砂時計は、もう落ちた。

夜薙 実寿

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第一章 六年ぶりの再会

1-1 時任 砂音

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 ――誰でもいい。
 
 教室内に、くぐもった嗚咽のような嬌声が流れる。無理に押し殺そうとして、吐息と共に堪え切れずに漏れ出す甘やかな声。
 断続的に上がるそれは、湿った肉を打ち付ける音に被さり、徐々に間隔を狭めていく。少し傾いた机の脚が、彼の動く度にそれらと共にガタガタと不協和音を奏でた。
 切羽詰まったように、急かされるように。速度を増していく声と音の波にさらわれて、彼は思考を彷徨さまよわせる。

 誰か、俺を――。

 祈りにも似た想いは、誰にも届かない。届かないと、彼自身知っている。

 やがて、その時が訪れた。内側に折り込んで震わせていた爪先をピンと張り、硬直と共に喉から声にならない叫びを迸らせて、相手が頂に登り詰める。急激に窄まる刺激に促されるようにして、彼も熱の中心に欲を吐き出した。
 途端、強い快楽に頭の中が真っ白になる。その一瞬だけ、全てから解放されたような気がした。

 直後、聞き飽きた電子の鐘の音が、けたたましく情緒も無く掻き鳴らされた。昼休みの終わりを告げる合図にすぐ様意識を引き戻されて、彼は顔を上げる。左耳に嵌められた小さな紫のピアスが、カーテンの隙間から差し込む陽光を受けて、チカリと瞬いた。

「――予鈴だ」

 気怠げな言に反応して、机の上に仰向けに寝転んだ相手の女生が僅かに身動みじろぐ。

「いいよ、授業なんて……このまま、一緒にサボっちゃお?」

 荒らげた息もそのままに、悪戯に誘う小悪魔めいた恍惚の表情で見上げてくる彼女に、彼は無言でゆっくりと穏やかな笑みを刻んで見せた。


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 午後の陽射しは温かく、カーテンを揺らす微風そよかぜも優しく髪を撫でて通り過ぎる。窓際の席、穏やかな陽気に抱かれて机に突っ伏したまま、彼は安らかな寝息を立てていた。

「それじゃあ、次の問題を……時任ときとう!」

 四角い顔をした四十代の男性数学教師が、教科書を片手に呼び掛ける。しかし、呼ばれた生徒からの返事は無い。それもその筈だ。今しがた教師が呼んだのは、居眠りを決め込んでいる生徒の名だった。どうやら、彼が寝ているのを承知の上で敢えて指名したらしい。
 後ろの席の友人が、慌てて彼の椅子の背を小突く。

「おい、砂音さおと

 小声のそれを掻き消すように、数学教師が今一度、先程よりも大きな声で呼んだ。

「時任 砂音!」

 びくん、と肩を跳ねさせて、居眠りをしていた生徒が緩慢な動作で顔を上げた。
 猫毛のふわふわとした黒髪がサラリとなびき、前髪が割れると華のある端正な容顔が現れた。左耳には、小さな紫のピアス。
 その表情は眠気もあらわに茫洋としており、長い睫毛は重そうに伏せられたまま、持ち上がるのに時間が掛かった。やがてヘーゼルの瞳が覗いた時、彼は掠れた声でようやく返事をした。

「はい、寝てました」

 とても素直な申告である。これには毒気を抜かれて数学教師も頭を抱えた。クラスメイト達から、どっと笑いが巻き起こる。

「砂音、二十五ページの問四」

 そんな中、友人の助言を受けると、彼――時任 砂音は自身の教科書を繰った。そうして該当の問題を見つけるや、淀みなくスラスラと解答を口にする。

「……正解」
「って、出来んのかよ」

 嘆息混じりに正誤を告げた教師の心中を代弁するように、周囲からツッコミが入った。

「予習はしてあるから」

 はにかみ笑顔で応じる砂音の様子に、ますます教師は怒りの矛先を見失ってしまう。それでも何か言わなければという責任感からか、

「部活動とバイトの両立で疲れているのだろうが、最近弛んでいるぞ。今年は受験なんだから、もう少し気を引き締めなさい」

 ――という通り一辺倒な軽い説教だけ垂れて、居眠りの沙汰は放免となった。
 その裁定に疑問を抱いたらしいクラスメイト達が、ひそひそと囁き交わす。

「つーか、そんだけ? 先生達、みんな時任に甘くね?」
「まぁ、成績は優秀だからな。それに、イケメン様だし。女子の間で流行ってるあの噂マジなのかな」
「あの噂って?」
「知んねーの? あのな」

 ここで数学教師があからさまに咳払いをしてみせたものだから、内緒話をしていた生徒達も即座に黙って前を向いた。

 再び眠そうに下がる瞼と闘っていた砂音は全くそれらを意に介していないようだが、後ろの席の友人は何かしら思う所があるようで、難しい表情で手前の猫毛頭を見詰めていた。

 授業終わりの掃除の時間。待っていたかのように後ろの席の友人、一色いっしき 千真かずまが、砂音に声を掛けた。

「砂音。お前、五限何処に行ってた?」

 先刻の居眠り授業は六限で、五限目に砂音の姿は教室に無かった。訊ねられて彼は、箒を手にしたまま少しキョトンとした。それから、何処か申し訳なさそうに眉を下げて笑う。

「昼休みに空き教室で寝てたら、そのまま寝過ごしちゃって」

 途中で目を覚ましたが、授業中の教室には入りづらく、仕方なく次の授業から戻ったのだと言う。
 主張の真贋を見極めるかのように、千真は砂音の顔を真正面からじっと窺った。

「お前、大丈夫か?」

 一刹那、空白の間があった。スッと感情が失せたように、砂音の表情が消える。それは、何処までも虚ろでむなしく――ともすればそのあなに吸い込まれそうな錯覚に千真が陥りかけた時、砂音はコロリと元の柔らかな笑みに戻り、軽く小首を傾げてみせたのだった。

「? うん、大丈夫だよ。千真は心配症だね。最近、受験勉強で夜眠れてないだけだから」
「……本当に、それだけか? お前、まだあの事」
「本当に、それだけだよ。大丈夫。――あ、ゴミは俺が持っていくから、置いといてくれればいいよ」

 遮るように強く断言された上に、この話はもう終わりとばかりに他のクラスメイト達に話題を振る砂音の対応に、千真もそれ以上は何も言えなかった。


 ◆◇◆


「ゴミなんて、帰宅部の奴に任せりゃいいだろ。お前はすぐそうやって面倒事引き受けるんだから」

 集めたゴミ袋を片手に収集所に向かう砂音に付き添いながら、千真が溜め息を吐いた。

「千真は先に部活行っててくれてもいいよ」
「急いでる訳でも無いから、別に。そういう事じゃなくてな」

 お前が心配なんだよ。とは、流石に先程のやり取りの後では執拗に思えて言い難い。千真が内心唸っていると、前方から不意に声が飛んできた。

「早く来ないと置いてくよー!」

 下り階段の先、女生徒が二人程顔を出した。そのすぐ後に千真達の背後から「待ってよー!」と追い掛ける声がしたので、どうやらそちらに向けたものらしい。下から覗いた女生徒達は、彼らの存在に気が付くとにわかに色めき立った。

「えっ!? 時任先輩と一色先輩!?」

 きゃあ、と短い歓声を上げてこちらを見る彼女達の反応に千真が苦い顔をする傍ら、砂音は上から駆け足で現れた別の女生徒の方に気を取られていた。上段からやって来たその生徒は、急ぎ階段を降りようとして見事に足を滑らせた。
 
「危ない!」

 今度上がったのは、歓声ではなく悲鳴だった。
 落ちる、と誰もが覚悟を決めた。それは足を踏み外した張本人も勿論の事。彼女は思わず、ぎゅっと強く瞼を閉じて衝撃に備えた。
 しかし、予想していた痛みは一向に訪れず――不思議に思って恐る恐る目を開くと、すぐ近くに砂音の端正な顔があったものだから、女生徒は驚いて固まってしまった。
 しかも、自分は彼の腕の中に居る。どうやら、落下しそうになった彼女を砂音が受け止めたようだった。

「す、すみません! とっ時任先輩!」

 盛大に取り乱しながら、女生徒が慌てて身を離す。

「俺は大丈夫。それより、君は怪我とかしてない?」
「は、はい! 全然! 大丈夫です!」

 それを聞くと、砂音はほっと安堵したように一つ息を吐いて、

「良かった」

 と言って、笑った。花が綻ぶような、見る者の心をふわりと温める笑みだった。
 掛けられた当人以外の目撃した女生徒達も皆、思わずぽうっと見蕩れてしまう。

「あ、待って」

 ここで砂音は何かに気が付いた様子で、言葉を失っている彼女に手を伸ばした。
 真っ直ぐに見詰めてくるヘーゼルの瞳に身動きを封じられ彼女が身を固くすると、彼の長い指先が彼女の髪をそっと梳くように触れる。

 その感触にぴくりと身を震わせて、またも思わず目を閉じてしまう女生徒だった。彼女が次に目を開いたのは、彼の指先の感触が離れていった時だ。
 無意識に、上目遣いに何処か求めるような視線で見上げてしまうと、彼の指先にある物が乗っているのが見えた。

「葉っぱ、付いてた」

 そう報告する彼の笑顔が、やはり彼女には眩しくて。金縛りに遭っていた女生徒は再びパニックを起こした。

「あ、ああありがとうございます!!」
「どういたしまして。階段で急ぐと危ないから、気を付けてね」
「は、はい!!」

 最後に軽く注意だけして、放り出していたゴミ袋と荷物を回収して砂音がその場から歩を進める。千真も後を追うと、背後で女生徒達の黄色い叫びが爆発した。

「ぎゃああああ!! 何あんた羨ましい!!」
「あたしも髪に葉っぱ付けるー!!」

 その騒ぎを尻目に、呆れた様子で千真が零した。

「……よくやるよな、お前」
「? 何を?」

 呟きを拾った砂音がキョトンと首を傾げる。それから、「あ」とまた何かに気が付いたように軽く瞠目するや、先程の女生徒にしたみたいに今度は千真の髪に手を伸ばした。
 その指先を、戦利品を見せ付けるように彼の眼前に示し、

「はい、糸くず」

 などと屈託の無い笑顔で言うものだから、千真は何だか脱力してしまった。

「お前、本当に分け隔てないよな」
「? 何が?」

 糸くずをゴミ袋に追加して袋を縛り直しながら、砂音が今一度首を傾げる。やはり通じていない様子の友人に、千真が心中で頭を抱えた――その時。

「だから、これは地毛だっつってんだろ!」

 前方で、何やら女生徒と女教師が揉めている様子が目に映った。

「何だ?」

 見ると、教師の方は気難しいので有名な風紀担当の本間ほんまだ。
 校則の緩い本校にいて本来そんな役割など存在しないのだが、本間という女教師は何が気に食わないのか、目立つ生徒を捕まえては服装を正させようとやたらと一人奮闘しているものだから、いつしか生徒達からそのように揶揄して呼ばれるようになっていた。
 今回本間の標的にされている女生徒は、リボンタイが赤いのを見るに一年生のようだった。鮮やかな赤毛の、くるくるとうねった長い髪が、どうやら問題とされているらしい。

「嘘おっしゃい! あなたみたいな素行不良の生徒の言う事を誰が信じるものですか! 影響される生徒が出たら困るから、明日にはちゃんと戻して来なさい!」
「だから! 戻すも何もこれが地毛だっつってんだろ! わっかんねぇババアだな!」
「バっ!? まぁ、なんて事を!!」

 最初はなから相手の言い分を聞かない本間も本間だが、赤毛パーマの女生徒の方も随分と口が悪い。その次元の低い争い事に千真が引いていると、隣で砂音がぽつりと呟いた。

「……朱華しゅかちゃん?」

 千真が問いを投げるより先に、赤毛パーマが振り向いた。焦げ茶色の勝ち気な吊り目が殆ど睨むようにして向けられるが、その瞳は砂音の姿を捉えるとゆっくりとみはられた。

「……音にぃ?」

 彼女の赤い唇から放たれた呼び名に、砂音はぱっと花が咲き乱れるように嬉しげに破顔した。

「やっぱり、朱華ちゃんだ! 久しぶりだね。元気そうで良かった」

 ふわりと笑み掛ける砂音に、〝朱華ちゃん〟と呼ばれた少女は、呆気に取られた様子でぽかんと口を開いたまま見入っていた。
 ――これが、幼馴染二人の六年ぶりの再会だった。
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