ラジオの向こう

諏訪野 滋

文字の大きさ
上 下
37 / 45
第八章 サマーバケーション

潮騒

しおりを挟む
 学校のある我が街から特急電車に揺られて三十分、さらに民営バスに乗り換えて二十分。福岡市の中心部からそれほど離れていない北西部には、博多はかた湾を北に臨んで、いき松原まつばらと呼ばれる砂浜が広がっている。しかし私たちが降りたバス停の周囲は、マンションや比較的新しい戸建てなどが密集している市街地であり、この場所からは海を望むべくもない。

「会長。海にいくなら、もう少し先で降りた方がよかったんじゃないですか」

「大丈夫、ここからなら歩いても十五分とはかからないし。それに、少し寄り道したいところもあるのよね」

 アスファルトから立ち上る陽炎かげろうが、横断歩道の表面を焦がしている。郊外の国道は車通りも少なく、私はどこか異世界に紛れ込んだような錯覚に陥った。十五分か、ちょっとした冒険だな。それにしても、こんな閑静な住宅街で寄り道って。

「何です、飲み物とか買っていくんですか」

「内緒」

 白倉さんは小さくウィンクすると、すぐわきの狭い市道に迷いなく入っていく。この自信に満ちた歩きっぷりは、事前にネットで目的地へのルートを検索して予習していたに違いない。さすがの用意周到ぶりだけれど、まさか今回も生徒会の仕事だったりしないだろうな。そんな私の心配をよそに、彼女はずんずんと進んでいくと、ある一軒家の前で急に立ち止まった。

「ここね。間違いない」

「え。どういうこと……」

 何気なく表札を見た私は、慌てて回れ右をした。思い出した、司くんって確か、福岡の市内から電車通学しているんだった。白倉さんの馬鹿、悪ふざけにもほどがある。その場を離れるために駆けだそうとした私の右手を、彼女が素早くつかんだ。

「逃げるな、環季。ここで逃げたら、あなた一生後悔するわよ」

「冗談じゃない。後悔されるくらいなら、後悔する方がましです」

 白倉さんは鬼のような形相で私を引き寄せると、両肩をつかんで揺さぶった。

「私言ったよね、生徒会を生かすも殺すもあなた次第だって。出会いをプラスにするのもマイナスにするのも、すべて環季の気持ち一つなんだよ」

 この場合に限っては、彼女の意志の力は、それこそ私にはマイナスに作用した。白倉さんから目をそらした私は弱々しく首を振ると、その手を払いのけた。

「……無理だよ。会長みたいな強い人には、私の気持ちなんてわかるはずがないよ」

 白倉さんの瞳に言いようのない悲しみが広がったように、私には見えた。

「私が強い? 勘違いしないで。あなたこそ、私の気持ちなんてわかるはずがない」

 信じがたいことに、彼女の声は震えていた。全校生徒を前にしてもおくすることを知らない、あの会長が。

「あなたがわかってくれなくても。それでも、私は」

 唇を噛んでうつむいた白倉さんは、地面に向けて叩きつけるように言葉を放った。

「金澤くんと出会えてよかったって、あなたにそう思って欲しいのよ」

 私は絶句した。彼女がいくら並みはずれたお節介焼きだとしても、あまりにも度が過ぎている。それにどうして、主語が私と司くんの二人ではなく、私限定なのだ。「お互いが出会えてよかったって、あなたたちにそう思って欲しいのよ」とは、何故ならないのか。

「どうして、そこまで」

「いいから。インターホンのボタン押して」

「でも」

「会長命令よ、黙って押して!」

 有無を言わせぬ白倉さんの声音に驚愕しながら、私は震える指でそれを押す。ややあって、電子的に修飾された男の子の声が返ってきた。

「はい、金澤ですが」

 本人か。私が逃げるための最後の口実も、これで消えた。

「あ、あの。八尋です。会長と一緒に」

 司くんが息をのむ表情が、スピーカー越しに見えるような気がした。

「……ちょっと待っていてください」

 しばらくして扉のロックをはずす音、それに続いて懐かしい姿が現れた。白いTシャツと短パン姿の司くんを見て、私は今が夏休みであることをようやく実感する。彼は小さく頭を下げると、白倉さんを上目づかいに睨んだ。

「臨海学校の下見が生徒会の仕事だっていうから、最後の仕事だと思って、こうして待っていたんですが。会長、確かお一人で来るって言ってましたよね」

 いつの間にか普段の強気な表情を取り戻していた白倉さんは、悪びれもせずに言った。

「そういえばそんな設定だったかな。あれ、ほとんど嘘。ごめんね」

「ほとんど、とは」

「海を見に行こう、っていうのは本当」

 何か言おうとした司くんを、白倉さんは片手で押しとどめた。

「私たちにあなたのおすすめの海、紹介してくれないかな。ここって海に近いんだもの、そういう場所、あるでしょ?」

 二人は黙って視線を交わしていたが、言葉のない戦いは、明らかに白倉さんの方が優勢であるようだった。そしてその結果、司くんのにべもない拒絶という私の予想は外れることとなった。ややためらった後に彼は小さくうなずくと、自宅の扉に鍵をかけて住宅街の裏側へと歩き出す。私と白倉さんは肩を並べると、黙って司くんの後ろをついていった。



 十分も歩くと、前方にはうっそうとした松林が見えてきた。木々の間を抜けてくる熱い風の中に、いつしか潮の匂いが含まれていることに私は気付く。やがて林は左右にそびえる茶色の幹に挟まれたトンネルとなり、前方にはわずかに光の出口が見えた。
 誰の足跡もついていない新雪の上を歩くように、私は松の枯葉をそっと踏みしめた。司くんのおすすめの、大切な海。きっと彼は、この回廊を凛ちゃんと何度もくぐり抜けたのだろう。その道を司くんは、今度こそ隠すことなく私たちに教えてくれている。

 そして松林を抜けた私たちは、目の前に輝く空と海と風を見た。絶えることなく押し寄せてくる波は荒く、私の心を強く揺さぶる。白倉さんは黒い髪を海賊の旗のようになびかせながら、感嘆の声を上げた。

「うわあ、すごいじゃない。玄界げんかいなだもこうしてみると、日本海とひと続きだって実感できるわね」

 その入江は地元では穴場的な場所なのだろう、人影はまばらで、ただ潮騒しおさいだけが繰り返し響いている。右手には白い護岸とその上から突き出している大小さまざまな帆が見え、そこがヨットハーバーだということが知れた。左手に目を移すと、深緑の木々を冠した小さな半島が、遠く北の大陸へとその手を伸ばしているのが見える。

 司くんは今まで歩いてきた岩壁の端に座ると、両足を海の方へと投げ出して、大きく伸びをした。

「先輩たちもどうですか。元寇げんこう防塁ぼうるいというわけにはいかないですけれど、ここの壁もなかなか高くて見晴らしがいいですよ」

 白倉さんが私の脇を肘でつつく。私はちらりと彼女を見ると、黙って彼の隣に座った。そして白倉さん自身はといえば、私たちから少し離れたところに屹立きつりつしたまま、腕を組んで遠く海を見ている。

「あの、司くん」

 我慢できずに声をかけた私に、彼は照れたように頭を下げた。私と同じように、気まずいままで夏休みを迎えたことに、後ろめたさを感じていたのかもしれない。慌てて頭を下げ返す私を、白倉さんが横目で面白そうに見ている。両手を後ろについた司くんは、まぶしそうに目を細めて水平線を眺めた。

「凛、海が好きだったんです。最後にいた病院も海のすぐ近くだったから、あいつ意外と入院生活が苦にならなかったみたいで。景色がよくてむしろ気に入ってる、なんて言ってましたよ。そんなわけないのにですね」

 うなずく私の顔を見て、司くんは少し笑った。

「外泊許可も出るくらいに、あの八月のころは本当に調子が良かったんですよ。環季先輩が見た写真も、その時に撮ったものなんです」

 確かに、写真に切り取られた凛ちゃんの笑顔は、夏の日差しにも負けないほどに快活そのものだった。それでも、透き通るような彼女のあの白い肌は、長い入院生活の結果であったのだろう。

「九月にあいつがいなくなってからの生活は、俺にとってはおまけみたいなものでした。学校も部活も、勉強も遊びも、全くつまらなくて。実際、バスケは退部してしまいましたし」

「そっか」

「生徒会長も辞めようと思っていたんですよ。先生に事情を話せば、それはきっと受理されるに違いありませんでしたから」

「……でも、中学を卒業するまで続けたんだよね」

「凛が言ってたんですよ。お兄ちゃんは馬鹿だけれど、生徒会長をしているときだけはかっこいいって。だから結局、生徒会長は辞めませんでした。途中で辞めたりしたら、あいつ絶対怒りますから。怒ると本当に怖いんですよ、凛は」

 司くんは海に顔を向けたままで、その声を少し大きくした。

「だから俺、会長が生徒会に誘ってくれた時、本当は嬉しかったんです。凛が、もう一度やんなさいよ、って言ってくれているような気がして」

 私ははっとして、白倉さんを振り返った。司くんの声は彼女にも届いているはずだが、白倉さんは無表情な顔を海に向けたまま、ただ潮風に髪を遊ばせている。

 何という事だ。彼女の新生徒会での初仕事は、司くんを勧誘したあの時にすでに始まっていたのか。妹さんを亡くして途方に暮れていた司くんを再び生徒会に参加させること、それが彼を立ち直らせるためのきっかけになればいい、そんな思惑を白倉さんは持っていたに違いない。司くんを生徒会に誘った理由が「経験者だったから」とは、そういう意味だったのか。

 私は白磁のように輝いている白倉さんの横顔を見つめた。司くんのこの一件でも証明されたように、彼女の行動にはやはり必ず理由がある。それならば、白倉さんが私を生徒会に誘った理由とは何だろう。今それを尋ねれば、彼女は私に答えてくれるだろうか。

 私は頭を一つ振ると、司くんへと向き直った。私にこんなに依存されては、白倉さんもやりづらいだろう。彼女が与えてくれた司くんへのチャンス、私は私自身のやりかたでプラスに変えてみせる。

「ねえ、司くん。凛ちゃんって、身長はどのくらい?」

「え、身長ですか。心臓が悪かったせいかそんなに伸びなくて、百四十ちょっとでしたが」

「そうか。それじゃあね、好きな食べ物は?」

「アイスクリーム」

「ばっかねえ、アイスが嫌いな女の子なんていないじゃない。もっと別の」

「じゃあ、お好み焼きかな?」

「ああ、可愛い。後はそうね、好きな音楽とか」

 質問攻めする私を、司くんは怪訝けげんな表情で見た。

「あの、環季先輩。どうしてそんなに凛のことを訊くんですか? 俺の周りの人たちはみんな、腫れ物にでも触るように、凛の話はなるべく避けているのに」

 私は司くんの右腕をつかんだ。まだまだ、全然足りないよ。

「私ね。凛ちゃんのことを、もっと知りたいの」

 戸惑う司くんの目を覗き込みながら、私は催促する。

「パスタ食べながら話したじゃない。たとえ遠く離れたとしても、その人のことを想い続けていれば過去になんてならないって。凛ちゃんについて詳しくなればなるほど、私も彼女をより身近に感じられるんだ。だからどんな小さなことでもいい、たくさん教えてくれるかな」

 司くんは一瞬呆然とした。

「……俺。いつまでも凛のことを引きずってちゃだめだって、忘れなきゃって」

「忘れるなんて、一番しちゃいけないことだよ。いつも一緒なんだよ、好きな時に会えるんだよ。君も凛ちゃんも、独りなんかじゃない」

 だが私たちは、その裏側にあるもう一つの真実にも気付いていた。小説の人物が心の中で生きていて、大切な言葉を伝え続けてくれることもある。記憶の底に隠れた歌が、くじけそうなときに勇気づけてくれることもある。それでも、失ったという気持ちは消えない、消してはならない。人間に痛みという感覚が与えられているのは、それを忘れないためなのだから。

「ありがとうございます、環季先輩。それでも、俺」

 司くんは私の肩に頭をもたれかけた。うつむいて震える彼を、私は左腕で抱き寄せる。

「凛の声が、聞きたい」

「そうだね。悲しい、悲しいよね」

 私たちは寄り添ったまま、誰にもはばかることなく泣いた。痛いときに泣く。こんな当たり前のことが、今までの私たちには出来なかった。自分を粗末に扱って、冷めたふりをするのはもうやめよう。大人になるって、そういうことじゃないはずだから。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

旧・革命(『文芸部』シリーズ)

Aoi
ライト文芸
「マシロは私が殺したんだ。」マシロの元バンドメンバー苅谷緑はこの言葉を残してライブハウスを去っていった。マシロ自殺の真相を知るため、ヒマリたち文芸部は大阪に向かう。マシロが残した『最期のメッセージ』とは? 『透明少女』の続編。『文芸部』シリーズ第2弾!

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

瞬間、青く燃ゆ

葛城騰成
ライト文芸
 ストーカーに刺殺され、最愛の彼女である相場夏南(あいばかなん)を失った春野律(はるのりつ)は、彼女の死を境に、他人の感情が顔の周りに色となって見える病、色視症(しきししょう)を患ってしまう。  時が経ち、夏南の一周忌を二ヶ月後に控えた4月がやって来た。高校三年生に進級した春野の元に、一年生である市川麻友(いちかわまゆ)が訪ねてきた。色視症により、他人の顔が見えないことを悩んでいた春野は、市川の顔が見えることに衝撃を受ける。    どうして? どうして彼女だけ見えるんだ?  狼狽する春野に畳み掛けるように、市川がストーカーの被害に遭っていることを告げる。 春野は、夏南を守れなかったという罪の意識と、市川の顔が見える理由を知りたいという思いから、彼女と関わることを決意する。  やがて、ストーカーの顔色が黒へと至った時、全ての真実が顔を覗かせる。 第5回ライト文芸大賞 青春賞 受賞作

問い・その極悪令嬢は本当に有罪だったのか。

風和ふわ
ファンタジー
三日前、とある女子生徒が通称「極悪令嬢」のアース・クリスタに毒殺されようとした。 噂によると、極悪令嬢アースはその女生徒の美貌と才能を妬んで毒殺を企んだらしい。 そこで、極悪令嬢を退学させるか否か、生徒会で決定することになった。 生徒会のほぼ全員が極悪令嬢の有罪を疑わなかった。しかし── 「ちょっといいかな。これらの証拠にはどれも矛盾があるように見えるんだけど」 一人だけ。生徒会長のウラヌスだけが、そう主張した。 そこで生徒会は改めて証拠を見直し、今回の毒殺事件についてウラヌスを中心として話し合っていく──。

もう一度『初めまして』から始めよう

シェリンカ
ライト文芸
『黄昏刻の夢うてな』ep.0 WAKANA 母の再婚を機に、長年会っていなかった父と暮らすと決めた和奏(わかな) しかし芸術家で田舎暮らしの父は、かなり変わった人物で…… 新しい生活に不安を覚えていたところ、とある『不思議な場所』の話を聞く 興味本位に向かった場所で、『椿(つばき)』という同い年の少女と出会い、ようやくその土地での暮らしに慣れ始めるが、実は彼女は…… ごく平凡を自負する少女――和奏が、自分自身と家族を見つめ直す、少し不思議な成長物語

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

処理中です...