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第五章 記憶の中の男の子
5-5 繋がった先の未来
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男が、オレの肩を押すようにその場に倒してきた。冷たく硬い床に、縛られた腕から落ちて、ジャリっと砂で擦れる。痛い。
直後、オレの服の胸倉を掴んで、男は一気にそれを破り始めた。――ビイィッ、布の裂ける音が、狭い空間に谺する。無防備に素肌が曝け出された。
喰われる。喰われる――!
「やめろッ!!」
上がった叫びは、オレのものじゃない。オレは恐怖のあまり、声を出せずにいた。じゃあ、誰の――声の主と思しき男の子は、オレを押し倒した男の背後から顔を出した。必死の形相。金色に煌めく瞳。男が驚愕に振り向くより早く、彼は手にしたガラス片を振り被り、男の首筋を掻き切った。――目の前が、刹那赤に染まる。
鮮血が降り注いだ。生ぬるい、男の体液。ムッとするような鉄くさい臭い。それを顔に浴びて、オレはふっと電源が落ちたみたいに唐突に気が遠くなるのを感じ――その後は、覚えていない。
◆◇◆
ゆっくりと、意識が浮上してきた。ぼんやりと重たい頭を巡らせて、薄く目を開く。――蛍光灯の眩しい光。遮るようにこちらを覗きんだ顔。紫がかった長めの黒髪。琥珀色の瞳。何処か怯えたように、張り詰めた表情。……黒縁の眼鏡以外の特徴が、記憶の中のあの男の子とピッタリ重なった。
「……ここのえ」
掠れた声で、名を呼んだ。九重はオレが目覚めたことに気が付くと、少し安堵したように表情を緩めた。
「起きたか。……ああ、無理に起き上がらなくていい。寝とけ」
「……ここは?」
「病院だ。余程気を張っていたんだろ。お前、助かった途端気絶したんだよ」
『助かった』――その言葉で、思い出す。廃倉庫でのこと。記憶と共に恐怖までもが蘇り、オレは身震いした。直後、そっと肩に手を添えられた。九重が気遣わしげにオレを見下ろしている。深くて優しい、琥珀色。
不思議と震えが治まった。
「……アイツらは?」
「犯人達なら、逮捕された。主犯は今朝の痴漢だったらしいな。お前、逆恨みされたんだな」
九重の話によると、あの痴漢リーマンは役所のそれなりの身分の人間だったそうだ。今の地位を守る為、オレから痴漢の件を告発されることを必要以上に恐れて、今回の犯行に至ったのだとか。……オレは、顔も覚えてなかったのにな。
電車でオレの制服を見ていたこと、またオレを雑誌で見掛けたことがあったとかで、オレのことを調べるのは容易だったらしい。
自然、自嘲の笑みが漏れた。
「お前の言う通りだったよ。オレが、考え無しに……無警戒に行動した結果が、これだ。周りにまで迷惑掛けて……バカだな、オレ」
本当にバカだ。つくづく自分に呆れた。
「そうだな」
九重が言う。オレが恥じるように目を伏せると、奴は静かに続けた。
「――だが、それがお前の美徳でもある」
思わず瞠目した。九重は、大真面目な顔をしていた。
「お前が後先考えずに他人の為に行動したことで、救われてきた人間も居るだろ。それは、決して無駄なことじゃない」
「はっ……いつもバカバカ言うくせに、今日は慰めてくれんのかよ」
くしゃりと、情けなく笑み崩れる。だからさ、本当……何だかんだ最後には優しいの、ズルいだろ。
「お前……何でオレがあそこに居るって、分かったんだ?」
「GPSだよ。前のマンションに行くってメッセージが来てたのに、変な場所に向かってるから、もしやと思ってな。お前の携帯の電源は犯人の手によってオフにされていたみたいだが、本体とは別にケースの内側に外付けで発信機を付けていたから問題なく追えた」
「げ、いつの間にそんな機器取り付けたんだよ!?」
「役に立ったからいいだろ」
うっ……そうだけど!
何だか脱力した。九重には敵いそうにない。苦笑して暫し黙した後に、オレはぽつりと切り出した。
「あの時の男の子……お前だったんだな」
九重は、瞬間虚を衝かれた顔をした。それを見上げて、オレは弱く微笑み掛ける。
「オレの為に、勇気を出してくれたんだろ? 怖かったよな……ごめんな。ありがとう」
我武者羅に振り被ったガラス片。おそらく、まだ人を傷付けた経験だって無かっただろう、小さな男の子が――。
あの時恐怖に震えていた彼は、一端の大人の男の顔をして、真摯にこちらを見つめ返してきた。
「……思い出したのか」
「ああ、全部。……今回の件と、ロケーションとか少し似てたから」
オレ、多量の血を見たショックで記憶を失くしてたんだな……。犯人の男……あの誘拐事件で死者は出なかったって聞いてるから、一命は取り留めたんだろうけど……あの時は、死んだと思ったから。
喉元のものを嚥下して、改めて九重に訊ねる。
「お前が……オレのこと嫌いなのって、そのせいか?」
オレのせいで、幼い九重はあんな風に人を傷付けることになってしまったのに、肝心のオレはそのことをすっかり忘れて呑気に暮らしてるんだもんな。――そりゃ、ムカつくよな。
九重は、今度は怪訝そうに眉根を寄せた。
「嫌いだと言った覚えはないが」
――へ?
「だって、お前……オレのこと、ムカつくって」
「ムカつくが、別に嫌ってはいない」
「は!? だって、存在自体が鼻につくって!」
「そうだ。近くに居ると、どうにも気になって仕方ない」
キシ……九重がベッドに手を着いて、軽く体重を掛けてきた。チープなスプリングの軋む音。先程よりも近付いた距離。
「……いや、遠くに居ても気になるな。いつも、お前のことばかり考えてる」
真っ直ぐな瞳。魅入られそうな深い琥珀色。オレは瞬きをするのも忘れて、固唾を飲んだ。
「俺は、忘れたことなんてなかったよ。お前のこと、ずっと……。あの後すぐに警察が来て、俺達は助かったけど……お前がその後どうしてるのか、俺には分からなかったし」
〝ずっと気にしてた。元気にしているだろうか。あの時のことを思い出して、怖い思いをしていないか〟――九重は、節々と語る。
「高校になって、同じ学校にお前が居て……遠くから見てた。お前が元気そうに笑ってるから、とりあえずホッとした。でも、二年になって同じクラスになって……どうやら、お前は俺を忘れているらしいと気が付いて、ムカついた」
「!」
「あんな衝撃的な出来事を忘れるか? まさか過ぎるだろ。……しかも何か敵視してくるし、話そうとしてもいつも風見が邪魔してくるし。こっちはいつもお前のことでいっぱいだったのに、お前はまるで気が付かない。……ムカついて、どうにかしてやりたかった」
ハッとする。
「――それが」
理由か?
九重は否定も肯定も返さなかった。少しの間ただ黙ってオレを見つめて、それから独白のように零した。
「お前から脅迫されたのは予想外だったが、良い機会だと思ったよ。逆に脅して俺のものにすれば、風見から引き剥せると思った。……初めは、本当に写真を撮るだけのつもりだった。でも、お前の反応を見ている内に、止められなくなって……エスカレートした」
それは……初耳だ。
「な、何だよ、それ……オレのせいだって言うのか?」
「そうだな。お前のせいだ。お前が虐めたくなるような表情をするのが悪い」
「してねーよ!?」
でも、てことは……。
「お前……オレを傷付ける為に抱こうとしてた訳じゃないのか?」
その為に、脅迫して手元に置いていた訳じゃ……ないのか?
九重はオレをじっと見据えてから、不意にいつもの不敵な笑みを口元に刷いた。
「お前、俺に抱かれると思っていたのか?」
かぁっと顔が熱くなる。
「そっそれは……だって! そういうことだと、思うじゃん!?」
何だよ、それ!! まるで、オレが期待してたみたいに言うなし!!
九重は、またふと真面目な顔に戻って、思案げに自身の顎を擦った。
「そこまでは考えていなかったな……。ただ、お前が欲しかったから、どんな手を使ってでも傍に置こうと思った。それだけだ」
口があんぐり開いた。――まさかの。全くの無計画だったってことか?
「じゃあ、え、えっちなことしてきたのは、なんでだよ?」
「お前がエロい表情するからだ」
「してねーよ!?」
でも、なんだ……なぁんだ。
「オレ……お前に嫌われてた訳じゃなかったのか」
ホッとした。ふにゃりと頬が緩む。九重はまた少し考えるような間を置いてから、そっと付け足した。
「さっき、お前の行動で救われた人間が居ると言ったが……俺もその内の一人だ」
キョトンと見上げる。九重は微笑った。――いつぞや見せてくれた、あの嘘偽りのない、優しい笑顔で。
「あの時、あそこにお前が居なかったら、俺はきっと絶望に打ち負けてた。お前が居たから、今まで生きてこられた。お前の為ならば、人を手に掛けても構わないと思った。……そんな相手を、嫌いな訳がないだろう」
キシッと、再びベッドの軋む音がして、九重の顔が一層近付いてくる。
「ずっと、お前が欲しかった。ようやく、手に入れた。――花鏡。お前は、俺のものだ」
吐息が交わる。九重のメガネ越しに、互いの睫毛が触れそうな距離。形の良い唇が眼前に迫って――影が、重なった。
直後、オレの服の胸倉を掴んで、男は一気にそれを破り始めた。――ビイィッ、布の裂ける音が、狭い空間に谺する。無防備に素肌が曝け出された。
喰われる。喰われる――!
「やめろッ!!」
上がった叫びは、オレのものじゃない。オレは恐怖のあまり、声を出せずにいた。じゃあ、誰の――声の主と思しき男の子は、オレを押し倒した男の背後から顔を出した。必死の形相。金色に煌めく瞳。男が驚愕に振り向くより早く、彼は手にしたガラス片を振り被り、男の首筋を掻き切った。――目の前が、刹那赤に染まる。
鮮血が降り注いだ。生ぬるい、男の体液。ムッとするような鉄くさい臭い。それを顔に浴びて、オレはふっと電源が落ちたみたいに唐突に気が遠くなるのを感じ――その後は、覚えていない。
◆◇◆
ゆっくりと、意識が浮上してきた。ぼんやりと重たい頭を巡らせて、薄く目を開く。――蛍光灯の眩しい光。遮るようにこちらを覗きんだ顔。紫がかった長めの黒髪。琥珀色の瞳。何処か怯えたように、張り詰めた表情。……黒縁の眼鏡以外の特徴が、記憶の中のあの男の子とピッタリ重なった。
「……ここのえ」
掠れた声で、名を呼んだ。九重はオレが目覚めたことに気が付くと、少し安堵したように表情を緩めた。
「起きたか。……ああ、無理に起き上がらなくていい。寝とけ」
「……ここは?」
「病院だ。余程気を張っていたんだろ。お前、助かった途端気絶したんだよ」
『助かった』――その言葉で、思い出す。廃倉庫でのこと。記憶と共に恐怖までもが蘇り、オレは身震いした。直後、そっと肩に手を添えられた。九重が気遣わしげにオレを見下ろしている。深くて優しい、琥珀色。
不思議と震えが治まった。
「……アイツらは?」
「犯人達なら、逮捕された。主犯は今朝の痴漢だったらしいな。お前、逆恨みされたんだな」
九重の話によると、あの痴漢リーマンは役所のそれなりの身分の人間だったそうだ。今の地位を守る為、オレから痴漢の件を告発されることを必要以上に恐れて、今回の犯行に至ったのだとか。……オレは、顔も覚えてなかったのにな。
電車でオレの制服を見ていたこと、またオレを雑誌で見掛けたことがあったとかで、オレのことを調べるのは容易だったらしい。
自然、自嘲の笑みが漏れた。
「お前の言う通りだったよ。オレが、考え無しに……無警戒に行動した結果が、これだ。周りにまで迷惑掛けて……バカだな、オレ」
本当にバカだ。つくづく自分に呆れた。
「そうだな」
九重が言う。オレが恥じるように目を伏せると、奴は静かに続けた。
「――だが、それがお前の美徳でもある」
思わず瞠目した。九重は、大真面目な顔をしていた。
「お前が後先考えずに他人の為に行動したことで、救われてきた人間も居るだろ。それは、決して無駄なことじゃない」
「はっ……いつもバカバカ言うくせに、今日は慰めてくれんのかよ」
くしゃりと、情けなく笑み崩れる。だからさ、本当……何だかんだ最後には優しいの、ズルいだろ。
「お前……何でオレがあそこに居るって、分かったんだ?」
「GPSだよ。前のマンションに行くってメッセージが来てたのに、変な場所に向かってるから、もしやと思ってな。お前の携帯の電源は犯人の手によってオフにされていたみたいだが、本体とは別にケースの内側に外付けで発信機を付けていたから問題なく追えた」
「げ、いつの間にそんな機器取り付けたんだよ!?」
「役に立ったからいいだろ」
うっ……そうだけど!
何だか脱力した。九重には敵いそうにない。苦笑して暫し黙した後に、オレはぽつりと切り出した。
「あの時の男の子……お前だったんだな」
九重は、瞬間虚を衝かれた顔をした。それを見上げて、オレは弱く微笑み掛ける。
「オレの為に、勇気を出してくれたんだろ? 怖かったよな……ごめんな。ありがとう」
我武者羅に振り被ったガラス片。おそらく、まだ人を傷付けた経験だって無かっただろう、小さな男の子が――。
あの時恐怖に震えていた彼は、一端の大人の男の顔をして、真摯にこちらを見つめ返してきた。
「……思い出したのか」
「ああ、全部。……今回の件と、ロケーションとか少し似てたから」
オレ、多量の血を見たショックで記憶を失くしてたんだな……。犯人の男……あの誘拐事件で死者は出なかったって聞いてるから、一命は取り留めたんだろうけど……あの時は、死んだと思ったから。
喉元のものを嚥下して、改めて九重に訊ねる。
「お前が……オレのこと嫌いなのって、そのせいか?」
オレのせいで、幼い九重はあんな風に人を傷付けることになってしまったのに、肝心のオレはそのことをすっかり忘れて呑気に暮らしてるんだもんな。――そりゃ、ムカつくよな。
九重は、今度は怪訝そうに眉根を寄せた。
「嫌いだと言った覚えはないが」
――へ?
「だって、お前……オレのこと、ムカつくって」
「ムカつくが、別に嫌ってはいない」
「は!? だって、存在自体が鼻につくって!」
「そうだ。近くに居ると、どうにも気になって仕方ない」
キシ……九重がベッドに手を着いて、軽く体重を掛けてきた。チープなスプリングの軋む音。先程よりも近付いた距離。
「……いや、遠くに居ても気になるな。いつも、お前のことばかり考えてる」
真っ直ぐな瞳。魅入られそうな深い琥珀色。オレは瞬きをするのも忘れて、固唾を飲んだ。
「俺は、忘れたことなんてなかったよ。お前のこと、ずっと……。あの後すぐに警察が来て、俺達は助かったけど……お前がその後どうしてるのか、俺には分からなかったし」
〝ずっと気にしてた。元気にしているだろうか。あの時のことを思い出して、怖い思いをしていないか〟――九重は、節々と語る。
「高校になって、同じ学校にお前が居て……遠くから見てた。お前が元気そうに笑ってるから、とりあえずホッとした。でも、二年になって同じクラスになって……どうやら、お前は俺を忘れているらしいと気が付いて、ムカついた」
「!」
「あんな衝撃的な出来事を忘れるか? まさか過ぎるだろ。……しかも何か敵視してくるし、話そうとしてもいつも風見が邪魔してくるし。こっちはいつもお前のことでいっぱいだったのに、お前はまるで気が付かない。……ムカついて、どうにかしてやりたかった」
ハッとする。
「――それが」
理由か?
九重は否定も肯定も返さなかった。少しの間ただ黙ってオレを見つめて、それから独白のように零した。
「お前から脅迫されたのは予想外だったが、良い機会だと思ったよ。逆に脅して俺のものにすれば、風見から引き剥せると思った。……初めは、本当に写真を撮るだけのつもりだった。でも、お前の反応を見ている内に、止められなくなって……エスカレートした」
それは……初耳だ。
「な、何だよ、それ……オレのせいだって言うのか?」
「そうだな。お前のせいだ。お前が虐めたくなるような表情をするのが悪い」
「してねーよ!?」
でも、てことは……。
「お前……オレを傷付ける為に抱こうとしてた訳じゃないのか?」
その為に、脅迫して手元に置いていた訳じゃ……ないのか?
九重はオレをじっと見据えてから、不意にいつもの不敵な笑みを口元に刷いた。
「お前、俺に抱かれると思っていたのか?」
かぁっと顔が熱くなる。
「そっそれは……だって! そういうことだと、思うじゃん!?」
何だよ、それ!! まるで、オレが期待してたみたいに言うなし!!
九重は、またふと真面目な顔に戻って、思案げに自身の顎を擦った。
「そこまでは考えていなかったな……。ただ、お前が欲しかったから、どんな手を使ってでも傍に置こうと思った。それだけだ」
口があんぐり開いた。――まさかの。全くの無計画だったってことか?
「じゃあ、え、えっちなことしてきたのは、なんでだよ?」
「お前がエロい表情するからだ」
「してねーよ!?」
でも、なんだ……なぁんだ。
「オレ……お前に嫌われてた訳じゃなかったのか」
ホッとした。ふにゃりと頬が緩む。九重はまた少し考えるような間を置いてから、そっと付け足した。
「さっき、お前の行動で救われた人間が居ると言ったが……俺もその内の一人だ」
キョトンと見上げる。九重は微笑った。――いつぞや見せてくれた、あの嘘偽りのない、優しい笑顔で。
「あの時、あそこにお前が居なかったら、俺はきっと絶望に打ち負けてた。お前が居たから、今まで生きてこられた。お前の為ならば、人を手に掛けても構わないと思った。……そんな相手を、嫌いな訳がないだろう」
キシッと、再びベッドの軋む音がして、九重の顔が一層近付いてくる。
「ずっと、お前が欲しかった。ようやく、手に入れた。――花鏡。お前は、俺のものだ」
吐息が交わる。九重のメガネ越しに、互いの睫毛が触れそうな距離。形の良い唇が眼前に迫って――影が、重なった。
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