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第四章 朱い傷痕
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腹に拳がめり込むと圧迫された内腑が悲鳴を上げ、朱華の口からはその残滓のような呻き声が漏れた。
両脇を二人に固められ身動きを封じられた彼女は、〝山茶花〟の総長、ツバキから怒りの洗礼を受けていた。見事朱華に拳の一撃を決めた白金の少女は、しかし全く溜飲が下がった様子は無く、いっそ不機嫌を増幅させて思い切り眉を吊り上げて吐き捨てた。
「何で、何も抵抗しねーんだよっ! 舐めてんのか!? あぁっ!?」
彼女の言う通り、朱華は最初から一切の抵抗を見せていなかった。形式的に二人がかりで腕を押さえ込むようにしてはいるものの、おそらくはそれをせずとも彼女は良いようにサンドバッグにされていただろう。
先程の衝撃で咳き込んでいる朱華は、ツバキの問いにすぐに答える事は出来ず、心中でだけその理由を述べていた。
――当たり前だろ。こちとら、もう〝普通の女子高生〟なんだよ。
不良チームと喧嘩沙汰の問題など起こしては、転校早々退学になりかねない。彼女としては、出来るだけ穏便に過ごしたいのだ。こちらが一切手を出さなければ少なくとも加害者になる事はないし、この仕儀も早めに終わるのではないか、と思った。
それに、単純に身体が怠い、重い。目の前も相変わらず霞が掛かったようだし、いよいよもって発熱の症状が進んでいるのかもしれない。
こりゃ参ったな。――ああ、そうだ、バイト。これじゃあ完全に間に合わない。せめてバイト先に連絡だけでも入れさせて貰えないかな。
バグを起こした脳内で、朱華がいっそ冷静にそんな事を考えていると、ツバキは憎々しげに続けた。
「てめぇはいつだってそうだったよなぁ。こっちが本気なのに、馬鹿にするみてーにするするシカトぶっこいて。ウチらじゃ相手にならねーとでも思ってんだろ? ざけやがって! かかって来いや!」
こんな集団で周到に捕らまえておいてのその文言があまりに可笑しかったので、朱華は思わずツッコんでしまった。
「あたしがやり返したら、また前の二の舞だろうがよ」
余計な一言、火に油。ツバキの般若面は見る見る真っ赤に染まっていく。
「だったら、やってみろよ!」
今度は足が飛んできて、大腿の辺りを鋭く抉った。スカートから覗く生脚では防御力が低く、すぐに赤い痣が浮かび上がる。身体が傾ぎそうになるのを、皮肉にも両脇の二人に支えられた。
「っ……結局、何なんだよ。どうすりゃ満足すんだよ。構って欲しかったのか? 生憎、あたしはもうケンカはしねーんだよ」
じんじんとした疼痛に顔を顰めつつ、朱華は疲労にまみれた溜息を吐いた。それですら、ツバキには煽りのように聞こえたらしい。彼女の怒りのボルテージは上がる一方だ。
「そうやって、パンピー気取ってるつもりか? 今更遅ぇんだよ! てめぇのした事は消えやしねーんだ。一生フツーになんかなれやしねーんだよ!」
不意に叩き付けられたように、その言葉は胸にストンと落ちてきた。
犯した罪は、永遠に消える事はない。
――ああ、そうだな。これはきっと、あたしへの報いなんだろう。
好き勝手に荒れて暴れたあの頃のツケだ。それは一生掛かっても払い切れない、下ろせない十字架だ。
それだったら、甘んじて受け入れよう。
再び黙り込んだ朱華を見て、ツバキは気に入らなげに舌打ちをかました。それから、周囲の仲間に目配せをして、頷いた部下からある物を受け取る。
それは、角張った木の棒――一般的に角材と呼ばれる代物だった。薄暗い倉庫内でもハッキリとその存在を捉える事が出来たのは、いつの間にか点灯されていたランタンの灯りか、はたまた天井から差し込む月の光が思いの外眩しいからだろう。
冴え冴えと銀の光を送り込む夜の支配者は、満を持して丸々と肥えている。――今夜は満月だ。
「いいぜ? だったら、てめぇがいつまで我慢出来るのか、試してやるよ」
不穏な宣言と共に、ツバキは凶器を持つ腕を振り上げた。
「――朱華ちゃん!!」
その動きを止めたのは、突如割り込んできた場違いな第三者の声だった。
それは、この場に居る筈の無い、青年の。
「……音にぃ?」
開かれた倉庫の扉の向こう、切羽詰まった表情の砂音の姿があった。外の見張りと思われる〝山茶花〟のメンバー二人が、彼の乱入を許してしまった事に泡を食っている様まで窺える。
「……何だ、てめぇ」
面食らって困惑の声で誰何した後、ツバキは思い出したように見張りの二人を叱り付けた。
「おい、見張り! 何関係ねー奴入れてんだよ!!」
「す、すみませんツバキさん! 何か、押し切られて!」
「か、顔がっ! 顔面偏差値やべーんスよ! この顔で詰め寄られたら無理っス!!」
「意味わかんねー事言ってんじゃねえ!!」
周囲で交わされるそれらのやり取りは全く意に介さず、砂音はスタスタと内部に足を踏み入れる。そのまま、ぽかんと呆気に取られた様子の朱華の元へと向かおうとし……。
「おっと、止まれ。それ以上近付いたら分かってんだろうな? てめぇは何者だ? こいつのカレシか?」
手にした角材を見せ付けながらツバキが制止すると、砂音は寸前で立ち止まり、彼女の方に顔を向けた。一寸も怯えを含まない真っ直ぐな瞳に見据えられると、ツバキは少々たじろいだようだった。それを悟られたくない故だろう、次には冷やかすような笑みを貼り付けて言った。
「ふぅん、本当にイケメンじゃん。こんな女なんかやめて、ウチらと遊ばねー? 可愛がってやるよ」
「それ、男のセリフっスよ、ツバキさん!」
倉庫内は俄に活気づいた。当然ジョークのつもりで放った言葉だったのだろうが、砂音はそれに対してさらりと返した。
「いいよ」
瞬間、彼が何と言ったのか理解が及ばず、その場の全員が時を止めた。事も無げに彼は続ける。
「俺はどうなっても構わない。その代わり、彼女の事は解放して欲しい」
「……正気かよ。あんた、この女の過去、ちゃんと知ってんのか?」
予想外な申し出にツバキが訝るような視線を向けるも、砂音の表情は変わらず真剣そのものだ。
やや圧倒されたように目線を逸らすと、ツバキは深く長い溜息を吐き出した。
「あーぁ……何かシラケちまった。やる気のねー無抵抗のお人形さんなんか相手にしててもつまんねーし……もう、いい」
そう言って、朱華から背を向ける。
「〝曼珠沙華〟の朱い華は散った。……行こうぜ」
慌てて異を唱えようとする部下達を制して、そのまま〝山茶花〟の総長は一度も振り返る事なく倉庫を後にした。
彼女を追いながらメンバー達の何人かがチラチラとこちらを気にする中、朱華の脇を固めていた二人の部下も自分達の頭に従った。不意に解放されて、朱華は世界がぐるりと回転したような感覚に陥った。
「朱華ちゃん!」
支えを失って倒れかけた彼女を、砂音が駆け寄って受け止める。朱華の身体は、かっかと熱を放っていた。
「音にぃ……何でここに……」
「朱華ちゃん、酷い熱……! 怪我は!?」
憔悴し切った弱々しい声音で朱華が訊ねるが、砂音は答えず、彼女をゆっくりとその場に横たわらせ、負傷具合を検め始めた。朱華の発熱の事情を知らない彼は、こんなに熱が出る程に彼女が酷い怪我を負ったのだと判断したらしい。
忘れたのか、まさか気でも効かせたのか、〝山茶花〟のメンバーが残したランタンが一つ灯されたままだったので、その灯りに注意深く目を凝らし――やがて、彼の視線は朱華の腕の一点で結ばれた。
「朱華ちゃん、血が……!」
「え? あ、ホントだ……」
言われて見れば、朱華の二の腕には引っ掻き傷のような痕があり、そこから鮮やかな朱色の液体が一筋、つぅっと垂れていた。
腕を押さえていた相手の爪でも引っ掛かったのだろう。そこまで深くもない、大したことのない傷だ。しかし砂音は、それを見ると一気に顔色を失くした。
「止血しなくちゃ……!」
血相を変えて朱華の腕を掴むと、止血帯を用意するでなく、そのまま己の指を添えて直に傷口を圧迫し出す。彼女の血液でじんわりと指先が朱く染まっていくのを目にし、砂音は頭を殴られたような目眩を覚えた。
「駄目だ……っダメだ!!」
押さえる傍から、どくどくと。大量の朱が溢れて、零れ落ちていく。
留めようとするこの手を擦り抜けて――彼女の命が流れ出ていく。止まらない。止まらない。
「だめだ、止まらない!」
むっとするような鉄錆の臭いが鼻腔に充満する。
死んでしまう。しんでしまう。このままだと彼女がしんでしまう。だめだ。
「とまれっ!!」
――何処かから、シャワーの水音が聞こえてきた。
「音にぃ!!」
遠い幻聴を掻き消したのは、朱華の鋭い呼び声だった。ハッとして、砂音が硬直する。自分の浅く荒い呼吸の音がやけに耳についた。鼓動が早鐘を打っている。首筋を冷たい汗が滑り落ちた。
朱華は静かに語り掛ける。
「音にぃ、大丈夫だ……もう、止まってる」
その言葉はすぐには浸透せず、砂音は暫し凍り付いたままでいた。それから、少しずつ氷解していくように緩慢な動作で朱華の顔を見ると、今度は再び彼女の腕へと目を落とした。
今しがたまで見えていた大量の血液は気付けば何処にも無かった。薄らと軽く朱色が付着しただけの己が指先をそっと退けると――彼女の言う通り、出血は疾うに収まっていた。
それを視認すると、ガックリと全身の力を抜いて俯き、砂音は深く息を吐いた。
「よ、良かった……ッ」
それから、思い余ったように朱華を抱き締める。急な抱擁に驚くと同時に思わずどきりとしてしまった朱華だったが、彼の腕が小刻みに震えている事に気が付くと、何も言えなくなってしまった。
――音にぃ?
様子が変だ。今の彼の反応は、尋常でなかった。発熱と出血に動転したから? 廃倉庫内で、不良集団と対峙した直後という異常な状況下に置かれていたから? ――本当に、それだけだろうか?
朱華が穏やかでない思考に沈んでいると、砂音が再びハッと気が付いたように顔を上げてこちらを窺った。
「朱華ちゃん、他に怪我はっ?」
「……たぶん、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ! それなら、何でこんなに熱いの?」
それからまたハッとして、救急車、と呟く彼に、今度は朱華が慌てる番だった。
「いい! いいって! 怪我はしてないって! これは、その……ただの、風邪だから」
今日一日折角隠し通したのに、結局己からバラす羽目になってしまった。風邪と聞くと砂音は虚を衝かれたようにまたぞろ固まった後、改めて昨日の出来事に思い至ったらしく、次第に表情に納得の色を広げていった。
「昨日の……」
「だから、本当に平気だ。音にぃが心配する事なんて、何も無いから」
ほら、と自分が元気な様を見せてやろうと砂音の腕から抜けて立ち上がろうと……した所で、ふらふら~っとすぐにまた後方に倒れかけた。
「危ない!」
すんでで、はっしと彼女を抱き留めて、砂音はむぅ、と眉間に皺を寄せて不服そうに朱華を見つめた。ヘーゼルの瞳に映る自分は、決まり悪げに苦笑しようとして――熱の猛威に負け、へにゃへにゃとした気の抜けた顔をしていた。
両脇を二人に固められ身動きを封じられた彼女は、〝山茶花〟の総長、ツバキから怒りの洗礼を受けていた。見事朱華に拳の一撃を決めた白金の少女は、しかし全く溜飲が下がった様子は無く、いっそ不機嫌を増幅させて思い切り眉を吊り上げて吐き捨てた。
「何で、何も抵抗しねーんだよっ! 舐めてんのか!? あぁっ!?」
彼女の言う通り、朱華は最初から一切の抵抗を見せていなかった。形式的に二人がかりで腕を押さえ込むようにしてはいるものの、おそらくはそれをせずとも彼女は良いようにサンドバッグにされていただろう。
先程の衝撃で咳き込んでいる朱華は、ツバキの問いにすぐに答える事は出来ず、心中でだけその理由を述べていた。
――当たり前だろ。こちとら、もう〝普通の女子高生〟なんだよ。
不良チームと喧嘩沙汰の問題など起こしては、転校早々退学になりかねない。彼女としては、出来るだけ穏便に過ごしたいのだ。こちらが一切手を出さなければ少なくとも加害者になる事はないし、この仕儀も早めに終わるのではないか、と思った。
それに、単純に身体が怠い、重い。目の前も相変わらず霞が掛かったようだし、いよいよもって発熱の症状が進んでいるのかもしれない。
こりゃ参ったな。――ああ、そうだ、バイト。これじゃあ完全に間に合わない。せめてバイト先に連絡だけでも入れさせて貰えないかな。
バグを起こした脳内で、朱華がいっそ冷静にそんな事を考えていると、ツバキは憎々しげに続けた。
「てめぇはいつだってそうだったよなぁ。こっちが本気なのに、馬鹿にするみてーにするするシカトぶっこいて。ウチらじゃ相手にならねーとでも思ってんだろ? ざけやがって! かかって来いや!」
こんな集団で周到に捕らまえておいてのその文言があまりに可笑しかったので、朱華は思わずツッコんでしまった。
「あたしがやり返したら、また前の二の舞だろうがよ」
余計な一言、火に油。ツバキの般若面は見る見る真っ赤に染まっていく。
「だったら、やってみろよ!」
今度は足が飛んできて、大腿の辺りを鋭く抉った。スカートから覗く生脚では防御力が低く、すぐに赤い痣が浮かび上がる。身体が傾ぎそうになるのを、皮肉にも両脇の二人に支えられた。
「っ……結局、何なんだよ。どうすりゃ満足すんだよ。構って欲しかったのか? 生憎、あたしはもうケンカはしねーんだよ」
じんじんとした疼痛に顔を顰めつつ、朱華は疲労にまみれた溜息を吐いた。それですら、ツバキには煽りのように聞こえたらしい。彼女の怒りのボルテージは上がる一方だ。
「そうやって、パンピー気取ってるつもりか? 今更遅ぇんだよ! てめぇのした事は消えやしねーんだ。一生フツーになんかなれやしねーんだよ!」
不意に叩き付けられたように、その言葉は胸にストンと落ちてきた。
犯した罪は、永遠に消える事はない。
――ああ、そうだな。これはきっと、あたしへの報いなんだろう。
好き勝手に荒れて暴れたあの頃のツケだ。それは一生掛かっても払い切れない、下ろせない十字架だ。
それだったら、甘んじて受け入れよう。
再び黙り込んだ朱華を見て、ツバキは気に入らなげに舌打ちをかました。それから、周囲の仲間に目配せをして、頷いた部下からある物を受け取る。
それは、角張った木の棒――一般的に角材と呼ばれる代物だった。薄暗い倉庫内でもハッキリとその存在を捉える事が出来たのは、いつの間にか点灯されていたランタンの灯りか、はたまた天井から差し込む月の光が思いの外眩しいからだろう。
冴え冴えと銀の光を送り込む夜の支配者は、満を持して丸々と肥えている。――今夜は満月だ。
「いいぜ? だったら、てめぇがいつまで我慢出来るのか、試してやるよ」
不穏な宣言と共に、ツバキは凶器を持つ腕を振り上げた。
「――朱華ちゃん!!」
その動きを止めたのは、突如割り込んできた場違いな第三者の声だった。
それは、この場に居る筈の無い、青年の。
「……音にぃ?」
開かれた倉庫の扉の向こう、切羽詰まった表情の砂音の姿があった。外の見張りと思われる〝山茶花〟のメンバー二人が、彼の乱入を許してしまった事に泡を食っている様まで窺える。
「……何だ、てめぇ」
面食らって困惑の声で誰何した後、ツバキは思い出したように見張りの二人を叱り付けた。
「おい、見張り! 何関係ねー奴入れてんだよ!!」
「す、すみませんツバキさん! 何か、押し切られて!」
「か、顔がっ! 顔面偏差値やべーんスよ! この顔で詰め寄られたら無理っス!!」
「意味わかんねー事言ってんじゃねえ!!」
周囲で交わされるそれらのやり取りは全く意に介さず、砂音はスタスタと内部に足を踏み入れる。そのまま、ぽかんと呆気に取られた様子の朱華の元へと向かおうとし……。
「おっと、止まれ。それ以上近付いたら分かってんだろうな? てめぇは何者だ? こいつのカレシか?」
手にした角材を見せ付けながらツバキが制止すると、砂音は寸前で立ち止まり、彼女の方に顔を向けた。一寸も怯えを含まない真っ直ぐな瞳に見据えられると、ツバキは少々たじろいだようだった。それを悟られたくない故だろう、次には冷やかすような笑みを貼り付けて言った。
「ふぅん、本当にイケメンじゃん。こんな女なんかやめて、ウチらと遊ばねー? 可愛がってやるよ」
「それ、男のセリフっスよ、ツバキさん!」
倉庫内は俄に活気づいた。当然ジョークのつもりで放った言葉だったのだろうが、砂音はそれに対してさらりと返した。
「いいよ」
瞬間、彼が何と言ったのか理解が及ばず、その場の全員が時を止めた。事も無げに彼は続ける。
「俺はどうなっても構わない。その代わり、彼女の事は解放して欲しい」
「……正気かよ。あんた、この女の過去、ちゃんと知ってんのか?」
予想外な申し出にツバキが訝るような視線を向けるも、砂音の表情は変わらず真剣そのものだ。
やや圧倒されたように目線を逸らすと、ツバキは深く長い溜息を吐き出した。
「あーぁ……何かシラケちまった。やる気のねー無抵抗のお人形さんなんか相手にしててもつまんねーし……もう、いい」
そう言って、朱華から背を向ける。
「〝曼珠沙華〟の朱い華は散った。……行こうぜ」
慌てて異を唱えようとする部下達を制して、そのまま〝山茶花〟の総長は一度も振り返る事なく倉庫を後にした。
彼女を追いながらメンバー達の何人かがチラチラとこちらを気にする中、朱華の脇を固めていた二人の部下も自分達の頭に従った。不意に解放されて、朱華は世界がぐるりと回転したような感覚に陥った。
「朱華ちゃん!」
支えを失って倒れかけた彼女を、砂音が駆け寄って受け止める。朱華の身体は、かっかと熱を放っていた。
「音にぃ……何でここに……」
「朱華ちゃん、酷い熱……! 怪我は!?」
憔悴し切った弱々しい声音で朱華が訊ねるが、砂音は答えず、彼女をゆっくりとその場に横たわらせ、負傷具合を検め始めた。朱華の発熱の事情を知らない彼は、こんなに熱が出る程に彼女が酷い怪我を負ったのだと判断したらしい。
忘れたのか、まさか気でも効かせたのか、〝山茶花〟のメンバーが残したランタンが一つ灯されたままだったので、その灯りに注意深く目を凝らし――やがて、彼の視線は朱華の腕の一点で結ばれた。
「朱華ちゃん、血が……!」
「え? あ、ホントだ……」
言われて見れば、朱華の二の腕には引っ掻き傷のような痕があり、そこから鮮やかな朱色の液体が一筋、つぅっと垂れていた。
腕を押さえていた相手の爪でも引っ掛かったのだろう。そこまで深くもない、大したことのない傷だ。しかし砂音は、それを見ると一気に顔色を失くした。
「止血しなくちゃ……!」
血相を変えて朱華の腕を掴むと、止血帯を用意するでなく、そのまま己の指を添えて直に傷口を圧迫し出す。彼女の血液でじんわりと指先が朱く染まっていくのを目にし、砂音は頭を殴られたような目眩を覚えた。
「駄目だ……っダメだ!!」
押さえる傍から、どくどくと。大量の朱が溢れて、零れ落ちていく。
留めようとするこの手を擦り抜けて――彼女の命が流れ出ていく。止まらない。止まらない。
「だめだ、止まらない!」
むっとするような鉄錆の臭いが鼻腔に充満する。
死んでしまう。しんでしまう。このままだと彼女がしんでしまう。だめだ。
「とまれっ!!」
――何処かから、シャワーの水音が聞こえてきた。
「音にぃ!!」
遠い幻聴を掻き消したのは、朱華の鋭い呼び声だった。ハッとして、砂音が硬直する。自分の浅く荒い呼吸の音がやけに耳についた。鼓動が早鐘を打っている。首筋を冷たい汗が滑り落ちた。
朱華は静かに語り掛ける。
「音にぃ、大丈夫だ……もう、止まってる」
その言葉はすぐには浸透せず、砂音は暫し凍り付いたままでいた。それから、少しずつ氷解していくように緩慢な動作で朱華の顔を見ると、今度は再び彼女の腕へと目を落とした。
今しがたまで見えていた大量の血液は気付けば何処にも無かった。薄らと軽く朱色が付着しただけの己が指先をそっと退けると――彼女の言う通り、出血は疾うに収まっていた。
それを視認すると、ガックリと全身の力を抜いて俯き、砂音は深く息を吐いた。
「よ、良かった……ッ」
それから、思い余ったように朱華を抱き締める。急な抱擁に驚くと同時に思わずどきりとしてしまった朱華だったが、彼の腕が小刻みに震えている事に気が付くと、何も言えなくなってしまった。
――音にぃ?
様子が変だ。今の彼の反応は、尋常でなかった。発熱と出血に動転したから? 廃倉庫内で、不良集団と対峙した直後という異常な状況下に置かれていたから? ――本当に、それだけだろうか?
朱華が穏やかでない思考に沈んでいると、砂音が再びハッと気が付いたように顔を上げてこちらを窺った。
「朱華ちゃん、他に怪我はっ?」
「……たぶん、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ! それなら、何でこんなに熱いの?」
それからまたハッとして、救急車、と呟く彼に、今度は朱華が慌てる番だった。
「いい! いいって! 怪我はしてないって! これは、その……ただの、風邪だから」
今日一日折角隠し通したのに、結局己からバラす羽目になってしまった。風邪と聞くと砂音は虚を衝かれたようにまたぞろ固まった後、改めて昨日の出来事に思い至ったらしく、次第に表情に納得の色を広げていった。
「昨日の……」
「だから、本当に平気だ。音にぃが心配する事なんて、何も無いから」
ほら、と自分が元気な様を見せてやろうと砂音の腕から抜けて立ち上がろうと……した所で、ふらふら~っとすぐにまた後方に倒れかけた。
「危ない!」
すんでで、はっしと彼女を抱き留めて、砂音はむぅ、と眉間に皺を寄せて不服そうに朱華を見つめた。ヘーゼルの瞳に映る自分は、決まり悪げに苦笑しようとして――熱の猛威に負け、へにゃへにゃとした気の抜けた顔をしていた。
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