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第二章 栢原実果
第八話
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まさか振られるとは思わなかった。
でもやっぱり、振られる瞬間に思ったことは、明日からどういう顔して友達と会えばいいんだろうってことだった。
これから別れ話が始まるんだっていう空気は、振られるのが初めてでもわかるもんなんだなぁって、現実感がないままに受け答えしてたら、橋を渡る頃にはもう、わたしには彼氏がいなかった。
たった三駅のあいだでもうつらうつらしてしまうような眠気。それをだらだらと引きずったまま学校までの道のりを歩き、わたしは昨日まで彼氏だった人がいる教室を目指す。
祐斗がいるはずの場所に焦点を合わせながら、それも、横目の焦点を合わせながら、わたしは教室へと足を踏み入れた。祐斗はいつもと変わらない様子で、美晃くんや田島とのお喋りに耽っている。深夜アニメの話題みたいだ。そんな話題でも、美晃くんが話してると、なんとなく、ちょっと許せる感じがある。
祐斗はわたしと目を合わせようともせず、というか、わたしが教室に入ったことにも気づいてないんだろうけど、男子たちとお喋りを続けていた。いつも通りの反応だから大丈夫、教室で無駄にベタベタしたりはしない。逆に、向こうからぎくしゃくしたような態度をとられたら困るところだった。
「実果、おはよー」
「おはよー」
いつもの友達四人組のうち、来ているのは裕子一人で、わたしが二人目という、いつもの順番。朝練のある裕子と、家が近いわたしはそれなりに早く教室に着いて、麻里奈がその次に来る。最後の一人、真奈美には少し遅刻癖がある。
「おっはよー」
裕子とのお喋りが「暑くなってきたねー」からもう少し深い話題に移行しようとしたちょうどその時に、麻里奈がやってきた。小柄で黒髪でボブカット。髪にボリュームがあるから結構重たい感じがするけど、本人はあまり気にしていないみたいだった。
「折りたたみ傘買った」
麻里奈はそう言って、変な柄の折りたたみ傘を突き出す。取っ手が普通の傘のように曲がっていて、色合いは少し幼い感じがする。でも、私立なのにやたらと地味な明真学園の制服にならこれくらいでもいいのかもしれない。わたしの趣味じゃないけれど。
「いいなー。かわいー」
わたしがそう言うと、「でしょ?」と麻里奈は満面の笑み。「天気予報見てる? 今年は空梅雨らしいよ。もったいなくない?」と裕子が突っ込みを入れて、「だって一目惚れだったし」と麻里奈が反論した。よかった。到底、彼氏と最近どうなんて話にはなりそうもない。この二人には彼氏がいないから、普段もそんな話をすることなんてないのだけれど、やっぱり、遠くでそういう話題が出ているのが聞こえたときとか、芸能人や従姉妹が結婚したときとか、お笑い芸人のカップルネタが面白かった時とかには、ちょっとだけ優越感に浸ることができていた。ごくまれに恋愛が話題になったときには、湧き上がる誇らしさが血液に乗って全身を駆け巡るような心地だった。
でも、今日はそんなことを考えると、心が底冷えして、少しおなかが痛くなる。大丈夫。まだ言わなくてもいい。言わないだけで、嘘をついてるわけじゃない。わたしはわたしを励ました。この二人から見れば、わたしにはまだ彼氏がいるんだ。
「おっはよー」
そしていつも通り、最後の最後、ギリギリの時間に真奈美が教室に入ってきた。
「マナ、今日はギリギリセーフじゃん」
麻里奈がいかにも感心したように言う。あだ名は真奈美がマナで、麻里奈がマリ。ちょっとだけややこしい。
「いつも出席とる時間にはセーフだよ」
真奈美がちょっと反抗的な口調でおどけてみせる。
「チャイム鳴った後じゃん。それ間に合ってるって言わないからね」
裕子が常識的なツッコミを入れた。
二言三言も交わさないうちにチャイムが鳴って、時間に律儀な担任教師がすぐさま教室の扉を開ける。見た目は普通のお父さんって感じだけど、やたら理屈っぽくてネチネチしているから嫌いだ。
朝のホームルームのあいだ、わたしはじっと真奈美の横顔を見ていた。走ってきたからだろう、耳の横に濡れた髪の毛がへばりついている。真奈美は小首をかしげ、人差し指でそれを耳の上にかけた。
わたしが祐斗と付き合い始めたきっかけは、去年の夏、真奈美に彼氏ができたことだった。
夏休みが明けて、九月も半ばに達したころ、わたしはその話をテニス部の男子から聞いた。聞いた、というよりは、休憩中に男子たちがその話をしているのが聞こえてきた。普通科の一年生男子三人組がわたしの近くに立ち、意外な人物に彼女ができたかもしれないと盛り上がっていた。彼らと同じクラスの、美術部に所属する男子が、同じ美術部の、特進科の女子と付き合い始めたらしい。
そして、特進科で美術部に所属しているのはたった一人だけ。
次の日の昼休みに、わたしがそれとなく真奈美に尋ねてみると、真奈美ははにかみながら事実を認めた。
「なんで言ってくれなかったのー」
「おめでとー」
わたしたち三人は咄嗟に驚きや祝福の気持ちを表したけど、きっと、裕子や麻里奈も、心には嫉妬が渦巻いて、怨嗟の声を必死に抑えていたはずだ。二人とも、表情にそれを出してしまうほど迂闊ではないけれど、目がちょっとだけ怖くなっていた気がした。
でも、きっと一番焦燥を感じたのは、「追いてかれた」って思っていたのはわたしだったと思う。だって、裕子や麻里奈には他に役割がある。裕子は女子バレーボール部なんていうかなり「ガチ」な部活で頑張ってるし、麻里奈は元々変人キャラだから、男子とはお互いに眼中になしでも不自然じゃない。裕子の黒いゴムで留められたシンプルなポニーテールとちょっと辛辣な口調も、麻里奈のころころ変わる髪型と奇妙な服や小物の趣味も、彼女たちが彼女たちであることをアピールしていた。
そんな二人と真逆だったのが、だらだらテニス部員のわたしと、絵の上手さだけが取り柄の真奈美。真奈美はお喋りもあんまり上手くなくて、ノリもちょっと悪いところがある。何事にも必要最低限というものがあるけど、真奈美はギリギリかなと思っていた。彼女が学校に来る時間くらいにはギリギリだと思っていた。
「実果、準備しなよ」
「えっ。あ、そうだね」
突然後ろから話しかけられて、わたしは驚いてしどろもどろになってしまう。声の主は裕子で、手提げかばんみたいになっている書道セットを持っていた。金曜日の一時限目は普通科と合同の選択芸術で、麻里奈と真奈美は美術、裕子は書道、わたしは音楽を選択していた。まだ教室でのグループが固まらないうちに選んだ科目。それが一年半続くから、普段のグループが結構バラバラになる。
わたしたち四人も、特別教室棟までは一緒に行って、そこからは散り散りなっていく。途中で真奈美の彼氏が美術室に入る後姿を偶然見つけてしまい、わたしの心臓はどくどくと動き出したけれど、他の三人は特にそれを話題に出すこともなかった。音楽室の椅子に腰をおろしたとき、全身から力の抜ける感じがして、身体が強張っていたことにようやく気がついた。
音楽室にある楽器とリコーダーを使って、好きな人とグループになって、好きな曲を好きなように演奏する。それが、一年半にわたる音楽の授業の、最後の実技テストの内容だった。裕子も麻里奈も真奈美もいないので、わたしは同じような境遇の余りもの同盟みたいな女子グループにいた。こういうグループだと、遠慮と面倒くさいのとで誰も音頭をとりたがらず、たいていはグダグダになる。けれども、偶然にも高濱さんがこのグループに入ってくれていたから、それなりに準備は進んでいた。
「もう一回通すまえに休憩する?」
高濱さんのからっとした笑顔。わたしたちはおずおずと首を振り、高濱さんが軽快に頷いて「じゃあ、いくよ」と木琴のばちを構える。あんな小さな頷きの動作の中に、軽やかさなんてものがあるなんて。そう思いながら、わたしはアルトリコーダーを咥え、五線譜を追っていった。
高濱さんといえば、長身、ソフトボール部、風の噂によると一年生の時からレギュラー。そんな肩書を体現したような明るい性格。あそこまで表裏のないあっけらかんとした性格も珍しいけれど、特進科で、激しい系の運動部に入って、そこですぐにレギュラーを獲れる人には裏なんて必要ないのかもしれない。
もちろん、クラスは一緒でも、普段はそんなに喋る相手じゃない。すごく運動ができたり、ダンス部に入っている子はそこでグループになっていて、わたしたちのような「フツー」グループとはちょと距離がある。裕子もソフトボール部だけれど、あっちと関わらないってことは、熱意とか実力でなにか引け目があるのだろう。なんて、だらだらテニス部のわたしは考えてみたりする。
「来週の本番、なんとかなりそうだね」
一曲通し終わって、高濱さんが開口一番にそう言った。「よかったね」「うん」なんて調子で、わたしたちも頷き合う。物事の出来栄えとか評価について、最初に堂々と発言するのは生易しいことじゃない。お互いの雰囲気を察しあいながら、じりじりと空気が確定するのを待つのが普通だ。
でも、高濱さんは待ったりしない。最初はひやひやしたけれど、この音楽の授業で関わるうちに分かってきたことがある。高濱さんはそこで失敗したりしないのだ。いつも的確で、雰囲気を良くする一言がそこにある。特別な能力があって、それを根拠にした自信がある。高濱さんは、誰よりもわたしの憧れだ。
演奏を止めると、周囲の音が聞こえるようになってくる。カララン、コロロン、とハンドベルの音が後方で響いていた。祐斗と美晃くんが二人ペアで、わたしたちが子供のころに放映されていた日曜朝のアニメの主題歌を練習しているのだ。友達というよりは知り合いと呼ぶほうが適切な女子たちの話に相槌を打ちながら、わたしはその懐かしいメロディーに耳を傾けていた。
真奈美に彼氏がいることが発覚してから、わたしは誰を彼氏にするべきかという目線で男子を見るようになった。いつも教室ではしゃいでいるようなやつらは論外。制服を着崩してみたり、変な形に髪を整えてみたりしているけれど、正直言って汚いと思う。
特進科で調子に乗っている男子は、所詮カッコつけているだけ。本物のイケてる人たちがいないから、ああやって伸び伸びしてる。でも、普通科の、まれに存在する本物のイケてる男子たちはどうかというと、端的に言って縁がない。彼女なんてとっくにいるだろうし、わたしなんか相手にされないに決まっている。
じゃあ、あんまり目立たないグループの男子たちはどうだろう。まぁ、真奈美の彼氏もぱっとしない感じだし、最悪、ありかもしれない。テニス部の男子たちも同じくだ。珍しいことかもしれないけれど、なぜかうちの学校はテニス部が冴えないダラダラ部活になっている。
「卓球部ではあまりにもっていう思考の半端なやつらの集まり」だと、一年生の時に男子の誰かが言っているのを聞いたような気がするけど、誰が言っていたのかも思い出せないし、その発言が意味するところもよく分からなかった。
そんなことを考えながら教室を見渡してるときに、そういった分類からぽっかりと抜け落ちたようなグループがいるのに気づいた。数学の授業中だったけど、思わず「あっ」と中途半端な声量で発してしまって、集まった視線を「なんでもありません」でかわすはめになった。
でも、本当に斬新な発見だった。教室の生徒たちを選り分けて、その間にすいすいとペンを引いていったときに、名前をつけられない区画が一つだけ浮かびあがる。それが、祐斗、美晃くん、そして田島の三人組。
やけにリズミカルなアウトロ。最後はアレンジでハンドベルを激しくかき鳴らす。わたしの世代ならだれもが知っている穏やかな曲が、ちょっとだけかっこ良くなっている。
「あの二人すごいねー」
さっきから積極的に喋っていた普通科の女子が苦笑しながら振り返った。その子に合わせ、わたしもしぶしぶ振り返る。ちょうど、祐斗と美晃くんがハイタッチを交わしているところだった。さっぱりとした笑顔が眩しい。わたしと過ごしているとき、祐斗はあんな表情してたっけ。
「相変らず変人だね、あの二人」
わたしたちのすぐ後ろから、突如、高濱さんが会話に入ってくる。わたしが向き直って高濱さんを見上げると、高濱さんも祐斗や美晃くんに劣らない眩しさでにやっと笑う。
「ごめん、彼氏だったっけ」
ずきんと胸が痛くなって、おなかの下の方がかっと熱くなって、表情は強張ってしまう。わたしは強張りを戻せないまま、真っ白な頭でコクコクと頷いた。
「そうなんだぁ」
普通科の女子が、通り一遍な感嘆の声で驚きを表した。違うんだ、本当はもう、彼氏じゃない。だからお願い、それ以上聞かないで。
授業はもうすぐ終わるけれど、「いつから付き合ってるの?」というやりとりをする時間くらいはある。わたしは自分の顔が強張りを超えて引きつっているのを感じた。でも、自力で普通の表情には戻せない。
「じゃあ、最後にもう一回やろうか」
その瞬間、溌剌とした声で高濱さんが提案する。助かった。わたしは隣の女子からさっと目を逸らして、譜面へと視線を向ける。いち、に、さん、と高濱さんの合図で、わたしはアルトリコーダーに息を吹き込んでいく。
でもやっぱり、振られる瞬間に思ったことは、明日からどういう顔して友達と会えばいいんだろうってことだった。
これから別れ話が始まるんだっていう空気は、振られるのが初めてでもわかるもんなんだなぁって、現実感がないままに受け答えしてたら、橋を渡る頃にはもう、わたしには彼氏がいなかった。
たった三駅のあいだでもうつらうつらしてしまうような眠気。それをだらだらと引きずったまま学校までの道のりを歩き、わたしは昨日まで彼氏だった人がいる教室を目指す。
祐斗がいるはずの場所に焦点を合わせながら、それも、横目の焦点を合わせながら、わたしは教室へと足を踏み入れた。祐斗はいつもと変わらない様子で、美晃くんや田島とのお喋りに耽っている。深夜アニメの話題みたいだ。そんな話題でも、美晃くんが話してると、なんとなく、ちょっと許せる感じがある。
祐斗はわたしと目を合わせようともせず、というか、わたしが教室に入ったことにも気づいてないんだろうけど、男子たちとお喋りを続けていた。いつも通りの反応だから大丈夫、教室で無駄にベタベタしたりはしない。逆に、向こうからぎくしゃくしたような態度をとられたら困るところだった。
「実果、おはよー」
「おはよー」
いつもの友達四人組のうち、来ているのは裕子一人で、わたしが二人目という、いつもの順番。朝練のある裕子と、家が近いわたしはそれなりに早く教室に着いて、麻里奈がその次に来る。最後の一人、真奈美には少し遅刻癖がある。
「おっはよー」
裕子とのお喋りが「暑くなってきたねー」からもう少し深い話題に移行しようとしたちょうどその時に、麻里奈がやってきた。小柄で黒髪でボブカット。髪にボリュームがあるから結構重たい感じがするけど、本人はあまり気にしていないみたいだった。
「折りたたみ傘買った」
麻里奈はそう言って、変な柄の折りたたみ傘を突き出す。取っ手が普通の傘のように曲がっていて、色合いは少し幼い感じがする。でも、私立なのにやたらと地味な明真学園の制服にならこれくらいでもいいのかもしれない。わたしの趣味じゃないけれど。
「いいなー。かわいー」
わたしがそう言うと、「でしょ?」と麻里奈は満面の笑み。「天気予報見てる? 今年は空梅雨らしいよ。もったいなくない?」と裕子が突っ込みを入れて、「だって一目惚れだったし」と麻里奈が反論した。よかった。到底、彼氏と最近どうなんて話にはなりそうもない。この二人には彼氏がいないから、普段もそんな話をすることなんてないのだけれど、やっぱり、遠くでそういう話題が出ているのが聞こえたときとか、芸能人や従姉妹が結婚したときとか、お笑い芸人のカップルネタが面白かった時とかには、ちょっとだけ優越感に浸ることができていた。ごくまれに恋愛が話題になったときには、湧き上がる誇らしさが血液に乗って全身を駆け巡るような心地だった。
でも、今日はそんなことを考えると、心が底冷えして、少しおなかが痛くなる。大丈夫。まだ言わなくてもいい。言わないだけで、嘘をついてるわけじゃない。わたしはわたしを励ました。この二人から見れば、わたしにはまだ彼氏がいるんだ。
「おっはよー」
そしていつも通り、最後の最後、ギリギリの時間に真奈美が教室に入ってきた。
「マナ、今日はギリギリセーフじゃん」
麻里奈がいかにも感心したように言う。あだ名は真奈美がマナで、麻里奈がマリ。ちょっとだけややこしい。
「いつも出席とる時間にはセーフだよ」
真奈美がちょっと反抗的な口調でおどけてみせる。
「チャイム鳴った後じゃん。それ間に合ってるって言わないからね」
裕子が常識的なツッコミを入れた。
二言三言も交わさないうちにチャイムが鳴って、時間に律儀な担任教師がすぐさま教室の扉を開ける。見た目は普通のお父さんって感じだけど、やたら理屈っぽくてネチネチしているから嫌いだ。
朝のホームルームのあいだ、わたしはじっと真奈美の横顔を見ていた。走ってきたからだろう、耳の横に濡れた髪の毛がへばりついている。真奈美は小首をかしげ、人差し指でそれを耳の上にかけた。
わたしが祐斗と付き合い始めたきっかけは、去年の夏、真奈美に彼氏ができたことだった。
夏休みが明けて、九月も半ばに達したころ、わたしはその話をテニス部の男子から聞いた。聞いた、というよりは、休憩中に男子たちがその話をしているのが聞こえてきた。普通科の一年生男子三人組がわたしの近くに立ち、意外な人物に彼女ができたかもしれないと盛り上がっていた。彼らと同じクラスの、美術部に所属する男子が、同じ美術部の、特進科の女子と付き合い始めたらしい。
そして、特進科で美術部に所属しているのはたった一人だけ。
次の日の昼休みに、わたしがそれとなく真奈美に尋ねてみると、真奈美ははにかみながら事実を認めた。
「なんで言ってくれなかったのー」
「おめでとー」
わたしたち三人は咄嗟に驚きや祝福の気持ちを表したけど、きっと、裕子や麻里奈も、心には嫉妬が渦巻いて、怨嗟の声を必死に抑えていたはずだ。二人とも、表情にそれを出してしまうほど迂闊ではないけれど、目がちょっとだけ怖くなっていた気がした。
でも、きっと一番焦燥を感じたのは、「追いてかれた」って思っていたのはわたしだったと思う。だって、裕子や麻里奈には他に役割がある。裕子は女子バレーボール部なんていうかなり「ガチ」な部活で頑張ってるし、麻里奈は元々変人キャラだから、男子とはお互いに眼中になしでも不自然じゃない。裕子の黒いゴムで留められたシンプルなポニーテールとちょっと辛辣な口調も、麻里奈のころころ変わる髪型と奇妙な服や小物の趣味も、彼女たちが彼女たちであることをアピールしていた。
そんな二人と真逆だったのが、だらだらテニス部員のわたしと、絵の上手さだけが取り柄の真奈美。真奈美はお喋りもあんまり上手くなくて、ノリもちょっと悪いところがある。何事にも必要最低限というものがあるけど、真奈美はギリギリかなと思っていた。彼女が学校に来る時間くらいにはギリギリだと思っていた。
「実果、準備しなよ」
「えっ。あ、そうだね」
突然後ろから話しかけられて、わたしは驚いてしどろもどろになってしまう。声の主は裕子で、手提げかばんみたいになっている書道セットを持っていた。金曜日の一時限目は普通科と合同の選択芸術で、麻里奈と真奈美は美術、裕子は書道、わたしは音楽を選択していた。まだ教室でのグループが固まらないうちに選んだ科目。それが一年半続くから、普段のグループが結構バラバラになる。
わたしたち四人も、特別教室棟までは一緒に行って、そこからは散り散りなっていく。途中で真奈美の彼氏が美術室に入る後姿を偶然見つけてしまい、わたしの心臓はどくどくと動き出したけれど、他の三人は特にそれを話題に出すこともなかった。音楽室の椅子に腰をおろしたとき、全身から力の抜ける感じがして、身体が強張っていたことにようやく気がついた。
音楽室にある楽器とリコーダーを使って、好きな人とグループになって、好きな曲を好きなように演奏する。それが、一年半にわたる音楽の授業の、最後の実技テストの内容だった。裕子も麻里奈も真奈美もいないので、わたしは同じような境遇の余りもの同盟みたいな女子グループにいた。こういうグループだと、遠慮と面倒くさいのとで誰も音頭をとりたがらず、たいていはグダグダになる。けれども、偶然にも高濱さんがこのグループに入ってくれていたから、それなりに準備は進んでいた。
「もう一回通すまえに休憩する?」
高濱さんのからっとした笑顔。わたしたちはおずおずと首を振り、高濱さんが軽快に頷いて「じゃあ、いくよ」と木琴のばちを構える。あんな小さな頷きの動作の中に、軽やかさなんてものがあるなんて。そう思いながら、わたしはアルトリコーダーを咥え、五線譜を追っていった。
高濱さんといえば、長身、ソフトボール部、風の噂によると一年生の時からレギュラー。そんな肩書を体現したような明るい性格。あそこまで表裏のないあっけらかんとした性格も珍しいけれど、特進科で、激しい系の運動部に入って、そこですぐにレギュラーを獲れる人には裏なんて必要ないのかもしれない。
もちろん、クラスは一緒でも、普段はそんなに喋る相手じゃない。すごく運動ができたり、ダンス部に入っている子はそこでグループになっていて、わたしたちのような「フツー」グループとはちょと距離がある。裕子もソフトボール部だけれど、あっちと関わらないってことは、熱意とか実力でなにか引け目があるのだろう。なんて、だらだらテニス部のわたしは考えてみたりする。
「来週の本番、なんとかなりそうだね」
一曲通し終わって、高濱さんが開口一番にそう言った。「よかったね」「うん」なんて調子で、わたしたちも頷き合う。物事の出来栄えとか評価について、最初に堂々と発言するのは生易しいことじゃない。お互いの雰囲気を察しあいながら、じりじりと空気が確定するのを待つのが普通だ。
でも、高濱さんは待ったりしない。最初はひやひやしたけれど、この音楽の授業で関わるうちに分かってきたことがある。高濱さんはそこで失敗したりしないのだ。いつも的確で、雰囲気を良くする一言がそこにある。特別な能力があって、それを根拠にした自信がある。高濱さんは、誰よりもわたしの憧れだ。
演奏を止めると、周囲の音が聞こえるようになってくる。カララン、コロロン、とハンドベルの音が後方で響いていた。祐斗と美晃くんが二人ペアで、わたしたちが子供のころに放映されていた日曜朝のアニメの主題歌を練習しているのだ。友達というよりは知り合いと呼ぶほうが適切な女子たちの話に相槌を打ちながら、わたしはその懐かしいメロディーに耳を傾けていた。
真奈美に彼氏がいることが発覚してから、わたしは誰を彼氏にするべきかという目線で男子を見るようになった。いつも教室ではしゃいでいるようなやつらは論外。制服を着崩してみたり、変な形に髪を整えてみたりしているけれど、正直言って汚いと思う。
特進科で調子に乗っている男子は、所詮カッコつけているだけ。本物のイケてる人たちがいないから、ああやって伸び伸びしてる。でも、普通科の、まれに存在する本物のイケてる男子たちはどうかというと、端的に言って縁がない。彼女なんてとっくにいるだろうし、わたしなんか相手にされないに決まっている。
じゃあ、あんまり目立たないグループの男子たちはどうだろう。まぁ、真奈美の彼氏もぱっとしない感じだし、最悪、ありかもしれない。テニス部の男子たちも同じくだ。珍しいことかもしれないけれど、なぜかうちの学校はテニス部が冴えないダラダラ部活になっている。
「卓球部ではあまりにもっていう思考の半端なやつらの集まり」だと、一年生の時に男子の誰かが言っているのを聞いたような気がするけど、誰が言っていたのかも思い出せないし、その発言が意味するところもよく分からなかった。
そんなことを考えながら教室を見渡してるときに、そういった分類からぽっかりと抜け落ちたようなグループがいるのに気づいた。数学の授業中だったけど、思わず「あっ」と中途半端な声量で発してしまって、集まった視線を「なんでもありません」でかわすはめになった。
でも、本当に斬新な発見だった。教室の生徒たちを選り分けて、その間にすいすいとペンを引いていったときに、名前をつけられない区画が一つだけ浮かびあがる。それが、祐斗、美晃くん、そして田島の三人組。
やけにリズミカルなアウトロ。最後はアレンジでハンドベルを激しくかき鳴らす。わたしの世代ならだれもが知っている穏やかな曲が、ちょっとだけかっこ良くなっている。
「あの二人すごいねー」
さっきから積極的に喋っていた普通科の女子が苦笑しながら振り返った。その子に合わせ、わたしもしぶしぶ振り返る。ちょうど、祐斗と美晃くんがハイタッチを交わしているところだった。さっぱりとした笑顔が眩しい。わたしと過ごしているとき、祐斗はあんな表情してたっけ。
「相変らず変人だね、あの二人」
わたしたちのすぐ後ろから、突如、高濱さんが会話に入ってくる。わたしが向き直って高濱さんを見上げると、高濱さんも祐斗や美晃くんに劣らない眩しさでにやっと笑う。
「ごめん、彼氏だったっけ」
ずきんと胸が痛くなって、おなかの下の方がかっと熱くなって、表情は強張ってしまう。わたしは強張りを戻せないまま、真っ白な頭でコクコクと頷いた。
「そうなんだぁ」
普通科の女子が、通り一遍な感嘆の声で驚きを表した。違うんだ、本当はもう、彼氏じゃない。だからお願い、それ以上聞かないで。
授業はもうすぐ終わるけれど、「いつから付き合ってるの?」というやりとりをする時間くらいはある。わたしは自分の顔が強張りを超えて引きつっているのを感じた。でも、自力で普通の表情には戻せない。
「じゃあ、最後にもう一回やろうか」
その瞬間、溌剌とした声で高濱さんが提案する。助かった。わたしは隣の女子からさっと目を逸らして、譜面へと視線を向ける。いち、に、さん、と高濱さんの合図で、わたしはアルトリコーダーに息を吹き込んでいく。
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