した。私立専願だったと聞いたのは実果からだ。
「保留」
わたしはあてどなく呟いた。わたしの横を、見知らぬ人々が通り過ぎていく。
あの日から、わたしはずっと気になっていた。富田くんの答えは一体どちらになったのか。
きっと受諾するだろう、というのがわたしの予測だった。普段の富田くんならば即答で断るところを「保留」と言ったのだ。父親がクビになったからといって、すぐに大量のお金が必要になるわけじゃない。そうすると、富田くんの家庭は以前から苦しかったのだ。
特進科で行われている修学旅行代寄附の話だってそれを証明している。
それにしても、副島先輩はどうやって富田くんの事情に気づいたのだろう。
だって、このやり方は副島先輩にもリスクがある。もし、富田くんが告発したら、副島先輩の人生は無茶苦茶になる。お金を持ち出せば富田くんは承諾する。その確信がないと、こんなことはできない。
わたしは逆のポケットからスマートフォンを取り出す。バドミントン部全体の連絡用グループにはもちろん、副島先輩も入っている。
しばらく画面を見つめて、わたしは迷っていた。なにもしなくたって、結果は明日分かる。
もちろん、真剣勝負で副島先輩が勝つ可能性だって、客観的に見ればないわけじゃない。でも、こんなことをしておいて、断られて、それでも勝つなんてことはあり得ないと、なんとなく思う。
富田くんが受諾するのか、断るのか、そもそも、なぜ「保留」などと言ったのか。この一週間、わたしの頭の中の疑念はそればかりだった。決してお喋りが上手ではなく、学業成績とバドミントン以外に際立った特技があるわけでもない。
それでも、富田くんは男子の中で軽んじられている様子はなかった。見下される対象になっている雰囲気はまるでなかったし、逆に富田くんが、おどおどした、卑屈な態度をとっている場面も見たことがなかった。富田くんはいつも一生懸命で、強者としても弱者としても捻くれていなかった。
わたしはろくに他人と会話もできず、無惨に孤立している。それでも、他人を馬鹿にして笑いを獲ったり、いちいちファッションの細かいところを気にしていたり、そんな人には、なれてもなりたくないと見下していた。でも、富田くんにはなりたかった。
石原さんという実果の友達や、橋本くんや、あるいは田島くんという特進科の男子は、富田くんはお金を受け取らないだろうと主張しているらしい。でもわたしは知っている。
バドミントン部のレギュラーを賭けた試合でさえ、富田くんは「保留」だと言った。
だったら、きっと、富田くんは修学旅行代を受け取るだろう。そして試合のほうも、一度、「保留」と言ってしまうくらい迷っているなら、きっと五十万円を受け取るのだろう。副島先輩が行動に踏み切ったからには、なんらかの確信がるのだ。最終的には、富田くんが受け取るだろうという確信。
もしかしたらお金に困っているかもしれないという程度の推測ではなく、富田家にはそもそもお金がないんだという証拠を副島先輩は掴んでいたはずだ。副島先輩はそこにつけ入ろうとしたのだ。
わたしは部活をサボって図書室に来て、実果から富田くんの話を聞いた。
中学生のときから、わたしと富田くんは同じ部活に所属しているのに、わたしは何も気づかなかった。
兆候は、あるといえばあった。意地を張って体操服で貫き通し、ラケットもシューズも一本、一足きりしか持たない。練習中や試合中にガットが切れたら、平然と他人のラケットを借りていた。
でもそんなことくらいじゃ気づけない。別のクラスの人と一緒に受ける、数学の習熟度別授業。普通に制服を着て、学校指定鞄を持って、同じ教科書と、同じノートとで授業を受けていた富田くん。友達と一緒に笑う姿からも、一人でつまらなそうにスマートフォンを触る姿からも、とてもそういう家庭には見えなかった。
みんな気づいていなかったのか、それとも、薄々気づいている人もいたのか、わたしにはわからない。それでも、わたしは気づきたかった。気づいたところでわたしには何もできないし、何もしないのだろうけど、それでも、誰かがこっそりと我慢しているということに気づきたかった。
わたしだって、いつも強気に振舞っている。親にも教師にも、いつも「普通の学校生活を送っているよ」というアピールをしてしまう。強気に、笑顔で話すのと同時に、わたしは親や教師に、心の中で悪態をつく。簡単なことのなのに、どうして気づかないのかと。
図書室で一緒の時間を過ごした日も、わたしと実果は別々に帰宅する。帰路を共にするのは、歩きながら、肩を並べてお喋りをするのは、何となく「違う」とわたしは思っていたし、多分、実果もそう思っている。
学校の最寄り駅。改札の前でわたしは立ちすくむ。わたしが図書室をあとに出たから、実果が後ろから来るということはない。定期券入れをスカートのポケットから取り出して、印字された駅名と六か月分の値段を見て、わたしはそれをゆっくりとポケットに戻した。
富田くんは徒歩でこの学校に来ている。駅前の交差点を曲がって、橋を渡っていく姿を何度か見かけたことがある。富田くんは私立専願で明真学園高校の特進科を受けた。入学金も授業料も免除。
富田くんも明真学園高校に入学しているのだと知ったのは、ちょうどバドミントン部の体験入部で顔を合わせた時だった。目が合って、富田くんは少しだけ眉を上げて、そして会釈した。わたしも会釈を返した。私立専願だったと聞いたのは実果からだ。
「保留」
わたしはあてどなく呟いた。わたしの横を、見知らぬ人々が通り過ぎていく。
あの日から、わたしはずっと気になっていた。富田くんの答えは一体どちらになったのか。
きっと受諾するだろう、というのがわたしの予測だった。普段の富田くんならば即答で断るところを「保留」と言ったのだ。父親がクビになったからといって、すぐに大量のお金が必要になるわけじゃない。そうすると、富田くんの家庭は以前から苦しかったのだ。
特進科で行われている修学旅行代寄附の話だってそれを証明している。
それにしても、副島先輩はどうやって富田くんの事情に気づいたのだろう。
だって、このやり方は副島先輩にもリスクがある。もし、富田くんが告発したら、副島先輩の人生は無茶苦茶になる。お金を持ち出せば富田くんは承諾する。その確信がないと、こんなことはできない。
わたしは逆のポケットからスマートフォンを取り出す。バドミントン部全体の連絡用グループにはもちろん、副島先輩も入っている。
しばらく画面を見つめて、わたしは迷っていた。なにもしなくたって、結果は明日分かる。
もちろん、真剣勝負で副島先輩が勝つ可能性だって、客観的に見ればないわけじゃない。でも、こんなことをしておいて、断られて、それでも勝つなんてことはあり得ないと、なんとなく思う。
富田くんが受諾するのか、断るのか、そもそも、なぜ「保留」などと言ったのか。この一週間、わたしの頭の中の疑念はそればかりだった。決してお喋りが上手ではなく、学業成績とバドミントン以外に際立った特技があるわけでもない。
それでも、富田くんは男子の中で軽んじられている様子はなかった。見下される対象になっている雰囲気はまるでなかったし、逆に富田くんが、おどおどした、卑屈な態度をとっている場面も見たことがなかった。富田くんはいつも一生懸命で、強者としても弱者としても捻くれていなかった。
わたしはろくに他人と会話もできず、無惨に孤立している。それでも、他人を馬鹿にして笑いを獲ったり、いちいちファッションの細かいところを気にしていたり、そんな人には、なれてもなりたくないと見下していた。でも、富田くんにはなりたかった。
石原さんという実果の友達や、橋本くんや、あるいは田島くんという特進科の男子は、富田くんはお金を受け取らないだろうと主張しているらしい。でもわたしは知っている。
バドミントン部のレギュラーを賭けた試合でさえ、富田くんは「保留」だと言った。
だったら、きっと、富田くんは修学旅行代を受け取るだろう。そして試合のほうも、一度、「保留」と言ってしまうくらい迷っているなら、きっと五十万円を受け取るのだろう。副島先輩が行動に踏み切ったからには、なんらかの確信がるのだ。最終的には、富田くんが受け取るだろうという確信。
もしかしたらお金に困っているかもしれないという程度の推測ではなく、富田家にはそもそもお金がないんだという証拠を副島先輩は掴んでいたはずだ。副島先輩はそこにつけ入ろうとしたのだ。
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