青春の幕間

河瀬みどり

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第三章 田島歩

第二十八話

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「平然と『考えなかった』なんて言えるのは羨ましいよ」

橋本くんは、この建物に入って初めて僕に視線を合わせた。僕を馬鹿にしているようでもあったし、自嘲しているようでもあった。こんな卑屈な態度をとる橋本くんは珍しい。

「橋本くんはなんで明真に入ったの?」

僕がそう聞くと、橋本くんがわずかに目を見開く。聞いて欲しかったんだ、と僕は思った。思わせぶりな言動で、こちらから質問しないといけないなんて、本当に橋本くんらしくない。

「このままでいいのかなぁって思ったんだよ」
「どういうこと?」
「知ってると思うけどさ、中高一貫の男子校に通ってたんだよ」
「共学がよかったんだっけ?」

まだ僕と橋本くんが言葉を交わしていなかった頃だったけれど、橋本くんがそんなことを言っていたのが僕にも聞こえてきていた。女子がいる方がいいと思ったから、恥ずかしげもなくそんなことを言えるのが羨ましかった。

「その通り、でも、彼女が欲しいとかじゃない」
「じゃあ、なんで?」
「『普通の学校』に来てみたかったんだ。テレビとかネットで取り上げられるような『流行』が流行ってたり、人間関係で悩んでたり、いじめがあったりね」

橋本くんは薄く笑う。

「中学校ではなかったの?」
「ないね。全くない。男子ばっかりで動物園みたいな感じ。上下もなければ左右もないし、鉄道部が全体で三番目に大規模な部活だし。世間の人が考える『学校』はとはかなり違う感じなんじゃないかな」
「いいじゃんそれ」

僕の心に少しだけ後悔の芽が生まれる。そんな学校があるのか。

「うん。いいんだと思うよ。でも、中三のとき思ったんだ。こんなことでいいのかなって。もっとこう、青春みたいなのを過ごしたいなって思ったんだよ」
「男子校は青春じゃないの?」
「いや、一種の青春なんだろうけど、もっと傷ついたり、悩んだりしたいと思ったんだ。もっと言えば、誰かが傷ついたり悩んだりして、それを乗り越えられたり乗り越えられなかったりしてるところを見たかった。変だろ? 漫画と小説の読みすぎで、ドラマの見すぎだった。高校にエスカレーターしないやつなんて二、三人しかいなくて、偏差値が下がるところにわざわざ行くのは俺くらいだった」

休憩所は冷房がよく効いている。そのおかげか、汗も引き始めていたので、僕はソファにペタリと背中をつけた。汗が染みたままの服は、速乾性のトレーニングウェアとはいっても臭いが気になる。僕は姿勢を直すふりをして、お尻の位置を心持ち橋本くんから離した。

「青春できてる?」

僕はできてるよ、橋本くんのおかげで。でも、いまの青春はどちらかというと、橋本くんが言うところの男子校の青春な気がする。

「思った通りにはできなかった。俺が想像してたようなものはなかった」

橋本くんは握り拳を膝の上に乗せた。

「できなかったんだ。教室で見てると橋本くんはすごくできてるみたいに思うけど」
「俺が想像してたのはあんなんじゃないんだ。もっとあからさまに、大々的に、人間関係がこじれたり、行事とかで揉めたりするもんだと思ってた」
「そんなこと起こらないよ。面倒だもん。そんなことしたら」
「そうなんだよな。映画みたいに劇的じゃなくて、もっと味気ない中に微妙な気遣いとか距離感があるんだな。知らなかったよ」
「でも、橋本くんはうまくやってるじゃん」
「『うまくやってる』だけだよ。俺がなにをやったって、男子校にいた頃の、率直な、ふざけた、かっこ悪い反応は返ってこない。みんな手ぇ叩いて笑ってるだけ。かっこつけて、気取ったことを言うだけ」

言い切って、橋本くんは唇をきゅっと引き結んだ。よく見ると、うっすらと皮が剥げている。美貌に自然な傷を見つけた僕は、なぜだか少しだけ興奮を感じた。いまの橋本くんからは汗の臭いもしそうな気がする。普段は清潔感の代名詞みたいな雰囲気なのに。

「そんなもんでしょ。というか、おれは男子校行けばよかった」
「後悔してるのか?」
「いま後悔が始まったよ」
「なら、大丈夫だ」
「なんで?」

橋本くんは強情な瞳で正面を見据える。口がわずかに開いて、綺麗な白い歯が覗く。

「いまから。あの男子校の生活を取り戻す。いや、そういう教室に変えてやるよ。そのために踊るんだ」

不思議な笑顔を浮かべる橋本くん。僕は思わず目を伏せた。これだから「できる」人は。行動力というものは能力と実績に裏打ちされていて、行動を通じて能力が向上し、実績が積み上がり、自信がさらに増して新しい行動に繋がっていく。

それは勉強とか運動とかの、特定の分野だけの問題じゃなくて、生き方そのものに関わる問題なんだ。

突如、橋本くんはすっと立ち上がった。流行りのアイドルグループの歌を口ずさみ始める。手を大きく左右に開き、足は細かいステップを刻む。腰に手をあてて少し前かがみになって、曲が盛り上がるところで一回転。

呆然とする僕を見下ろし、橋本くんは視線と身振りで立ち上がれと誘ってくる。

僕は中途半端に腰を浮かせてためらった。休憩所の老若男女が僕たちを見ていた。苦々しい表情の人も、笑っている人もいる。

「本番は、女装して、もっと大勢の前で、踊るからな」

ためらう僕に、橋本くんは曲のリズムに乗せて呼びかける。

どうとでもなれ、と僕は思い切りジャンプして踊りに入った。口ずさむ歌を重ね合わせて、わざと大げさな身振りで動く。恥ずかしさに顔が火照って、指先が震えて、身体全体がまるで自分のものではないみたいだった。こちらを奇異の視線で見ている人々は背景と同化して、ただ自分と橋本くんの声だけが聞こえていた。
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