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第二章 栢原実果
第十五話
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夢心地の時間が過ぎて、まだ夢を見ているように浮足立ったまま、わたしはステージを離れ、部室棟の近くにやってきた。
祐斗と待ち合わせの時間にはまだかなり早いけど、教室に戻る気にもならなければ、瑞姫に会う気にもなれなかった。
ただぼーっとして、テニス部の部室のドアに寄りかかっていた。
やたらにお金がかかっている部室棟の白い外壁を、夕陽がぴかぴかに照らしている。
片付けも終盤にさしかかっているのだろうか、校舎の窓からは次々と明かりが消え、下校する生徒たちの喧騒が遠くに聞こえてきた。
吹き込む風の冷たさに、わたしは手をさすって温めた。
祐斗と会うのがとても怖かった。手ごろ? 普通の男子よりは? 冗談じゃない。あんなの、一番「できる」「目立っていい」人たちだけがしていいことだ。特進科のなかでも、いかにも高校デビューですよってやつらとは違う、本物なんだと思った。半端にいきがった態度と、突き抜けきれないファッションなんか、所詮まがいもの。祐斗たちは、何をやっても馬鹿にされなくて、誰かを楽しませるアイデアと技術がある、雲の上の人たち。
でも、もしそんな人と付き合えたら。そう考えると、自然と顔がほころんでくる。トップなんだ。誰にも手を出せない、羨望を集める人間になれる。
「あれ、栢原さんもう来てたの?」
校舎の端にある出口から男子用の制服を着た祐斗が歩いてくる。わたしの瞳に映っているのは、もう文化祭を一緒に回った祐斗じゃなかった。心の中に、自分たちとは違う人種と喋るときの感覚が蘇ってくる。変に思われないように、なるべく、なるべく、普通の反応。
「ううん。いま来たとこだよ」
「そっか。じゃあ、えっと、一緒に帰るんだったっけ?」
「うん。いい?」
「べつにいいよ」
にこりと笑って、祐斗はわたしの隣に並ぶ。いい感じだ。相手の返事の一言一言が気になって、わたしの言葉や態度に、祐斗が気を悪くしていないかって思うと、怖い。でも、緊張はしなかった。これだけ遠い人と、一緒に歩いてる。友達、そう、友達ってだけでもすごい。まるで本の中の世界のようだった。
「ステージすごかったね」
「見てたの? 恥ずかしいな」
「すごく面白かったよ」
祐斗は気恥ずかしそうに頭をかく。
「美晃がどうしてもって言うからさ」
「橋本くんが考えたの?」
「俺じゃ思いつかないよ」
「でも、踊りは一番上手かったと思うよ」
褒め言葉。間違ってないといい。いけ。
「ありがと。じゃあ、来年もやろっかな」
まんざらではない表情の祐斗。よっしゃ。
わたしたちは文化祭の感想を語らいながら、あるいは、普段の学校生活の話をしながら、駅までの短い道のりを歩いて行った。本当にイケてる人は、誰とでも分け隔てなく接するというけれど、それはこういうことなんだな、と祐斗と喋っていると思う。
そう、平凡な受け答えだって、あの大観衆を惹きつけた人と話していると思うと、自分の思考、自分の感覚が自分を酔わせてしまうのだ。
でも、いまこそ、わたしの心は平静を失わない。酔い始めた自分を、醒めた目で見る自分もいる。この人はわたしと一緒じゃない。でも、付き合いたい。見てろよ、真奈美。いや、裕子も麻里奈も。みんなを超えて、一気に特別になるんだ。
そしてなにより、見てろよ、ママ。わたしがどんなに本棚を充実させたって、まるでそんなもの存在しないかのように振舞って、普通の女子高生っぽいことばっかり話題にあげて、にやにやしながらわたしをそっちに誘導していく。
親戚の前でも、「部活頑張ってて」とか「普段は服の話ばっかりしてる」なんてわたしを紹介するママ。食卓でも、「最近あれするのが流行ってるんでしょ?」なんて、テレビで見た最近の女子高生についての浅い知識を出してきて、否定したらすごく不機嫌になって、でも、でも、を続けて強引に肯定させようとする。
だから、わたしはもう、嘘でも最初から肯定してあげる。そうすると、「実果ったら仕方ないわね」みたいな感じで、最近の女子高生に世話を焼く母親感をにやつきながら出してくる。だから、ここで見せてやるんだ。読書中毒でも、あんたの旦那よりよっぽどいい彼氏がいるよって。
ぶくぶくと膨らんでくる欲望を、わたしは抑えられなかった。
そして、いまならいける気がした。祐斗は上機嫌だ。駅が近づいている。駅前の大きな交差点。右手には隣の駅に続く道が見えた。川をまたぐ大きな橋がかかっていて、川面は夕闇混じりの神秘的な空を映していて、通行人はいなかった。
「富田くん、どうやって帰るの?」
「俺? 徒歩だけど」
「どっち向き?」
「あっち。橋わたってすぐ左に行ったら家あるから。栢原さんは電車?」
奇跡だ、わたしは手をぎゅっと握りしめる。
「電車だけど、わたしも隣の駅まで歩いていい?」
「まぁ、いいけど」
祐斗は橋に向かって方向転換する。わたしも隣に並んで歩きだす。肩を寄せて、指先で祐斗の手の甲にちょんと触れてみる。祐斗に特段の反応はなし。
わたしはあえて、橋の中心まで黙って歩いてみた。祐斗もなにも言わない。わたしは黙ったまま足を止める。一歩行き過ぎた祐斗も止まる。
「栢原さん、どしたの?」
「あのね」
心臓がどきどきして、熱いものが身体じゅうを駆け巡る。でも、そんな浮ついたものに、誰かが恋とでも呼びそうなものに、わたしは支配されてない。冷静で事態を俯瞰している自分もいる。すましたを顔して、「祐斗が彼氏なんだ」なんて言う自分を想像しながら、わたしは告白した。
祐斗は黙っている。でも困ってる表情じゃない。これまでの人生で一番緊張した瞬間だった。冷たい風が、熱い頬を撫でていく。お願い、お願い。
「ありがとう。俺でよければ」
わたしは思わず祐斗の手を握った。よし、よし、よし、勝った。優越感、誇らしさがこみ上げてくる。涙まで出てきた。
「栢原さん? 大丈夫?」
祐斗は狼狽した様子でおろおろとそう聞いた。うん、大丈夫。わたしは元気だよ。いままでの人生で一番元気な瞬間だ。
祐斗と待ち合わせの時間にはまだかなり早いけど、教室に戻る気にもならなければ、瑞姫に会う気にもなれなかった。
ただぼーっとして、テニス部の部室のドアに寄りかかっていた。
やたらにお金がかかっている部室棟の白い外壁を、夕陽がぴかぴかに照らしている。
片付けも終盤にさしかかっているのだろうか、校舎の窓からは次々と明かりが消え、下校する生徒たちの喧騒が遠くに聞こえてきた。
吹き込む風の冷たさに、わたしは手をさすって温めた。
祐斗と会うのがとても怖かった。手ごろ? 普通の男子よりは? 冗談じゃない。あんなの、一番「できる」「目立っていい」人たちだけがしていいことだ。特進科のなかでも、いかにも高校デビューですよってやつらとは違う、本物なんだと思った。半端にいきがった態度と、突き抜けきれないファッションなんか、所詮まがいもの。祐斗たちは、何をやっても馬鹿にされなくて、誰かを楽しませるアイデアと技術がある、雲の上の人たち。
でも、もしそんな人と付き合えたら。そう考えると、自然と顔がほころんでくる。トップなんだ。誰にも手を出せない、羨望を集める人間になれる。
「あれ、栢原さんもう来てたの?」
校舎の端にある出口から男子用の制服を着た祐斗が歩いてくる。わたしの瞳に映っているのは、もう文化祭を一緒に回った祐斗じゃなかった。心の中に、自分たちとは違う人種と喋るときの感覚が蘇ってくる。変に思われないように、なるべく、なるべく、普通の反応。
「ううん。いま来たとこだよ」
「そっか。じゃあ、えっと、一緒に帰るんだったっけ?」
「うん。いい?」
「べつにいいよ」
にこりと笑って、祐斗はわたしの隣に並ぶ。いい感じだ。相手の返事の一言一言が気になって、わたしの言葉や態度に、祐斗が気を悪くしていないかって思うと、怖い。でも、緊張はしなかった。これだけ遠い人と、一緒に歩いてる。友達、そう、友達ってだけでもすごい。まるで本の中の世界のようだった。
「ステージすごかったね」
「見てたの? 恥ずかしいな」
「すごく面白かったよ」
祐斗は気恥ずかしそうに頭をかく。
「美晃がどうしてもって言うからさ」
「橋本くんが考えたの?」
「俺じゃ思いつかないよ」
「でも、踊りは一番上手かったと思うよ」
褒め言葉。間違ってないといい。いけ。
「ありがと。じゃあ、来年もやろっかな」
まんざらではない表情の祐斗。よっしゃ。
わたしたちは文化祭の感想を語らいながら、あるいは、普段の学校生活の話をしながら、駅までの短い道のりを歩いて行った。本当にイケてる人は、誰とでも分け隔てなく接するというけれど、それはこういうことなんだな、と祐斗と喋っていると思う。
そう、平凡な受け答えだって、あの大観衆を惹きつけた人と話していると思うと、自分の思考、自分の感覚が自分を酔わせてしまうのだ。
でも、いまこそ、わたしの心は平静を失わない。酔い始めた自分を、醒めた目で見る自分もいる。この人はわたしと一緒じゃない。でも、付き合いたい。見てろよ、真奈美。いや、裕子も麻里奈も。みんなを超えて、一気に特別になるんだ。
そしてなにより、見てろよ、ママ。わたしがどんなに本棚を充実させたって、まるでそんなもの存在しないかのように振舞って、普通の女子高生っぽいことばっかり話題にあげて、にやにやしながらわたしをそっちに誘導していく。
親戚の前でも、「部活頑張ってて」とか「普段は服の話ばっかりしてる」なんてわたしを紹介するママ。食卓でも、「最近あれするのが流行ってるんでしょ?」なんて、テレビで見た最近の女子高生についての浅い知識を出してきて、否定したらすごく不機嫌になって、でも、でも、を続けて強引に肯定させようとする。
だから、わたしはもう、嘘でも最初から肯定してあげる。そうすると、「実果ったら仕方ないわね」みたいな感じで、最近の女子高生に世話を焼く母親感をにやつきながら出してくる。だから、ここで見せてやるんだ。読書中毒でも、あんたの旦那よりよっぽどいい彼氏がいるよって。
ぶくぶくと膨らんでくる欲望を、わたしは抑えられなかった。
そして、いまならいける気がした。祐斗は上機嫌だ。駅が近づいている。駅前の大きな交差点。右手には隣の駅に続く道が見えた。川をまたぐ大きな橋がかかっていて、川面は夕闇混じりの神秘的な空を映していて、通行人はいなかった。
「富田くん、どうやって帰るの?」
「俺? 徒歩だけど」
「どっち向き?」
「あっち。橋わたってすぐ左に行ったら家あるから。栢原さんは電車?」
奇跡だ、わたしは手をぎゅっと握りしめる。
「電車だけど、わたしも隣の駅まで歩いていい?」
「まぁ、いいけど」
祐斗は橋に向かって方向転換する。わたしも隣に並んで歩きだす。肩を寄せて、指先で祐斗の手の甲にちょんと触れてみる。祐斗に特段の反応はなし。
わたしはあえて、橋の中心まで黙って歩いてみた。祐斗もなにも言わない。わたしは黙ったまま足を止める。一歩行き過ぎた祐斗も止まる。
「栢原さん、どしたの?」
「あのね」
心臓がどきどきして、熱いものが身体じゅうを駆け巡る。でも、そんな浮ついたものに、誰かが恋とでも呼びそうなものに、わたしは支配されてない。冷静で事態を俯瞰している自分もいる。すましたを顔して、「祐斗が彼氏なんだ」なんて言う自分を想像しながら、わたしは告白した。
祐斗は黙っている。でも困ってる表情じゃない。これまでの人生で一番緊張した瞬間だった。冷たい風が、熱い頬を撫でていく。お願い、お願い。
「ありがとう。俺でよければ」
わたしは思わず祐斗の手を握った。よし、よし、よし、勝った。優越感、誇らしさがこみ上げてくる。涙まで出てきた。
「栢原さん? 大丈夫?」
祐斗は狼狽した様子でおろおろとそう聞いた。うん、大丈夫。わたしは元気だよ。いままでの人生で一番元気な瞬間だ。
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