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第一章 富田祐斗
第四話
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そんな感じで、計画の実行は順調な滑り出しだと俺は思っていたけれど、計画というものには修正がつきもので、美晃と歩に事情を話すのは来週へと持ち越しになってしまった。一時限目の授業中に、副島先輩から連絡が入ったからだ。
「今日、昼休み空いてる?」
スマートフォンの画面に映るそんな文言を見たとき、俺の頭にまず浮かんできた台詞はこれだった。「空いてるけど、なんの用?」。部活の先輩から休み時間に呼び出されるなんて、もうどんなに古風なドラマでもありはしないだろう。でも、現実にこうやって呼び出されている。俺は美晃と歩の背中を見た。二人とも真面目にペンを走らせている。私立校の特進科だけあって、授業中に騒ぐやつはいない。
「空いてます」
とりあえず、俺はそう返した。美晃と歩に事情を話すのは来週の月曜日になるけれども、延びたところで特段問題はない。それに、バドミントン部の先輩の中でも、副島先輩は特別だ。
「部室来れる? 授業終わったらすぐに」
「行けます」
俺はそう打って、事務的なやり取りをいくつかしてから画面を閉じた。顔を上げると、黒板は文字と数式で埋め尽くされている。定年間際の数学教師が例題を解説しているけれど、俺たちに背を向けて、黒板に文字を書きながら喋るので、俺たちの姿は見えていない。この隙にちょっとだけスマートフォンをいじるやつくらいはいる。
数学教師の白髪頭を見ながら、俺は呼び出しの目的を考えていた。バイト漬けの毎日を始める。この決断は本物だ。でも、俺はバイト探しを二週間後から始める予定だった。
来週末、バドミントン部は重要な大会を控えている。インターハイ予選を兼ねた県大会は、勝ち残れなければ三年生にとって最後の大会になる。
大会の目玉はもちろん学校対抗、つまり団体戦だ。メンバー登録はもう済ませていて、俺は登録メンバーの七人に入っていた。シングルスが三試合とダブルスが二試合。五試合を行って三勝したチームがトーナメント表を昇ることができる。単純に考えれば登録七人全員が試合に出ることになるのだが、ルールがもう少し複雑なのが面白い。シングルス三試合のうち、二試合目と三試合目はダブルスに出場した選手がもう一度出ることができる。ダブルス要員の四人のうち二人がシングルスも兼ねれば、あと必要なのは第一シングルスに出場する一人だけだというわけだ。
そして、強い選手というのはたいていシングルスもダブルスも上手いから、兼用で出場することになる。明真学園高校バドミントン部も、第一ダブルスで組む二人がそのまま第二シングルスと第三シングルスに出る。つまり、余る二人は補欠というわけだ。ついこの前までならば、補欠は俺と副島先輩で確定だった。
事情が変わったきっかけは、一週間ほど前のミーティングだった。とはいえ、潮目はずいぶん前から変わっていて、俺はうっすら期待していたし、副島先輩もそうだったはずだ。
「試合の出場メンバーだが、現時点では誰を出すか断言できない」
静かで力強い声。顧問の三上先生はそれを出せる人だった。
「私はあくまで、実力主義で決めたい」
この時点で、大会は三週間後に迫っていた。当然、ダブルスのペアを解体するわけにはいかないし、もちろん、シングルスとダブルスを兼ねる二人。チームの明らかなトップ二人が外されるわけもない。論点はただ一つ、第一シングルスだ。
「試合の前日に三人で総当たりを行う。勝ったやつを出す」
第一シングルスを任される予定だった片桐(かたぎり)先輩は春先から極端に調子を落としていた。身体の動きが明らかに鈍くなり、らしくないミスを連発する。これまでテレビの向こう側の存在だった「スランプ」というものを目の当たりにして、部員たちが感じたのは恐怖だったと思う。油の切れた機械のように、錆びついた鉄のように、パフォーマンスが軋んでいた。
でも、その先輩が感じている惨めさや、三上先生の苦悩の前では、俺たちの恐怖なんてけし粒のようなものだろう。それどころか、少なくとも俺は、ちょっとだけ期待していた。土壇場でレギュラーが入れ替わるかもしれないことを。
そして、その機会は巡ってきたのだ。来週の金曜日、試合の前日。どうせ部活は辞めるのだから、勝ったところで客観的意味はない。大会への出場はどちらにしろ辞退するつもりだ。辞める自分が先輩方の代わりに出場するなんて失礼なことはできない。
けれども、たとえ部活を辞めるにしても、俺は勝って辞めたかった。俺が強かったんだと、明真学園高校バドミントン部のレギュラーは、本当は俺なんだと証明して辞めたかった。なぜなら、中学校から始めて、四年半続けてきたバドミントンが好きだからだ。決してお金のかからないスポーツじゃない。ラケットは安くても一万円を超えるし、シューズだって何千円もする。チームユニフォームも強制購入だ。それに、消耗品であるシャトルのために部費も払わなくちゃいけない。
親父が一度目の失業をしてから、俺の家がそれなりに貧しくなったことくらい気がついていた。そして、中学三年生の秋ごろ、私学受験の話になったとき、母は唐突にこの高校の名前を出した。
「特進クラスっていうのがあってね、最近、進学実績をすごく伸ばしてるらしいの。バドミントン部も部員がたくさんいるし、結構強いみたい。家からも近いから、通うのも楽でしょう?」
明真学園の回し者のような口ぶりと、不自然な微笑み。その不自然さを取り繕うとするかのように、
「ほら、校舎もきれいだし、歩いていけるし、一回見に行ってみたら?」
とやたらに明るい声で母はパンフレットを差し出した。
母の瞳は小刻みに揺れ、そこにある懇願の意志を俺は感じ取る。
「うん。母さんがいいって言うなら、そこにするよ」。
俺がそう言うと、露骨に安堵の表情を浮かべながら、それでもなお、子供の進路を真剣に心配しているのだという建前を成立させるには足りないと思ったのか、
「一回も見に行かずに決めちゃっていいの?」
と母は俺に聞いた。
「いいよ。別に高校はどこでもいい。行ったところで一生懸命やるのが大事だと思う」。
俺がこう答えて、
「もう、あとで後悔したなんて言わないでね」
と母が言って、俺の進学先は決まった。
面談では教師が薦めてきた名門私立を母がのらりくらりと退け、
「じゃあ、私学はあくまで滑り止めで、公立は、まぁ、ここでしょうね」
と提案された学区トップ公立に対しても母は首を横に振り、
「あくまで親子の希望として明真なんです」を貫き通した。
入学金も授業料も免除される明真学園高校特進科に、俺は合格した。
こんな状況で、なぜ母親は俺が部活に入ることを拒んだり、辞めるよう言わないのか。部活にだって、そこそこお金はかかる。答えは簡単だ。
部活に打ち込む高校生の息子。
他人に説明するとき、これほど世間体の良い回答はない。「好きなことばっかりやって、まったく」。パート先や母親同士の集まりでそう言っている姿がありありと思い浮かぶ。食卓でも、母親はよく部活の話を聞いてきた。実際は淡々と練習をしているだけなのだが、それらしいエピソードがあると母親は楽しそうだったので、いつも少しずつ話を膨らまして俺は喋っていた。青春を分かりやすく謳歌している瞬間はそんなに多くない。でも、母親としては多くを投資しているこの部活動から、なにか収穫がないとたまらないのだろう。
でも、少し盛った話でバドミントンを続けられることに、俺は幸福を感じていた。
次の一点をもぎ取るために、身体と頭脳をフル回転させている時間の楽しさといったら。打ち返せなかった先輩のスマッシュを拾えるようになり、狙えなかったコースに厳しく決められるようになったときの快感といったら。ラケットがしなり、シャトルのコルクを思いっきり叩く音。シューズがきゅっきゅっと小気味よく体育館の床を擦る音。練習で、試合で、部員たちの張り上げた声が天井に響く。
俺はこの競技のすべてが好きだったし、部活というものが好きだった。俺はこの競技を一生懸命やって、これだけ強くなったんだということを証明したかった。その湧き上がってくる熱情に、利己的な欲求に、抗うことは難しい。
「今日、昼休み空いてる?」
スマートフォンの画面に映るそんな文言を見たとき、俺の頭にまず浮かんできた台詞はこれだった。「空いてるけど、なんの用?」。部活の先輩から休み時間に呼び出されるなんて、もうどんなに古風なドラマでもありはしないだろう。でも、現実にこうやって呼び出されている。俺は美晃と歩の背中を見た。二人とも真面目にペンを走らせている。私立校の特進科だけあって、授業中に騒ぐやつはいない。
「空いてます」
とりあえず、俺はそう返した。美晃と歩に事情を話すのは来週の月曜日になるけれども、延びたところで特段問題はない。それに、バドミントン部の先輩の中でも、副島先輩は特別だ。
「部室来れる? 授業終わったらすぐに」
「行けます」
俺はそう打って、事務的なやり取りをいくつかしてから画面を閉じた。顔を上げると、黒板は文字と数式で埋め尽くされている。定年間際の数学教師が例題を解説しているけれど、俺たちに背を向けて、黒板に文字を書きながら喋るので、俺たちの姿は見えていない。この隙にちょっとだけスマートフォンをいじるやつくらいはいる。
数学教師の白髪頭を見ながら、俺は呼び出しの目的を考えていた。バイト漬けの毎日を始める。この決断は本物だ。でも、俺はバイト探しを二週間後から始める予定だった。
来週末、バドミントン部は重要な大会を控えている。インターハイ予選を兼ねた県大会は、勝ち残れなければ三年生にとって最後の大会になる。
大会の目玉はもちろん学校対抗、つまり団体戦だ。メンバー登録はもう済ませていて、俺は登録メンバーの七人に入っていた。シングルスが三試合とダブルスが二試合。五試合を行って三勝したチームがトーナメント表を昇ることができる。単純に考えれば登録七人全員が試合に出ることになるのだが、ルールがもう少し複雑なのが面白い。シングルス三試合のうち、二試合目と三試合目はダブルスに出場した選手がもう一度出ることができる。ダブルス要員の四人のうち二人がシングルスも兼ねれば、あと必要なのは第一シングルスに出場する一人だけだというわけだ。
そして、強い選手というのはたいていシングルスもダブルスも上手いから、兼用で出場することになる。明真学園高校バドミントン部も、第一ダブルスで組む二人がそのまま第二シングルスと第三シングルスに出る。つまり、余る二人は補欠というわけだ。ついこの前までならば、補欠は俺と副島先輩で確定だった。
事情が変わったきっかけは、一週間ほど前のミーティングだった。とはいえ、潮目はずいぶん前から変わっていて、俺はうっすら期待していたし、副島先輩もそうだったはずだ。
「試合の出場メンバーだが、現時点では誰を出すか断言できない」
静かで力強い声。顧問の三上先生はそれを出せる人だった。
「私はあくまで、実力主義で決めたい」
この時点で、大会は三週間後に迫っていた。当然、ダブルスのペアを解体するわけにはいかないし、もちろん、シングルスとダブルスを兼ねる二人。チームの明らかなトップ二人が外されるわけもない。論点はただ一つ、第一シングルスだ。
「試合の前日に三人で総当たりを行う。勝ったやつを出す」
第一シングルスを任される予定だった片桐(かたぎり)先輩は春先から極端に調子を落としていた。身体の動きが明らかに鈍くなり、らしくないミスを連発する。これまでテレビの向こう側の存在だった「スランプ」というものを目の当たりにして、部員たちが感じたのは恐怖だったと思う。油の切れた機械のように、錆びついた鉄のように、パフォーマンスが軋んでいた。
でも、その先輩が感じている惨めさや、三上先生の苦悩の前では、俺たちの恐怖なんてけし粒のようなものだろう。それどころか、少なくとも俺は、ちょっとだけ期待していた。土壇場でレギュラーが入れ替わるかもしれないことを。
そして、その機会は巡ってきたのだ。来週の金曜日、試合の前日。どうせ部活は辞めるのだから、勝ったところで客観的意味はない。大会への出場はどちらにしろ辞退するつもりだ。辞める自分が先輩方の代わりに出場するなんて失礼なことはできない。
けれども、たとえ部活を辞めるにしても、俺は勝って辞めたかった。俺が強かったんだと、明真学園高校バドミントン部のレギュラーは、本当は俺なんだと証明して辞めたかった。なぜなら、中学校から始めて、四年半続けてきたバドミントンが好きだからだ。決してお金のかからないスポーツじゃない。ラケットは安くても一万円を超えるし、シューズだって何千円もする。チームユニフォームも強制購入だ。それに、消耗品であるシャトルのために部費も払わなくちゃいけない。
親父が一度目の失業をしてから、俺の家がそれなりに貧しくなったことくらい気がついていた。そして、中学三年生の秋ごろ、私学受験の話になったとき、母は唐突にこの高校の名前を出した。
「特進クラスっていうのがあってね、最近、進学実績をすごく伸ばしてるらしいの。バドミントン部も部員がたくさんいるし、結構強いみたい。家からも近いから、通うのも楽でしょう?」
明真学園の回し者のような口ぶりと、不自然な微笑み。その不自然さを取り繕うとするかのように、
「ほら、校舎もきれいだし、歩いていけるし、一回見に行ってみたら?」
とやたらに明るい声で母はパンフレットを差し出した。
母の瞳は小刻みに揺れ、そこにある懇願の意志を俺は感じ取る。
「うん。母さんがいいって言うなら、そこにするよ」。
俺がそう言うと、露骨に安堵の表情を浮かべながら、それでもなお、子供の進路を真剣に心配しているのだという建前を成立させるには足りないと思ったのか、
「一回も見に行かずに決めちゃっていいの?」
と母は俺に聞いた。
「いいよ。別に高校はどこでもいい。行ったところで一生懸命やるのが大事だと思う」。
俺がこう答えて、
「もう、あとで後悔したなんて言わないでね」
と母が言って、俺の進学先は決まった。
面談では教師が薦めてきた名門私立を母がのらりくらりと退け、
「じゃあ、私学はあくまで滑り止めで、公立は、まぁ、ここでしょうね」
と提案された学区トップ公立に対しても母は首を横に振り、
「あくまで親子の希望として明真なんです」を貫き通した。
入学金も授業料も免除される明真学園高校特進科に、俺は合格した。
こんな状況で、なぜ母親は俺が部活に入ることを拒んだり、辞めるよう言わないのか。部活にだって、そこそこお金はかかる。答えは簡単だ。
部活に打ち込む高校生の息子。
他人に説明するとき、これほど世間体の良い回答はない。「好きなことばっかりやって、まったく」。パート先や母親同士の集まりでそう言っている姿がありありと思い浮かぶ。食卓でも、母親はよく部活の話を聞いてきた。実際は淡々と練習をしているだけなのだが、それらしいエピソードがあると母親は楽しそうだったので、いつも少しずつ話を膨らまして俺は喋っていた。青春を分かりやすく謳歌している瞬間はそんなに多くない。でも、母親としては多くを投資しているこの部活動から、なにか収穫がないとたまらないのだろう。
でも、少し盛った話でバドミントンを続けられることに、俺は幸福を感じていた。
次の一点をもぎ取るために、身体と頭脳をフル回転させている時間の楽しさといったら。打ち返せなかった先輩のスマッシュを拾えるようになり、狙えなかったコースに厳しく決められるようになったときの快感といったら。ラケットがしなり、シャトルのコルクを思いっきり叩く音。シューズがきゅっきゅっと小気味よく体育館の床を擦る音。練習で、試合で、部員たちの張り上げた声が天井に響く。
俺はこの競技のすべてが好きだったし、部活というものが好きだった。俺はこの競技を一生懸命やって、これだけ強くなったんだということを証明したかった。その湧き上がってくる熱情に、利己的な欲求に、抗うことは難しい。
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