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第四章 朱い傷痕
4-2 約束の終わり
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「へっ……くしゅ!」
昼休み、いつものように砂音との待ち合わせ場所に向かう道すがら、朱華は盛大にくしゃみをした。それから、軽くふるりと身を震わせて、鼻の下を擦る。
――やべ、本当に風邪でも引いたかな。
思い当たる節が有り過ぎて、朱華は内心頭を抱えた。次いで、ハッとして辺りをキョロキョロ見回しては、周囲に誰も居ない事実を確認して安堵の息を吐いた。――良かった。砂音にでも見られていたら、心配させてしまう事だろう。
この寒気やくしゃみは、十中八九昨日のアレが原因だろうから、彼には知られないようにしなければ。バレたら、砂音はまた自分の所為だと自責の念に駆られかねない。そして、朱華は保健室に連れて行かれ、早退させられるかもしれない。
まだそこまで具合が悪いという訳でもないし、今日も放課後バイトがあるのだから、こんな事くらいで休んでなどいられないのだ。
クラスの友人達の目は何とか誤魔化す事に成功したので、後は砂音の前でボロが出ないように上手く立ち回ろう。
などと意気込みながら、校舎の角を曲がって遠目に裏庭の方を伺うと、そこには既に砂音の背の高い後ろ姿があった。
――あ、音にぃ、もう来てる。
今日は四限が移動教室で、おまけに授業が少し長引いた所為で、朱華が遅れたからだろう。早足でそちらに向かい、声を掛けようとした所で、不意に聞こえた第三者の声に足を止めた。
「好きです! 時任先輩……。私と付き合ってください!」
おっと、これは……。
咄嗟に付近の植え込みに身を隠して様子を窺うと、砂音の向こう側に背の低い女子の姿が見えた。学年カラーは緑――二年生だ。
どうやら、告白の現場を目撃してしまったらしいと察すると、朱華の心中は波立った。砂音がどう答えるのかは予想が付いたが、それでも胸は騒いで、じんわりと嫌な汗が滲み出る。
息を殺して固唾を呑んで見守っていると、やがて砂音の困ったような申し訳なさそうな声が答えた。
「……ありがとう。でも、ごめんね。気持ちは嬉しいけど、それには応えられない。好きな人が居るんだ」
予想していた通りの文言に、朱華は安堵と同時に痛みを覚え、そんな己を嫌悪した。
砂音に想いを告げた女の子は、さめざめと泣き出してしまった。
「知ってます……知ってました。噂で、聞いた事があったから。でも……」
――それでも、諦められなかった。
目の前でしゃくり上げる女の子に、砂音は今どんな顔をしているのだろう。「……ごめんね」と今一度告げたその声音は静かで同情的だが、それでいて決然とした意思を秘めて響いた。
どうしたって、彼の気持ちが変わる事は無い。それが通じたのだろう、女の子は深く息を吐くと、意を決したように申し出た。
「……それじゃあ、最後にキスしてください。そうしたら、私……きっと諦める事が出来るから」
キス!? 随分と大胆なお願いに思わずギョッとして目を瞠った朱華だったが、次に聞いた砂音の答えに、今度は心臓が止まりそうになった。
「……いいよ」
――『君がそう望むのなら』
そう続いた彼の言葉に、朱華は己の耳を疑った。
――嘘だろ。そんなあっさりと。音にぃがそんな事、OKする訳が……。
しかし、眼前の二人の距離がゆっくりと縮まっていくのを見て取ると、朱華はそれが聞き間違いでは無いのだと思い知った。総身から血の気が引き、イヤだ、と心が叫んだ。その瞬間、無意識に茂みから飛び出していた。
ガサッと大きな音が立った為だろう、二人が一斉に振り向いた。そこに朱華の姿を認めると、揃って驚いたように硬直する。その後、女の子は羞恥に襲われた様子で顔を覆い、走り去っていってしまった。
後には、固まったままの砂音と、同じように声もなく佇む朱華の二人が残された。暫し互いに無言の気まずい空気が流れ、やがて、砂音が決まり悪げに眉を下げて苦笑して見せた。
「……変な所、見られちゃったね」
それで朱華の金縛りも、ようやく解けた。
「音にぃ……駄目だろ、今のは」
――最後の思い出に、キスだなんて。
「そんなの……余計に忘れられなくなって、一層傷付くだけだ」
あの女の子も。――砂音自身も。
「そんな簡単に、キスなんて……自分を安売りするような事なんて……駄目だろ!?」
それが分からないような奴じゃないだろ? どうしちゃったんだよ、音にぃ……。
朱華の脳裏には、友人から聞かされた例の噂が過ぎっていた。
――『時任先輩は、頼めば何でもしてくれるって。……キスでも、その先でも』
――あれは、本当だったのか?
どんどん、どんどん。鼓動が煩い。まるで、太鼓を乱暴に叩いているみたいだ。信じられない。信じたくなかった。でも。
「そうだよね。良くない事だよね……」
ぽつりと呟いた砂音は、全てを悟っているかのように平静だった。そこには自嘲の響きも込められているが、何処か安堵の音も孕んでいた。駄目だ、いけない。――そう言われて、ホッとしているような。
「……音にぃ、いつも、こんな事してたのか?」
重々しく訊ねると、彼は再び苦笑した。
「まさか。……告白されたのなんて、つい最近になってからだよ。千真と一緒の時は、こんな事無かったから」
皆、千真の事が好きなんだと思ってた。自分はモテないと思っていたよ。と、彼は深刻な空気を混ぜっかえすように笑ってみせる。話を誤魔化すような彼の態度に、朱華は何も答える事が出来なかった。そうして声も無く見詰めていると、砂音は不意に遠くを見るような目をして、言った。
「……この場所、知られちゃったね」
今度からは場所を移さないといけないね。――申し訳なさそうに言い募る彼の横顔に、朱華は昼休みの約束の終わりを告げられたような気がした。
◆◇◆
この日も午後の授業は上の空だった。昼休みに見た砂音の行動や、例の噂の事がずっと頭の中をぐるぐると回っていた。
折角ちゃんと勉学をやり直す気で一年生から入ったのに、この頃の朱華は砂音の事ばかり考えている。ちゃんと授業に集中しなくては。そう己を叱咤して教師の声に耳を傾けるも、少し経つとまたすぐに物思いに沈んでいってしまう。そんな事を繰り返し、あっという間に放課後を迎えていた。
ぐるぐる考え過ぎた所為だろうか、下校時には何だか目の前までぐるぐる回っているような、頭がぼんやりとする感覚に包まれていた。
少し前まで寒いくらいだったのに、今は何だか暑い。
――知恵熱ってやつかな。
働きの鈍くなってきた頭でそんな事を思いつつ、口元に自嘲を添えた。
一度家に戻っている時間は無いので、朱華は学校から直でバイトに向かっていた。制服もバイト先のロッカーに置かせて貰っている。
最近始めたばかりのコンビニバイト。最初はこの外見で嫌われていたが、真面目に実直に勤める内に、次第に周囲から認められるようになってきていた。寄せられる信頼に、ちゃんと応えたい。だから、当日欠勤など以ての外だ。
大丈夫、これはきっとただの知恵熱だから。その内すぐに治まるさ。
そんな風に己に言い聞かせながら、ふらふらと覚束無い足取りで道を進んでいると、不意に前方のアスファルトに影が差した。
人の頭の形をした影が、一つ二つ、幾つも。通せんぼするように並んだそれを見て取ると、朱華は茫洋と顔を上げた。すぐ目と鼻の先に、影の持ち主達が立ちはだかっていた。複数人、十人以上の団体。全て同年代くらいの女性だ。
これだけの大勢がこんな至近距離に近付くまで気が付かなかった己の感覚の鈍麻にさえ、驚く程の余裕ももう無く。朱華はまるで、自分が皮膜か何かに包まれているような……紗幕越しに何処か遠くの世界を見ているような、現実感の無い感覚に陥っていた。
多人数を引き連れた中央の女性――少女といってもいいような年齢にしか見えないその人には、何だか見覚えがあるような気がした。
ほぼ白に近いような金髪のショートカットのその人物は、眼光鋭く朱華を睨め付けると、低く唸るように獰猛な声音で告げた。
「――更科 朱華。一緒に来て貰おうか」
それは、こちらの都合など最初から気に掛けるつもりなど無いと伝わってくる、冷たいナイフのような恫喝だった。
昼休み、いつものように砂音との待ち合わせ場所に向かう道すがら、朱華は盛大にくしゃみをした。それから、軽くふるりと身を震わせて、鼻の下を擦る。
――やべ、本当に風邪でも引いたかな。
思い当たる節が有り過ぎて、朱華は内心頭を抱えた。次いで、ハッとして辺りをキョロキョロ見回しては、周囲に誰も居ない事実を確認して安堵の息を吐いた。――良かった。砂音にでも見られていたら、心配させてしまう事だろう。
この寒気やくしゃみは、十中八九昨日のアレが原因だろうから、彼には知られないようにしなければ。バレたら、砂音はまた自分の所為だと自責の念に駆られかねない。そして、朱華は保健室に連れて行かれ、早退させられるかもしれない。
まだそこまで具合が悪いという訳でもないし、今日も放課後バイトがあるのだから、こんな事くらいで休んでなどいられないのだ。
クラスの友人達の目は何とか誤魔化す事に成功したので、後は砂音の前でボロが出ないように上手く立ち回ろう。
などと意気込みながら、校舎の角を曲がって遠目に裏庭の方を伺うと、そこには既に砂音の背の高い後ろ姿があった。
――あ、音にぃ、もう来てる。
今日は四限が移動教室で、おまけに授業が少し長引いた所為で、朱華が遅れたからだろう。早足でそちらに向かい、声を掛けようとした所で、不意に聞こえた第三者の声に足を止めた。
「好きです! 時任先輩……。私と付き合ってください!」
おっと、これは……。
咄嗟に付近の植え込みに身を隠して様子を窺うと、砂音の向こう側に背の低い女子の姿が見えた。学年カラーは緑――二年生だ。
どうやら、告白の現場を目撃してしまったらしいと察すると、朱華の心中は波立った。砂音がどう答えるのかは予想が付いたが、それでも胸は騒いで、じんわりと嫌な汗が滲み出る。
息を殺して固唾を呑んで見守っていると、やがて砂音の困ったような申し訳なさそうな声が答えた。
「……ありがとう。でも、ごめんね。気持ちは嬉しいけど、それには応えられない。好きな人が居るんだ」
予想していた通りの文言に、朱華は安堵と同時に痛みを覚え、そんな己を嫌悪した。
砂音に想いを告げた女の子は、さめざめと泣き出してしまった。
「知ってます……知ってました。噂で、聞いた事があったから。でも……」
――それでも、諦められなかった。
目の前でしゃくり上げる女の子に、砂音は今どんな顔をしているのだろう。「……ごめんね」と今一度告げたその声音は静かで同情的だが、それでいて決然とした意思を秘めて響いた。
どうしたって、彼の気持ちが変わる事は無い。それが通じたのだろう、女の子は深く息を吐くと、意を決したように申し出た。
「……それじゃあ、最後にキスしてください。そうしたら、私……きっと諦める事が出来るから」
キス!? 随分と大胆なお願いに思わずギョッとして目を瞠った朱華だったが、次に聞いた砂音の答えに、今度は心臓が止まりそうになった。
「……いいよ」
――『君がそう望むのなら』
そう続いた彼の言葉に、朱華は己の耳を疑った。
――嘘だろ。そんなあっさりと。音にぃがそんな事、OKする訳が……。
しかし、眼前の二人の距離がゆっくりと縮まっていくのを見て取ると、朱華はそれが聞き間違いでは無いのだと思い知った。総身から血の気が引き、イヤだ、と心が叫んだ。その瞬間、無意識に茂みから飛び出していた。
ガサッと大きな音が立った為だろう、二人が一斉に振り向いた。そこに朱華の姿を認めると、揃って驚いたように硬直する。その後、女の子は羞恥に襲われた様子で顔を覆い、走り去っていってしまった。
後には、固まったままの砂音と、同じように声もなく佇む朱華の二人が残された。暫し互いに無言の気まずい空気が流れ、やがて、砂音が決まり悪げに眉を下げて苦笑して見せた。
「……変な所、見られちゃったね」
それで朱華の金縛りも、ようやく解けた。
「音にぃ……駄目だろ、今のは」
――最後の思い出に、キスだなんて。
「そんなの……余計に忘れられなくなって、一層傷付くだけだ」
あの女の子も。――砂音自身も。
「そんな簡単に、キスなんて……自分を安売りするような事なんて……駄目だろ!?」
それが分からないような奴じゃないだろ? どうしちゃったんだよ、音にぃ……。
朱華の脳裏には、友人から聞かされた例の噂が過ぎっていた。
――『時任先輩は、頼めば何でもしてくれるって。……キスでも、その先でも』
――あれは、本当だったのか?
どんどん、どんどん。鼓動が煩い。まるで、太鼓を乱暴に叩いているみたいだ。信じられない。信じたくなかった。でも。
「そうだよね。良くない事だよね……」
ぽつりと呟いた砂音は、全てを悟っているかのように平静だった。そこには自嘲の響きも込められているが、何処か安堵の音も孕んでいた。駄目だ、いけない。――そう言われて、ホッとしているような。
「……音にぃ、いつも、こんな事してたのか?」
重々しく訊ねると、彼は再び苦笑した。
「まさか。……告白されたのなんて、つい最近になってからだよ。千真と一緒の時は、こんな事無かったから」
皆、千真の事が好きなんだと思ってた。自分はモテないと思っていたよ。と、彼は深刻な空気を混ぜっかえすように笑ってみせる。話を誤魔化すような彼の態度に、朱華は何も答える事が出来なかった。そうして声も無く見詰めていると、砂音は不意に遠くを見るような目をして、言った。
「……この場所、知られちゃったね」
今度からは場所を移さないといけないね。――申し訳なさそうに言い募る彼の横顔に、朱華は昼休みの約束の終わりを告げられたような気がした。
◆◇◆
この日も午後の授業は上の空だった。昼休みに見た砂音の行動や、例の噂の事がずっと頭の中をぐるぐると回っていた。
折角ちゃんと勉学をやり直す気で一年生から入ったのに、この頃の朱華は砂音の事ばかり考えている。ちゃんと授業に集中しなくては。そう己を叱咤して教師の声に耳を傾けるも、少し経つとまたすぐに物思いに沈んでいってしまう。そんな事を繰り返し、あっという間に放課後を迎えていた。
ぐるぐる考え過ぎた所為だろうか、下校時には何だか目の前までぐるぐる回っているような、頭がぼんやりとする感覚に包まれていた。
少し前まで寒いくらいだったのに、今は何だか暑い。
――知恵熱ってやつかな。
働きの鈍くなってきた頭でそんな事を思いつつ、口元に自嘲を添えた。
一度家に戻っている時間は無いので、朱華は学校から直でバイトに向かっていた。制服もバイト先のロッカーに置かせて貰っている。
最近始めたばかりのコンビニバイト。最初はこの外見で嫌われていたが、真面目に実直に勤める内に、次第に周囲から認められるようになってきていた。寄せられる信頼に、ちゃんと応えたい。だから、当日欠勤など以ての外だ。
大丈夫、これはきっとただの知恵熱だから。その内すぐに治まるさ。
そんな風に己に言い聞かせながら、ふらふらと覚束無い足取りで道を進んでいると、不意に前方のアスファルトに影が差した。
人の頭の形をした影が、一つ二つ、幾つも。通せんぼするように並んだそれを見て取ると、朱華は茫洋と顔を上げた。すぐ目と鼻の先に、影の持ち主達が立ちはだかっていた。複数人、十人以上の団体。全て同年代くらいの女性だ。
これだけの大勢がこんな至近距離に近付くまで気が付かなかった己の感覚の鈍麻にさえ、驚く程の余裕ももう無く。朱華はまるで、自分が皮膜か何かに包まれているような……紗幕越しに何処か遠くの世界を見ているような、現実感の無い感覚に陥っていた。
多人数を引き連れた中央の女性――少女といってもいいような年齢にしか見えないその人には、何だか見覚えがあるような気がした。
ほぼ白に近いような金髪のショートカットのその人物は、眼光鋭く朱華を睨め付けると、低く唸るように獰猛な声音で告げた。
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