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第三章 田島歩
第二十六話
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その翌日だったか、二日後だったか、もしかしたら一週間弱くらいは経っていたかもしれない。
とにかく、橋本くんの家にお邪魔した数日後。
僕は久しぶりに、橋本くんと二人きりになった。
「妹の誕生日だから」
ダンスの練習の途中、公園に設置された時計を見上げると、祐斗はそう言ってそそくさと帰っていった。事前になんの予告もしないのが祐斗らしいと言えばそうだが、あまりに唐突な行動で、僕も橋本くんもただ茫然と祐斗の背中を見送ってしまった。
高校の近くにあるただっぴろい公園で、僕たちはいつものようにダンスの練習をしていた。土と草とが微妙に入り混じった公園の敷地では、まだ就学前と思われる子供たちとその親が遊んでいる。
半袖半ズボンに熱中症対策の帽子をかぶった男の子と女の子がふざけあいながら走り回り、母親が顔に汗を浮かべながら二人を中腰で追いかけていた。
犬を連れた子供はフリスビーを投げては犬に拾わせていて、後ろのベンチに座っている、父親だと思われる男性がそれを見守っている。
子供たちは楽しそうだけれど、それを追いかける母親や、酷使される犬の笑顔はいささか形式的だ。
ふざけて走り回ることも、それを追いかけることも、フリスビーを投げることも、それを拾うことも、全て無為なことだけれども、自ら進んで行っているのとやらされているのとでは当然、笑顔の質も違う。
この夏、僕の笑顔は後者の笑顔になるはずだったけれど、実際には前者になった。太陽の光を浴びながら、湿った夏の風を感じながら踊るのは気持ちがいい。踊ることを恥ずかしく思うどころか、もっと上手くなろうと一緒に努力できる仲間。そんな人たちと踊るのだからなおさらだ。
「祐斗、行っちゃったな」
祐斗の後ろ姿が消えた方角を見つめながら、橋本くんが呟いた。
「そうだね」
僕も同じ方向を見つめながら呟く。祐斗は無口だけれど、とにかく存在感がある。なにかをやってくれる予感がするような、そんな熱気を纏っている。
なにかをやってくれる、いや、きっと、なにかをやってきたんだと感じさせるような、重厚な印象。それはプロスポーツ選手に直接会ったときに感じるような雰囲気。
胸板の厚さとか、太ももの筋肉の隆盛だとか、そういった物理的な強靭さの表層に、さらに特別な膜が張ってあるような感じだ。
「なんか急に寂しくなったな」
橋本くんは視線を固定したまま呟く。橋本くんも僕と同じように感じているのか、それとも、僕と二人きりでは気まずいということを遠回しに伝えたいのか。
橋本くんと祐斗はいつの間にか友達になっていて、僕はそれに巻き込まれていっただけ。橋本くんの中で僕が「友達」なのかどうか、僕には判断がついていなかった。
「これからどうする?」
僕は橋本くんの横顔に聞いた。ダンスの練習を続ける情熱はすでに失われていた。僕からそれが失われたわけではなく、僕と橋本くんのいるこの空間、ただっぴろい公園の隅の、僕たちが踏み荒らした土の上から失われていた。
「あっちでちょっと休憩するか」
橋本くんは遠くに見える公園の施設を指さした。公園の事務局やちょっとした売店が入っている建物だ。
「うん」
僕が同意を示すと、橋本くんはゆっくりと歩き出した。僕も横に並ぶ。
子供たちの歓声や、上空を通過するヘリコプターの音、公園を囲むように植えられた木々の向こうを走る自動車のエンジン音がやたらとはっきり聞こえてくる。
妙な形をした銀色のモニュメントのそばを通り過ぎ、地面が土からコンクリートに変わってすぐのところにある建物に入るまで、僕たちは無言で歩いた。
自販機のボタンを押すと、ガシャン、缶ジュースが取り出し口まで落ちてくる。橋本くんが二人分の缶を掴み、一つを僕に渡す。お礼を言って僕はそれを受け取った。
「田島ってさ、最初から祐斗のこと、『祐斗』って呼んでた?」
休憩所のソファに座ると、橋本くんは僕にそう聞いた。プシュ、と缶ジュースの蓋を開け、喉を鳴らして炭酸飲料を飲む橋本くん。
ソファは柔らかい素材でできていて、沈み込んだお尻が蒸れて少し気持ち悪い。
運動公園の休憩所なのにどうしてこんなソファを置いてしまうんだろう。これだから公営施設は。背中も気持ち悪くなるのが嫌で、僕は少し背を丸めて浅く腰かけていたけれど、横に座る橋本くんは重役のように足を拡げ、背中をべったりとソファに預けていた。
「いや、最初は『富田くん』だったけど、祐斗が『祐斗』って呼べって言うから」
「祐斗が?」
「うん。四月の最初の方に、『富田』って名字嫌いだからとか言って」
「なんで?」
どうして橋本くんがこんな話を始めたのか、どうしてこんなことにこだわるのか。僕は困惑していた。
そして、この問いに正直に答えるか否か、僕は少しだけ迷って、橋本くんだからと正直な回答を選んだ。
「『富田って名字、金持ちみたいだから』って言ってた」
祐斗は軽い調子だったけれど、物憂げな表情だった。「物憂げな表情」という表現はこういう時に使うのだと、そのとき僕は納得した。
とにかく、橋本くんの家にお邪魔した数日後。
僕は久しぶりに、橋本くんと二人きりになった。
「妹の誕生日だから」
ダンスの練習の途中、公園に設置された時計を見上げると、祐斗はそう言ってそそくさと帰っていった。事前になんの予告もしないのが祐斗らしいと言えばそうだが、あまりに唐突な行動で、僕も橋本くんもただ茫然と祐斗の背中を見送ってしまった。
高校の近くにあるただっぴろい公園で、僕たちはいつものようにダンスの練習をしていた。土と草とが微妙に入り混じった公園の敷地では、まだ就学前と思われる子供たちとその親が遊んでいる。
半袖半ズボンに熱中症対策の帽子をかぶった男の子と女の子がふざけあいながら走り回り、母親が顔に汗を浮かべながら二人を中腰で追いかけていた。
犬を連れた子供はフリスビーを投げては犬に拾わせていて、後ろのベンチに座っている、父親だと思われる男性がそれを見守っている。
子供たちは楽しそうだけれど、それを追いかける母親や、酷使される犬の笑顔はいささか形式的だ。
ふざけて走り回ることも、それを追いかけることも、フリスビーを投げることも、それを拾うことも、全て無為なことだけれども、自ら進んで行っているのとやらされているのとでは当然、笑顔の質も違う。
この夏、僕の笑顔は後者の笑顔になるはずだったけれど、実際には前者になった。太陽の光を浴びながら、湿った夏の風を感じながら踊るのは気持ちがいい。踊ることを恥ずかしく思うどころか、もっと上手くなろうと一緒に努力できる仲間。そんな人たちと踊るのだからなおさらだ。
「祐斗、行っちゃったな」
祐斗の後ろ姿が消えた方角を見つめながら、橋本くんが呟いた。
「そうだね」
僕も同じ方向を見つめながら呟く。祐斗は無口だけれど、とにかく存在感がある。なにかをやってくれる予感がするような、そんな熱気を纏っている。
なにかをやってくれる、いや、きっと、なにかをやってきたんだと感じさせるような、重厚な印象。それはプロスポーツ選手に直接会ったときに感じるような雰囲気。
胸板の厚さとか、太ももの筋肉の隆盛だとか、そういった物理的な強靭さの表層に、さらに特別な膜が張ってあるような感じだ。
「なんか急に寂しくなったな」
橋本くんは視線を固定したまま呟く。橋本くんも僕と同じように感じているのか、それとも、僕と二人きりでは気まずいということを遠回しに伝えたいのか。
橋本くんと祐斗はいつの間にか友達になっていて、僕はそれに巻き込まれていっただけ。橋本くんの中で僕が「友達」なのかどうか、僕には判断がついていなかった。
「これからどうする?」
僕は橋本くんの横顔に聞いた。ダンスの練習を続ける情熱はすでに失われていた。僕からそれが失われたわけではなく、僕と橋本くんのいるこの空間、ただっぴろい公園の隅の、僕たちが踏み荒らした土の上から失われていた。
「あっちでちょっと休憩するか」
橋本くんは遠くに見える公園の施設を指さした。公園の事務局やちょっとした売店が入っている建物だ。
「うん」
僕が同意を示すと、橋本くんはゆっくりと歩き出した。僕も横に並ぶ。
子供たちの歓声や、上空を通過するヘリコプターの音、公園を囲むように植えられた木々の向こうを走る自動車のエンジン音がやたらとはっきり聞こえてくる。
妙な形をした銀色のモニュメントのそばを通り過ぎ、地面が土からコンクリートに変わってすぐのところにある建物に入るまで、僕たちは無言で歩いた。
自販機のボタンを押すと、ガシャン、缶ジュースが取り出し口まで落ちてくる。橋本くんが二人分の缶を掴み、一つを僕に渡す。お礼を言って僕はそれを受け取った。
「田島ってさ、最初から祐斗のこと、『祐斗』って呼んでた?」
休憩所のソファに座ると、橋本くんは僕にそう聞いた。プシュ、と缶ジュースの蓋を開け、喉を鳴らして炭酸飲料を飲む橋本くん。
ソファは柔らかい素材でできていて、沈み込んだお尻が蒸れて少し気持ち悪い。
運動公園の休憩所なのにどうしてこんなソファを置いてしまうんだろう。これだから公営施設は。背中も気持ち悪くなるのが嫌で、僕は少し背を丸めて浅く腰かけていたけれど、横に座る橋本くんは重役のように足を拡げ、背中をべったりとソファに預けていた。
「いや、最初は『富田くん』だったけど、祐斗が『祐斗』って呼べって言うから」
「祐斗が?」
「うん。四月の最初の方に、『富田』って名字嫌いだからとか言って」
「なんで?」
どうして橋本くんがこんな話を始めたのか、どうしてこんなことにこだわるのか。僕は困惑していた。
そして、この問いに正直に答えるか否か、僕は少しだけ迷って、橋本くんだからと正直な回答を選んだ。
「『富田って名字、金持ちみたいだから』って言ってた」
祐斗は軽い調子だったけれど、物憂げな表情だった。「物憂げな表情」という表現はこういう時に使うのだと、そのとき僕は納得した。
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