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第三章 君にもう一度、恋をする。
3-3 好きな人の好きな人
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砂音の耳に一粒だけ輝く、紫水晶のピアス。
飾り物に興味の無い彼が何故かそれだけ身に付けている、唯一の装身具。
意味深に鎮座するその存在に気が付いてから、朱華は気になって男性の片側ピアスの意味を調べた。
左右どちらかが同性愛者の印。どちらかが守るべき者――即ち、恋人の居る証。
あまりに親友の千真と仲が良さげだったので、まさか……などと一瞬勘繰ったりしたものだが、安堵すべきかどうなのか、左耳のピアスは後者の方だった。
しかし彼は、恋人は居ないと言った。では、あのピアスの意味する所は、一体何だ?
砂音の事だから、意味もよく知らずにただ何となくで付けているのだと思った。でも、もしそうでないとしたら?
斉藤さんから聞かされた話が、脳裏を過ぎる。
『でも、彼女にだけはしてくれないんだって。何でって聞くと……』
――〝好きな人が居る〟……証?
◆◇◆
「砂音、お前最近昼休みどうしてるんだ」
四時限目終了の合図と同時に、砂音は千真に捕まった。どうやら砂音がいつも通りふらりと姿を消す前にと、身構えていた様子だった。
昼休みを共に過ごさなくなった最初の頃に「静かに昼寝がしたいから」などと理由を付けて千真を遠ざけていたが、彼としてはやはりその理由に納得してはいなかったらしい。今更になってこうして訊ねてきたのには、何か気懸りでもあるのだろうか。
砂音が咄嗟に返せずにいると、千真の中では答えは出ているようで、確かめるように畳み掛けてきた。
「お前……やっぱり、まだあの事引きずってるんだろ。お前がそうやって学校で意識失うみたいに急に寝るようになったのは、あれ以来だ。『受験勉強で夜眠れないから』なんて……違うだろ。お前が夜に眠れなくなったのは」
「千真」
強い口調ではなかった。ごく普通に名前を呼んだだけ。それでも、ぴしゃりと打たれたかのように、千真の言葉が途切れた。訪れた静寂に、砂音が告げる。
「朱華ちゃんと、ご飯食べてるんだ。昼休み」
だから最近は昼寝している訳じゃないよ、と言外に言い訳を含ませたが、その効果の程は判然としなかった。千真の瞳には、新たな困惑の色が浮かんだからだ。
「朱華って……あの幼馴染だっていう、ガン垂れ女か」
随分な言われようだが、意味が通じなかったらしく砂音は「ガン?」と首を捻った。それには構わず、千真は念を押すように質した。
「……本当、なんだろうな?」
彼は、親友に付き纏う妙な噂の事が気になっていた。女子の間でまことしやかに語られていた例の噂は、いつの間にか男子の間にも漏れ聞こえるようになっていた。砂音に近しい者であれば、もう知らない者など居ないだろう。
あの件以来睡眠障害気味の砂音が、在学中に電源が切れるが如く唐突な眠りに落ちるようになった事も心配の種だが、新たに聞こえてきた不穏な噂はその比では無かった。何せその内容を聞いた時、
コイツなら有りそうだ。――そう思ってしまったから。
千真の問いに対して、砂音はあっさりと頷きを返した。『幼馴染と昼食を摂っている』……それが本当なら、噂のように不特定多数の女とどうこうという事にはなっていない証明になるので、安堵すべき所だが……。
そうなると次に心配なのは、その朱華とかいう女が、砂音にとって無害であるかどうかだ。初対面時の彼女の柄の悪い態度と鋭い眼光を思い出すと、千真は顔を顰めた。
「大丈夫なのか? あの女に脅されて何か無茶言われてたりしないだろうな」
すると砂音は、瞬間キョトンと目を丸くした後、ぷっと可笑しげに吹き出した。
「まさか。朱華ちゃんはそんな子じゃないよ。むしろ、俺の為にお弁当作ってくれてるんだ。誤解されやすいだけで、優しくて良い子なんだよ」
「弁当……?」
あのヤンキーみたいな女が? 手作り弁当?
全くイメージの結び付かない単語が飛び出してきたものだから、千真は混乱してしまった。直後、砂音の顔がずいと至近距離に寄せられ、思わず身を固くする。
表情の変化を具に捉えようとするかの如く、ヘーゼルの瞳でじっとこちらを窺いながら、砂音が言った。
「もしかして、千真……寂しかった?」
あまりに予想外の言葉に、千真の思考は瞬間停止した。
「そっか……ごめんね? 千真も一緒に誘ってあげれば良かったね」
幼子を宥めるように額をコツンと合わせてくる砂音の行動に、千真は慌てて飛び退いた。
「おまっ……違! アホ!!」
動揺し過ぎて適切な言葉が出てこない。そんな友の反応に首を傾げながら、砂音は依然大真面目に見詰めていた。
「俺これから朱華ちゃんの所に行くけど、千真も一緒に行く?」
「行かない!!」
「……そう」
「お前、その天然ムーブどうにかしろ」と頭を抱え出した千真に、やはり疑問符を飛ばした後、砂音は内心で友に謝った。
――ごめん、千真。
俺は、大丈夫だから。心配しないで。
◆◇◆
そうして千真からの追撃を免れた砂音は、廊下に出ると一つ息を吸い込み、いきなり駆け出した。
あちこち行ったり来たり蛇行しながら、どうにか一階まで降りると、立ち止まって辺りに視線を飛ばす。バタバタと複数の足音と女子の声が聞こえると、ハッとして近くの窓から外に飛び出した。
すぐ様その場で身を屈めて窓の下に隠れると、頭上から声が降ってくる。
「時任君、何処行った!?」
「分かんない、ウチらも後追ってたんだけど、見失って」
「最近、空き教室に居るって聞いてたのに」
「外は?」
「下駄箱に靴あったから、無いと思う」
「じゃあ、まだ中に居るんだ」
探そう! と意気込む女子達の声と共に、遠ざかっていく足音を確認すると、砂音はホッと安堵の息を吐いた。不意に背後から呼び掛けられたのは、その時だった。
「音にぃ?」
思わず飛び上がる程驚いたが、振り向くと案の定、そこには朱華が居た。窓から出た先は、丁度いつもの裏庭だったのだ。突如予想外な場所から登場した待ち合わせ相手に目を丸くして、朱華が訊ねる。
「何でそんなとこから?」
「ああ、ええと……ちょっと、パルクールに挑戦してみたくなって」
「パルクール?」
いくら何でも苦し過ぎる言い訳だと、砂音は自分でも思った。しかし、後には引けない。先程の女子達の会話が彼女にも聞かれてやしないかと、砂音は不安になった。
千真と離れて単独行動するようになってから、こうして追われる事が増えた。千真のガードが硬過ぎるから、砂音に彼の事を聞きたいのだろうか。それとも――あの噂を何処かから聞き付けて、真偽の程を確かめようとしているのか。
いずれにせよ、千真のみならず朱華にまで心配は掛けたくない。このような事柄は、砂音としては朱華には知られたくないのだ。
一方、朱華はというと、実は件の女子達の声もバッチリ聞いてしまっていたものだから、内心穏やかでなかった。
――何か、音にぃ……追われてなかったか?
複数の女子達の声だった。空き教室が云々と聞こえた。
『前は空き教室を使ってたんだけど、見つかっちゃったから』――そう語る彼の言葉を思い出した。先生にでも見つかったのかと思っていたが、あれは〝女子達に〟という事だったのだと悟る。
『俺がここで寝てる事は、内緒にしておいてね?』――そんな約束も交した。
成程、自分はモテないなんて言いながら、やっぱり女子に追い掛け回されたりしてるんじゃないか、と朱華は合点が行った。
イケメンていうのも大変なんだな……などと考えつつ、砂音に労うような視線を向けると、その足元の寂しい事に気が付いた。
「音にぃ、靴は?」
「ああ、大丈夫。こんな事もあろうかと、ほら」
近くの植え込みの中に腕を突っ込んで何やらガサガサ探り、砂音はそこから運動靴を取り出して見せた。
「……随分用意がいいんだな」
「うん、まぁ……いつパルクールしたくなるか、分からないから」
だからそれは無理があるだろ、と内心ツッコミつつも、朱華はそれ以上の質問は浴びせない事にした。砂音が聞かれたくない事なら、無理には聞かない。
話題を変えるように、朱華はとある報告を口に登らせた。
「音にぃ、あの……あたし、クラスに友達出来た……かも」
出し抜けに告げられた言葉の意味を砂音が理解するのに、数秒掛かった。その後意味が浸透すると、彼は陽光が宝玉に照り付けるような煌々と眩しい笑みで以て破顔した。
「本当? 良かった!」
ほらね、俺の言った通り。朱華ちゃんは何も心配要らなかったでしょ。……そう誇らしげに語りながら、彼は朱華以上に嬉しげに顔を綻ばせている。
朱華は何だか面映ゆくなってしまった。頬を染めつつも、照れ隠しなのか険しい表情を作ってそっぽを向く。そんな彼女に、砂音が問うた。
「でも、それならその子達と一緒にお昼摂らなくて、いいの?」
この場には朱華一人しか居ない。何ならその子達も一緒で構わないという旨を伝えるが、朱華は困ったように頭を搔いた。
「いや、何か……音にぃと一緒っての知られたら、遠慮されたというか」
――応援されたというか。
それは、昼休みに入った直後、砂音が千真に捕まっている頃の事だ。
「更科さーん! お昼一緒に食べよ!」と、斉藤さん達が早速誘いを掛けてくれたのだが。
砂音との約束もある朱華は、すぐには快諾出来ずに「あの、その、それが……」などと、口中でもごもご言っていると。
聡い吉田さんが、「もしかして、更科さん……時任先輩と約束してたりする?」とズバリ言い当てたもんだから、その後は、「えー! マジで!? それじゃあ、そんなの邪魔出来ないじゃん!」「更科さん、頑張って!」と何故か口々にエールを受ける羽目になり、彼女らの暖かい視線に見守られながら送り出されたという次第だった。
――気持ちは有難いんだが、あたしは本当……別に、そういうんじゃないんだけどな。
砂音に無邪気に恋をしていたのは、子供の頃の事だ。まだ純粋で無垢で、屈託なく彼の傍に居られた頃。――今はもう、状況は変わってしまった。
自分はもう、彼には相応しくない。だから、彼の事を好きにはならない。……好きになっては、いけないのだ。
そこまで考えてから、朱華はハッと気が付いたように弁明を加えた。
「あっ! 場所までは言ってねーから! 安心して!」
慌てる朱華とは正反対に、砂音は至極穏やかに「そっか」と微笑んだだけだった。
何となく沈黙が訪れて、二人はいつもの花壇の縁に腰掛けた。朱華は砂音に弁当箱を渡し、自身もそれを膝の上で開きながら食事を開始する。
朱華の脳裏には、自然と例の噂の事が浮上していた。あんなの嘘だと思いたい。――でも、気になる。
「あのさ、音にぃ……」
「うん?」
箸を口に突っ込んだまま、砂音が小首を傾げて振り向いた。思わず声を掛けてしまったはいいものの、その先が続かずに、朱華はまた慌ててしまった。
「あ、いや、その……!」
何を聞くつもりだったんだ、あたしは。まさか、直球に噂の事など尋ねられまい。
代わりに口から飛び出して来たのは、こんな質問だった。
「その……っピアスさ。音にぃにしては珍しいなって、ずっと気になってたんだけど。何か意味とか、あんのかなって!」
問われて砂音は、己の左耳にそっと指を伸ばした。女性物のように華奢なデザインの紫水晶が一粒、こつりと触れる。
「ああ、これ? ……願掛け、みたいなものかな」
――願掛け。
「まさか、恋愛成就とか、そんな?」
下手くそな茶化しを飛ばしてみると、砂音は曖昧な笑みを浮かべて返した。
「違うかな。……成就しない事は、知ってるから」
どくんと、鼓動が不穏に跳ねた。
何だか、その言い方だと、まるで――恋愛関係である事は否定していないみたいで。
――左のピアスは、〝好きな人が居る〟証。
「音にぃ……」
好きな人、居るのか?
ぽろりと零すように、気が付いたら訊いてしまっていた。砂音は暫し質問の意味を呑み込むように黙していたが、やがて真剣な顔で答えた。
「……うん。居るよ。好きな人」
胸を殴られたような気がした。どくん、どくんと。痛みを持つように鼓動が主張する。
――居るんだ、好きな人。本当に……。
朱華が言葉を返せずにいると、砂音は視線を虚空に飛ばした。いつかみたいに、何処か遠くを見るような、儚い横顔で……。
「だけどその人は、他に好きな人が居るから」
俺じゃ駄目なんだって。――そう言って彼は、自嘲気味に笑った。見ているこちらの心まで抉るような、痛みを湛えた笑みだった。
――失恋、してるんだ。
でも。……分かってしまった。伝わってしまった。彼は、それでも。
――今でも、ずっと……その人の事が好きなんだ。
飾り物に興味の無い彼が何故かそれだけ身に付けている、唯一の装身具。
意味深に鎮座するその存在に気が付いてから、朱華は気になって男性の片側ピアスの意味を調べた。
左右どちらかが同性愛者の印。どちらかが守るべき者――即ち、恋人の居る証。
あまりに親友の千真と仲が良さげだったので、まさか……などと一瞬勘繰ったりしたものだが、安堵すべきかどうなのか、左耳のピアスは後者の方だった。
しかし彼は、恋人は居ないと言った。では、あのピアスの意味する所は、一体何だ?
砂音の事だから、意味もよく知らずにただ何となくで付けているのだと思った。でも、もしそうでないとしたら?
斉藤さんから聞かされた話が、脳裏を過ぎる。
『でも、彼女にだけはしてくれないんだって。何でって聞くと……』
――〝好きな人が居る〟……証?
◆◇◆
「砂音、お前最近昼休みどうしてるんだ」
四時限目終了の合図と同時に、砂音は千真に捕まった。どうやら砂音がいつも通りふらりと姿を消す前にと、身構えていた様子だった。
昼休みを共に過ごさなくなった最初の頃に「静かに昼寝がしたいから」などと理由を付けて千真を遠ざけていたが、彼としてはやはりその理由に納得してはいなかったらしい。今更になってこうして訊ねてきたのには、何か気懸りでもあるのだろうか。
砂音が咄嗟に返せずにいると、千真の中では答えは出ているようで、確かめるように畳み掛けてきた。
「お前……やっぱり、まだあの事引きずってるんだろ。お前がそうやって学校で意識失うみたいに急に寝るようになったのは、あれ以来だ。『受験勉強で夜眠れないから』なんて……違うだろ。お前が夜に眠れなくなったのは」
「千真」
強い口調ではなかった。ごく普通に名前を呼んだだけ。それでも、ぴしゃりと打たれたかのように、千真の言葉が途切れた。訪れた静寂に、砂音が告げる。
「朱華ちゃんと、ご飯食べてるんだ。昼休み」
だから最近は昼寝している訳じゃないよ、と言外に言い訳を含ませたが、その効果の程は判然としなかった。千真の瞳には、新たな困惑の色が浮かんだからだ。
「朱華って……あの幼馴染だっていう、ガン垂れ女か」
随分な言われようだが、意味が通じなかったらしく砂音は「ガン?」と首を捻った。それには構わず、千真は念を押すように質した。
「……本当、なんだろうな?」
彼は、親友に付き纏う妙な噂の事が気になっていた。女子の間でまことしやかに語られていた例の噂は、いつの間にか男子の間にも漏れ聞こえるようになっていた。砂音に近しい者であれば、もう知らない者など居ないだろう。
あの件以来睡眠障害気味の砂音が、在学中に電源が切れるが如く唐突な眠りに落ちるようになった事も心配の種だが、新たに聞こえてきた不穏な噂はその比では無かった。何せその内容を聞いた時、
コイツなら有りそうだ。――そう思ってしまったから。
千真の問いに対して、砂音はあっさりと頷きを返した。『幼馴染と昼食を摂っている』……それが本当なら、噂のように不特定多数の女とどうこうという事にはなっていない証明になるので、安堵すべき所だが……。
そうなると次に心配なのは、その朱華とかいう女が、砂音にとって無害であるかどうかだ。初対面時の彼女の柄の悪い態度と鋭い眼光を思い出すと、千真は顔を顰めた。
「大丈夫なのか? あの女に脅されて何か無茶言われてたりしないだろうな」
すると砂音は、瞬間キョトンと目を丸くした後、ぷっと可笑しげに吹き出した。
「まさか。朱華ちゃんはそんな子じゃないよ。むしろ、俺の為にお弁当作ってくれてるんだ。誤解されやすいだけで、優しくて良い子なんだよ」
「弁当……?」
あのヤンキーみたいな女が? 手作り弁当?
全くイメージの結び付かない単語が飛び出してきたものだから、千真は混乱してしまった。直後、砂音の顔がずいと至近距離に寄せられ、思わず身を固くする。
表情の変化を具に捉えようとするかの如く、ヘーゼルの瞳でじっとこちらを窺いながら、砂音が言った。
「もしかして、千真……寂しかった?」
あまりに予想外の言葉に、千真の思考は瞬間停止した。
「そっか……ごめんね? 千真も一緒に誘ってあげれば良かったね」
幼子を宥めるように額をコツンと合わせてくる砂音の行動に、千真は慌てて飛び退いた。
「おまっ……違! アホ!!」
動揺し過ぎて適切な言葉が出てこない。そんな友の反応に首を傾げながら、砂音は依然大真面目に見詰めていた。
「俺これから朱華ちゃんの所に行くけど、千真も一緒に行く?」
「行かない!!」
「……そう」
「お前、その天然ムーブどうにかしろ」と頭を抱え出した千真に、やはり疑問符を飛ばした後、砂音は内心で友に謝った。
――ごめん、千真。
俺は、大丈夫だから。心配しないで。
◆◇◆
そうして千真からの追撃を免れた砂音は、廊下に出ると一つ息を吸い込み、いきなり駆け出した。
あちこち行ったり来たり蛇行しながら、どうにか一階まで降りると、立ち止まって辺りに視線を飛ばす。バタバタと複数の足音と女子の声が聞こえると、ハッとして近くの窓から外に飛び出した。
すぐ様その場で身を屈めて窓の下に隠れると、頭上から声が降ってくる。
「時任君、何処行った!?」
「分かんない、ウチらも後追ってたんだけど、見失って」
「最近、空き教室に居るって聞いてたのに」
「外は?」
「下駄箱に靴あったから、無いと思う」
「じゃあ、まだ中に居るんだ」
探そう! と意気込む女子達の声と共に、遠ざかっていく足音を確認すると、砂音はホッと安堵の息を吐いた。不意に背後から呼び掛けられたのは、その時だった。
「音にぃ?」
思わず飛び上がる程驚いたが、振り向くと案の定、そこには朱華が居た。窓から出た先は、丁度いつもの裏庭だったのだ。突如予想外な場所から登場した待ち合わせ相手に目を丸くして、朱華が訊ねる。
「何でそんなとこから?」
「ああ、ええと……ちょっと、パルクールに挑戦してみたくなって」
「パルクール?」
いくら何でも苦し過ぎる言い訳だと、砂音は自分でも思った。しかし、後には引けない。先程の女子達の会話が彼女にも聞かれてやしないかと、砂音は不安になった。
千真と離れて単独行動するようになってから、こうして追われる事が増えた。千真のガードが硬過ぎるから、砂音に彼の事を聞きたいのだろうか。それとも――あの噂を何処かから聞き付けて、真偽の程を確かめようとしているのか。
いずれにせよ、千真のみならず朱華にまで心配は掛けたくない。このような事柄は、砂音としては朱華には知られたくないのだ。
一方、朱華はというと、実は件の女子達の声もバッチリ聞いてしまっていたものだから、内心穏やかでなかった。
――何か、音にぃ……追われてなかったか?
複数の女子達の声だった。空き教室が云々と聞こえた。
『前は空き教室を使ってたんだけど、見つかっちゃったから』――そう語る彼の言葉を思い出した。先生にでも見つかったのかと思っていたが、あれは〝女子達に〟という事だったのだと悟る。
『俺がここで寝てる事は、内緒にしておいてね?』――そんな約束も交した。
成程、自分はモテないなんて言いながら、やっぱり女子に追い掛け回されたりしてるんじゃないか、と朱華は合点が行った。
イケメンていうのも大変なんだな……などと考えつつ、砂音に労うような視線を向けると、その足元の寂しい事に気が付いた。
「音にぃ、靴は?」
「ああ、大丈夫。こんな事もあろうかと、ほら」
近くの植え込みの中に腕を突っ込んで何やらガサガサ探り、砂音はそこから運動靴を取り出して見せた。
「……随分用意がいいんだな」
「うん、まぁ……いつパルクールしたくなるか、分からないから」
だからそれは無理があるだろ、と内心ツッコミつつも、朱華はそれ以上の質問は浴びせない事にした。砂音が聞かれたくない事なら、無理には聞かない。
話題を変えるように、朱華はとある報告を口に登らせた。
「音にぃ、あの……あたし、クラスに友達出来た……かも」
出し抜けに告げられた言葉の意味を砂音が理解するのに、数秒掛かった。その後意味が浸透すると、彼は陽光が宝玉に照り付けるような煌々と眩しい笑みで以て破顔した。
「本当? 良かった!」
ほらね、俺の言った通り。朱華ちゃんは何も心配要らなかったでしょ。……そう誇らしげに語りながら、彼は朱華以上に嬉しげに顔を綻ばせている。
朱華は何だか面映ゆくなってしまった。頬を染めつつも、照れ隠しなのか険しい表情を作ってそっぽを向く。そんな彼女に、砂音が問うた。
「でも、それならその子達と一緒にお昼摂らなくて、いいの?」
この場には朱華一人しか居ない。何ならその子達も一緒で構わないという旨を伝えるが、朱華は困ったように頭を搔いた。
「いや、何か……音にぃと一緒っての知られたら、遠慮されたというか」
――応援されたというか。
それは、昼休みに入った直後、砂音が千真に捕まっている頃の事だ。
「更科さーん! お昼一緒に食べよ!」と、斉藤さん達が早速誘いを掛けてくれたのだが。
砂音との約束もある朱華は、すぐには快諾出来ずに「あの、その、それが……」などと、口中でもごもご言っていると。
聡い吉田さんが、「もしかして、更科さん……時任先輩と約束してたりする?」とズバリ言い当てたもんだから、その後は、「えー! マジで!? それじゃあ、そんなの邪魔出来ないじゃん!」「更科さん、頑張って!」と何故か口々にエールを受ける羽目になり、彼女らの暖かい視線に見守られながら送り出されたという次第だった。
――気持ちは有難いんだが、あたしは本当……別に、そういうんじゃないんだけどな。
砂音に無邪気に恋をしていたのは、子供の頃の事だ。まだ純粋で無垢で、屈託なく彼の傍に居られた頃。――今はもう、状況は変わってしまった。
自分はもう、彼には相応しくない。だから、彼の事を好きにはならない。……好きになっては、いけないのだ。
そこまで考えてから、朱華はハッと気が付いたように弁明を加えた。
「あっ! 場所までは言ってねーから! 安心して!」
慌てる朱華とは正反対に、砂音は至極穏やかに「そっか」と微笑んだだけだった。
何となく沈黙が訪れて、二人はいつもの花壇の縁に腰掛けた。朱華は砂音に弁当箱を渡し、自身もそれを膝の上で開きながら食事を開始する。
朱華の脳裏には、自然と例の噂の事が浮上していた。あんなの嘘だと思いたい。――でも、気になる。
「あのさ、音にぃ……」
「うん?」
箸を口に突っ込んだまま、砂音が小首を傾げて振り向いた。思わず声を掛けてしまったはいいものの、その先が続かずに、朱華はまた慌ててしまった。
「あ、いや、その……!」
何を聞くつもりだったんだ、あたしは。まさか、直球に噂の事など尋ねられまい。
代わりに口から飛び出して来たのは、こんな質問だった。
「その……っピアスさ。音にぃにしては珍しいなって、ずっと気になってたんだけど。何か意味とか、あんのかなって!」
問われて砂音は、己の左耳にそっと指を伸ばした。女性物のように華奢なデザインの紫水晶が一粒、こつりと触れる。
「ああ、これ? ……願掛け、みたいなものかな」
――願掛け。
「まさか、恋愛成就とか、そんな?」
下手くそな茶化しを飛ばしてみると、砂音は曖昧な笑みを浮かべて返した。
「違うかな。……成就しない事は、知ってるから」
どくんと、鼓動が不穏に跳ねた。
何だか、その言い方だと、まるで――恋愛関係である事は否定していないみたいで。
――左のピアスは、〝好きな人が居る〟証。
「音にぃ……」
好きな人、居るのか?
ぽろりと零すように、気が付いたら訊いてしまっていた。砂音は暫し質問の意味を呑み込むように黙していたが、やがて真剣な顔で答えた。
「……うん。居るよ。好きな人」
胸を殴られたような気がした。どくん、どくんと。痛みを持つように鼓動が主張する。
――居るんだ、好きな人。本当に……。
朱華が言葉を返せずにいると、砂音は視線を虚空に飛ばした。いつかみたいに、何処か遠くを見るような、儚い横顔で……。
「だけどその人は、他に好きな人が居るから」
俺じゃ駄目なんだって。――そう言って彼は、自嘲気味に笑った。見ているこちらの心まで抉るような、痛みを湛えた笑みだった。
――失恋、してるんだ。
でも。……分かってしまった。伝わってしまった。彼は、それでも。
――今でも、ずっと……その人の事が好きなんだ。
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貴方もヒロインのところに行くのね? [完]
風龍佳乃
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元気で活発だったマデリーンは
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