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第四章 高濱弥生
第三十六話
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待ち人はなかなか来なかった。
朝練のある部活に入っていない生徒たちがぽつぽつと登校し始めている。正門から入って、中庭の前で右折して昇降口に向かうから、中庭は閑散としている。
初夏の陽ざし、涼やかな風。この中庭でお弁当を食べたりしたら、さぞ気持ちいいだろうなとわたしは思った。でも、同時に、そんな雰囲気に酔うみたいな、幼いロマンのようなものを引きずっているのはわたしだけなのだとも思う。
「誰が来るの?」
黙っているのも気まずくて、わたしは聞いた。
「田島」
がっかりした自分を発見して、わたしはまた少し自分が嫌いになった。富田くん、橋本くん、田島くんの三人組。高校二年生になっても、まだ中学生でいるような田島くん。野暮ったくて、なにを考えているのか分からなくて、髪にはフケがついていそうな。
わたしが他人に対してこんな感情を抱くようになったのは、高校生になってからだった。
激しめの部活動を頑張っていて、クラスの活動にも積極的で、周囲を引っ張っていく。驚くことに、明真学園特進科ではそんなグループが形成されていった。わたしはその一員で、クラスの中心の一人だと見なされているみたいだった。それを理解したとき、視界が一気に開けて、クラスの様子の一つ一つが目に入るようになってきた。もしかしたら、これが余裕というものなのかもしれない。毎日を必死で生きている時には手に入れられないような、自分や他人を俯瞰する感覚。
でも、俯瞰するということは、言葉の通り上から見るということでもあったんだと思う。田島くんは富田くんに似ている。似ているけれども、なんというか、雰囲気が受け付けない。富田くんの方が何かが上なんだ。なんというか、爽やかさ、みたいな。
そう思うたび、わたしは自己嫌悪にも陥る。二年前までは、わたしが一番ねっとりして嫌なやつだったじゃないか。いまはたまたま、受け入れてもらっているだけ。なのに、これが図に乗るってことなのかな。
「田島くん? 実果ちゃんと田島くんって普段そんなに仲良かったっけ?」
「そうでもないよ」
栢原さんは突き放すようにそう答えた。栢原さんもやっぱり、そう思ってるんだ。でも、それを隠そうともしない栢原さんも、わたしは好きになれなかった。
五分ほど待って、校舎から田島くんが出てきて、きょろきょろしている田島くんに栢原さんが手を振った。
「ごめん、教室で橋本くんにずっと捕まってて」
「今日も朝練だったんでしょ?」
「うん」
「橋本くん元気だね」
「ほんとに橋本くんのコミュ力はすごいよ。疲れなんて関係ない」
栢原さんと田島くんはお互いに苦笑する。なんだか親しげな雰囲気だ。こんな様子、教室では見たことがない。
「高濱さんに祐斗の話をしようと思うんだけど」
田島くんがわたしに視線を向け、ちょんと会釈して、再び栢原さんへ視線を戻す。
「なんで?」
「祐斗の修学旅行代、みんなから集めようと思って」
田島くんは腕を組んで、しばらく地面を見つめて、そして呟いた。
「みんな協力してくれるかなぁ」
「だから、高濱さんに頼もうかなって」
栢原さんがわたしを横目で見る。二人の会話の意味が分からなくて、わたしはぽかんとするばかりだった。
「まぁ、確かに高濱さんなら」
「でしょ? だから、田島から祐斗のこと話してよ」
「なんで俺からなの?」
「わたしがする祐斗の話なんて嘘みたいなもんだよ。田島のほうがよっぽど祐斗のこと知ってる」
田島くんは腕をほどいて、数秒だけ栢原さんの顔を見つめて、納得したように頷いた。
「高濱さん、ちょっと頼みがあるんだけど」
「うん」
「祐斗のことなんだけど」
「うん」
「祐斗、修学旅行の積立金を払ってないんだ」
「……なんで?」
「……貧乏だから」
田島はわたしの前に立って、まっすぐにわたしを見下ろしている。栢原さんはうつむきながら、所在なさげにそわそわしている。あまりに突飛な話に、わたしの思考は停止して、戸惑うことしかできなかった。
「でも、修学旅行の積み立てって、月何千円とかじゃないの?」
「それも払えないんだよ。最初から払うつもりなんてなかったのかもしれない」
「修学旅行に行かないつもりってこと?」
「そう。祐斗、めちゃくちゃ頭いいけど、明真に来てるじゃん。推測だけど、学費がないからだよ。親にここって言われたんだ」
「そうなの?」
わたしはただ気まずくて、そんな返事しかできなかった。失礼にならない模範的返答が見当たらない。子供の修学旅行費を払わないなんて、それどころか、学校まで指定するなんて。そんなの、子供の可能性を狭めるだけ。苦しくても、そこを捻出するのが子供を育てるってことじゃないのかな。
「高濱さん、やっぱり真面目だね。いい意味で」
わたしの思考を見破っているかのように、栢原さんが話に入ってくる。困惑して首をかしげると、栢原さんは目を細めた。
「裕子から聞いたよ。仕切るのが上手いって」
わたしは顔から血の気が引くのを感じる。
特進科では、石原さんだけが中学校のときのわたしを知っている。石原さんが高校生のわたしをどう見ているか不安で、関わるのを避けてきた。
入学式の日、壁に張り出されたクラスメイトの名前。石原裕子という文字に、わたしは絶望して、そしてこれまで怯え続けてきた。石原さんがわたしのことを話したら終わりだ。よくここまで保ったけど、もうだめだ。
「羨ましい。いつもリーダーって感じだし」
微笑む栢原さん。皮肉なんだ、きっと。
「いや、でも、わたしは実果ちゃんが羨ましいよ。富田くんと付き合ってるし。わたしなんか全然もてないし、声がでかいだけだから」
思わず早口になる。
「本当に付き合ってるなんて言えないよ」
栢原さんの表情が翳る。
「なんで?」
「祐斗のお父さんがクビになった時に、こうやって高濱さんを頼るんだから」
「え、クビ?」
「そう、父親が会社をクビになったって」
わたしは絶句するしかなかった。田島くんは苦々しい表情で栢原さんを見て、渋々という様子で口を開く。
「このままだと、もう絶望的なんだ。祐斗が修学旅行に行くのは」
「これまで一円も払ってないの? 誰から聞いたの?」
「山下先生に聞いて、頑なに答えなかったから、多分そうだろうと思って。それに、状況証拠はたくさんある」
朝練のある部活に入っていない生徒たちがぽつぽつと登校し始めている。正門から入って、中庭の前で右折して昇降口に向かうから、中庭は閑散としている。
初夏の陽ざし、涼やかな風。この中庭でお弁当を食べたりしたら、さぞ気持ちいいだろうなとわたしは思った。でも、同時に、そんな雰囲気に酔うみたいな、幼いロマンのようなものを引きずっているのはわたしだけなのだとも思う。
「誰が来るの?」
黙っているのも気まずくて、わたしは聞いた。
「田島」
がっかりした自分を発見して、わたしはまた少し自分が嫌いになった。富田くん、橋本くん、田島くんの三人組。高校二年生になっても、まだ中学生でいるような田島くん。野暮ったくて、なにを考えているのか分からなくて、髪にはフケがついていそうな。
わたしが他人に対してこんな感情を抱くようになったのは、高校生になってからだった。
激しめの部活動を頑張っていて、クラスの活動にも積極的で、周囲を引っ張っていく。驚くことに、明真学園特進科ではそんなグループが形成されていった。わたしはその一員で、クラスの中心の一人だと見なされているみたいだった。それを理解したとき、視界が一気に開けて、クラスの様子の一つ一つが目に入るようになってきた。もしかしたら、これが余裕というものなのかもしれない。毎日を必死で生きている時には手に入れられないような、自分や他人を俯瞰する感覚。
でも、俯瞰するということは、言葉の通り上から見るということでもあったんだと思う。田島くんは富田くんに似ている。似ているけれども、なんというか、雰囲気が受け付けない。富田くんの方が何かが上なんだ。なんというか、爽やかさ、みたいな。
そう思うたび、わたしは自己嫌悪にも陥る。二年前までは、わたしが一番ねっとりして嫌なやつだったじゃないか。いまはたまたま、受け入れてもらっているだけ。なのに、これが図に乗るってことなのかな。
「田島くん? 実果ちゃんと田島くんって普段そんなに仲良かったっけ?」
「そうでもないよ」
栢原さんは突き放すようにそう答えた。栢原さんもやっぱり、そう思ってるんだ。でも、それを隠そうともしない栢原さんも、わたしは好きになれなかった。
五分ほど待って、校舎から田島くんが出てきて、きょろきょろしている田島くんに栢原さんが手を振った。
「ごめん、教室で橋本くんにずっと捕まってて」
「今日も朝練だったんでしょ?」
「うん」
「橋本くん元気だね」
「ほんとに橋本くんのコミュ力はすごいよ。疲れなんて関係ない」
栢原さんと田島くんはお互いに苦笑する。なんだか親しげな雰囲気だ。こんな様子、教室では見たことがない。
「高濱さんに祐斗の話をしようと思うんだけど」
田島くんがわたしに視線を向け、ちょんと会釈して、再び栢原さんへ視線を戻す。
「なんで?」
「祐斗の修学旅行代、みんなから集めようと思って」
田島くんは腕を組んで、しばらく地面を見つめて、そして呟いた。
「みんな協力してくれるかなぁ」
「だから、高濱さんに頼もうかなって」
栢原さんがわたしを横目で見る。二人の会話の意味が分からなくて、わたしはぽかんとするばかりだった。
「まぁ、確かに高濱さんなら」
「でしょ? だから、田島から祐斗のこと話してよ」
「なんで俺からなの?」
「わたしがする祐斗の話なんて嘘みたいなもんだよ。田島のほうがよっぽど祐斗のこと知ってる」
田島くんは腕をほどいて、数秒だけ栢原さんの顔を見つめて、納得したように頷いた。
「高濱さん、ちょっと頼みがあるんだけど」
「うん」
「祐斗のことなんだけど」
「うん」
「祐斗、修学旅行の積立金を払ってないんだ」
「……なんで?」
「……貧乏だから」
田島はわたしの前に立って、まっすぐにわたしを見下ろしている。栢原さんはうつむきながら、所在なさげにそわそわしている。あまりに突飛な話に、わたしの思考は停止して、戸惑うことしかできなかった。
「でも、修学旅行の積み立てって、月何千円とかじゃないの?」
「それも払えないんだよ。最初から払うつもりなんてなかったのかもしれない」
「修学旅行に行かないつもりってこと?」
「そう。祐斗、めちゃくちゃ頭いいけど、明真に来てるじゃん。推測だけど、学費がないからだよ。親にここって言われたんだ」
「そうなの?」
わたしはただ気まずくて、そんな返事しかできなかった。失礼にならない模範的返答が見当たらない。子供の修学旅行費を払わないなんて、それどころか、学校まで指定するなんて。そんなの、子供の可能性を狭めるだけ。苦しくても、そこを捻出するのが子供を育てるってことじゃないのかな。
「高濱さん、やっぱり真面目だね。いい意味で」
わたしの思考を見破っているかのように、栢原さんが話に入ってくる。困惑して首をかしげると、栢原さんは目を細めた。
「裕子から聞いたよ。仕切るのが上手いって」
わたしは顔から血の気が引くのを感じる。
特進科では、石原さんだけが中学校のときのわたしを知っている。石原さんが高校生のわたしをどう見ているか不安で、関わるのを避けてきた。
入学式の日、壁に張り出されたクラスメイトの名前。石原裕子という文字に、わたしは絶望して、そしてこれまで怯え続けてきた。石原さんがわたしのことを話したら終わりだ。よくここまで保ったけど、もうだめだ。
「羨ましい。いつもリーダーって感じだし」
微笑む栢原さん。皮肉なんだ、きっと。
「いや、でも、わたしは実果ちゃんが羨ましいよ。富田くんと付き合ってるし。わたしなんか全然もてないし、声がでかいだけだから」
思わず早口になる。
「本当に付き合ってるなんて言えないよ」
栢原さんの表情が翳る。
「なんで?」
「祐斗のお父さんがクビになった時に、こうやって高濱さんを頼るんだから」
「え、クビ?」
「そう、父親が会社をクビになったって」
わたしは絶句するしかなかった。田島くんは苦々しい表情で栢原さんを見て、渋々という様子で口を開く。
「このままだと、もう絶望的なんだ。祐斗が修学旅行に行くのは」
「これまで一円も払ってないの? 誰から聞いたの?」
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