7 / 35
第二章 初恋の人
2-3 慚悔
しおりを挟む――ずっと、音にぃに謝りたかった事がある。
「……あたし、あんな酷い事言ったのに。音にぃは、そうやって変わらず声掛けてくれるんだな」
昔みたいに、また一緒になんて。
何事も無かったかのように普通に誘いの言葉を口にする砂音に、朱華は自嘲気味に笑みを口元に刷いて零した。
朱華が時任家の夕飯に通うのは、小五の秋まで続いた。
小三から、約二年間。それも、多い時は一週間ほぼ毎日という時もあった。あまり砂羽や音也の好意に甘え過ぎては迷惑だろうと朱華は遠慮するのだが、当の彼らの方から積極的に誘ってくれるのだ。
朱華の家族の方はというと、父は無関心で母は食費が浮いて助かると言っていた。そんな感じで特に反対される事も無かったので、朱華も誘われるまま時任家の夕飯への同席を繰り返した。
けれど、その回数が増えていくと、次第に母はいい顔をしなくなっていったのだ。
母は言った。――恥ずかしい、と。
「そうやって、他人様の家に世話になってばかりで、周りになんて思われるか」
――まるで乞食のような娘だ。貧乏人の娘が、他人様の家の食事に集っているのだ。
そんな風に、近所に噂されているのではないかと言うのだ。挙句の果てには、自分への当て付けだと、彼女は言った。
「あたしが料理を作らないから、共働きで帰りが遅いから、そうやって責めてるんでしょ。皆あんたの事、可哀想だって。母親なら仕事を辞めて家に居てあげるべきだとか、育児放棄だとか、勝手な事ばっか言って。もううんざりなのよ! なのに、あんたまでそうやって、あたしを責めてくる!」
この頃の母は、いつも精神的に不安定な状態だったように思う。何か気に入らない事があると、突如スイッチが入ったように、ヒステリックに喚き立てた。
原因は幼い朱華にはよく分からなかったが、もしかしたら、父との結婚生活そのものにあったのかもしれない。
母は美しい人で、仕事も優秀で、引く手数多だったのに結婚相手を間違えたと、よく当人が愚痴っていたものだ。
だからだろう、決まって最後は、彼女の怒りは父に向いた。
「あんたも何か言いなさいよ! 大体、あんたの稼ぎが少ない所為で!」
そうやって話を振られても、父はいつも黙ったままだった。元々無口で人付き合いの苦手な人だ。怒りを露わにする母に、どう接していいのか分からなかったのかもしれない。あるいは、マトモに取り合うのも面倒だとでも思っていたのか。
ともかく父は何を言われても無言を貫き、反論の一つもせずにいつもただ母の癇癪を受けていた。
母からしてみれば、父のその態度は一層癇に障るものであるらしく、怒りは収まるどころかどんどんエスカレートしていく一方だった。
朱華が割って入ると、更に酷くなる。
「あんたまで父親の味方する! 黙ってる方は得よね! まるで、あたしだけが悪者じゃない!」
最終的に母が泣き出すのが通例で、一度などは刃物を持ち出して暴れるまでに至った事もある。
結局その時は誰も怪我などせずに済んだが、父と母のそうしたいざこざは、幼い朱華の心に少しずつ見えない傷を刻んでいった。
初めの内は母に反抗するように時任家に通い続けた朱華だったが、その内に段々と彼女にも変化が訪れた。
温かい、愛に溢れた理想的な家族像である時任家。その中に混ざっていると、どうしても自分の家族と比べずにはいられなくなり――居心地の悪さを覚え始めたのだ。
それは、時任家で過ごす時間が楽しく幸せなものであればある程、帰宅後の自分の家の冷たく張り詰めた様子に打ちのめされるのだ。
理想と現実の差異をまざまざと見せつけられているような気分になり、心が軋む。
それでいて、時任家の人々には何の非もないのだから、そんな風に思う自分こそが悪なのだと自責の念に駆られ、朱華は苦しんだ。
誰にも……砂音にも打ち明けられず、心に痼を抱えたまま、それでも朱華は優柔不断にその生活を続けていた。
それがより悪い結果を招いたのかもしれない。小五の秋――朱華の母は蒸発した。
予兆は無かった。前日に酷い夫婦喧嘩をしたという事も無く、ある日忽然と姿を消したのだ。
母としては、おそらくもうずっと前から考えていて、ようやくそれを実行に移したというだけだったのだろう。
近所の人々の間では、不倫していただの、男と出ていっただのと口さがない噂が広がった。
――「派手な見た目の奥さんだったものね」
――「旦那さんと娘さんは、捨てられたのよ。可哀想にね」
それでも、父は何も言わなかった。
母を責めるような言葉も、朱華を慰めるような言葉も、何にも。
ひたすらに黙ったままの父に、今度は朱華が苛立ちを募らせるようになっていった。
「なんで何にも言わないの? 母さんが出ていったの、あんたの所為じゃん!」
そう責めてしまう日もあり、その時になって朱華は気が付いた。これでは、まるで母のようではないか、と。
あんなに理不尽だと嫌っていた筈の母の癇癪と、全く何も変わらないではないか――。
父の傍に居ると、自分まで母と同じになってしまう。そう思った朱華は、家に居ても父を避けるようになった。
父は朱華の態度の変化に気が付いただろうが、やはり何も言及しては来なかった。それがより一層朱華の心を乱した。
生活は荒んだ。家での会話は一切無くなり、外では外で、朱華は捨てられた可哀想な子供という目で見られる。子供同士の間では、更に残酷な事に直截的にその話題を出されて揶揄われたりもした。
砂音がそうした場面に出くわすと、決まって相手を叱り朱華を元気付けようともしてくれたが、彼の優しさがこの時の朱華にはかえって辛かった。
時任家の夕飯にはこの頃もまだ誘われていたが、とてもそんな気になれずに、断り続けていた。
それでも、そんな朱華を放っておけなかったのだろう、彼は諦めずに朱華に声を掛け続けた。
気を遣わせてしまっている……そんな罪悪感と情けなさから、朱華はあの日、遂に最低な言動を取ってしまった。
九月十九日。朱華の誕生日を翌日に控えたその日、砂音がこんな提案をしてきた。
時任家で、朱華のお誕生日会をしないか、と。
それを聞いた時、朱華の顔に一気に熱が上った。嬉しい……筈なのに、荒れていたこの時の彼女には、それが同情から来る慰めのように感じられてしまった。
馬鹿にされた――そんな風にさえ思ってしまった直後、己のその思考にショックを受けた。
そんな訳が無いのに、あの優しい人達の心根まで疑ってしまうなんて、自分はなんて醜くて最低なのだ。
こんな自分が、彼らと一緒になんて居られる訳が無い。――気が付いたら、拒絶を口にしていた。
「しつけーよ! もう行かないっつってんだろ!? てめぇん家、みんなニコニコ仲良しこよしで、気持ち悪りぃんだよ!!」
言ってしまってから、ハッとした。驚きに固まる砂音の顔から……その表情が怒りや哀しみといった変化を見せる前に、逃げるように目を逸らした。そのままその場から駆け去り――以降、朱華は砂音の事も避けるようになった。
そうして、春になる前には父の都合で朱華はまたも引越す事となり、砂音とちゃんと話す事もなく別れを遂げたのだった。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

寡黙な貴方は今も彼女を想う
MOMO-tank
恋愛
婚約者以外の女性に夢中になり、婚約者を蔑ろにしたうえ婚約破棄した。
ーーそんな過去を持つ私の旦那様は、今もなお後悔し続け、元婚約者を想っている。
シドニーは王宮で側妃付きの侍女として働く18歳の子爵令嬢。見た目が色っぽいシドニーは文官にしつこくされているところを眼光鋭い年上の騎士に助けられる。その男性とは辺境で騎士として12年、数々の武勲をあげ一代限りの男爵位を授かったクライブ・ノックスだった。二人はこの時を境に会えば挨拶を交わすようになり、いつしか婚約話が持ち上がり結婚する。
言葉少ないながらも彼の優しさに幸せを感じていたある日、クライブの元婚約者で現在は未亡人となった美しく儚げなステラ・コンウォール前伯爵夫人と夜会で再会する。
※設定はゆるいです。
※溺愛タグ追加しました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

はずれのわたしで、ごめんなさい。
ふまさ
恋愛
姉のベティは、学園でも有名になるほど綺麗で聡明な当たりのマイヤー伯爵令嬢。妹のアリシアは、ガリで陰気なはずれのマイヤー伯爵令嬢。そう学園のみなが陰であだ名していることは、アリシアも承知していた。傷付きはするが、もう慣れた。いちいち泣いてもいられない。
婚約者のマイクも、アリシアのことを幽霊のようだの暗いだのと陰口をたたいている。マイクは伯爵家の令息だが、家は没落の危機だと聞く。嫁の貰い手がないと家の名に傷がつくという理由で、アリシアの父親は持参金を多めに出すという条件でマイクとの婚約を成立させた。いわば政略結婚だ。
こんなわたしと結婚なんて、気の毒に。と、逆にマイクに同情するアリシア。
そんな諦めにも似たアリシアの日常を壊し、救ってくれたのは──。

貴方もヒロインのところに行くのね? [完]
風龍佳乃
恋愛
元気で活発だったマデリーンは
アカデミーに入学すると生活が一変し
てしまった
友人となったサブリナはマデリーンと
仲良くなった男性を次々と奪っていき
そしてマデリーンに愛を告白した
バーレンまでもがサブリナと一緒に居た
マデリーンは過去に決別して
隣国へと旅立ち新しい生活を送る。
そして帰国したマデリーンは
目を引く美しい蝶になっていた


聖女のわたしを隣国に売っておいて、いまさら「母国が滅んでもよいのか」と言われましても。
ふまさ
恋愛
「──わかった、これまでのことは謝罪しよう。とりあえず、国に帰ってきてくれ。次の聖女は急ぎ見つけることを約束する。それまでは我慢してくれないか。でないと国が滅びる。お前もそれは嫌だろ?」
出来るだけ優しく、テンサンド王国の第一王子であるショーンがアーリンに語りかける。ひきつった笑みを浮かべながら。
だがアーリンは考える間もなく、
「──お断りします」
と、きっぱりと告げたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる