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第三章 田島歩
第三十話
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だから僕は、栢原さんの話を聞いても驚かなかった。もちろん、祐斗の父親が仕事をクビになったという話は衝撃だったし、それを僕たちに言ってくれなかったことに、小さくない落胆を感じている。
でも、祐斗にとって、栢原さんは気を張り続けなければならない存在だったに違いない。だから、あっさり別れようという話になる。彼氏でいる資格とかっていう話になる。好きなんかじゃないんだ、きっと。
栢原さんから話を聞いた金曜日の夜、僕は橋本くんにこのことを言おうとして、そしてやめた。祐斗はまだ僕たちに話していないのだから、僕が誰かに話すべきじゃない。
そしてもう一つ、僕には気になることがあった。
それはいつの日にか見た、NHKのドキュメンタリー。普段はそんなの見ないけど、番組表のタイトルが目についた。祐斗の家庭をちょっとでも知る参考になるかもしれない。そう思って観たけれど、取り上げられている事例は祐斗の状況よりももっと悲惨なものだった。
なんだかんだ言って、祐斗は部活もやってるし、夏休みもバイトなんかせずバドミントンやダンスの練習に費やしている。遠足だって毎回参加してるし、第一、成績を気にしてるってことは、奨学金を借りれば大学に行ける算段があるということだ。僕はそう思って、あまり関心を寄せることもなくぼんやりと画面を見ていた。
「歩、これ見てて面白い?」
母が僕に尋ねる。少し心配そうな声色と表情。
「そうでもないよ。でも、学校の課題なんだ。感想文書かなきゃいけなくてさ」
「そうなの」
母は露骨に安堵しながら、「あと何分くらい続くの?」と聞いてきたので、「三十分くらい」と僕は答えた。学校の課題なんて真っ赤な嘘だけれど、そう言っておいた方が丸く収まる場面もある。
祐斗は家計のために部活を辞めてバイトを始める。その状況は、あのドキュメンタリーで取り上げられていた事例と同じで、そして、僕たちがこの二年生の秋に迎えるイベントに大きく関わることだった。
「失礼します」
昼過ぎの職員室に入ると、広い部屋では休日にもかかわらず十数人の教師が出勤していた。マンモス校だけあって先生の数も多く、そのぶん、職員室も広い。
通っていた中学校の三倍くらいあって、普段は用件のある先生を探すのも一苦労だ。
私立でお金があるからか、事務机は木目調の色合いで、パソコンも良さそうなのが入っている。清掃員おかげで、床も壁も清潔に保たれている。対照的に、休日出勤する先生たちの表情は少しやつれて見えた。
山下先生の机は職員室中央付近にある。僕はその横に立って山下先生が来るのを待っていた。
「そこの子、なんの用?」
突っ立っているのが怪しく思われたのか、性格のきつそうな女性教師から声をかけられた。マンモス校なので、二年生になっても見ず知らずの先生ばかりだ。
「山下先生をお待ちしています」
「山下先生はそのこと知ってるの?」
「はい、部活後に話があるとお伝えして、了承を頂いています」
「じゃあ、座っときなさい。隣の席の先生、今日は来ないから」
女性教師に促されるがまま、僕は山下先生の隣の席に座る。事務椅子には腰痛防止のためか座布団が乗せられている。
卓球部の顧問であり、特進科の副担任でもあるのが山下先生。若くて短髪で、おっとりした顔の先生だ。卓球経験者であるけれど、指導にはさほど熱心じゃない。
「田島、待たせたな」
しばらく待っていると、練習中のジャージからワイシャツにスラックスといういでたちに着替えてきた山下先生が入ってきた。
ネクタイはしておらず、全体的に淡い色合い。爽やかさを意識しているのかもしれないが、その服装は人を選ぶし、まだ若いのにやや横幅の広い山下先生は選ばれていないと思う。
「いえ、こちらこそお忙しいところすみません。お時間をとって頂きありがとうございます」
「固くなるなよ」
へらへらと笑い、ちょっと大仰な動作で椅子に腰かける山下先生。親しみを演出したいのかもしれないけれど、それも人を選ぶやり方だ。大人しくお堅くやっておけばよいのに。
「先生は特進科の副担任ですよね?」
「そうだけど」
「普段も僕たちのクラスに関わる業務をされているのですか?」
「まぁね。でも事務ばっかりだし、生徒にとっちゃあ、あんまり意味ないだろうけどな」
「いえいえ、いつもお世話になっています。それで、お伺いしたいことなんですけど。富田くんのことなんです」
「富田がどうかしたのか?」
山下先生の表情が少し曇ったように感じたのは、僕が意識しすぎなのか、やはり、実際に山下先生も祐斗の家庭事情を掴んでいるのか。
「祐斗、修学旅行代、払ってますか?」
「えっ」
山下先生は困惑している。僕は説明を続けた。
「この秋に行く修学旅行に向けて、毎月積み立てる仕組みだと思うんですけど、祐斗はそれ、ちゃんと払ってるのかなと思いまして」
ごほん、と山下先生は咳ばらいをして、いやに真面目な顔になる。
「そういう質問には答えられない」
僕と先生は互いに睨み合ったまま。先生は「俺、冷静に諭してるぜ」みたいな視線を、僕は多分、「全く動揺してませんよ。こんなこと聞くのくらい、普通です」という視線を投げかけていたと思う。
「すみませんでした。失礼します」
「おう」
僕は努めて平静に頭を下げ、先生も何事もなかったかのような声で応じた。
職員室のある棟の廊下からはテニスコートが見える。僕はぼんやりと窓の外を見ながら廊下を歩いていた。コートの片側では一人の生徒が手に持ったボールを連続で打ち出し、ネットを挟んだ反対側ではもう一人の生徒がコートの端から端まで走りながらそのボールを弾き返している。ぱこん、ぱこんとボールを打つ音が窓越しに響いている。
次に打つ生徒が栢原さんだと気づき、僕は足を止めた。
一球目をその場で返球、コートの隅に走って二球目を返球、そして、逆側の隅に来た三球目をなんとか返球した。
ぐうたら部だとは聞いているけれど、栢原さんや明真学園高校テニス部の実力がどれほどのものなのか、具体的には知らない。
でも、とぼとぼとコートを去っていく栢原さんを見て、やはり強いテニス部ではないはずだと思った。
大会に足を運べば分かる。強豪校というのは、そういった合間合間の動きが機敏なものだ。
部員数に比べてコート数が少ないようで、球を受ける側の生徒は列になって自分の出番を待っている。
栢原さんは列の最後尾に並び、ラケットをもてあそんでいた。
普段は髪をおろしているので、ポニーテールは新鮮な印象だ。
栢原さんが祐斗の彼女になったと聞いたとき、僕は少し驚いた。栢原さんは一番、彼氏ができなさそうなタイプだったからだ。見た目はよくも悪くもない。おろしているときの髪は若干重いし、そのくせ顔は薄いし、胸もまぁって感じで、少し肩幅が広いのもネックだ。なんというか、普通の中でも色気がないほうに寄っている。男子に対する態度だってそう。愛想がないんだ。言葉は整えているけれど、その中に熱意がない感じ。男子は愛嬌に惚れるもんだよ。きっとね。
「そういう論評してて楽しい?」
そんな僕の主張に、珍しく棘のある口調で返してきたのが橋本くんだった。
こんな会話をしたのは去年の冬ごろで、彼女のいる二人に囲まれているからといって僕はそんなに惨めな気持ちを感じることもなく、立場は違っても本音を言い合える仲はいいものだと思っていたくらいだった。
「楽しくはないけど、自然とそう思わない?」
「自然とそう思うってことはそう思うことを楽しんでるんだよ。というか、祐斗はなんか言い返せよ」
橋本くんにそう言われた祐斗だけれど、
「実果はいい彼女だよ」
ただそう言って遠慮がちに苦笑いするばかり。
僕がそんな思い出を懐かしく探っていると、もう一度栢原さんの出番が回ってきた。素人目線の意見だけれども、先ほどよりは俊敏な動きを見せているように思えた。
栢原さんはコートを出ると、ゆっくりとこちらを見上げた。明らかに僕が僕だと分かっている視線だった。栢原さんはひたすらに無表情で、太陽に照らされて黒髪が光っていた。僕たちはしばらく見つめあって、そして、先に栢原さんが僕に背を向けた。
栢原さんの無表情は、僕の質問に「答えられない」と答える山下先生のそれに似ていた。
答えられない、ということは、きっと払っていないのだろう。
再び列の最後尾に並ぶ栢原さんを見ながら、僕の頭に一つの考えが浮かんだ。このことを栢原さんに伝えたら、栢原さんはどんな反応をするのだろうか。
でも、祐斗にとって、栢原さんは気を張り続けなければならない存在だったに違いない。だから、あっさり別れようという話になる。彼氏でいる資格とかっていう話になる。好きなんかじゃないんだ、きっと。
栢原さんから話を聞いた金曜日の夜、僕は橋本くんにこのことを言おうとして、そしてやめた。祐斗はまだ僕たちに話していないのだから、僕が誰かに話すべきじゃない。
そしてもう一つ、僕には気になることがあった。
それはいつの日にか見た、NHKのドキュメンタリー。普段はそんなの見ないけど、番組表のタイトルが目についた。祐斗の家庭をちょっとでも知る参考になるかもしれない。そう思って観たけれど、取り上げられている事例は祐斗の状況よりももっと悲惨なものだった。
なんだかんだ言って、祐斗は部活もやってるし、夏休みもバイトなんかせずバドミントンやダンスの練習に費やしている。遠足だって毎回参加してるし、第一、成績を気にしてるってことは、奨学金を借りれば大学に行ける算段があるということだ。僕はそう思って、あまり関心を寄せることもなくぼんやりと画面を見ていた。
「歩、これ見てて面白い?」
母が僕に尋ねる。少し心配そうな声色と表情。
「そうでもないよ。でも、学校の課題なんだ。感想文書かなきゃいけなくてさ」
「そうなの」
母は露骨に安堵しながら、「あと何分くらい続くの?」と聞いてきたので、「三十分くらい」と僕は答えた。学校の課題なんて真っ赤な嘘だけれど、そう言っておいた方が丸く収まる場面もある。
祐斗は家計のために部活を辞めてバイトを始める。その状況は、あのドキュメンタリーで取り上げられていた事例と同じで、そして、僕たちがこの二年生の秋に迎えるイベントに大きく関わることだった。
「失礼します」
昼過ぎの職員室に入ると、広い部屋では休日にもかかわらず十数人の教師が出勤していた。マンモス校だけあって先生の数も多く、そのぶん、職員室も広い。
通っていた中学校の三倍くらいあって、普段は用件のある先生を探すのも一苦労だ。
私立でお金があるからか、事務机は木目調の色合いで、パソコンも良さそうなのが入っている。清掃員おかげで、床も壁も清潔に保たれている。対照的に、休日出勤する先生たちの表情は少しやつれて見えた。
山下先生の机は職員室中央付近にある。僕はその横に立って山下先生が来るのを待っていた。
「そこの子、なんの用?」
突っ立っているのが怪しく思われたのか、性格のきつそうな女性教師から声をかけられた。マンモス校なので、二年生になっても見ず知らずの先生ばかりだ。
「山下先生をお待ちしています」
「山下先生はそのこと知ってるの?」
「はい、部活後に話があるとお伝えして、了承を頂いています」
「じゃあ、座っときなさい。隣の席の先生、今日は来ないから」
女性教師に促されるがまま、僕は山下先生の隣の席に座る。事務椅子には腰痛防止のためか座布団が乗せられている。
卓球部の顧問であり、特進科の副担任でもあるのが山下先生。若くて短髪で、おっとりした顔の先生だ。卓球経験者であるけれど、指導にはさほど熱心じゃない。
「田島、待たせたな」
しばらく待っていると、練習中のジャージからワイシャツにスラックスといういでたちに着替えてきた山下先生が入ってきた。
ネクタイはしておらず、全体的に淡い色合い。爽やかさを意識しているのかもしれないが、その服装は人を選ぶし、まだ若いのにやや横幅の広い山下先生は選ばれていないと思う。
「いえ、こちらこそお忙しいところすみません。お時間をとって頂きありがとうございます」
「固くなるなよ」
へらへらと笑い、ちょっと大仰な動作で椅子に腰かける山下先生。親しみを演出したいのかもしれないけれど、それも人を選ぶやり方だ。大人しくお堅くやっておけばよいのに。
「先生は特進科の副担任ですよね?」
「そうだけど」
「普段も僕たちのクラスに関わる業務をされているのですか?」
「まぁね。でも事務ばっかりだし、生徒にとっちゃあ、あんまり意味ないだろうけどな」
「いえいえ、いつもお世話になっています。それで、お伺いしたいことなんですけど。富田くんのことなんです」
「富田がどうかしたのか?」
山下先生の表情が少し曇ったように感じたのは、僕が意識しすぎなのか、やはり、実際に山下先生も祐斗の家庭事情を掴んでいるのか。
「祐斗、修学旅行代、払ってますか?」
「えっ」
山下先生は困惑している。僕は説明を続けた。
「この秋に行く修学旅行に向けて、毎月積み立てる仕組みだと思うんですけど、祐斗はそれ、ちゃんと払ってるのかなと思いまして」
ごほん、と山下先生は咳ばらいをして、いやに真面目な顔になる。
「そういう質問には答えられない」
僕と先生は互いに睨み合ったまま。先生は「俺、冷静に諭してるぜ」みたいな視線を、僕は多分、「全く動揺してませんよ。こんなこと聞くのくらい、普通です」という視線を投げかけていたと思う。
「すみませんでした。失礼します」
「おう」
僕は努めて平静に頭を下げ、先生も何事もなかったかのような声で応じた。
職員室のある棟の廊下からはテニスコートが見える。僕はぼんやりと窓の外を見ながら廊下を歩いていた。コートの片側では一人の生徒が手に持ったボールを連続で打ち出し、ネットを挟んだ反対側ではもう一人の生徒がコートの端から端まで走りながらそのボールを弾き返している。ぱこん、ぱこんとボールを打つ音が窓越しに響いている。
次に打つ生徒が栢原さんだと気づき、僕は足を止めた。
一球目をその場で返球、コートの隅に走って二球目を返球、そして、逆側の隅に来た三球目をなんとか返球した。
ぐうたら部だとは聞いているけれど、栢原さんや明真学園高校テニス部の実力がどれほどのものなのか、具体的には知らない。
でも、とぼとぼとコートを去っていく栢原さんを見て、やはり強いテニス部ではないはずだと思った。
大会に足を運べば分かる。強豪校というのは、そういった合間合間の動きが機敏なものだ。
部員数に比べてコート数が少ないようで、球を受ける側の生徒は列になって自分の出番を待っている。
栢原さんは列の最後尾に並び、ラケットをもてあそんでいた。
普段は髪をおろしているので、ポニーテールは新鮮な印象だ。
栢原さんが祐斗の彼女になったと聞いたとき、僕は少し驚いた。栢原さんは一番、彼氏ができなさそうなタイプだったからだ。見た目はよくも悪くもない。おろしているときの髪は若干重いし、そのくせ顔は薄いし、胸もまぁって感じで、少し肩幅が広いのもネックだ。なんというか、普通の中でも色気がないほうに寄っている。男子に対する態度だってそう。愛想がないんだ。言葉は整えているけれど、その中に熱意がない感じ。男子は愛嬌に惚れるもんだよ。きっとね。
「そういう論評してて楽しい?」
そんな僕の主張に、珍しく棘のある口調で返してきたのが橋本くんだった。
こんな会話をしたのは去年の冬ごろで、彼女のいる二人に囲まれているからといって僕はそんなに惨めな気持ちを感じることもなく、立場は違っても本音を言い合える仲はいいものだと思っていたくらいだった。
「楽しくはないけど、自然とそう思わない?」
「自然とそう思うってことはそう思うことを楽しんでるんだよ。というか、祐斗はなんか言い返せよ」
橋本くんにそう言われた祐斗だけれど、
「実果はいい彼女だよ」
ただそう言って遠慮がちに苦笑いするばかり。
僕がそんな思い出を懐かしく探っていると、もう一度栢原さんの出番が回ってきた。素人目線の意見だけれども、先ほどよりは俊敏な動きを見せているように思えた。
栢原さんはコートを出ると、ゆっくりとこちらを見上げた。明らかに僕が僕だと分かっている視線だった。栢原さんはひたすらに無表情で、太陽に照らされて黒髪が光っていた。僕たちはしばらく見つめあって、そして、先に栢原さんが僕に背を向けた。
栢原さんの無表情は、僕の質問に「答えられない」と答える山下先生のそれに似ていた。
答えられない、ということは、きっと払っていないのだろう。
再び列の最後尾に並ぶ栢原さんを見ながら、僕の頭に一つの考えが浮かんだ。このことを栢原さんに伝えたら、栢原さんはどんな反応をするのだろうか。
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