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第十章 天の川を越えて
10-3 契約解消
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ずっしりと、重たい空気が床に沈んで堆積していく。足元に纏わりつき、身動き出来なくなる。息苦しさと圧迫感に、オレは固唾を飲んだ。
「急に勝負とか言い出すから、何かと思ったら……」
ふっ、と九重が乾いた笑みを漏らした。皮肉じみた、何処か倦んだような笑みだった。
「風見に相談したのか。俺から開放される為に」
「ち、ちが」
「そんなにも……嫌だったのか」
違う! そう訴えたいのに、九重の冷たい眼差しに萎縮して、上手く唇が動かせない。代わりに、精一杯首を左右にぶんぶん振るった。だけど、それでは伝わらなかった。九重は続ける。
「傍に居るとか言ったくせに……結局お前も、俺を捨てるのか」
酷く傷付いたような音色だった。ハッとして視線を戻すと、その頃には彼はもう顔を背けてしまっていた。
「……分かった。もういい」
「こ、ここの」
「俺ももう、同じ玩具は飽きた。風見に返してやるよ」
咄嗟に、何と言われたのか分からなかった。オレの理解が及ぶより先に、タカの怒号が上がった。
「貴様っ!!」
室内を揺らす程の、苛烈な怒りの表明。同時に、タカは九重の襟首を掴み上げた。
「タカ!!」
そのまま殴り掛かりそうな勢いに、慌ててタカの腕に手を添えて制止する。当の九重の方は、全く怯む様子もなく、また口元を歪めて笑った。
「契約解消だ。自由にしてやるって言ってるんだから、喜べよ」
「何を……っ!!」
怒るタカ。対して、オレの脳は未だ情報を処理し切れずにいる。
――契約解消? どういうことだ?
「花鏡、最後に教えてやるよ。俺がお前を傍に置いた、本当の理由」
「!」
急に話を振られ、びくりと肩を揺らした。ゆっくりと九重を見つめる。琥珀色の瞳は褪めた黄金に変じ、ナイフのようにぎらりと鋭い光を放った。
「――傷付ける為だ。元々、お前が嫌いだったんだ。自分が恵まれているのにも気付かず、望まれているにも関わらず、自ら跡取りの責務を放棄しようとしている甘えた姿勢が。必死に後継ぎになる為に足掻く俺を、嘲笑っているようで……ずっと、憎かった」
憎……? 嘘だ。だって、お前……オレのこと嫌いじゃないって、言ってたじゃん。
「俺には、初めから選択肢なんて与えられていないのに、呑気に自由を謳歌するお前が、妬ましかった」
「う、嘘だ……」
「お前からオレを脅してきた時はチャンスだと思ったよ。これでようやく、お前に解らせてやれると思った。どうしてやろうか、考えるだけでワクワクしたな」
「嘘だ!」
遮るように、叫んだ。だけど九重は意に介せず、斬り付けるように告げた。
「本当のことを知った時、お前がどんな表情をするのかが楽しみだった。――そうだ。その表情だ。それが見たかった」
直後、ガッと鈍い音が響き、九重が大きく体勢を崩した。タカが九重の頬を殴り飛ばしたのだと気付いた時には、オレは喉から悲鳴にもならない息を漏らしていた。
「もう黙れお前」
唸るようなタカの威嚇。何とか倒れずに踏み止まった九重は、切れた口端から滲む赤を拳で拭いながら、こちらを見もせずに吐き捨てた。
「目標は達成した。お前はもう要らない」
――要らない。
凍り付くオレを放って、九重はそのままふいと背を向けた。去っていく背中。それが見えなくなった頃、玄関の閉まる音が聞こえてきた。
バタン――閉ざされたのは、部屋の扉だけじゃなかったかもしれない。
「やっぱり最低な奴だな、アイツは……トキ、大丈夫か?」
タカが気遣わしげに声を掛けてくる。だけどオレは、今し方の九重の言葉が脳内でリフレインして、すぐには反応できなかった。
ああ、そうかオレ、アイツを傷付けたんだ。いや、知らない間にずっと、無自覚に無神経に傷付けていたのかもしれない。
九重と過ごした日々の記憶が、音を立てて崩れていく気がした。
以前にも一度、覚えた感覚だ。あの時は、九重自身がオレの不安を打ち消してくれたのに、今回は違う。アイツはやっぱり、オレを傷付ける為に近付いたのか? ……もう分からない。
「トキ……」
そっと、抱き寄せられた。労わるような、タカの優しい腕。
「辛いだろうが、早めに解放されて良かった。これで、アイツももうお前に手出しはしてこないだろう」
「後は、もう一人の脅迫者だな」――そう零したタカの声音が暗く澱んでいたことに、オレはその時気付けなかった。
◆◇◆
同日内に、大量の宅配便が届いた。九重のタワマンに置かれていた、オレの荷物だ。家具の方は既にこちらのマンション用に新たに買い揃えられていたので、流石に置く場所がないのを考慮してか、主に衣服や細かい雑貨類だけだったけど。……もう、向こうにオレの居場所は無いんだと、改めて突き付けられた想いがした。
荷物の中に、ここのマンションの鍵も入っていた。――九重は、ここにももう来るつもりはないんだな。
銀色の小さな鉄の塊を掌の上に乗せて、見下ろす。
「鍵……オレも返さなくちゃな」
ぽつり呟くと、無性に悲しくなって涙が出た。タワマンに比べると、狭い室内。すぐにタカに見咎められて、また無言で慰めるように抱き締められた。その優しさが、今は痛かった。
翌日からは週末で、夏休み前の最後の通常休日だった。
学校で九重と顔を合わせずに済んで、少しホッとした。あんなことのあった直後で、まだ心の整理は付いていない。それに、もしもまた冷たい目で見られたり、シカトされたりしたらと思うと……怖かった。
土日の間、オレはひたすらバイトに精を出した。働いている方が、気が紛れて良い。
いつも通りに振舞っていた筈だったけど、須崎には「何か元気ねーな」と言われてしまった。「何かあったか」と聞かれたけど、話せるような内容じゃない。曖昧に笑って誤魔化すしか出来なかった。
須崎に気付かれるようじゃ、タカにはもっと心配させちまうな……。
そうだ、気持ちを切り替えよう。タカの言う通り、これで良かったんだ。
もう、無理強いされることも、振り回されることもない。元通りだ。アイツと話す前に、戻っただけ――それだけだ。
アイツとは、何も無かった。アイツのことなんて……忘れよう。タカもそれを望んでる。
タカはオレの為を思ってここまでしてくれたんだから、オレも出来るだけタカの想いに応えてやらなくちゃ。
――改めて、そう決心した。
事が起きたのは、日曜のバイト後だった。
「急に勝負とか言い出すから、何かと思ったら……」
ふっ、と九重が乾いた笑みを漏らした。皮肉じみた、何処か倦んだような笑みだった。
「風見に相談したのか。俺から開放される為に」
「ち、ちが」
「そんなにも……嫌だったのか」
違う! そう訴えたいのに、九重の冷たい眼差しに萎縮して、上手く唇が動かせない。代わりに、精一杯首を左右にぶんぶん振るった。だけど、それでは伝わらなかった。九重は続ける。
「傍に居るとか言ったくせに……結局お前も、俺を捨てるのか」
酷く傷付いたような音色だった。ハッとして視線を戻すと、その頃には彼はもう顔を背けてしまっていた。
「……分かった。もういい」
「こ、ここの」
「俺ももう、同じ玩具は飽きた。風見に返してやるよ」
咄嗟に、何と言われたのか分からなかった。オレの理解が及ぶより先に、タカの怒号が上がった。
「貴様っ!!」
室内を揺らす程の、苛烈な怒りの表明。同時に、タカは九重の襟首を掴み上げた。
「タカ!!」
そのまま殴り掛かりそうな勢いに、慌ててタカの腕に手を添えて制止する。当の九重の方は、全く怯む様子もなく、また口元を歪めて笑った。
「契約解消だ。自由にしてやるって言ってるんだから、喜べよ」
「何を……っ!!」
怒るタカ。対して、オレの脳は未だ情報を処理し切れずにいる。
――契約解消? どういうことだ?
「花鏡、最後に教えてやるよ。俺がお前を傍に置いた、本当の理由」
「!」
急に話を振られ、びくりと肩を揺らした。ゆっくりと九重を見つめる。琥珀色の瞳は褪めた黄金に変じ、ナイフのようにぎらりと鋭い光を放った。
「――傷付ける為だ。元々、お前が嫌いだったんだ。自分が恵まれているのにも気付かず、望まれているにも関わらず、自ら跡取りの責務を放棄しようとしている甘えた姿勢が。必死に後継ぎになる為に足掻く俺を、嘲笑っているようで……ずっと、憎かった」
憎……? 嘘だ。だって、お前……オレのこと嫌いじゃないって、言ってたじゃん。
「俺には、初めから選択肢なんて与えられていないのに、呑気に自由を謳歌するお前が、妬ましかった」
「う、嘘だ……」
「お前からオレを脅してきた時はチャンスだと思ったよ。これでようやく、お前に解らせてやれると思った。どうしてやろうか、考えるだけでワクワクしたな」
「嘘だ!」
遮るように、叫んだ。だけど九重は意に介せず、斬り付けるように告げた。
「本当のことを知った時、お前がどんな表情をするのかが楽しみだった。――そうだ。その表情だ。それが見たかった」
直後、ガッと鈍い音が響き、九重が大きく体勢を崩した。タカが九重の頬を殴り飛ばしたのだと気付いた時には、オレは喉から悲鳴にもならない息を漏らしていた。
「もう黙れお前」
唸るようなタカの威嚇。何とか倒れずに踏み止まった九重は、切れた口端から滲む赤を拳で拭いながら、こちらを見もせずに吐き捨てた。
「目標は達成した。お前はもう要らない」
――要らない。
凍り付くオレを放って、九重はそのままふいと背を向けた。去っていく背中。それが見えなくなった頃、玄関の閉まる音が聞こえてきた。
バタン――閉ざされたのは、部屋の扉だけじゃなかったかもしれない。
「やっぱり最低な奴だな、アイツは……トキ、大丈夫か?」
タカが気遣わしげに声を掛けてくる。だけどオレは、今し方の九重の言葉が脳内でリフレインして、すぐには反応できなかった。
ああ、そうかオレ、アイツを傷付けたんだ。いや、知らない間にずっと、無自覚に無神経に傷付けていたのかもしれない。
九重と過ごした日々の記憶が、音を立てて崩れていく気がした。
以前にも一度、覚えた感覚だ。あの時は、九重自身がオレの不安を打ち消してくれたのに、今回は違う。アイツはやっぱり、オレを傷付ける為に近付いたのか? ……もう分からない。
「トキ……」
そっと、抱き寄せられた。労わるような、タカの優しい腕。
「辛いだろうが、早めに解放されて良かった。これで、アイツももうお前に手出しはしてこないだろう」
「後は、もう一人の脅迫者だな」――そう零したタカの声音が暗く澱んでいたことに、オレはその時気付けなかった。
◆◇◆
同日内に、大量の宅配便が届いた。九重のタワマンに置かれていた、オレの荷物だ。家具の方は既にこちらのマンション用に新たに買い揃えられていたので、流石に置く場所がないのを考慮してか、主に衣服や細かい雑貨類だけだったけど。……もう、向こうにオレの居場所は無いんだと、改めて突き付けられた想いがした。
荷物の中に、ここのマンションの鍵も入っていた。――九重は、ここにももう来るつもりはないんだな。
銀色の小さな鉄の塊を掌の上に乗せて、見下ろす。
「鍵……オレも返さなくちゃな」
ぽつり呟くと、無性に悲しくなって涙が出た。タワマンに比べると、狭い室内。すぐにタカに見咎められて、また無言で慰めるように抱き締められた。その優しさが、今は痛かった。
翌日からは週末で、夏休み前の最後の通常休日だった。
学校で九重と顔を合わせずに済んで、少しホッとした。あんなことのあった直後で、まだ心の整理は付いていない。それに、もしもまた冷たい目で見られたり、シカトされたりしたらと思うと……怖かった。
土日の間、オレはひたすらバイトに精を出した。働いている方が、気が紛れて良い。
いつも通りに振舞っていた筈だったけど、須崎には「何か元気ねーな」と言われてしまった。「何かあったか」と聞かれたけど、話せるような内容じゃない。曖昧に笑って誤魔化すしか出来なかった。
須崎に気付かれるようじゃ、タカにはもっと心配させちまうな……。
そうだ、気持ちを切り替えよう。タカの言う通り、これで良かったんだ。
もう、無理強いされることも、振り回されることもない。元通りだ。アイツと話す前に、戻っただけ――それだけだ。
アイツとは、何も無かった。アイツのことなんて……忘れよう。タカもそれを望んでる。
タカはオレの為を思ってここまでしてくれたんだから、オレも出来るだけタカの想いに応えてやらなくちゃ。
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