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第四章 高濱弥生
第三十四話
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小学三年生で、学級委員という役割ができてから、わたしはずっと学級委員長だった。班というものが組まれれば、いつだって班長だった。どんな行事でも、物事の進行役を買ってでた。
なにかイベントがあると、それが上手くいった姿を想像して、そこにたどり着くには各人がどんな役割を担ったらよいかをすぐに思い浮かべていた。
そして、その通りに進むと、形容しがたい喜びが胸に膨らんだ。「高濱さんはしっかりしてる」。同級生も、大人たちも、みんなそう褒めていた。
彼ら、彼女らの表情を、わたしはもう一度、もう一人の自分と一緒に思い出してみる。すると、その時は気づかなかった、冷ややかなニュアンスが浮かび上がる。
「浅間くん、『しっかりしてる』って昔から言われてこなかった?」
わたしは息も絶え絶えに聞いた。少しも動いていないのに、息が苦しい。
「よく言われてたよ。いまでもバスケ部の顧問にはよく言われる。高濱さんも?」
「うん」
「俺、『しっかりしてる』には二種類あると思うんだ。本当にしっかりしてる人に言うときと、ただ自信家で、自分としては良かれと思ってあれこれやる人に言うときと。本当にしっかりしてる人は、みんなが持つ怠惰な気持ちが分かってる。自分の目標と他人の目標が一致していないことに気づいて、そこに手を打てる人なんだ。きっとね」
浅間くんは、きっと、という言い方が好きみたいだった。
「いまの状況、どうしたらいいと思う?」
「わかんないよ。文化祭の準備のやる気を出させるなんて。俺はまだまだ、本当にしっかりした人なんかじゃないから」
「でも、悔しくないの? というか、このままだと、また文化祭の当日に嫌な気持ちになるよ。わたしたち二人だけかもしれないけど」
「覚悟はできてるよ。耐えるだけだ、深呼吸して、心を落ち着かせればきっと耐えられる」
わたしはなにも言い返せなかった。沈黙の教室にチャイムの音が響いて、下校時刻であることをわたしたちに告げた。
「高濱さん、帰ろうか」
「うん」
窓の戸締りを確認して、カーテンを閉めて、明かりを消して、教室の扉を施錠した。一緒に鍵を職員室に戻してから、わたしたちは黙って昇降口まで歩いた。部活を終えた生徒たちの喧騒が徐々に大きくなりつつある。どの日を文化祭の準備に充てるかはクラス次第だから、この時期はどの部活も生徒が歯抜けになっている。
「俺がいなくてもバスケ部の練習は回ってるんだよな」
靴を履き替えながら浅間くんが呟いた。
「でも、部長がいなかったら大変なんじゃない?」
浅間くんにとっては独り言だったのかもしれない。でも、わたしは浅間くんともう少し話していたかったから、敢えて言葉を拾った。
「高濱さん、俺たちがいなかったら、二年三組の文化祭って大変になってると思う?」
「そりゃそうでしょ。なんにも決まらないし、なんにも進まない。なにをやることになっても酷い出来だった思うよ」
「それって、みんなにとって大変なことなのかな?」
前日までの自分なら、この台詞に反発心を抱いただろう。でも、その日の自分が抱いたのは、「またやってしまった」という感情だった。文化祭が上手くいくなんて物差しは捨ててしまうべきなのに。
「そうだよね」
「仮に俺が仕切るか副部長が仕切るかで練習の質が変わるとしても、きっと、他のやつらにはあんまり関係ないんだよ」
帰宅する方向が違うので、わたしたちは正門の前で別れた。誰かと別れるのを名残惜しいと思うのはこれが初めてだった。
帰り道はなんとか堪えていたけれど、家に帰って、自分の部屋に入ったら、もう涙を我慢できなくなった。自分自身の幼さが無性に恥ずかしかった。十四歳になって、まだこんなことにも気づけていなかった。小学三年生のあの時から、もう既に冷ややかな目線で見ていた人はいるのだ。いや、それが大多数なのだ。
それでも、だらだらとサボる自分は想像できなかった。自分の心にある物差しは、もう一人の自分がどんなに指図しようと捨てる気にはなれなかった。浅間くんにならなくちゃいけない。わたしはそう決意した。本当の意味でしっかりしなくちゃいけないんだ。
次の日から、浅間くんは少しだけ気合を入れて男子たちの作業をせっつくようになり、そのおかげもあってか、文化祭での発表は思っていたより酷くない出来になった。それでも当日、わたしを恥じ入らせるのには十分だったから、きっと、浅間くんも恥ずかしく思っていただろう。
中学校生活を通じて、わたしが表舞台に出たのはその一度きりだった。
文化祭以降、仕切りたがりという悪評がわたしをついて回ったから。元々わたしと仲が良かった女子たちはわたしを受け入れ続けてくれたけど、文化祭のことには触れないようにしているのがわたしにも分かっていた。もう一人の自分も、たびたびわたしを嘲笑する。「あんな時だけ手を挙げて仕切ろうとするなんて、不気味だよ」、おっしゃる通りだ。
浅間くんとはあれ以来、とうとう事務的な会話以外をすることはなかった。ときどき意味深に目線が合うような気もしたけれど、きっとそれはわたしの自意識過剰。浅間くんはすぐに目をそらして、男子との会話に戻っていった。そして、三年生になるとクラスも分かれて、そんな視線も感じなくなってしまった。
男子バスケ部は地区大会の準決勝で敗れて、三位決定戦に勝利した。壇上で表彰状を受け取ったのは浅間くんで、放送委員会のインタビューにはきはきと答えていた。
「男子バスケットボール部、創部以来史上最高の成績ですね」「はい、三位という結果には悔しいところもありますが、努力してきた結果が実って嬉しいです」。
冬になると、浅間くんは県で一番の公立進学校に合格して、わたしは中の上くらいの公立に落ちた。
「高濱さん」
卒業式の日、生徒たちが群れる校庭で、わたしは浅間くんに声をかけられた。
「浅間くん」
振り向くと、胸に花をつけた浅間くんは一年前よりももっと凛々しくなっているように感じられた。わたしの両隣の友達が困惑した視線でわたしと浅間くんを交互に見ている。
「二年のとき、ありがとな」
喧騒の中でもよく通る浅間くんの声。
「うん。こっちこそ、本当にありがとう」
わたしは緊張して、あまり大きな声を出せなかった。
「じゃあな」
「うん、あっ」
なにも言うべきことはないのに、わたしはなぜか浅間くんを呼び止めようとして、けれども、浅間くんの背中は他の男子たちの中に消えてしまった。
なにかイベントがあると、それが上手くいった姿を想像して、そこにたどり着くには各人がどんな役割を担ったらよいかをすぐに思い浮かべていた。
そして、その通りに進むと、形容しがたい喜びが胸に膨らんだ。「高濱さんはしっかりしてる」。同級生も、大人たちも、みんなそう褒めていた。
彼ら、彼女らの表情を、わたしはもう一度、もう一人の自分と一緒に思い出してみる。すると、その時は気づかなかった、冷ややかなニュアンスが浮かび上がる。
「浅間くん、『しっかりしてる』って昔から言われてこなかった?」
わたしは息も絶え絶えに聞いた。少しも動いていないのに、息が苦しい。
「よく言われてたよ。いまでもバスケ部の顧問にはよく言われる。高濱さんも?」
「うん」
「俺、『しっかりしてる』には二種類あると思うんだ。本当にしっかりしてる人に言うときと、ただ自信家で、自分としては良かれと思ってあれこれやる人に言うときと。本当にしっかりしてる人は、みんなが持つ怠惰な気持ちが分かってる。自分の目標と他人の目標が一致していないことに気づいて、そこに手を打てる人なんだ。きっとね」
浅間くんは、きっと、という言い方が好きみたいだった。
「いまの状況、どうしたらいいと思う?」
「わかんないよ。文化祭の準備のやる気を出させるなんて。俺はまだまだ、本当にしっかりした人なんかじゃないから」
「でも、悔しくないの? というか、このままだと、また文化祭の当日に嫌な気持ちになるよ。わたしたち二人だけかもしれないけど」
「覚悟はできてるよ。耐えるだけだ、深呼吸して、心を落ち着かせればきっと耐えられる」
わたしはなにも言い返せなかった。沈黙の教室にチャイムの音が響いて、下校時刻であることをわたしたちに告げた。
「高濱さん、帰ろうか」
「うん」
窓の戸締りを確認して、カーテンを閉めて、明かりを消して、教室の扉を施錠した。一緒に鍵を職員室に戻してから、わたしたちは黙って昇降口まで歩いた。部活を終えた生徒たちの喧騒が徐々に大きくなりつつある。どの日を文化祭の準備に充てるかはクラス次第だから、この時期はどの部活も生徒が歯抜けになっている。
「俺がいなくてもバスケ部の練習は回ってるんだよな」
靴を履き替えながら浅間くんが呟いた。
「でも、部長がいなかったら大変なんじゃない?」
浅間くんにとっては独り言だったのかもしれない。でも、わたしは浅間くんともう少し話していたかったから、敢えて言葉を拾った。
「高濱さん、俺たちがいなかったら、二年三組の文化祭って大変になってると思う?」
「そりゃそうでしょ。なんにも決まらないし、なんにも進まない。なにをやることになっても酷い出来だった思うよ」
「それって、みんなにとって大変なことなのかな?」
前日までの自分なら、この台詞に反発心を抱いただろう。でも、その日の自分が抱いたのは、「またやってしまった」という感情だった。文化祭が上手くいくなんて物差しは捨ててしまうべきなのに。
「そうだよね」
「仮に俺が仕切るか副部長が仕切るかで練習の質が変わるとしても、きっと、他のやつらにはあんまり関係ないんだよ」
帰宅する方向が違うので、わたしたちは正門の前で別れた。誰かと別れるのを名残惜しいと思うのはこれが初めてだった。
帰り道はなんとか堪えていたけれど、家に帰って、自分の部屋に入ったら、もう涙を我慢できなくなった。自分自身の幼さが無性に恥ずかしかった。十四歳になって、まだこんなことにも気づけていなかった。小学三年生のあの時から、もう既に冷ややかな目線で見ていた人はいるのだ。いや、それが大多数なのだ。
それでも、だらだらとサボる自分は想像できなかった。自分の心にある物差しは、もう一人の自分がどんなに指図しようと捨てる気にはなれなかった。浅間くんにならなくちゃいけない。わたしはそう決意した。本当の意味でしっかりしなくちゃいけないんだ。
次の日から、浅間くんは少しだけ気合を入れて男子たちの作業をせっつくようになり、そのおかげもあってか、文化祭での発表は思っていたより酷くない出来になった。それでも当日、わたしを恥じ入らせるのには十分だったから、きっと、浅間くんも恥ずかしく思っていただろう。
中学校生活を通じて、わたしが表舞台に出たのはその一度きりだった。
文化祭以降、仕切りたがりという悪評がわたしをついて回ったから。元々わたしと仲が良かった女子たちはわたしを受け入れ続けてくれたけど、文化祭のことには触れないようにしているのがわたしにも分かっていた。もう一人の自分も、たびたびわたしを嘲笑する。「あんな時だけ手を挙げて仕切ろうとするなんて、不気味だよ」、おっしゃる通りだ。
浅間くんとはあれ以来、とうとう事務的な会話以外をすることはなかった。ときどき意味深に目線が合うような気もしたけれど、きっとそれはわたしの自意識過剰。浅間くんはすぐに目をそらして、男子との会話に戻っていった。そして、三年生になるとクラスも分かれて、そんな視線も感じなくなってしまった。
男子バスケ部は地区大会の準決勝で敗れて、三位決定戦に勝利した。壇上で表彰状を受け取ったのは浅間くんで、放送委員会のインタビューにはきはきと答えていた。
「男子バスケットボール部、創部以来史上最高の成績ですね」「はい、三位という結果には悔しいところもありますが、努力してきた結果が実って嬉しいです」。
冬になると、浅間くんは県で一番の公立進学校に合格して、わたしは中の上くらいの公立に落ちた。
「高濱さん」
卒業式の日、生徒たちが群れる校庭で、わたしは浅間くんに声をかけられた。
「浅間くん」
振り向くと、胸に花をつけた浅間くんは一年前よりももっと凛々しくなっているように感じられた。わたしの両隣の友達が困惑した視線でわたしと浅間くんを交互に見ている。
「二年のとき、ありがとな」
喧騒の中でもよく通る浅間くんの声。
「うん。こっちこそ、本当にありがとう」
わたしは緊張して、あまり大きな声を出せなかった。
「じゃあな」
「うん、あっ」
なにも言うべきことはないのに、わたしはなぜか浅間くんを呼び止めようとして、けれども、浅間くんの背中は他の男子たちの中に消えてしまった。
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