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第五章 椎名匡貴
第五十一話
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ポケットからハンカチを取り出して、それを自分の顔に押し付けて、高濱は派手に泣いていた。今日は高校生活で初めてのことばかりが起こる。
誰かがこんなふうに人前で泣くなんて、それこそ小学生のとき以来かもしれない。
「高濱さん、分かってんじゃん」
石原が高濱のほうを向いてそう言った。高濱はその声にっぴくりと反応して、少し大きく顔を震わせる。もしかしたら、頷いているのかもしれない。
「わけわかんない」
「俺もだ」
栢原と俺は石原に説明を求めた。
味方が増えたつもりで強気になったのか、石原が俺たちを見る視線には侮蔑と憐みさえ込められていた。調子に乗るなよ。
「金がないから、恵んでやる。そんなことされて、富田くんは喜ぶのかってこと。富田くんはそんなんじゃ喜ばない人でしょ?」
そりゃぁ、確かに、プライドとかもあるかもしれないけど。そんな俺の逡巡を、栢原の怒声が鮮やかに跳び越えていく。
「じゃあ、修学旅行はどうするの? 一人で家にいろって富田くんに言うの?」
「そう」
石原は落ち着き払っている。
「『そう』って」
「でも、富田くんはそういう人だよ。わたしたちがお金を用意しても、きっと受け取らずにそうする。結果は同じで、お金を用意したぶん、わたしたちも富田くんも傷つくだけ」
高濱の嗚咽は落ち着きを見せ始めていたが、まださめざめと涙は流れていた。富田とあまり喋ったことがない俺の立場からすれば、石原の言うことにも一理あるように聞こえる。
ただ、たった一理だけだ。
金を受け取るかどうかは、石原の言う通り、富田の人物次第だろう。
そして、富田の人物をよく知っているのは、栢原であり、田島であり、橋本であるはずだ。栢原と田島が企画側にいて、橋本も金を払ったと聞いているから、勝負は見えている。栢原がため息をついた。
「じゃあ、お金払わないんだね」
石原はわずかばかり顎を引く。
「みんな払ってるのに?」
石原は迷わず、もう一度頷いた。
がらがら、と音を立てて教室の扉が開く。男子が二人、お喋りをしながら入ってきて、ただならぬ雰囲気を察した彼らは俺たちを迂回し、声を潜めて教室隅に場所を確保した。恐る恐るという様子で、遠巻きに俺たちを見つめている。
そんな彼らを蔑むような目つきで一瞥した栢原が高濱に寄り添った。
「高濱さん」
「ごめん、実果ちゃん」
泣き腫らした顔で栢原を見上げる高濱。
栢原はゆっくりと首を横に振る。
「高濱さんが謝ることじゃないよ。でも、田島に連絡しなきゃ」
「なんで?」
高濱はそう言って、直後に「そうだね」と自分で回答した。スカートのポケットからスマートフォンを取り出して操作する。
ノブが教室に入ってきて、陽気に開きかけた口は険悪な雰囲気によって閉じられた。高濱、栢原、石原が会釈し、俺は黙って手を挙げて挨拶代わりにした。
栢原が高濱を座らせて、なにやら慰めの言葉をかけはじめる。ノブは柄にもなく静かに俺のところへやってくる。
「何があったんよ」
「色々だよ。説明はむずい」
「だろうな」
さらに男子二人組と女子三人組がほとんど同時に登校してきて、その直後に、息を切らした二人がやってきた。橋本と田島だ。
「祐斗は?」
二人の姿を認めると、まっさきに栢原が聞いた。
「じゃんけんに負けて飲み物買いに行ってる。あいつは七割の確率でチョキを出す」
「売店じゃすぐ戻ってきちゃうよ」
「いや、コンビニまで行かせた」
橋本が真顔で淡々と答える。駅との間にある最寄りのコンビニはそれなりに遠い。
「ありがとう」
緊張が解けて、栢原の声は急にしおらしくなる。橋本は誰とでも陽気に喋る。でも、誰もが橋本と陽気に喋れるわけじゃない。クラスの半分以上の人間にとって、橋本の背中は遠くにある。
「それで、何があったの?」
橋本の視線は高濱へと向けられる。高濱はもう泣き止んでいたけれど、目の周りがうっすらと赤くて、頬にも涙の跡があった。橋本がそれに気づいて、なぜか「ごめん」と呟いた。
「いや……その」
高濱は目を泳がせ、栢原と石原を交互に見た。橋本と田島も二人の顔を順番に見た。唇を固く引き結び、無表情の栢原と、不服、不機嫌をそのまま表した石原の表情。数秒間の沈黙。
「裕子がお金、払わないって」
栢原が、橋本ではなく石原に向かって言う。石原は逆に、橋本を見据える。
「橋本くん、払ったの?」
橋本は即答しなかった。わずかに俯いて、躊躇うように手をうなじに持っていき、短い襟足を二、三度撫でる。そうしてから、顔を上げた。
「払ったよ」
石原は黙って橋本を見つめている。睨むのではなく、ただ無味乾燥な瞳で見つめている、表情は不機嫌なまま、感情のない瞳がかえって恐ろしかった。
「おれも払ったよ」
橋本の斜め後ろで、田島が聞かれてもないのにそう言った。はっきりと、大きな声でそう言った。
「でも、流されたんだ」
そうつけ加えて、やはり黙りこんだ。
物音ひとつしない教室。このまま待てば、しん、という音が聞こえてきそうなくらいだった。
争いもなく、行事にも積極的に取り組む「よいクラス」。だから、こんな状況は初めてで、俺も気まずさを肌にひりひりと感じながら何ひとつ行動を起こせずにいた。
「返金しようか?」
沈黙を破ったのは栢原だった。言葉は橋本と田島に向けられたものだったが、栢原に詰め寄ったのは高濱だった。
「でも、栢原さん」
「いいよ、どうにかなる」
栢原は橋本と田島の顔を見たまま、冷淡な声色で返事をした。
「それは」
「それは」
橋本と田島が同時に声を発して、視線と仕草で互いに譲り合って、橋本が発言権を得た。
「それは卑怯だからやめとくよ」
「おれもそう思う」
田島も続けて言った。
「卑怯って?」
栢原が橋本に聞く。
「一度祐斗を信じなかったのに、いまさら手のひらを返すわけにはいかない。石原さん、なんで祐斗は受け取らないと思ったの?」
「なんとなく、富田くんはそういうことされたら傷つくかなって……橋本くんと田島くんはなんで払ったの? わたし、二人は絶対に払わないと思ってた。二人からお金なんか貰ったら、富田くん、嫌だと思う」
橋本も田島もわずかにうつむく。橋本が、ぼそりと問いかける。
「なんで富田が嫌がるって思うんだ?」
「……ごめん」
石原が謝罪して、橋本がぱっと顔を上げる。
「そうじゃなくて、本当になんでそう思ったのか聞きたいんだ」
「えっと……」
石原の視線は宙にさまよって、興奮のためか耳が少し赤くなっていて、そして石原は再び、橋本に視線を合わせた。
「根拠はないんだけど、本当になんとなく、そうかなって。だって、橋本くんと富田くんと田島くん、いつも仲いいけど、ただ普通の仲がいいっていうのとは違ってたから。わたし、男子のそういうところ、いいなって思ってて」
回答になっていないけど、回答になっている。そうとしか表せないような告白だった。告白としか言いようがないくらい、石原の言葉には迫真と緊張があった。そして、この告白に、あえて一つだけケチをつけるとすれば、「男子のそういうところ」という箇所だろう。
だって俺も、そしてノブや、きっとヒロミも、あの三人のことを羨ましく思ってるんだから。
誰かがこんなふうに人前で泣くなんて、それこそ小学生のとき以来かもしれない。
「高濱さん、分かってんじゃん」
石原が高濱のほうを向いてそう言った。高濱はその声にっぴくりと反応して、少し大きく顔を震わせる。もしかしたら、頷いているのかもしれない。
「わけわかんない」
「俺もだ」
栢原と俺は石原に説明を求めた。
味方が増えたつもりで強気になったのか、石原が俺たちを見る視線には侮蔑と憐みさえ込められていた。調子に乗るなよ。
「金がないから、恵んでやる。そんなことされて、富田くんは喜ぶのかってこと。富田くんはそんなんじゃ喜ばない人でしょ?」
そりゃぁ、確かに、プライドとかもあるかもしれないけど。そんな俺の逡巡を、栢原の怒声が鮮やかに跳び越えていく。
「じゃあ、修学旅行はどうするの? 一人で家にいろって富田くんに言うの?」
「そう」
石原は落ち着き払っている。
「『そう』って」
「でも、富田くんはそういう人だよ。わたしたちがお金を用意しても、きっと受け取らずにそうする。結果は同じで、お金を用意したぶん、わたしたちも富田くんも傷つくだけ」
高濱の嗚咽は落ち着きを見せ始めていたが、まださめざめと涙は流れていた。富田とあまり喋ったことがない俺の立場からすれば、石原の言うことにも一理あるように聞こえる。
ただ、たった一理だけだ。
金を受け取るかどうかは、石原の言う通り、富田の人物次第だろう。
そして、富田の人物をよく知っているのは、栢原であり、田島であり、橋本であるはずだ。栢原と田島が企画側にいて、橋本も金を払ったと聞いているから、勝負は見えている。栢原がため息をついた。
「じゃあ、お金払わないんだね」
石原はわずかばかり顎を引く。
「みんな払ってるのに?」
石原は迷わず、もう一度頷いた。
がらがら、と音を立てて教室の扉が開く。男子が二人、お喋りをしながら入ってきて、ただならぬ雰囲気を察した彼らは俺たちを迂回し、声を潜めて教室隅に場所を確保した。恐る恐るという様子で、遠巻きに俺たちを見つめている。
そんな彼らを蔑むような目つきで一瞥した栢原が高濱に寄り添った。
「高濱さん」
「ごめん、実果ちゃん」
泣き腫らした顔で栢原を見上げる高濱。
栢原はゆっくりと首を横に振る。
「高濱さんが謝ることじゃないよ。でも、田島に連絡しなきゃ」
「なんで?」
高濱はそう言って、直後に「そうだね」と自分で回答した。スカートのポケットからスマートフォンを取り出して操作する。
ノブが教室に入ってきて、陽気に開きかけた口は険悪な雰囲気によって閉じられた。高濱、栢原、石原が会釈し、俺は黙って手を挙げて挨拶代わりにした。
栢原が高濱を座らせて、なにやら慰めの言葉をかけはじめる。ノブは柄にもなく静かに俺のところへやってくる。
「何があったんよ」
「色々だよ。説明はむずい」
「だろうな」
さらに男子二人組と女子三人組がほとんど同時に登校してきて、その直後に、息を切らした二人がやってきた。橋本と田島だ。
「祐斗は?」
二人の姿を認めると、まっさきに栢原が聞いた。
「じゃんけんに負けて飲み物買いに行ってる。あいつは七割の確率でチョキを出す」
「売店じゃすぐ戻ってきちゃうよ」
「いや、コンビニまで行かせた」
橋本が真顔で淡々と答える。駅との間にある最寄りのコンビニはそれなりに遠い。
「ありがとう」
緊張が解けて、栢原の声は急にしおらしくなる。橋本は誰とでも陽気に喋る。でも、誰もが橋本と陽気に喋れるわけじゃない。クラスの半分以上の人間にとって、橋本の背中は遠くにある。
「それで、何があったの?」
橋本の視線は高濱へと向けられる。高濱はもう泣き止んでいたけれど、目の周りがうっすらと赤くて、頬にも涙の跡があった。橋本がそれに気づいて、なぜか「ごめん」と呟いた。
「いや……その」
高濱は目を泳がせ、栢原と石原を交互に見た。橋本と田島も二人の顔を順番に見た。唇を固く引き結び、無表情の栢原と、不服、不機嫌をそのまま表した石原の表情。数秒間の沈黙。
「裕子がお金、払わないって」
栢原が、橋本ではなく石原に向かって言う。石原は逆に、橋本を見据える。
「橋本くん、払ったの?」
橋本は即答しなかった。わずかに俯いて、躊躇うように手をうなじに持っていき、短い襟足を二、三度撫でる。そうしてから、顔を上げた。
「払ったよ」
石原は黙って橋本を見つめている。睨むのではなく、ただ無味乾燥な瞳で見つめている、表情は不機嫌なまま、感情のない瞳がかえって恐ろしかった。
「おれも払ったよ」
橋本の斜め後ろで、田島が聞かれてもないのにそう言った。はっきりと、大きな声でそう言った。
「でも、流されたんだ」
そうつけ加えて、やはり黙りこんだ。
物音ひとつしない教室。このまま待てば、しん、という音が聞こえてきそうなくらいだった。
争いもなく、行事にも積極的に取り組む「よいクラス」。だから、こんな状況は初めてで、俺も気まずさを肌にひりひりと感じながら何ひとつ行動を起こせずにいた。
「返金しようか?」
沈黙を破ったのは栢原だった。言葉は橋本と田島に向けられたものだったが、栢原に詰め寄ったのは高濱だった。
「でも、栢原さん」
「いいよ、どうにかなる」
栢原は橋本と田島の顔を見たまま、冷淡な声色で返事をした。
「それは」
「それは」
橋本と田島が同時に声を発して、視線と仕草で互いに譲り合って、橋本が発言権を得た。
「それは卑怯だからやめとくよ」
「おれもそう思う」
田島も続けて言った。
「卑怯って?」
栢原が橋本に聞く。
「一度祐斗を信じなかったのに、いまさら手のひらを返すわけにはいかない。石原さん、なんで祐斗は受け取らないと思ったの?」
「なんとなく、富田くんはそういうことされたら傷つくかなって……橋本くんと田島くんはなんで払ったの? わたし、二人は絶対に払わないと思ってた。二人からお金なんか貰ったら、富田くん、嫌だと思う」
橋本も田島もわずかにうつむく。橋本が、ぼそりと問いかける。
「なんで富田が嫌がるって思うんだ?」
「……ごめん」
石原が謝罪して、橋本がぱっと顔を上げる。
「そうじゃなくて、本当になんでそう思ったのか聞きたいんだ」
「えっと……」
石原の視線は宙にさまよって、興奮のためか耳が少し赤くなっていて、そして石原は再び、橋本に視線を合わせた。
「根拠はないんだけど、本当になんとなく、そうかなって。だって、橋本くんと富田くんと田島くん、いつも仲いいけど、ただ普通の仲がいいっていうのとは違ってたから。わたし、男子のそういうところ、いいなって思ってて」
回答になっていないけど、回答になっている。そうとしか表せないような告白だった。告白としか言いようがないくらい、石原の言葉には迫真と緊張があった。そして、この告白に、あえて一つだけケチをつけるとすれば、「男子のそういうところ」という箇所だろう。
だって俺も、そしてノブや、きっとヒロミも、あの三人のことを羨ましく思ってるんだから。
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