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第15話 優しい紫
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心地好い冷気が、額に触れた。掬い上げられるようにして、意識が僅かに浮上する。薄ら瞼を持ち上げると、紫色と目が合った。気遣わしげに覗き込む、優しい瞳。――あのお兄さんだ。
オレは布団に寝かされていて、お兄さんがオレの額を撫でていた。いや、正確にはオレの額に何かひんやりとしたものを乗せていた。それが、火照った身体には快くて、再び意識が深い泥濘へと誘われていく。
お兄さんに何か声を掛けたかったのに、纏わりつく睡魔は重く、振り払うことが出来ず、オレはまた吸い込まれるようにそのまま眠りに落ちた。
「あっ、陽くん、起きた? 身体は大丈夫?」
次にオレを起こしたのは、隣のおばさんだった。
「奥さんに頼まれて、鍵を預かってたのよ。ご飯を持ってきたからね。食べられる?」
オレはぼんやりした頭で、周囲に目を遣った。そこにはもう、あのお兄さんの姿はどこにもなかった。
「……お兄さんは?」
「お兄さん? 誰も居ないわよ。夢でも見ていたの?」
夢? そうか、夢だったのか。
あんな妖精さんみたいな綺麗な瞳、初めて見たし。
ふと、額に手を遣ると、指先に濡れた感触が返ってきた。――手拭いだった。それはまだ、ひんやりと冷たく湿っていて、まるでたった今まで、誰かが傍に居てくれたような気がした。
◆◇◆
「陽様、ご昼食をお持ち致しました」
蜂蜜みたいに甘やかな次低音。呼び掛けられて、ハッとした。目を開くと、優しい紫の双眸がオレを見ていた。
「……御影さん」
「お目覚めになられましたか、陽様。お加減は如何でしょうか」
咄嗟に言葉が出てこなかった。額に手を遣ると、そこにはひんやりとした冷却シートが貼られている。
――思い出した。あの風邪の日。
ベッドの上で半身を起こすと、サイドテーブルに置かれた昼食を無視し、御影さんに向き直った。意を決して、訊ねる。
「御影さん……もしかして昔、オレん家の庭に来たこと、あります?」
御影さんはやや瞠目し、それから――。
「はい。……ようやく聞いてくださいましたね」
ふわりと相好を崩した。
「! じゃあ!」
「ええ、私があの時の不法侵入者です」
冗談めかして微笑う御影さんに、オレは呆気に取られてしまった。
まさか、そんなことが……。
「なかなか聞いてくださらないので、覚えてらっしゃないのかと思いました」
「いや……だって、夢だと思ってたし……熱で朦朧としてたから、幻かとも……髪の色は?」
「染めていたんです。あの頃の私は少々ヤンチャをしておりまして、家に帰らずに似たような境遇の者達と連んで、喧嘩ばかりしておりました」
「御影さん、ヤンキーだったの!?」
「お恥ずかしいことです」
今の礼儀正しい彼からは、全く想像も付かない。
でも、そうか。
「あの日、怪我してたのも、それじゃあ……」
「ええ。こう見えて私は結構強い方だったのですが、お陰で方方で恨みを買っておりましてね。あの日は体調を崩していたところを狙われて、多勢に無勢で襲われてしまいました。命からがら逃げ出して、咄嗟に転がり込んだのが陽様のお家の敷地だったのです」
あの日、母さんが閉め忘れたのか、庭の扉がほんの少し開いていたらしい。
「追っ手をやり過ごしたら、少し休んですぐに出ていくつもりだったのですが、元々の体調不良もあり、倒れてしまったんですね。身体に力も入らなくて……今度ばかりは、もう駄目かと思いました。そこを、陽様が見つけてくださったのです」
御影さんが、オレを見る。透き通った紫水晶のような、幻想的な紫の瞳で。――ああ、やっぱり、あの時と同じ瞳だ。
「まだお小さいのに、随分としっかりなさった方だと思いました。そして、何より勇敢でお優しい方だと。庭に知らない人間が倒れているなんて、さぞや恐ろしかったでしょうに、貴方はご自身の体調不良を押してまで私を助けようとなさいました。……貴方は、私の命の恩人です」
思いがけず重い単語が飛び出してきて、オレは慌てた。
「そんな、大袈裟な……」
「大袈裟ではありません。本当のことです。その節は、大変お世話になりました。誠に、感謝してもしきれません」
「いえ、オレこそ。……オレをベッドまで運んでくれたのって、たぶん御影さんですよね?」
それに、おばさんが来るまで傍に居てくれたんじゃないか。……そんな気がする。
御影さんは、照れたようにはにかんで、首肯してみせた。
「何とか貴方のご恩に報いたいと思いました。ですが、若輩の私にはどうしたら良いのかも分からず……ただ逃げるようにあの場を去ることしか出来ずに、ずっと心残りだったのです。それがまさか、こうしてまた貴方にお会い出来る日が来るだなんて」
――〝運命〟と。御影さんは、またぞろ重い単語を重ねた。
「今こそ、恩返しをする時が来たのだと思いました」
圧倒された。
確かに、これは凄い偶然だ。
偶々入った学校で、偶々姫に選ばれて、偶々護衛人になったのが、御影さんだったなんて。
不意に、御影さんが片膝を着いてその場に跪いた。そうしてオレの手を取り、甲に接吻を落とす。
「みっ、御影さん!?」
「陽様……私は、貴方に救われました。言うなれば、この命は貴方のもの。改めて、これからは誠心誠意、それこそこの命に代えても、貴方をお守りすると誓います」
熱烈な宣誓。唇の触れた箇所が、熱くて、痺れる。真っ直ぐな紫の視線に射抜かれて、鼓動が跳ねた。
「命って……そんなの、困るし」
「いけませんか?」
「いけないっていうか……もっと自分を大事にしてください!」
御影さんが、クスリと笑みを漏らした。
「畏まりました。決して無茶は致しません。陽様はやはり、お優しいですね」
「だから、大袈裟だって……」
そわそわと落ち着かない。けど……何だろう。心が少し軽くなった気がする。
こんなオレでも誰かを救うことが出来たのか、と思うと、胸の奥からじんわりと歓喜が広がっていく。
「改めて、これからもよろしくお願い致します。陽様」
「……こちらこそ、よろしく」
何かが変わった訳じゃない。オレは情けないままだし、諸々の問題だって、何も解決しちゃいない。
それでも、ここに居ていいんだと――そう言ってもらえた気がした。
オレは布団に寝かされていて、お兄さんがオレの額を撫でていた。いや、正確にはオレの額に何かひんやりとしたものを乗せていた。それが、火照った身体には快くて、再び意識が深い泥濘へと誘われていく。
お兄さんに何か声を掛けたかったのに、纏わりつく睡魔は重く、振り払うことが出来ず、オレはまた吸い込まれるようにそのまま眠りに落ちた。
「あっ、陽くん、起きた? 身体は大丈夫?」
次にオレを起こしたのは、隣のおばさんだった。
「奥さんに頼まれて、鍵を預かってたのよ。ご飯を持ってきたからね。食べられる?」
オレはぼんやりした頭で、周囲に目を遣った。そこにはもう、あのお兄さんの姿はどこにもなかった。
「……お兄さんは?」
「お兄さん? 誰も居ないわよ。夢でも見ていたの?」
夢? そうか、夢だったのか。
あんな妖精さんみたいな綺麗な瞳、初めて見たし。
ふと、額に手を遣ると、指先に濡れた感触が返ってきた。――手拭いだった。それはまだ、ひんやりと冷たく湿っていて、まるでたった今まで、誰かが傍に居てくれたような気がした。
◆◇◆
「陽様、ご昼食をお持ち致しました」
蜂蜜みたいに甘やかな次低音。呼び掛けられて、ハッとした。目を開くと、優しい紫の双眸がオレを見ていた。
「……御影さん」
「お目覚めになられましたか、陽様。お加減は如何でしょうか」
咄嗟に言葉が出てこなかった。額に手を遣ると、そこにはひんやりとした冷却シートが貼られている。
――思い出した。あの風邪の日。
ベッドの上で半身を起こすと、サイドテーブルに置かれた昼食を無視し、御影さんに向き直った。意を決して、訊ねる。
「御影さん……もしかして昔、オレん家の庭に来たこと、あります?」
御影さんはやや瞠目し、それから――。
「はい。……ようやく聞いてくださいましたね」
ふわりと相好を崩した。
「! じゃあ!」
「ええ、私があの時の不法侵入者です」
冗談めかして微笑う御影さんに、オレは呆気に取られてしまった。
まさか、そんなことが……。
「なかなか聞いてくださらないので、覚えてらっしゃないのかと思いました」
「いや……だって、夢だと思ってたし……熱で朦朧としてたから、幻かとも……髪の色は?」
「染めていたんです。あの頃の私は少々ヤンチャをしておりまして、家に帰らずに似たような境遇の者達と連んで、喧嘩ばかりしておりました」
「御影さん、ヤンキーだったの!?」
「お恥ずかしいことです」
今の礼儀正しい彼からは、全く想像も付かない。
でも、そうか。
「あの日、怪我してたのも、それじゃあ……」
「ええ。こう見えて私は結構強い方だったのですが、お陰で方方で恨みを買っておりましてね。あの日は体調を崩していたところを狙われて、多勢に無勢で襲われてしまいました。命からがら逃げ出して、咄嗟に転がり込んだのが陽様のお家の敷地だったのです」
あの日、母さんが閉め忘れたのか、庭の扉がほんの少し開いていたらしい。
「追っ手をやり過ごしたら、少し休んですぐに出ていくつもりだったのですが、元々の体調不良もあり、倒れてしまったんですね。身体に力も入らなくて……今度ばかりは、もう駄目かと思いました。そこを、陽様が見つけてくださったのです」
御影さんが、オレを見る。透き通った紫水晶のような、幻想的な紫の瞳で。――ああ、やっぱり、あの時と同じ瞳だ。
「まだお小さいのに、随分としっかりなさった方だと思いました。そして、何より勇敢でお優しい方だと。庭に知らない人間が倒れているなんて、さぞや恐ろしかったでしょうに、貴方はご自身の体調不良を押してまで私を助けようとなさいました。……貴方は、私の命の恩人です」
思いがけず重い単語が飛び出してきて、オレは慌てた。
「そんな、大袈裟な……」
「大袈裟ではありません。本当のことです。その節は、大変お世話になりました。誠に、感謝してもしきれません」
「いえ、オレこそ。……オレをベッドまで運んでくれたのって、たぶん御影さんですよね?」
それに、おばさんが来るまで傍に居てくれたんじゃないか。……そんな気がする。
御影さんは、照れたようにはにかんで、首肯してみせた。
「何とか貴方のご恩に報いたいと思いました。ですが、若輩の私にはどうしたら良いのかも分からず……ただ逃げるようにあの場を去ることしか出来ずに、ずっと心残りだったのです。それがまさか、こうしてまた貴方にお会い出来る日が来るだなんて」
――〝運命〟と。御影さんは、またぞろ重い単語を重ねた。
「今こそ、恩返しをする時が来たのだと思いました」
圧倒された。
確かに、これは凄い偶然だ。
偶々入った学校で、偶々姫に選ばれて、偶々護衛人になったのが、御影さんだったなんて。
不意に、御影さんが片膝を着いてその場に跪いた。そうしてオレの手を取り、甲に接吻を落とす。
「みっ、御影さん!?」
「陽様……私は、貴方に救われました。言うなれば、この命は貴方のもの。改めて、これからは誠心誠意、それこそこの命に代えても、貴方をお守りすると誓います」
熱烈な宣誓。唇の触れた箇所が、熱くて、痺れる。真っ直ぐな紫の視線に射抜かれて、鼓動が跳ねた。
「命って……そんなの、困るし」
「いけませんか?」
「いけないっていうか……もっと自分を大事にしてください!」
御影さんが、クスリと笑みを漏らした。
「畏まりました。決して無茶は致しません。陽様はやはり、お優しいですね」
「だから、大袈裟だって……」
そわそわと落ち着かない。けど……何だろう。心が少し軽くなった気がする。
こんなオレでも誰かを救うことが出来たのか、と思うと、胸の奥からじんわりと歓喜が広がっていく。
「改めて、これからもよろしくお願い致します。陽様」
「……こちらこそ、よろしく」
何かが変わった訳じゃない。オレは情けないままだし、諸々の問題だって、何も解決しちゃいない。
それでも、ここに居ていいんだと――そう言ってもらえた気がした。
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