青春の幕間

河瀬みどり

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第六章 宮沢瑞姫

第五十六話

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廊下の突き当りで踵を返し、わたしは本校舎へ戻った。あてどない旅。屋上が閉鎖されていることは知っているし、中庭はまばらだけど人がいて、校舎からも見えてしまう。

さもどこかに用事があるような顔をしてさまよいながら、わたしは思考を巡らせた。

誰も寄り付かず、どこからも見えない場所。意外と学校にそういう場所ってないんだな、という感想と、あったとしてもそれは、普段わたしでさえ行かない、この短時間では気づけるはずもない場所なんだろうなという分析が頭を占める。

そして、わたしが最終的にたどり着いたのは部室棟だった。

どれくらいのものかは分からないけど、校舎を取り囲む塀とのあいだにはある程度の空間があったはずだ。建物の裏手に回りこみ、側壁から顔を半分だけ出してみる。思ったより建物と塀のあいだは広いうえに、建物の壁も、校舎を囲む塀もきれいで、地面に雑草が生い茂っているということもない。さすがは私立、手入れが行き届いている。

わたしはそろりそろりと歩き、裏手に広がる空間の中心あたりで止まる。部室棟の壁にもたれて座り、お弁当の包みをほどいた。太陽が真上にあるせいで陰はなかったけれど、かえってじめじめしているということもなく、初夏の陽気は人間が食事を摂る気温として悪くはなかった。

小さなお弁当箱を開けると、彩りのあるおかずが姿を見せる。わたしに比べたら、お弁当箱のおかずたちのほうがよっぽどきれいだ。わたしの人生に、たったこれくらいでも色彩があったらと思うと、無音の空間が余計にむなしくなった。靴底で地面を擦ると、じゃりじゃりと砂が鳴る。

健康に気をつけて野菜から、なんて台詞を想像しながら、ブロッコリーを口に運んでみる。一つ一つの行動に脳内で何か意味づけをしないと、その無駄な意味づけに思考を使わないと、惨めさが胸を押し潰しそうだった。

なにか考えろ、と自分で自分に命令を出しながら、ブロッコリーを意味もなく強く噛みしめる。さぁ、次はプチトマトだ、野菜からという原則を守りながら、飽きないように味を変えていく。奥歯で一気にトマトを潰すと、酸っぱさが弾けた。

そして視界が歪んで、泣いちゃった、と自覚した瞬間には涙が次から次へと溢れてきていた。箸を弁当箱の上に置く。顎の先に涙がたまって、重いしずくが制服のブラウスに染みていく。

瞼をゆっくりと閉じると、行き場を失った涙が目じりから流れていく。わたしはそこで、静かに泣いた。頭の中は真っ白で、ただただ泣いた。

おそらく、目を閉じているぶん、聴覚は敏感になっていたのだと思う。うっすらと換気扇が回る音が聞こえてきて、そして、その換気扇のあたりから、くぐもった声が飛び出してきた。

「負けてくれないか」

男子の声だった。わたしの座っている場所よりも、やや右側の壁。上部に換気扇が取り付けられている。声は確実にそこから聞こえた。その位置にある部室は、裏手から見ているので確実だとは言えないけど、バドミントン部の部室のはずだった。

わたしはお弁当箱の蓋を閉め、音を立てないよう慎重に立ち上がった。そのまま、そろりそろりと壁伝いに換気扇の下へと移動する。背伸びをして、少しでも換気扇に耳を近づける。

ガシャ、こちら側の壁沿いに並ぶスチール製のロッカーが開く音。足音が少し遠ざかり、ロッカーを開けた人物は壁から離れていく。

「いま、開けるから」

同じ男子の声。極端な静寂のおかげで、かすかな声でも換気扇を通って聞こえてくる。

「五十万円だ」
「こんな金」

別の男子の声。

「大丈夫、盗んだとかじゃない」

最初に喋った男子の声。どうやら部室では二人の男子が会話をしているらしい。

「ダメか?」

声色がわずかに強くなった。心臓がどくんと跳ねる。

「副島先輩だ」

わたしの口から、思わず呟きが漏れた。声にしたつもりはなかったけれども、乾いた呟きが漏れていた。

「ダメか?」

もう一度、同じ人物の、同じ言葉。間違いなく副島先輩だ。

「保留で」
「えっ?」
「ほっ、保留で、お願いします」

もう一人はいったい誰なのだろうか。声が小さすぎて判別できない。

「返事、待ってるから」

おそらく副島先輩である方がそう言って、そこで会話は途切れた。十秒ほど待っても、会話は再開しなかった。

わたしは音をたてないように、それでいてなるべく速足で、部室棟の裏から脱出した。壁から半分だけ顔を出して、部室の扉が並ぶ部室棟の正面をじっと観察する。わずかにたまった涙が邪魔で、強く目をこすって視界をきれいにした。

待っていた時間は五分だったのか十分だったのか、もしかしたら三分くらいだったのかもしれないけれど、この時間はやたらに長く感じられた。

ようやく扉が開いて、うつむいた男子生徒がとぼとぼとバドミントン部の部室から出てきた。同級生の富田くん。副島先輩とレギュラーを争っている、わたしたちの学年でも傑出した選手。

富田くんは部室棟から離れ、まるで生気のない顔で校舎を見上げる。そして、何かのスイッチが入ったかのように、急に校舎へと駆け出した。

わたしは彼の遠ざかる背中を見送り、そうしてから校舎を見上げてみた。授業開始も近い時刻で、いまから歩いて戻っていたのでは間に合いそうもなかった。

富田くんが駆け出したことに納得しつつも、わたしは気力を完全に失っていて、とても走る気分にはなれなかった。
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