砂時計は、もう落ちた。

夜薙 実寿

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最終章 砂時計は、もう落ちた。

6-5 砂時計は、もう落ちた。

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 声が聞こえる。誰かが呼んでいる。
 切羽詰まったような、今にも泣き出しそうな……張り裂けそうで、震える……そんな声で。
 ああ、そうだ。この声の持ち主に、自分は伝えたい事があったのだ。だから早く、応えてやらなくては。
 そう思うのに、身体がなかなか言う事を聞かない。――なんだコレ。あたし、どーなったんだっけ?

  考えて、思い出す。
 そうだ、確かドジを踏んで、滑って転んで頭を打って……それから急に意識が白んだのだ。我ながらアホとしか言いようがない。
 何処かから、自分を呼ぶ声がひっきりなしに聞こえてくる。聞いているこちらまで、胸が苦しくなるような……切ない声。
 違う。そんな想いをさせたかったんじゃない。そんな声を、出さないでくれ。ああ、もう。

 ――こんな所で、気絶してる場合じゃないだろ!

 自分に一喝気合いを入れて、紗幕に覆われたような薄ぼんやりした世界を蹴破る。すると、唐突に目の前が開け、景色が戻ってきた。
 リアルな極彩色の世界。真っ先に映り込んだのは、砂音の顔だった。眉は下がり、眉間に皺。血の気の失せた蒼白な面に、酷く余裕の無い、表情。

「……音にぃ」

 目を合わせて、呼ぶ。彼の瞳がゆっくりと見張られていく。朝焼けの優しい黄色と同じ、ヘーゼルの瞳。昔から、綺麗で大好きだった。

「なんて顔してんだよ」

 彼があんまりにも必死な……普段見た事もないような表情をしているものだから。安心させてやりたくて、茶化して微笑んだ。すると、突然何かが覆い被さって、視界を塞いだ。彼に抱き寄せられたのだと気が付いたのは、冷えた体に伝わって来る温もりと、力強く背に回された相手の腕の感覚を覚えた時だった。

「おぉっ、音にぃ!?」

 瞬時に茹で上がり、慌ててもぞもぞと脱出を試みようとするも、次に耳朶を叩いた彼の声音に、朱華は身動きする事をやめてしまった。

「しん……っ死んじゃうかと、思った」

 それは、先程まで聞こえていた、あの今にも泣き出しそうな、切ない声。
 落ちて頭を打った訳じゃない。その後に転んでぶつけただけだ。そんな事で、死ぬ訳がない。――けれど。怯えて震える彼に、そう言って笑い飛ばす事は出来なかった。

「……あたしが、音にぃを置いて死ぬ訳ないだろ」

 だから、大丈夫だ。自分はここに居る。何処にも居なくなったりなんかしない。そんな想いを込めて、優しく力強く、抱き締め返した。
 彼の震えが止まるまで、そうしていようと思ったが。次の瞬間、頭上から降ってきた友の呼び声に、ハッとして振り返り、見上げた。

「シュカっ!!」
「良かった、起きた!」
「大丈夫なの!?」

 友人三人組の姿は、まだ二階の渡り廊下にあった。手すりを掴んで、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
 改めて周囲を見回すと、場所は先程と変わりない、学校の敷地内。渡り廊下の下だ。どうやら、朱華が気を失っていたのは、ほんの数分の事だったらしい。頭を強く打って、軽い脳震盪を起こしたのだろう。

 それはいいとして、新たな問題が起きようとしている。騒ぎを聞き付けて、あちこちの校舎の窓から他の教師や生徒達がこちらに注目し始めていたのだ。更に、下駄箱の方から何やら金切り声を発しながら、他称風紀担当の本間が駆けつけてこようとするのが窺えた。

「やべっ」

 これは、捕まったらそのままお説教コースだ。冗談ではない。ようやく砂音に逢えたのに。今はそれ所ではないのだ。
 思考するよりも先に、砂音の腕を掴んで立ち上がっていた。一瞬だけくらりと目眩がしたが、すぐに立て直す。砂音が心配げな声を出したが、今は猶予がない。朱華は再度渡り廊下の友人達を振り仰ぐと、早口で告げた。

「悪りぃ! あたしこの後、サボる! 後よろしく!」

 そうして、彼女らの返答を待たずに砂音の手を引いて、駆け出した。ぬかるんだ地面を蹴り上げて、泥で汚れた背中も後頭部も全くお構い無しに、一目散に。さながら、逃避行。本間の怒声を振り切るように、校舎外まで一気に駆け抜ける。後ろを振り返る余裕など、なかった。

 ようやく立ち止まったのは、人気の無い開けた河川敷。ここなら見晴らしが良いので、かえって誰かが来たら警戒しやすい。……という事を、ヤンキー時代に学んでいた朱華だったので、自然と足がここに向かったのだった。

「よし、ここまで来りゃ、流石に誰も追ってこないだろ」

 全力疾走の余波で肩で息をしながら周囲に抜け目なく視線を巡らせていると――砂音に名を呼ばれた。

「朱華ちゃん」

 気遣うような声音に、彼の方に向き直る。朱華はそこで、改めて自分達が手を繋いだままだった事に気が付いた。途端に襲う気恥しさに、顔を赤く染め上げ、慌てふためいて彼の手を解放する。

「ご、ごめっ! てか、音にぃ、そういや具合悪かったりした!? こんな無茶させちまって……」
「無茶なのは、朱華ちゃんだよ。どうしてあんな危ない事したの? 二階から飛び降りるなんて」

 立て続けに謝罪の言葉を口にしようとした所で、砂音が被せた詰問に遮られる。真剣な彼の眼差しに、朱華は若干バツの悪い心地になるが。しかし後悔はしていないので、唇を尖らせて主張を返した。

「だって……ああでもしなきゃ、音にぃ捕まんないじゃん。『喧嘩してもいいから、話そう』って言ったのは、音にぃなのにさ」

 なのに、逃げるなんて。それでは過去の自分朱華と一緒だ。気持ちがすれ違ったままサヨナラは嫌だって、言っていたじゃないか。

「それは……」

 言外に含ませた朱華の叱責を汲み取ったのだろう、今度は砂音の方が決まり悪そうに口籠った。逸らされたヘーゼルの瞳を追うように、朱華は努めて真っ直ぐに彼を見詰めた。そして、切り出す。

「ごめん、音にぃ……千真から、音にぃの事……少し、聞いた。……音にぃの、好きな人の事」

 彼が、ハッとしたように息を呑んだのが分かった。

「音にぃが、何であんな事を言ったのか……理由が、知りたかった」

 あの夜の、彼の言葉。
 ――『俺、人を殺したんだ』
 血を吐くように、苦しげな。それでいて、断罪を求めるように、ハッキリとした声音で。紡がれた告白。
 今なら分かる。

「音にぃは……その事で、ずっと……自分を責めてたんだな」

 砂音は黙して答えない。それはきっと、彼にとっては探られたくなかった事柄だったろう。
 けれど、知りたかった。知らないままでは、いられなかった――。

「あの噂も……本当なんだろ?」

 校内を駆け巡る、砂音に関しての良くない〝噂〟。
 ――〝時任先輩は、頼めば何でもしてくれる〟
 それがもう事実だということは、嫌でも予測がついてしまっていた。
 セットで思い起こされた、いつかの裏庭での彼と下級生とのやり取りに、また胸がちくりと傷んだ。

「そうやって自分を、他人の求めるがままに切り売りする事で、自分に罰を課していたんじゃないのか」

 彼は答えない。目も合わせない。けれど、否定もしない。
 朱華は一つ息を吐くと、続けて言い放った。

「……でも。それで『もう会わないようにしよう』ってなるのは、納得いかない」

 ――そうだ。全く納得がいかない。

「音にぃは、あたしと居ると……癒されるって言ったよな? 優しくて、温かい気持ちになるって……。それって、幸せって事だろ? でも、そんなのはダメなんだって。だから、あたしとは居られないって」

 ――音にぃは、幸せになる事を拒んでる。

「自分にはもう、幸せになる資格なんてないって、思ってるんだ」

 ――でも。
 気付いたんだ。そうじゃないと。それだけじゃないと。一見矛盾した行動の中に、見えた想いがある。
 それを……伝えたかった。

「音にぃは、本当は、幸せになりたがってる」

 朝焼けの瞳が、驚愕に見開かれる。

「だって、そうだろ? じゃなかったら、あたしとの約束なんて、最初からしなかった筈だ」

 貴重な睡眠に当てていた筈の休み時間を、わざわざ。大変な想いをしてファンから逃げてきてまで、毎日――逢いに来てくれた。
 それは何故だ? 少なくとも、彼にとってその時間は……楽しかった筈だ。癒しだと、当人もそう言っていたではないか。
 それを求めていないのならば、もっと早くに絶ち切っていた筈だ。

「あの噂の事も、そうだ。そうやって自ら罰されようとしてたのは、罪をあがないたいから。罪を贖うって事は……赦されるって事だ。音にぃは、本当は赦されたいんじゃないのか? 他の誰にでもない、自分自身にだ!」

 突き付けるように、訴え掛ける。砂音は衝撃を受けたようだった。
 そうだ。彼は……本当は幸せになりたいのだ。なのに、それを自分自身が許せない。許せないけれど……許されたい。
 人間というのは、いつだって割り切れない。矛盾する想いを抱えている。

「俺は……」

 よろめくように、片手で頭を抱えて、彼はぽつりと漏らした。

「そうだ」

 〝そうだ〟……肯定の。断定の言葉。

「……贖罪、なんて殊勝なものじゃない。俺はただ……自分を守ってただけだ」

 ――気が付いてしまった。

他者ヒトの想いを利用して、自分に罰を与える事で、罪悪感を和らげようとしてた。それが、相手を傷付ける行為でもあると……知っていて」

 心の伴わない身体だけの接触が、どれだけ辛い事か。――身をもって知っていた筈なのに。

「朱華ちゃんの事も、そうだ。俺はただ、怖かったんだ」

 先程、感じた――恐怖。
 目を閉じ、横たわる朱華の姿を見て……鮮明に呼び起こされた、〝あの時〟の記憶。
 このままもう二度と。目を覚まさないかもしれない。〝あの時〟の……彼女紫穂のように。

「君を……大切な人を、また失ってしまうんじゃないかって」

 ――怖かった。
 さっきだけじゃない。こないだの廃倉庫でも、同じ事を感じた。だから、怖くなって……逃げようとした。

「俺の所為で、また傷付けるかもしれない。また……同じ事になるかもしれないって、怖くて……」

 ――失うくらいなら、初めから一人の方がいい。

「それで、突き放した。……全部、ただの自己弁護だ」

「最低だね……俺」と、砂音は痛みを堪えるように顔を歪めた。それを見て、黙って彼の言葉を聞いていた朱華が、口を添える。

「ああ、最低だ」

 キッパリと斬り捨てるような言葉に、彼は瞬間、打たれたような表情カオをした。それから、そっと自嘲の笑みを口元に刷く。

「……でも。だったら、謝ればいいだろ。謝って、それこそ償って……また、やり直せばいいんだ」

 思いがけずに続けられた朱華の言葉に、砂音は今度は驚いたように、顔を上げた。
 目が合う。彼女の茶褐色の瞳は、強い意志を宿していた。
 
「人間、誰だって間違う事はあるだろ。でも、そこで止まってちゃ駄目だ。間違いのまま終わったら、苦しいだけだろ。あたしが間違えた時……音にぃは、あたしの事を見放さずに、待っていてくれた。ちゃんと、話を聞いて……理解してくれた。赦してくれた。だったら、次は、あたしの番だろ」

「あたしが音にぃの話、聞いてやる」――彼女は、胸を張って、そう言った。

「これまで辛かった事、誰にも話せなかった事……どんな些細な事でもいい。悪い事をしてたら、叱ってやる。また間違えそうだったら、全力で引き戻してやるから。……だから、全部一人で背負おうとするな。分けて欲しい。悲しい事も、苦しい事も……楽しい事だって。これから全部、一緒に分け合おう」

「あたしは、音にぃが好きだ」――何度だって、言ってやる。

「だから、音にぃが辛そうだと、放っておけない。……好きな人には、笑顔で……幸せでいて欲しい。そういうもんだろ?」

 ハッとした。砂音の脳裏に浮かんだのは、紫穂の横顔――いつも悲しげに逸らされた、憂いを帯びたあの横顔だった。
 笑って欲しいと……幸せにしたいと。そう願った、かつての自分の想い。
 それを悟ったように、朱華が口調を和らげる。

「そのピアスの人だって……そうだった筈だ。音にぃの事、全く何とも想ってなかった訳がないだろ。なのに、音にぃがいつまでもそうやって自分を責めてたら、その人だって苦しいだろう。……もう、解放してやっても、いいんじゃないか?」

 ――その人も。……自分自身も。

「幸せになる事を、諦めるな」

 ゆっくりと、砂音は視線を落とした。逸らしたのとは違う。何か自分の内なるものに目を向けようとするかのように。何処か遠くを見るように――。

「俺は……」

 もうとっくに、分かっていた筈の事だった。
 手紙に書いてあった。彼女紫穂からの、最後の言葉――。

 ――『どうか私を忘れて。幸せになって欲しい』

 幸せに――。

 それは、彼女の最後の願いだった。
 視界がぼやける。世界が揺れる。

 ――ああ、そうか。彼女が……笑ってくれなかったのは……。

 震える唇から、か細く……それでも、確かに。砂音は、小さく紡いだ。

「しあわせに……なっても、いいのかな?」

 たどたどしく。不安そうに。怯えながら、赦しを乞うように。
 そんな彼に、朱華は――。

「当たり前だろ! なれよ! ていうか、してやるよ!」

 力強く、肯定してみせた。
 眩い――太陽のように、強い輝きで。朱華彼女が笑う。
 閉ざした扉をこじ開け、真っ暗な闇を押し退けて。強烈に射し込む、光。
 ふと、遠い日の記憶が過ぎった。夜祭の屋台。一匹の亀をい上げて、こちらに差し出してくる、幼い頃の朱華。
 目の前の現実と、記憶の中のその光景が重なっていくのを、砂音は目を丸くして見詰めていた。

「……何だかそれ、プロポーズみたいだね」

 思わず感想を零すと、改めて自分の放った言の葉の意味を自覚したらしい朱華が、ハッとなって見る見る顔を赤らめていく。

「違っ、いや、あの……っ違くないけど! これは、その……!」

 さっきまでの堂々とした態度とは打って変わって可愛らしい表情を見せる朱華の反応に、砂音はついつい微笑ましくなって、頬を緩めてしまった。

「……やっぱり、朱華ちゃんは……俺のヒーローだね」

 そう言って、笑って――ふと、己の左耳に手を遣る。そこには、こつりと硬い、小さな紫水晶アメジストのピアスの感触がある。

「……ごめん」

 呟いた。
 もう、届かないかもしれない。――それでも。

「ごめん、俺……っ」

 ――縛り付けて、離さずにいたのは、俺の方だ。
 苦しかったろう。辛かったろう。もう……楽になって、いいから。

 ――紫穂。


 君を、愛していた。


 最後にそれだけ告げると、砂音の瞳からは雫が溢れ出した。ずっと、溜め込んで来た哀しみを拭うように。止めどなく、次々と。
 声にならない声を上げて、彼は泣き崩れた。

 擦り切れそうな彼の声。針が刺すような心の痛み。伝わってくるそれらを、全て受け容れて、癒すように。砂音の背に、そっと手を添えて。朱華は寄り添った。
 声を掛けるでなく、ただ静かに、穏やかに。見守る。

 もう、泣いてもいいだろう。もう、我慢しなくていいのだ。砂時計は、もう落ちた。――時は経ったのだから。
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