砂時計は、もう落ちた。

夜薙 実寿

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第二章 初恋の人

2-4 言葉の塗り薬

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 思い出は、綺麗で幸福なばかりじゃない。時には暗く淀んで、再生される度に鋭く心を抉る凶器にもなり得る。
 それが、自分にとって忘れ難いものである程、何度も何度も繰り返し傷口を広げては、膿ませていく。
 幼い朱華が砂音に叩き付けたあの言葉は、そうやって朱華自身を苦しめ続けてきた。ちくちくトゲだらけの言の葉は、放った者をも傷付ける。自業自得だ。決して赦される事ではない。――それなのに、砂音はこう言うのだ。

「……だって、朱華ちゃんがあんな事本心から言う訳ないって、分かってたから」

 ――「あんな酷い事言ったのに。音にぃは、そうやって変わらず声掛けてくれるんだな」
 自嘲気味に零した朱華の独白に対する彼の答えが、それだった。ハッとして俯けていた顔を上げると、優しいヘーゼルの瞳がこちらを見詰めていた。魅入られて、金縛りに遭ったように動けなくなる。

「それに、あの件に関しては謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。朱華ちゃんの気持ち……ちゃんと考えられてなかった。朱華ちゃん、あの時色々大変だったのに」

 良かれと思ってやった事で、相手の事を知らず傷付けてしまっていた。

「――無神経だった。酷かったのは、俺の方だよ。ごめんね、朱華ちゃん。朱華ちゃんが辛い時に……ちゃんと話、聞いてあげられなくて」

 ――なんで。

 砂音の言葉を聞いている内に、朱華の中でむらむらと込み上げてくる想いがあった。

「なんで、音にぃが謝るんだよ! 悪いのはあたしだろ!?」

 それは、崖に打ち付ける波のように、強くぶつかっては砕ける――怒りにも似た、激情。

「なんで音にぃ、そんな優しいんだよ! なんで怒んないんだよ!? 音にぃが怒ってくんないと、あたし……っ!」

 ――あたしのこの罪悪感は、一生消えないままだ。

 ああ……あたし、またそうやって、自分の事ばかり考えている。
 己の汚い心の声に気が付いて、朱華は衝撃と自己嫌悪に言葉を詰まらせる。そんな彼女から視線を逸らす事無く、凪いだ水面のように静かに見据えたまま、砂音はそっと口を開いた。

「……それじゃあ、一つだけ、怒ってもいいかな?」

 思いがけない彼の発言に、思わずびくりと小さく身を竦めてしまう。窺うように朱華が目を合わせると、真摯なヘーゼルの瞳がそれを受け止めた。視線に促されるようにして、彼は続ける。

「朱華ちゃんが何も言わずに突然居なくなって……俺、寂しかったよ」

 ――〝寂しかった〟。

「ちゃんと話したかったのに、朱華ちゃん逃げるし……避けられて、哀しかった」

 ――〝哀しかった〟。

「そのまま、もう二度と会えないんじゃないかと思った。気持ちがすれ違ったまま、サヨナラは……嫌だよ」

 まるで小さな子供のように、率直で拙い言葉だ。いや、そうなのかもしれない。あの頃の……小学生の頃の砂音少年が喋っているのだ。

「喧嘩してもいいから、ちゃんと話そう?」

 これからは――。
 彼が締め括る頃には、朱華は先程の激情の波が嘘のように引いている事に気が付いた。彼の凪に影響されたのか、今や朱華の心の水面も穏やかに落ち着いている。
 ぽろりと落とすように、口を衝いて言葉が飛び出した。

「……それ、ちっとも怒ってないよ、音にぃ」
「そんな事ないよ。俺、すっごく怒ってるから!」

 そうは言っても全く迫力の無い砂音の態度に、朱華は思わず口元を緩ませてしまった。彼女の表情が綻ぶのを見ると、砂音の方も釣られて安堵したように微笑んだ。それから、また真面目な顔になって、言う。

「サヨナラもまたねも言わせて貰えないのは……辛いんだよ。もう、黙って居なくなったりしないでね」

 約束、と告げる声音は、何処か切実な響きを孕んでいて……朱華は自然と頭を垂れていた。

 ――その辛さは、よく知っている。
 知っている、筈だったのに。

「……ごめんなさい」

 自分でも驚く程素直に言えた。下を向いた彼女の頭に、砂音の大きな手がそっと触れる。

「よし、許す」

 俺もごめん、と今一度返してから、砂音は再び表情を和らげて見せた。

「これで、おあいこだね」

 だから、もう自分を責めちゃ駄目だよ。――そう言われた気がした。

「こ、子供扱いすんなって!」

 触れられた箇所から温もりが伝わってきて、遅れて羞恥心が顔を出す。朱華は真っ赤になって、つい彼の手を軽く払い除けてしまった。またぞろ鼓動が忙しなくなったが、気分は何処か晴れやかだった。

 ――不思議だ。音にぃの言葉は、全部吹き飛ばしてしまった。

 モヤモヤとしたわだかまりも、長年巣食っていた罪悪感も、呪いのように解けなかった雁字搦めの意固地な気持ちですらも――彼の言葉で全て、綺麗にほどけて消えてしまった。
 何も特別な事を言われた訳ではない。それなのに、あれ程に膿んで痛んだ心の傷が、すっかり塞がってしまった。

 言葉には、相手も自分も傷付けてしまうものもある。けれど、反対に癒してくれる薬となるものもあるのだ。

 ――大事なのは、話す事だった。

 互いの気持ちを、ちゃんと知る事。会話する事。きっとそれが、朱華の家族の間には足りていなかった。
 もっとちゃんと、母の話を聞いてやれば良かった。父からも、諦めずに言葉を引き出すべきだった。そうしていたら、何かが変わっていたかもしれない。
 今更気が付いても、もう遅いけれども――。

 朱華が内心で小さく苦笑を漏らしていると、隣で砂音が不意に続けた。

「……けど、朱華ちゃんは一つ勘違いしてるよ」

 振り向いても、今度は目が合わなかった。彼の視線は何処か遠く、何も無い虚空に据えられている。そこに、彼にだけ見える何かが存在しているかのように。

「俺は、優しくなんかないよ」

 やけにキッパリと、そう零す彼の横顔が何故だか翳りを帯びて見えて……朱華の胸は、ざわりと騒いだ。
 春の生温い風が、彼の柔らかな黒髪を弄ぶ。そのまま春風に彼が連れ去られてしまうような錯覚を覚え、無意識に朱華は砂音の腕を掴んでいた。
 少し驚いたように彼が振り向いた事で、改めて自分の行動に気が付くと、朱華は慌てて手を離した。

「ま、またまた! 音にぃが優しくなかったら、世界中の全人類が鬼畜に分類されるっつーの!」

 誤魔化すように、下手な笑いを貼り付けて混ぜっ返してみせる。砂音もそれに乗ってくれたようで、やや困ったように眉を下げつつも笑み返してくれた。
 その事にホッとしていると、砂音が思い出したように朱華の膝の上の弁当箱に視線を落とした。

「あ、朱華ちゃん、ご飯食べないと。昼休み終わっちゃうよ」
「やべ、そうだった」

 すっかり話し込んで手が止まっていた。改めて箸を持ち上げた所で、ふと気になって砂音に訊ねた。

「つーか、音にぃは、メシは?」
「もう食べたよ。ほら、メロンパン」

 ……が、入っていたらしい空の袋を取り出して見せてくる。そんな彼に、朱華は渋い顔をした。

「そんだけ!? 足んねーだろ。音にぃ上背でかいんだし、まだ育ち盛りじゃんか。つーか、メロンパンなんて、おやつだろ!」

 もっと、焼きそばパンとかカツサンドとか、そうした腹の足しになるようなパンは無かったのかと問い詰めると、

「購買のパン、人気ですぐ売り切れちゃうんだよね」

 との事だった。メロンパンだけは朱華の言うように腹の足しにならないと思う者が多いのか、いつも残されているらしい。
 どうやら、自炊していないというのは謙遜でも何でもなく真実のようだ。急に砂音の食生活が心配になってきた。

「砂羽さんから送られてくる料理は?」
「それは夕飯用だから」

 昼はまぁ、いいかなと思って。などというとんでもない主張が飛び出して来て、朱華はたちまち頭を抱えてしまった。
 良くない。何も良くない。だから、そんな疲れた顔をしているんじゃないのか!?

 ――そういや、音にぃ。昔から自分の事には無頓着なとこあったよな。

 溜息と共に、朱華はたった今思い付いた事を口に登らせた。

「分かった。音にぃ、こうしよう。明日からあたしが、音にぃの分も弁当作って持ってくる」
「え? いいの?」

 朱華の提案に、砂音はぱっと顔を輝かせた。見えない尻尾が左右にぶんぶん振られているのが目に浮かぶようだ。まるで大型犬のような反応に、思わず身悶えしそうになる朱華だった。

「一つ作るも二つ作るも同じだし。音にぃの為っていうより、知ってる奴が栄養不足で倒れたりしたら寝覚めわりーかんな」

 だから、気にすんな。と可愛げのない口上を述べながら、気恥しさに顔を逸らしてしまう。そんな朱華の言葉に、砂音は至極嬉しそうに破顔してみせた。

「ありがとう、朱華ちゃん。それじゃあ、明日もまたここで会おう」

 昼休みは、裏庭で一緒にお弁当を食べよう。――二人の間に、また新しい約束が出来た。
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