砂時計は、もう落ちた。

夜薙 実寿

文字の大きさ
上 下
13 / 35
第三章 君にもう一度、恋をする。

3-5 手遅れの恋に落ちる。

しおりを挟む
 
 隣には親友の千真、手には荷物と共に大きなゴミ袋。どうやら、砂音はまたゴミ捨て当番を請け負ったらしい。
 話題の人物の登場に、リーダーの女子は瞬時に顔色を失くした。朱華に追われていた時よりもずっと強い恐怖をあらわにし、唇を戦慄わななかせている。
 自分のした事を知られたら、砂音に嫌われてしまう――その心情が、朱華には痛い程に伝わって来た。

「朱華ちゃん、どうして、そんなに濡れて……何があったの?」

 ずぶ濡れの朱華に気が付いて、砂音が心配げに駆け寄ってくる。彼女が口を開くより先に、ここでハッとしたように取り巻きの女子達が咄嗟に言い訳を述べた。

「う、うちら掃除しててっ! うっかり更科さんに水を掛けちゃったら、更科さんがブチ切れて!」
「そ、そうそう! 謝ってるのに、全然聞いてくれなくって!」
「怖くて、思わず逃げちゃったら、追ってきてさぁ!」

 口々に飛び出す〝自分達は何も悪くありません〟アピールに、傍らで聞いていた千真が見苦しいものを見たように眉を顰める。砂音はぽかんとした表情でそれらを受けた後、改めて朱華の方に振り向いた。

「朱華ちゃん」

 事情を問おうとするニュアンスの呼び掛けに、朱華が先んじて答えた。

「ああ、そうだよ。そいつらの言ってる通りだ」

 微塵の躊躇いもなくサラリとそう言ってのけた彼女の対応に、驚きの色を浮かべたのは砂音よりもリーダーの女子の方だった。
 朱華は砂音の方を見ないように顔を逸らして、やれやれと肩を竦める芝居を打つ。

「音にぃに叱られんのも面倒だから、もういいわ。あたしは帰る。てめぇら、今度からは気を付けやがれよ」

 それだけ言って朱華は早々に身を翻すと、自身の下駄箱のレーンへと向かった。濡れた身体を拭う事も、着替えをする事もなく、そのまま下校する気のようだ。
 後に残された面々は暫し誰も身動きすら出来ず、呆気に取られていた。しんとした空気の中、最初に声を発したのは千真だった。

「……怖。やっぱとんでもねえ女じゃねえか、アイツ」

 見た目通りの不良女。彼の中では朱華の評価がそう下されたようだった。しかし、砂音が聞き咎めたのは千真のそんな感想ではなく、

「あの子、何で……」

 という、リーダーがぽつりと零した言葉の方だった。

「神崎さん」

 砂音が名を呼ぶと、リーダーの女子はびくりと身を竦ませた。叱られる、と身構える子供のように。

「本当の事、聞かせてくれるかな」

 こちらに振り向いた彼の表情は真剣そのものだった。ヘーゼルの瞳に見詰められて問われると、彼女の心は大きく動揺した。
 千真が驚いたように己が親友の方を見遣る。リーダーが答えるよりも先に、取り巻きの女子達が慌てて横から口を挟んだ。

「ほっ、本当の事って……今のが本当で」
「違うよね。朱華ちゃんは、そんな事するような子じゃない。ちゃんと話を聞いてくれる子だよ」

 きっぱりと断言されると、彼女達は揃って声を失った。未だ迷いを抱えたままのリーダーを促すように、砂音は彼女の顔の横から下駄箱の壁に手を着いた。息を呑む彼女の瞳を、先程よりも近い距離で正面から覗き込み、今一度問う。

「――話してくれるよね?」

 それは質問ではなく、命令だった。


 ◆◇◆


 寒風に吹かれて、朱華は小さく身震いした。

「……やべ。そのまま来ちまった」

 勢い余って濡れた格好のまま校外へと飛び出してしまった。流石にこれは冷える。じきに夏が来る頃合とはいえ、まだ春の陽気を孕んだ風は、水分を含んだ制服には冷たい。
 何処かで着替えよう。そういえば、冷水を浴びせられて吃驚して止まってしまったが、そもそも自分は用を足そうとしていたのだ。公園辺りの公衆便所でも探して、ジャージに……と、そこまで考えて、はたと静止した。

 ――いや待て、鞄! 置いてきた!?

 てっきり持っているつもりでいたそれは、空の両手を見下ろせば忘れてきた事実が明白だった。最悪だ。そういえば、御手洗トイレの壁に掛けたままだった。学校に戻らなければならない。
 来た道を引き返そうとして、ふと砂音の顔が脳裏に浮かび、足を止めた。……まだ近くに居たりして。今顔を合わせるのは、何だか非常に気まずい。もう少し間を空けてから戻った方が良いだろうか。

 ――音にぃには、きっと呆れられたな。

 そう思うと胸に針を刺されたような痛みを得るが、同時に、何処かで安堵する自分も居た。
 呆れられたのなら、嫌われたのなら――きっと、その方がいい。
 あの優しい笑顔に、変な希望を抱いたりせずに済むから。

「朱華ちゃん!」

 不意に、背後から呼び止められた。やはり、一瞬で誰だか分かる。バツの悪い気分でそろりと振り向くと、砂音がこちらに向かって駆けてくる様が窺えた。その手に、朱華の鞄が提げられているのを見て取り、彼女は目を丸くした。
 こちらに追い付くと、彼はその鞄を突き出すように掲げ、「はい、忘れ物」と柔らかく笑み掛けた。思わず受け取り、朱華は唖然と零した。

「……何で、音にぃが」

 あたしの鞄を? と、続く疑問は呑み込んだ。次に砂音が思いがけない事を口にしたからだ。

「神崎さん……あの子達から聞いたよ。朱華ちゃんとの間に、本当は何があったのか」
「へ?」
「だって、朱華ちゃんがあんな理由もなく怒ったりする訳ないもん。あの子達の事庇ってるんだなって、すぐに分かったよ」

「朱華ちゃん、優しいから」そう告げる砂音の声に、朱華は途端に胸苦しさを覚えた。

 ――なんで。
 きっと、呆れられただろうと思っていたのに。

「朱華ちゃん、昔からそうだったもんね。給食係の子がうっかり鍋を運搬時に落としてスープを駄目にしちゃった時も、クラスの子達の怒りの矛先がその子に向かわないように、朱華ちゃんは自分がぶつかったからだって言って、庇ってた。……誰かの為に、自分が悪者になるのを厭わない子だった。だから今回も、きっとそうなんだろうなって」

 ――どうして、いつも……音にぃには分かっちゃうんだろう。

「……別に。そういうんじゃねえし」

 不器用に隠した本当の自分、蓋をした本当の気持ちを、いつもそうやって探して、見つけ出してくれる。

「……ごめんね。今回の事は、俺の所為だね」

 眉を下げて申し訳なさそうに謝る砂音に、朱華はハッとして言い募った。

「違う! ほら、そうやって……音にぃは、すぐ自分を責めるだろ!」

「ヤなんだよ、そういうの」朱華がそう主張すると、砂音はキョトンとした表情を浮かべた。それから、ふっと力を抜くように頬を弛める。

「そっか……朱華ちゃんは、俺の事も庇おうとしてくれてたんだね」

「やっぱり、朱華ちゃんは優しいね」そう言って微笑わらう彼の顔を、朱華はまともに直視する事が出来なかった。

「買い被り過ぎだし。あたしは、そんな優しくなんか……っくしゅん!」

 目線を外して、口の中でもごもご言っていると、途中でくしゃみが出て来た。またぞろ軽く身を震わせる。それを見ると、砂音は慌てて自身の鞄からタオルを取り出した。そのままふわりと、朱華の頭から包み込むように被せる。青色のスポーツタオルからは、洗いたての石鹸の匂いがした。

「朱華ちゃんは、優しいけど……自分の事も、もっと大切にしてね。そのままだと、風邪引いちゃうよ」

 穏やかに言い聞かせながら、朱華の濡れた髪を拭うように、布越しに頭を撫ぜる。彼の指先の優しい温もりに、朱華は心の柔らかい部分を掴まれた気がした。喉の奥が詰まる。不意に泣き出したくなるのを、顰めっ面で何とか堪えた。

 ――駄目だ。今そんな風に優しくされたら、気が付いてしまう。

 ずっと、目を逸らそうとしていた事実に。
 いや、本当はとっくに気が付いていた。でも、気付かないフリをしようとしていた。……だって、認めてしまったら、余計に苦しくなるだけだから。

 ――好きだ。
 あたしは、今でもやっぱり……音にぃの事が、好きなんだ。

 それは、自覚した途端に失恋が決まっていた、手遅れの恋だった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【改稿版・完結】その瞳に魅入られて

おもち。
恋愛
「——君を愛してる」 そう悲鳴にも似た心からの叫びは、婚約者である私に向けたものではない。私の従姉妹へ向けられたものだった—— 幼い頃に交わした婚約だったけれど私は彼を愛してたし、彼に愛されていると思っていた。 あの日、二人の胸を引き裂くような思いを聞くまでは…… 『最初から愛されていなかった』 その事実に心が悲鳴を上げ、目の前が真っ白になった。 私は愛し合っている二人を引き裂く『邪魔者』でしかないのだと、その光景を見ながらひたすら現実を受け入れるしかなかった。  『このまま婚姻を結んでも、私は一生愛されない』  『私も一度でいいから、あんな風に愛されたい』 でも貴族令嬢である立場が、父が、それを許してはくれない。 必死で気持ちに蓋をして、淡々と日々を過ごしていたある日。偶然見つけた一冊の本によって、私の運命は大きく変わっていくのだった。 私も、貴方達のように自分の幸せを求めても許されますか……? ※後半、壊れてる人が登場します。苦手な方はご注意下さい。 ※このお話は私独自の設定もあります、ご了承ください。ご都合主義な場面も多々あるかと思います。 ※『幸せは人それぞれ』と、いうような作品になっています。苦手な方はご注意下さい。 ※こちらの作品は小説家になろう様でも掲載しています。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

聖女のわたしを隣国に売っておいて、いまさら「母国が滅んでもよいのか」と言われましても。

ふまさ
恋愛
「──わかった、これまでのことは謝罪しよう。とりあえず、国に帰ってきてくれ。次の聖女は急ぎ見つけることを約束する。それまでは我慢してくれないか。でないと国が滅びる。お前もそれは嫌だろ?」  出来るだけ優しく、テンサンド王国の第一王子であるショーンがアーリンに語りかける。ひきつった笑みを浮かべながら。  だがアーリンは考える間もなく、 「──お断りします」  と、きっぱりと告げたのだった。

処理中です...