砂時計は、もう落ちた。

夜薙 実寿

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第四章 朱い傷痕

4-1 秘めた決意

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(FA 戸森 鈴子様)


「しゅ、シュカって、呼んでもいいかな?」

 小林さんが緊張で真っ赤に頬を火照らせながら、改めてそう切り出してきた。朱華は驚いて、次いで嬉しくなって、振り子人形のように首を思い切り上下に頷かせた。

「お、おう! そんじゃ、あたしも……ま、マユ」

 緊張が伝播したのか、お返しに名を呼ぶ朱華の声もどもって震えてしまった。顔が熱い。きっと自分も今、彼女と同じようにりんごほっぺよろしく赤らんでしまっているに違いない。
 互いに互いの名を呼び合うと、朱華達は改めて照れ笑いを浮かべて「えへへ」と誤魔化し合った。

「お、何朝からイチャイチャしてんの~?」

 横から飛んで来た冷やかしの声に二人して振り向くと、遅れて登校してきた斉藤さんと吉田さんが居た。斉藤さんの顔には今しがたの冷やかしと同じ温度のニヤニヤ笑いが浮かんでいる。

「り、リサ!」

 恥ずかしい現場を見られて、小林さん……マユが一層真っ赤になりながら、斉藤さんを咎めるように呼んだ。しかし、斉藤リサは何処吹く風で、愉快げに笑い声を立てる。

「いいなぁ、うちらも混ぜてよ! ねぇ、シュカ!」
「それじゃあ、私もシュカって呼ぶわ」

 吉田サエまでもが冷静顔でサラリと乗ってきた。ここはこちらも応えてやらねば、女が廃るというものだ。

「お、おう! リサ、サエ!」

 勢い込んで二人の事も下の名で呼ぶと、やはり後から何だか気恥しさが勝ってきたようで、朱華はぷしゅう、と頭から蒸気を発する程に茹で上がってしまった。
 その様子に、またぞろ愉快げな笑いが上がる。

「シュカ、可愛い~! 本当、見た目の割に純情だよね~!」
「見た目の割にってのは、失礼でしょ。でも、同意」

 斉藤さんことリサが黄色い声を上げるのに対して、吉田さんことサエが相変わらず冷静にツッコミを入れる。可愛いなどと言われてしまい、朱華はより羞恥に襲われる羽目になった。

 ――し、仕方ねーだろ! ちゃんとした女友達とか初めてなんだから!

 と内心で訴え掛けるが、たぶんそれを言ったらまた揶揄われる事になりそうなので、朱華はその主張を懸命に呑み込んだ。

 小学生時代は言わずもがな、砂音を始め男友達ばかりだった訳だが、中学生時代になると友達そのものが居なくなった。一方的にこちらを慕ってくる自称妹分達なら沢山居たが、それは友達とはまた違うだろう。
 あの頃は自分も尖っていたから他者と必要以上に親しくしようとも思わなかったし、何処か一線を引いた接し方しかしてこなかった訳で……。ここに来て初めて普通の女の子の友達が出来た次第なのだから、それはもう舞い上がるし、どうしたらいいのかてんてこ舞いなのだ。

 ――女同士で名前で呼び合うの、憧れだったんだよな。

 いつも、〝更科さん〟か〝朱華さん〟、はたまた〝アネキ〟だの〝総長〟だのと呼ばれてきたので、これは非常に新鮮な体験だ。何だか一気に距離が近付いた気がして、照れる。

「あはは、シュカ真っ赤~! ……って、本当に熱くない?」

 湯気を発する朱華の額に触れて、そのあまりの熱量に、弄っていたリサでさえも瞬時に真面目な顔になった。
 
「もしかして、体調悪い?」

 心優しいマユが心配そうに訊ねると、リサとサエもじっとこちらを窺ってくる。その視線に耐えかねて、朱華は敢えて快活に笑い飛ばして見せた。

「ちげーって、大げさだな! あたしは元々体温高けぇんだよ」

 だから大丈夫だって! と豪語するも、三人はまだ何処か疑いの眼差しを向けてくる。これは困ったなと朱華が弱っていると、天の助けか彼女を呼ぶ者があった。

「更科さん。三年の先輩が、更科さんを呼んで欲しいって」

 おずおずと声を掛けてきたのは、他のクラスメイトの女子だった。その子が示す先、半ば開いた教室の扉の向こうから、昨日の嫌がらせの主犯格たるリーダーが所在なげにこちらを覗いていた。


 ◆◇◆


「まだ何か用……っスか」

 昨日の今日なので思わず警戒しつつも、そういえば相手の方が先輩だった事を今更のように意識して、慣れない敬語を使ってみる朱華だった。
 砂音が〝神崎さん〟と呼んでいたリーダーの女子は、暫し躊躇うように無言の間を置いた後、意を決して後ろに回していた手を、ずいとこちらに突き出してきた。

 その手には、小さな愛らしいピンクのウサギのマスコットキーホルダーがぶら下がっていた。
 反射的に殴られるのかと思って身構えてしまった朱華は、きゅるんとしたウサギの丸い瞳と見つめ合うや、虚を衝かれたように固まった。
 〝神崎さん〟は視線を逸らしたまま、言う。

「……コレ。後々例の個室から見つかったから、もしかしたらあなたのじゃないかと思って」

 例の個室……昨日朱華が彼女に冷水をぶっ掛けられた御手洗トイレの個室の事だろう。朱華は依然としてキョトン顔のまま、ぽろりと返した。

「……いや、あたしのじゃないっスけど」
 
 あたしが、そんな可愛いマスコットを付けるように見えるのか?
 朱華が内心でそうツッコミを入れた所で、〝神崎さん〟は、一層バツの悪い表情になった。
「……そう」とだけ呟く彼女を見て、もしかして、と朱華には閃くものがあった。

「……届けに来てくれたんスか?」

 訊ねると、〝神崎さん〟は見る見る内に先刻の朱華のように真っ赤になってしまった。

「だっ、だって、もしこれがあなたが時任君から貰った思い入れのあるキーホルダーとかだったりしたら、後味が悪いでしょ!」

 ――おやおや。

「それで、わざわざ?」

 だとしたら、とんだ空振りだった訳だが、それでも朱華は胸中にふわりと温かいものが広がっていくのを感じていた。知らず頬を緩めると、神崎さんはそんな彼女をチラリと横目で確認しては、再び視線を逸らして小さく零した。

「……それに、あなたにはちゃんと謝りたいとも思っていたから」

「悪かったわ」と彼女が告げた言の葉に、思わず目をパチクリし、耳を疑ってしまう朱華だった。

「焦っていたの。変な噂が流れてて……。あなたに投げた言葉は、わたし自身に向けたものだったのよ」

 ――『時任君は誰にでも優しいんだから、勘違いするな』

「時任君は、皆に平等に優しいから……。本当は分かってたの。わたしは時任君にとって、特別じゃないって。だから、三年もクラスが一緒だったのに、ずっとちゃんと想いを伝える事も出来なかったのよ」

 想いを伝える事で、決定打を受ける事を避けていた。
 自分は彼にとって、特別じゃない。――それを思い知らされるのが、怖かったから。

「自分が臆病なのを棚に上げて、自分に望みがないのを分かっていて、他の子が時任君に近付くのに嫉妬して、足を引っ張ろうとしてたのよ」

「我ながらどうしようもないわ」――そう言って自嘲わらう彼女を、朱華は笑う事が出来なかった。その気持ちは、痛い程よく分かったから。

「……だけど今回、ようやく、ちゃんと伝える事が出来た」

 続いた言葉にハッとして彼女の方を見ると、神崎さんは何処か吹っ切れたような顔をして、今度は自嘲ではない本当の笑みを浮かべて見せた。

「振られちゃったけどね」

 ――ああ。
 綺麗だな、と思った。
 神崎さんは、少女の殻を破った、大人の女性の顔をしていた。

「でも、スッキリしたわ。ある意味、あなたのお陰よ。だから、あなたには感謝もしているの」

 どう返したらいいのか返事に困って朱華が声を出せずにいると、次に神崎さんからもたらされた質問内容に、大いに面食らう事となった。

「振られた理由が、『好きな人が居るから』って事だったんだけど……それって、あなた?」
「なっ……! 違!」

 つい大声を出しそうになって慌てて口を噤むと、朱華はぶんぶんと左右にかぶりを振って応えた。それを受けると、神崎さんは「……そう」と、少し考えるような素振りを見せた。

「昨日わたし、時任君にあなたとの事を聞かれた時に、怒られたのよ」

 ――『本当の事を聞かせてくれてありがとう。……だけど』

「『今度俺の大切な子を傷付けたりしたら、俺でも怒るよ?』って。……あんな時任君、初めて見たわ」

 激しく感情を露わにしていた訳では無い。あくまでも静かに紡がれた言の葉だったのだが、それが余計に底の知れない深い怒りを感じさせて、思わず身震いしてしまったという。
 それを聞くと、朱華は目を丸くしてしまった。――あの音にぃが? そんな事を?
 いつでものほほんふんわりと穏やかな彼からは、とても想像が付かなかった。神崎さんが小さく吐息を漏らして続ける。

「だから、てっきり好きな人って、あなたの事だと思ったんだけど……そう」

 違うのね。と零す彼女を後目に、朱華は俯いた。

 ――そうだ。違う。音にぃの好きな人は、自分じゃない。

 改めてその事実に打ちひしがれていると、神崎さんは不意に真面目な顔をして、こちらを見据えてきた。

「でも、あなたは時任君の事、好きなんでしょう? だったら、あなたも後悔しないように、ちゃんと伝えた方がいいわ。わたしにあれだけハッキリ意見をぶつけてきたあなただもの。きっと、出来るわよ」

 そう言って笑顔を見せた神崎さんに、朱華は何も答えられなかった。曖昧にお礼だけ述べて、見送った。
 そんな風に言って貰えるのは、凄く嬉しかったけれど。

 ――この想いは、伝えない。

 ずっと秘めると決めた。だって、伝えた所で彼を困らせるだけだ。
 それに、自分にはそんな資格もない。砂音は彼女の事を優しいと言うが。

 ――音にぃが思っている程、あたしは綺麗じゃない。

 沢山の人を傷付けた。この手を血に染めた。清廉潔白な彼に、自分は相応しくない。

 ――だから、一生伝えない。

 心の中で神崎さんに小さく〝ごめん〟と告げて、朱華は教室に戻った。
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