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第五章 罪過
5-7 水面に浮かぶ泡沫
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「お前、何かあっただろ」
唐突な千真の糾弾に、砂音は箸で唐揚げを摘み上げた格好のまま、瞬間動きを止めた。昼休み。いつもの食堂での事だった。
「……確定形なんだね」
以前に似たやり取りをした記憶が去来し、その時との差異に指摘を飛ばす。返答を誤魔化すような砂音のそんな態度に、千真は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「見てりゃ分かる」
「俺、最近あんまりドジしてなかったと思うんだけど」
「ドジはな。でも、色々おかしい。最近、付き合い悪くなった」
すっぱりと言い切る友の主張を、吟味するように殺那黙した後、砂音は唐揚げを口に放り込んだ。それから、ゆっくり咀嚼して呑み込んで、言葉を返す。
「引越したから、荷物の整理で忙しかっただけだよ」
「その引越しってのも引っ掛かる。急過ぎるし、当日手伝いも頼まれなかった」
「引越しは元々考えてたよ。学校やバイト先に近い方が良いだろうなって。だから、お金貯めてた訳だし。休日に呼び出して手伝って貰うのも申し訳ないと思っただけで」
「黒髪セミロングの女」
ぴたりと、再び砂音の手が止まる。千真は、そのまま逃がさぬ構えで追撃を繰り出した。
「お前が街で一緒に居るのを見掛けたって、クラスの奴らが言ってたぞ。お前との関係性を尋ねられたから、適当にお前の親戚だっつっといたが」
一呼吸置いて、砂音の方に軽く身を乗り出し、そのヘーゼルの瞳を覗き込む。
「……例の女じゃないのか?」
砂音は答えなかった。けれど、その無言こそが肯定だと、千真は一層の確信を得る。
「お前の物想いっぷりも、前みたいにふわふわ夢見心地に浮いてる感じじゃなくて、底の方にどっぷり沈んで溺れてる感じっつうか……。だから、俺はてっきりお前が振られたんだろうなと思って、聞かずにいたんだが」
見詰める瞳には、動揺の色は映らなかった。不思議と凪いで静謐な空気すら纏う彼の様子に、千真の方が焦燥を抱く。
「そうじゃねえな? お前……その女と、付き合ってんだろ」
ヘーゼルの瞳は揺らがない。
「何で何も言わないんだ? 何かあったら相談に乗るっつったのに。もし、本当に意中の奴と交際する事になったってんなら、めでたい事だ。……なのに何で、今のお前はちっとも幸せそうじゃないんだ?」
「……」
「――言えないような事でも、してんじゃねえのか?」
突き付けるように問い質すと、砂音は沈黙を返した。こちらを真っ直ぐに見据えたまま、逸らす事は無い。それが、そのまま答えだった。
「マジかよ……」
思わず、顔を覆って嘆息する。ここでようやく、砂音が口を開いた。
「……振られたよ。でも、付き合ってる」
「は?」
突拍子も無い告白に千真が素っ頓狂な声を上げると、砂音はヘーゼルの瞳を伏せて、零すように言った。
「俺、彼女の好きな人に似てるんだ。だから、彼女の好きな人の代わりをしてる。……本当の恋人じゃ、ない」
絶句した。砂音の放った言葉の意味が、すぐには理解出来ずに。千真は暫時彫像のように固まり、友の長い睫毛を見詰めていた。
「お前、それは」
「ごめん……。本当は、千真には話すべきだったんだけど……言ったら、別れろって言われると思ったから」
「当然だろ!」
つい大きな声を出してしまうと、一斉に周囲の視線がこちらに注がれた。はっとしてボリュームを絞りつつ、強い語調は保ったまま、続ける。
「馬鹿か、お前! そんなの、体良く利用されてるだけだ!」
「違うよ。俺がそう望んだんだ。彼女の罪悪感に付け込んで、縛り付けて……無理に繋ぎ止めた」
――こんなの、脅迫と変わらない。
悪いのは、俺だ。
「それでも、傍に居たかったから」
強い意志を以てそう言われてしまうと、千真は返す言葉を失った。
「……っ」
友の愚行を止めたいと思うのに、説得の口上が見付からない。歯がゆさに顔を顰めていると、砂音がぽつりと独り言ちるように呟いた。
「……俺、そんな風に見えるんだね」
何の事だか分からずに千真が訝しげに砂音の方を見遣ると、彼は此処ではなく自身の内側を見つめるような遠い目をして、微かな苦笑を浮かべていた。
「それはいけないね。……だから、あの女も笑ってくれないんだ」
苦い、自嘲の笑み。
――『何で、ちっとも幸せそうじゃないんだ?』
友から齎されたその言葉は、思いの外砂音の心を深く貫いていた。
彼女を幸せにしたいと思ったのに。彼女に笑っていて欲しいと願ったのに。……最近、彼女が笑顔を見せる事はあまりなくなっていた。当初に見せてくれていた、愛想笑いなどではない心からの無邪気な笑みだ。
そうした手放しの笑顔が消えた代わりに、見慣れた悲哀の色が日に日に濃くなっていた。その事を案じ、焦る余りに、自身も知らず切羽詰まった表情になってしまっていたらしい。――それでは、彼女の笑みが戻る訳が無い。
内省し、思案する友の姿に、千真は何処か草臥れたように溜息を吐いた。
「……別れろって言っても、聞く耳は持たないんだな?」
呆れと諦めを滲ませながら、確認するように問い掛ける。砂音がどう答えるかなど、彼にはもう分かりきっているようだった。
「うん。ごめんね」
その応えは、案の定、頑固なもので。千真は今一度顔を顰めると、小さく舌打ちを飛ばす事しか出来なかった。――今思えば、何としてもこの時止めておくべきだったと、後になって悔やむ事になるが。そんなのはもう、後の祭りだ。後悔とは、いつだって事が過ぎ去った後にしか出来ないものなのだから。
◆◇◆
紫穂と同じマンションに引っ越してから、もうじき一年が経つ。千真に言ったように、元々一人暮らしを念頭に置いていた砂音の行動は迅速だった。我ながら気持ち悪いとも思ったが、出来るだけ彼女の近くに居たかったし、紫穂自身もそれを是とした。
自分達の関係は、過ちだ。互いにそれを分かっていて、それでも二人で必死に幸せの形を探した。
普通の恋人と同じように。手を繋いで、二人で小さな旅をした。景色を、想いを共有した。
夏には花火を観た。海にも行った。浴衣に水着。色んな姿の彼女を記憶に焼き付けた。秋には紅葉を愛で、寒い冬には寄り添って歩いた。そうやって、穏やかな時を過ごした。――いつしかそれが、互いにとって掛け替えのない大切な真実になる事を願って。
けれど、重ねていく時の重さは、彼女にとっては緩やかな責め苦だったのに違いない。それが、幸福であればある程に。
二人が出逢った季節が巡る頃。――彼女の表情からは、無邪気な笑みが消えた。
四年生になり、就職活動が本格的になった紫穂は、次第に忙しさに呑まれていった。砂音の引っ越し当初は毎日のように互いの部屋を行き来していたものだが、彼女の邪魔をしないよう、その間隔は徐々に開いていった。三日に一日、五日に一日……今では週に一日逢えれば良い方だった。
紫穂の内定はなかなか決まらなかった。夏が過ぎ、周囲の人々の進路がどんどん確定していく中、彼女は取り残されたまま――秋が訪れようとしていた。
この頃の紫穂は精神的に不安定になっており、心配して砂音が出来るだけ傍に居ようとするものの、彼女自身がそれを拒んだ。忙しいから。疲れているから。出来れば一人にさせて欲しい。……そうして、彼を遠ざけるようになっていた。
それでも、週に一日、土曜日の夜には交代で互いの部屋を訪れるようにしようと決めた。何をするでもない。ただ、顔を見るだけでも良い。それすらも、彼女の調子次第では流れる事もあったが。
その約束の日。今日は砂音が訪ねる番だったので、バイト後真っ直ぐに紫穂の部屋へと向かった。一応事前に連絡はしておいたので、彼女が部屋に居る事は分かっていたし合鍵も持っていたが。念の為呼び鈴を鳴らす。
「はいは~い! ど~ぞぉ!」
途端に、やけに陽気な彼女の声が応答した。おや? と思った。これは、相当に酔っている時の声のテンションだ。合鍵を使うまでも無く、ドアは向こうから開いた。ふわっと、酒気の香りが鼻腔を擽る。案の定、紫穂の顔は上気して真っ赤だった。
「いらっしゃ~い! 砂音くぅん!」
「紫穂、また飲んだの? 飲み過ぎは身体に良くないよ」
「らいじょーぶ! わらしはまだ若いんらからっ!」
あまり大丈夫では無さそうだ。
試験に落ちたり、嫌な事があると、どうも紫穂はアルコールに逃げる癖が付いてしまったようだった。少量ですぐに酔いが回るので、量自体は然程摂取してはいないようなのだが。この調子ではいつか中毒を起こしてしまうのではないかと、砂音は気懸りだった。
今日は一体、何があったのだろう。そう考えていると、ひしっと腕にしがみついてきた紫穂に、そのまま室内まで連行される。
「砂音、ご飯まだでしょぉ!? 一緒に飲むぅ!?」
「いや、俺はまだ未成年だから……」
「わ~かってますぅ! 砂音のケ~チ~!」
この紫穂にも大分慣れてはきたものの、砂音は何とも言えない気分でやれやれと小さく吐息を漏らした。彼女はリビングではなく、寝室の方で酒盛りをしていたようだ。常ならばまずリビングで一緒に夕飯を摂る事が多いのだが、この日はいきなり寝室の方に通された。
彼女の生活空間は、相変わらずというか。この頃は前にも増して荒廃ぶりを見せていた。堆く積み上げられて、崩れるに任せたままの書類の海。纏めたはいいが出しに行く暇がないのだろうか、端の方に一塊に追いやられたゴミ袋の山。チラリと飛び出したそれらの中身は、コンビニ弁当の空容器ばかりで。おまけに、匂いを誤魔化す為か、ラベンダーの香水が強く振り撒かれている。
徐々に進んでいく部屋の荒み具合が、彼女の精神状態を表しているように思えて、砂音はひっそりと胸を痛めた。
床に座れる場所がない為に、必然的に二人並んでベッドに腰掛ける形になる。その手前に無理やり配置されたテーブルの上に、瓶とグラスが乗っていた。桃や葡萄やオレンジの絵の描かれたフルーツ系統のお酒のようで、ぱっと見ジュースと間違えそうだ。けれど、これは確かにアルコールであり、彼女の脳を少しずつ溶かしていく恐ろしい水なのだ。
複雑な気分でそれらに視線を送っていると、傍に落ちていた一枚のはがきが目に入った。
それは、新生児誕生の報告のようで……。はっとした。赤ん坊の写真が大きく載った下に、その子を抱いた母親と思しき女性と、隣にもう一人。写っている男性の面差しが、何処となく自分と似ている気がした。
もしや、と思った。これが、紫穂の――。
「産まれたんだって、赤ちゃん」
砂音の視線の先にあるものが何か、彼女も気が付いたようだった。
「女の子だってさ。可愛いよね」
へらっと明るく笑う紫穂の笑顔は、無理をしているのが丸分かりで。酷く痛ましかった。「いいなぁ」と、焦点の定まらない瞳で、彼女は零す。――これだ。これが、本日の彼女の飲酒の原因だ。
そう悟った直後。不意に砂音の視界が大きく反転した。何が起きたのか咄嗟に理解が置いてけぼりになっていると、紫穂の顔が上からこちらを覗いた。数瞬遅れて、彼女に押し倒されたのだと察する。
紫穂は何処か切羽詰まったような様子で。刹那的な笑みを口元に刷いて、砂音に告げた。
「……ねぇ、私達も、作っちゃおっか。子供。ゴム無しでシてさ……」
彼女らしからぬ発言に、目を剥いた。アルコールの臭いが、一層鼻を衝く。紫穂が身を寄せてきたのだ。砂音は慌てて彼女の肩を掴んで、押し留めた。
「待って。……駄目だよ。君は今、正常な判断が出来てない」
酒に酔った勢いで。……嫌な事があった反動で。自暴自棄になった状態のまま、そんな重大な結論を下してはいけない。そう忠告する砂音の言に、しかし紫穂は不服そうに顔を歪めた。
「何で……何で止めるの? あの時は、OKしてくれたじゃない」
息を呑んだ。紫穂の黒い瞳は、彼女の傷付いた心を映して、光を失っている。その深い洞の中から闇を吐き出すように、彼女は漏らした。
「やっぱり、砂音も私なんか要らないんだ」
暗い本音。心に巣食う不安。――誰も。誰も、私なんか要らないんだ。
何処に行っても、何社受けても。内定が貰えない。みんな私なんか要らないんだって。拒絶される。突き返される。
兄さんも……砂音だって。
「紫穂」
そうじゃない、と砂音が宥めようとするが、「だったら!」と不意に紫穂の荒らげた声に遮られた。
「だったら、最初っから! あの時も、こうして止めてくれてたら良かったじゃない! そうしたらっ!」
――そうしたら。
〝こんな事にはならずに済んだのに〟……?
激情のままに叩き付けてから、己の放った言葉の残酷さに気が付いて、紫穂は声を失った。大きく見開いた黒瞳に映るヘーゼルの瞳の主も、同じような表情を浮かべていた。交錯する瞳。それぞれに驚愕を示したそこへ、次第に絶望の色が蝕むのを見て取ると、彼女は両手で己の頭を抱え込んだ。
「……ごめんなさい」
ごめんなさい。ごめんなさい。
「私、私……っ!」
言ってはいけない事を言った。それだけは、絶対に。
共犯関係の片方だけに、罪を擦り付けて、責め立てるような。自分達がこれまでに一年掛けて築き上げてきた絆を全て否定して、根本から打ち壊すような――最低の、禁句。
「ごめんなさいっ!!」
最後に喉奥から絞り出すように謝罪の言葉を叫ぶと、紫穂はその場で泣き崩れた。大声で、なりふり構わず。壊れた赤子人形の如く泣き喚く彼女の下で、砂音は暫し身動きをするのも忘れていた。
突然の雨に見舞われたみたいに、頬に冷たい雫が降り注ぐ。それは、彼女の涙だった。見開いたままのヘーゼルの瞳に、狂気に塗り潰されていく彼女の姿が映っている。「大丈夫だよ」そう言って抱き締めてあげたいのに。何故か言葉が出て来ない。意思と切り離されたようにして、砂音の身はただ、無力にその場に横たわっていた。
唐突な千真の糾弾に、砂音は箸で唐揚げを摘み上げた格好のまま、瞬間動きを止めた。昼休み。いつもの食堂での事だった。
「……確定形なんだね」
以前に似たやり取りをした記憶が去来し、その時との差異に指摘を飛ばす。返答を誤魔化すような砂音のそんな態度に、千真は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「見てりゃ分かる」
「俺、最近あんまりドジしてなかったと思うんだけど」
「ドジはな。でも、色々おかしい。最近、付き合い悪くなった」
すっぱりと言い切る友の主張を、吟味するように殺那黙した後、砂音は唐揚げを口に放り込んだ。それから、ゆっくり咀嚼して呑み込んで、言葉を返す。
「引越したから、荷物の整理で忙しかっただけだよ」
「その引越しってのも引っ掛かる。急過ぎるし、当日手伝いも頼まれなかった」
「引越しは元々考えてたよ。学校やバイト先に近い方が良いだろうなって。だから、お金貯めてた訳だし。休日に呼び出して手伝って貰うのも申し訳ないと思っただけで」
「黒髪セミロングの女」
ぴたりと、再び砂音の手が止まる。千真は、そのまま逃がさぬ構えで追撃を繰り出した。
「お前が街で一緒に居るのを見掛けたって、クラスの奴らが言ってたぞ。お前との関係性を尋ねられたから、適当にお前の親戚だっつっといたが」
一呼吸置いて、砂音の方に軽く身を乗り出し、そのヘーゼルの瞳を覗き込む。
「……例の女じゃないのか?」
砂音は答えなかった。けれど、その無言こそが肯定だと、千真は一層の確信を得る。
「お前の物想いっぷりも、前みたいにふわふわ夢見心地に浮いてる感じじゃなくて、底の方にどっぷり沈んで溺れてる感じっつうか……。だから、俺はてっきりお前が振られたんだろうなと思って、聞かずにいたんだが」
見詰める瞳には、動揺の色は映らなかった。不思議と凪いで静謐な空気すら纏う彼の様子に、千真の方が焦燥を抱く。
「そうじゃねえな? お前……その女と、付き合ってんだろ」
ヘーゼルの瞳は揺らがない。
「何で何も言わないんだ? 何かあったら相談に乗るっつったのに。もし、本当に意中の奴と交際する事になったってんなら、めでたい事だ。……なのに何で、今のお前はちっとも幸せそうじゃないんだ?」
「……」
「――言えないような事でも、してんじゃねえのか?」
突き付けるように問い質すと、砂音は沈黙を返した。こちらを真っ直ぐに見据えたまま、逸らす事は無い。それが、そのまま答えだった。
「マジかよ……」
思わず、顔を覆って嘆息する。ここでようやく、砂音が口を開いた。
「……振られたよ。でも、付き合ってる」
「は?」
突拍子も無い告白に千真が素っ頓狂な声を上げると、砂音はヘーゼルの瞳を伏せて、零すように言った。
「俺、彼女の好きな人に似てるんだ。だから、彼女の好きな人の代わりをしてる。……本当の恋人じゃ、ない」
絶句した。砂音の放った言葉の意味が、すぐには理解出来ずに。千真は暫時彫像のように固まり、友の長い睫毛を見詰めていた。
「お前、それは」
「ごめん……。本当は、千真には話すべきだったんだけど……言ったら、別れろって言われると思ったから」
「当然だろ!」
つい大きな声を出してしまうと、一斉に周囲の視線がこちらに注がれた。はっとしてボリュームを絞りつつ、強い語調は保ったまま、続ける。
「馬鹿か、お前! そんなの、体良く利用されてるだけだ!」
「違うよ。俺がそう望んだんだ。彼女の罪悪感に付け込んで、縛り付けて……無理に繋ぎ止めた」
――こんなの、脅迫と変わらない。
悪いのは、俺だ。
「それでも、傍に居たかったから」
強い意志を以てそう言われてしまうと、千真は返す言葉を失った。
「……っ」
友の愚行を止めたいと思うのに、説得の口上が見付からない。歯がゆさに顔を顰めていると、砂音がぽつりと独り言ちるように呟いた。
「……俺、そんな風に見えるんだね」
何の事だか分からずに千真が訝しげに砂音の方を見遣ると、彼は此処ではなく自身の内側を見つめるような遠い目をして、微かな苦笑を浮かべていた。
「それはいけないね。……だから、あの女も笑ってくれないんだ」
苦い、自嘲の笑み。
――『何で、ちっとも幸せそうじゃないんだ?』
友から齎されたその言葉は、思いの外砂音の心を深く貫いていた。
彼女を幸せにしたいと思ったのに。彼女に笑っていて欲しいと願ったのに。……最近、彼女が笑顔を見せる事はあまりなくなっていた。当初に見せてくれていた、愛想笑いなどではない心からの無邪気な笑みだ。
そうした手放しの笑顔が消えた代わりに、見慣れた悲哀の色が日に日に濃くなっていた。その事を案じ、焦る余りに、自身も知らず切羽詰まった表情になってしまっていたらしい。――それでは、彼女の笑みが戻る訳が無い。
内省し、思案する友の姿に、千真は何処か草臥れたように溜息を吐いた。
「……別れろって言っても、聞く耳は持たないんだな?」
呆れと諦めを滲ませながら、確認するように問い掛ける。砂音がどう答えるかなど、彼にはもう分かりきっているようだった。
「うん。ごめんね」
その応えは、案の定、頑固なもので。千真は今一度顔を顰めると、小さく舌打ちを飛ばす事しか出来なかった。――今思えば、何としてもこの時止めておくべきだったと、後になって悔やむ事になるが。そんなのはもう、後の祭りだ。後悔とは、いつだって事が過ぎ去った後にしか出来ないものなのだから。
◆◇◆
紫穂と同じマンションに引っ越してから、もうじき一年が経つ。千真に言ったように、元々一人暮らしを念頭に置いていた砂音の行動は迅速だった。我ながら気持ち悪いとも思ったが、出来るだけ彼女の近くに居たかったし、紫穂自身もそれを是とした。
自分達の関係は、過ちだ。互いにそれを分かっていて、それでも二人で必死に幸せの形を探した。
普通の恋人と同じように。手を繋いで、二人で小さな旅をした。景色を、想いを共有した。
夏には花火を観た。海にも行った。浴衣に水着。色んな姿の彼女を記憶に焼き付けた。秋には紅葉を愛で、寒い冬には寄り添って歩いた。そうやって、穏やかな時を過ごした。――いつしかそれが、互いにとって掛け替えのない大切な真実になる事を願って。
けれど、重ねていく時の重さは、彼女にとっては緩やかな責め苦だったのに違いない。それが、幸福であればある程に。
二人が出逢った季節が巡る頃。――彼女の表情からは、無邪気な笑みが消えた。
四年生になり、就職活動が本格的になった紫穂は、次第に忙しさに呑まれていった。砂音の引っ越し当初は毎日のように互いの部屋を行き来していたものだが、彼女の邪魔をしないよう、その間隔は徐々に開いていった。三日に一日、五日に一日……今では週に一日逢えれば良い方だった。
紫穂の内定はなかなか決まらなかった。夏が過ぎ、周囲の人々の進路がどんどん確定していく中、彼女は取り残されたまま――秋が訪れようとしていた。
この頃の紫穂は精神的に不安定になっており、心配して砂音が出来るだけ傍に居ようとするものの、彼女自身がそれを拒んだ。忙しいから。疲れているから。出来れば一人にさせて欲しい。……そうして、彼を遠ざけるようになっていた。
それでも、週に一日、土曜日の夜には交代で互いの部屋を訪れるようにしようと決めた。何をするでもない。ただ、顔を見るだけでも良い。それすらも、彼女の調子次第では流れる事もあったが。
その約束の日。今日は砂音が訪ねる番だったので、バイト後真っ直ぐに紫穂の部屋へと向かった。一応事前に連絡はしておいたので、彼女が部屋に居る事は分かっていたし合鍵も持っていたが。念の為呼び鈴を鳴らす。
「はいは~い! ど~ぞぉ!」
途端に、やけに陽気な彼女の声が応答した。おや? と思った。これは、相当に酔っている時の声のテンションだ。合鍵を使うまでも無く、ドアは向こうから開いた。ふわっと、酒気の香りが鼻腔を擽る。案の定、紫穂の顔は上気して真っ赤だった。
「いらっしゃ~い! 砂音くぅん!」
「紫穂、また飲んだの? 飲み過ぎは身体に良くないよ」
「らいじょーぶ! わらしはまだ若いんらからっ!」
あまり大丈夫では無さそうだ。
試験に落ちたり、嫌な事があると、どうも紫穂はアルコールに逃げる癖が付いてしまったようだった。少量ですぐに酔いが回るので、量自体は然程摂取してはいないようなのだが。この調子ではいつか中毒を起こしてしまうのではないかと、砂音は気懸りだった。
今日は一体、何があったのだろう。そう考えていると、ひしっと腕にしがみついてきた紫穂に、そのまま室内まで連行される。
「砂音、ご飯まだでしょぉ!? 一緒に飲むぅ!?」
「いや、俺はまだ未成年だから……」
「わ~かってますぅ! 砂音のケ~チ~!」
この紫穂にも大分慣れてはきたものの、砂音は何とも言えない気分でやれやれと小さく吐息を漏らした。彼女はリビングではなく、寝室の方で酒盛りをしていたようだ。常ならばまずリビングで一緒に夕飯を摂る事が多いのだが、この日はいきなり寝室の方に通された。
彼女の生活空間は、相変わらずというか。この頃は前にも増して荒廃ぶりを見せていた。堆く積み上げられて、崩れるに任せたままの書類の海。纏めたはいいが出しに行く暇がないのだろうか、端の方に一塊に追いやられたゴミ袋の山。チラリと飛び出したそれらの中身は、コンビニ弁当の空容器ばかりで。おまけに、匂いを誤魔化す為か、ラベンダーの香水が強く振り撒かれている。
徐々に進んでいく部屋の荒み具合が、彼女の精神状態を表しているように思えて、砂音はひっそりと胸を痛めた。
床に座れる場所がない為に、必然的に二人並んでベッドに腰掛ける形になる。その手前に無理やり配置されたテーブルの上に、瓶とグラスが乗っていた。桃や葡萄やオレンジの絵の描かれたフルーツ系統のお酒のようで、ぱっと見ジュースと間違えそうだ。けれど、これは確かにアルコールであり、彼女の脳を少しずつ溶かしていく恐ろしい水なのだ。
複雑な気分でそれらに視線を送っていると、傍に落ちていた一枚のはがきが目に入った。
それは、新生児誕生の報告のようで……。はっとした。赤ん坊の写真が大きく載った下に、その子を抱いた母親と思しき女性と、隣にもう一人。写っている男性の面差しが、何処となく自分と似ている気がした。
もしや、と思った。これが、紫穂の――。
「産まれたんだって、赤ちゃん」
砂音の視線の先にあるものが何か、彼女も気が付いたようだった。
「女の子だってさ。可愛いよね」
へらっと明るく笑う紫穂の笑顔は、無理をしているのが丸分かりで。酷く痛ましかった。「いいなぁ」と、焦点の定まらない瞳で、彼女は零す。――これだ。これが、本日の彼女の飲酒の原因だ。
そう悟った直後。不意に砂音の視界が大きく反転した。何が起きたのか咄嗟に理解が置いてけぼりになっていると、紫穂の顔が上からこちらを覗いた。数瞬遅れて、彼女に押し倒されたのだと察する。
紫穂は何処か切羽詰まったような様子で。刹那的な笑みを口元に刷いて、砂音に告げた。
「……ねぇ、私達も、作っちゃおっか。子供。ゴム無しでシてさ……」
彼女らしからぬ発言に、目を剥いた。アルコールの臭いが、一層鼻を衝く。紫穂が身を寄せてきたのだ。砂音は慌てて彼女の肩を掴んで、押し留めた。
「待って。……駄目だよ。君は今、正常な判断が出来てない」
酒に酔った勢いで。……嫌な事があった反動で。自暴自棄になった状態のまま、そんな重大な結論を下してはいけない。そう忠告する砂音の言に、しかし紫穂は不服そうに顔を歪めた。
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息を呑んだ。紫穂の黒い瞳は、彼女の傷付いた心を映して、光を失っている。その深い洞の中から闇を吐き出すように、彼女は漏らした。
「やっぱり、砂音も私なんか要らないんだ」
暗い本音。心に巣食う不安。――誰も。誰も、私なんか要らないんだ。
何処に行っても、何社受けても。内定が貰えない。みんな私なんか要らないんだって。拒絶される。突き返される。
兄さんも……砂音だって。
「紫穂」
そうじゃない、と砂音が宥めようとするが、「だったら!」と不意に紫穂の荒らげた声に遮られた。
「だったら、最初っから! あの時も、こうして止めてくれてたら良かったじゃない! そうしたらっ!」
――そうしたら。
〝こんな事にはならずに済んだのに〟……?
激情のままに叩き付けてから、己の放った言葉の残酷さに気が付いて、紫穂は声を失った。大きく見開いた黒瞳に映るヘーゼルの瞳の主も、同じような表情を浮かべていた。交錯する瞳。それぞれに驚愕を示したそこへ、次第に絶望の色が蝕むのを見て取ると、彼女は両手で己の頭を抱え込んだ。
「……ごめんなさい」
ごめんなさい。ごめんなさい。
「私、私……っ!」
言ってはいけない事を言った。それだけは、絶対に。
共犯関係の片方だけに、罪を擦り付けて、責め立てるような。自分達がこれまでに一年掛けて築き上げてきた絆を全て否定して、根本から打ち壊すような――最低の、禁句。
「ごめんなさいっ!!」
最後に喉奥から絞り出すように謝罪の言葉を叫ぶと、紫穂はその場で泣き崩れた。大声で、なりふり構わず。壊れた赤子人形の如く泣き喚く彼女の下で、砂音は暫し身動きをするのも忘れていた。
突然の雨に見舞われたみたいに、頬に冷たい雫が降り注ぐ。それは、彼女の涙だった。見開いたままのヘーゼルの瞳に、狂気に塗り潰されていく彼女の姿が映っている。「大丈夫だよ」そう言って抱き締めてあげたいのに。何故か言葉が出て来ない。意思と切り離されたようにして、砂音の身はただ、無力にその場に横たわっていた。
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