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3-EX アレイナ・リーナス
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***
ここオーヴという名の町は、平和な町だ。
ダオレイスという世界的規模で見ても栄えているトレゾール大陸の更に中心国であるグリーネ大国――、そのグリーネ大国に位置しながらも、その恩恵をオーヴは受けることは出来ていない。
理由は単純明快。オーヴという町は、グリーネ大国の中で最も小さな町であり、人々の関心が集まらないのだ。
スーデル街道というヴェルルと中心都市シンギルを結ぶ道に面していながらも、オーヴに人が集まることはなく、オーヴに訪れたとしても観光目的ではなく、そのほとんどが体を休めるためだけの素泊まりで利用されている。素泊まりで利用した旅人も、疲れが取れたらそのまま夜も明けない内に去っていくのが常だ。
だから、オーヴの住民達は、自分達が住みたいように町を作っており、まさにオーヴは住民たちにとって楽園と化していた。
争いも諍いもない、ただただ平然と時が流れる町――、それがオーヴであった。
「んー」
そんなオーヴの町に常駐している世界政府の一員、アレイナ・リーナスは今日も退屈だった。
業務の時間にも拘わらず、アレイナは大きく伸びをして、眠そうな顔を隠すことはしない。太陽の明るい日差しが燦々と降り注がれるような建物の構造、その中にずっと座り続けていれば眠くなることも当然だろう。
「今日もいい天気だなぁ」
アレイナは腕を伸ばしたまま、だらしなく机に突っ伏す。
世界政府のオーヴ支部にアレイナが配属されてから早三年くらい経つが、その間事件が起きたことは一度もない。そもそもアレイナが配属される前の先輩の代から、ここで事件が起こった例がないそうだ。
つまり、誰がいようといまいと関係のない支部――、それがオーヴだった。世界政府の間では、突出した才能のない者が追いやられる支部としてもっぱら有名であった。
しかし、そのような話はアレイナ・リーナスには関係のないことである。
アレイナの性格は基本的に穏やかで大雑把で、のんびり屋。その特徴は、平和な町オーヴと類似している。
世界政府の中で一番最適な場所に、アレイナは配属されていた。
「よっ、アレイナちゃん! 今日も平和そうで何よりだ」
「あ、リバーさん。お茶飲みますか?」
「お、いつも悪いねぇ」
朗らかな笑顔を携えて、オーヴ支部の門を開けたのはリバーという中年の男性だった。リバーはオーヴ支部に入るなり、我が物顔で椅子に腰を掛ける。普通、世界政府に関係する建物に入るならば、顔色を窺ったり、真剣な問題ごとを抱えているはずなのに、リバーからは一切そのような事情は垣間見えない。
「今日のお茶は、ラッツさんから頂いた茶葉なんですよ」
「おぉ、町長が栽培している茶葉は美味しいんだよね」
リバーは目の前に置かれたコップを手にし、お茶を飲んでいく。アレイナも自分用に入れたお茶をのんびりと飲み始めた。
「いやぁ、やっぱアレイナちゃんのいる場所は落ち着くねぇ」
「ありがとうございますぅ。あ、ところでリバーさん、知ってます?」
二人はお茶を飲みながら、雑談を始めた。二人の会話の内容は他愛もない事で、とても世界政府の支部の中で話すようなものではなかった。
そして、二人が雑談で本格的に花を開かせて来た頃、
「今日も盛り上がってるわね」
「アレイナちゃん、こんにちは!」
「あ、ミランダさんにディアナちゃん! こんにちは、今ジュース出すから待っててね」
「わーい」
ミランダとその子供ディアナがオーヴ支部にやって来た。
ディアナは微笑ましい姿で、世界政府特注のオーヴ支部の椅子に座り込んだ。ディアナが座ると、椅子は沈み込み、その分反動で弾み上がる。その感触が楽しいのか、ディアナは椅子の上で何度も身を弾ませた。
「ミランダ、旦那はどうしたんだ?」
「ああ、今日はゆっくり休みたいから家で一人にいさせてくれって言われたの。だから、アレイナのところに行こうかなって」
リバーの質問に、ミランダはディアナのことを見つめながら答える。
「はい、ジュース。ミランダさんもお茶どうぞ」
「いつもありがとう」
「わぁ、美味しい!」
ふかふかの椅子に興奮していたディアナも落ち着き、二人は目の前に出された飲み物を口にする。
そして、二人がコップから口を離し、息を吐こうとした瞬間、
「おっす、アレイナ! 遊びに来たぞ!」
「アレイナさん、聞いてくださいよぉ」
更に多くの人が押し寄せるように、オーヴ支部へと現れ始めた。
さすがに、この人数も二桁を越え始めると広さ的に厳しいものもある。それでも、アレイナは持ち前の能天気さが働いて、全く気に留めることはなかった。
オーヴにはこれといった観光名所もなく、人々が集まれるような娯楽施設もない。だから、オーヴの住民がこれ見よがしにアレイナ・リーナスがいるオーヴ支部に集まることは当然のこととも言えた。
これが平和な町オーヴの日常である。
***
世界政府とは、ダオレイスの秩序と平和を実質的に守る組織であり、人々から感謝と尊敬、そして憧れの念を抱かれ、本来ならば格式が高い組織だ。
それにも関わらず、世界政府に属するオーヴ支部は、もはや町の集会所のような住民の憩いの場となっていた。
アレイナがオーヴ支部で行なっていることは、オーヴの住民と密に関わることくらいだろう。しかし、その関わり方も、世界政府としてではなく、近所に住んでいる人と同じようなものだ。
そんなアレイナ・リーナスが行なう世界政府らしい仕事といえば、新聞等で世界の時事に詳しくなることと、半月に一回ほど世界政府の本部に提出する報告書の作成くらいであった。もちろん報告書に書くことは殆どない。
だが、そんなアレイナの平坦な世界政府生活に突如異変が起こった。
始まりは、オーヴに住むテリーという男の子の行方が分からなくなったことだった。
ここオーヴの町は小さく、遊ぶことも限られている。誰がどこで遊ぼうとも、すぐに町の人々に把握されてしまうことが、ある意味この町の特徴だ。オーヴに住む人が総出で町中を探せば、数時間も掛からずに網羅できるほど狭い町である。
それにも関わらず、テリーを見つけることは叶わなかった。
夜も深まり、これ以上の捜索は困難だと判断した住民達は、再び明日オーヴの町、加えて近くのスーデル街道やバルット荒地に範囲を広げることを決めた。わんぱくな年頃で、悪戯好きなテリーが、もしかしたらオーヴの人々の関心を集めようと、郊外に出たことも考えられたからだ。
しかし、人々の決意を嘲笑うように、次の日にまた一人行方不明者が増えた。
今度はテリーの友人だったアレックスという男の子だった。テリーとアレックスは二人揃ってオーヴの中では悪戯っ子として有名だ。
オーヴの人々は、二人を見つけたら悪戯を仕掛けたことを叱ろうと考えていた。そうすることで、ある一つの最悪な推測から逃れたかったのかもしれない。
けれど、どこを探してもテリーとアレックスを見つけることはおろか、手掛かり一つさえ掴むことは出来なかった。
なんとも不思議で、奇妙で、恐ろしい悪戯だろうか。もしオーヴの住民を困らせるためだけの悪戯なら、もうその目的は十分に叶った。しかし、住民達が手を上げても、テリーとアレックスが姿を現す様子は全くなかった。
正直、人々の表情には疲労の色が滲み始めていた。
そして、最初の失踪事件から二日後――、つまり三日目の日。人々は考えまいとしていた最悪な推測を、現実にして向き合わなければならなくなった。
オーヴで三人目の行方不明者が現れたのだ。今度はエマという女の子だった。
エマはテリーやアレックスと違って大人しく、お淑やかな子供だ。二人のように、オーヴの郊外へ黙って遊びに行くことは考えられなかった。
ここに来てようやく人々は、この平和な町オーヴで誘拐事件が多発しているという事実に思い当たった。
人攫いがこの静かな町であるオーヴを狙いに定めているという、最悪な事態だ。
そこで、町長であるラッツの指揮の元、オーヴの人々は主に男性を中心に捜索と警備に奮起するようになった。これ以上被害を増やさないことに加え、一刻も早く三人の子供を助けるためだ。
そして、残された女性や子供は、英雄シエル・クヴントに助けを祈り求めた。無事に子供達が戻るように、これ以上事件が起こることがないようにと、ひたすらに願い求めた。
幸い、翌日はシエル教団による巡回が近くの町ヴェルルで行なわれる。もしかしたら、巡回の恩恵を受け、行方不明になった子供達が見つかるかもしれない。
切羽詰まった人々は、ただひたすらに一筋の希望に縋るようになった。
そして翌日、人々の祈りが英雄に届いたのか、ここ三日間連続して起こっていた子供達の失踪事件は止まった。その日は、シエル教団による巡回が行なわれた。
人々は歓喜に溢れたが、それもしばらくの間だけで、すぐに子供達の捜索に移った。人攫いの手が止まったこの時こそ、チャンスだと踏んだのだ。
しかし、人々の努力は虚しく、やはり攫われた子供達を見つけることは叶わなかった。
全く光明の見えない捜索ではあったが、オーヴの人々は諦めることはしなかった。
そう希望はあるのだ。
英雄シエル・クヴントが共にし、きっとこの状況を打破してくれると信じている。
けれど次の日、人々の希望を打ち砕くように、再び一人の子供が小さなオーヴから姿を消した――。
***
「うぅ……」
オーヴ支部に一人籠っていたアレイナは、頭を抱えていた。
アレイナはぼんやりと部屋を見渡す。毎日あんなにも騒がしくなっていたオーヴ支部も、今やそんなことが本当にあったのかと疑いたくなるほど静まっていた。多くの人で賑わって狭いとさえ感じていた部屋の中も、アレイナ一人ではこんなにも広いものなのかと痛感した。
現在、オーヴは前代未聞の事態に見舞われている。もうこの町から四人の子供の行方が分からなくなり、人々はいつ終わるのかという不安に苛まれていた。
オーヴに住む人々は穏やかで人柄もよく、皆が家族のような親しさだったのに、人攫いのせいで余裕を失くしているのか、そのような姿はなくなっていた。
人々は家の外に出ることが少なくなっており、外出するとしても必要最低限の買い物くらいになっていた。
「……どうすればいいんだろ」
オーヴが直面している現実に、アレイナは思わずため息を吐いた。
今までこんな状況に面したことがないのだ。アレイナが迷いあぐねているのも致し方のない事だった。
アレイナは他支部に応援を求めるか、待機すべきか、自分が動くべきか、この場における最善の行動が何なのか分からなかった。
だから、アレイナは誰かがオーヴ支部の扉を開けるのを待っていた。
しかし、最初の事件発生からもう六日が経過しているというのに、誰もアレイナを――否、世界政府を頼ろうとはして来なかった。こうしている間にも、五人目の犠牲者が出てしまうかもしれないのだ。
このままでは何も力になれないまま終わってしまう。
アレイナは意を決して、自分から扉を開けてオーヴの町中へと飛び出した。
穏やかで波風が立たなかったオーヴの姿は、もう目の前にはなかった。
オーヴを漂う空気もピリピリと張り詰めた痛々しいものへと変わっていった。明らかに町全体の活気が落ちてしまっている。
今までアレイナが親しみを感じていたオーヴとは、まるで別物だった。
「……っ、リバーさん!」
「――ああ、アレイナちゃん。最近顔を出せなくてゴメンよ」
数日ぶりに見たリバーは、表情も反応も疲労が滲み出ていた。
リバーはこの町を活気付けてくれる底抜けに明るい男だ。年も五十手前に関わらず、年齢を感じさせないくらい若々しい。けれど、今のリバーの顔は年齢に比例していた。
「あ、あの……。私も何かした方が……」
「ああ。いいよ、いいよ。アレイナちゃんを危険な目に合わせる訳にはいかないから」
リバーは笑みを浮かべると、そのままアレイナの前から立ち去って行った。
アレイナはリバーの後を追いかけることはおろか、気の利いた言葉一つさえも掛けることが出来なかった。
リバーの笑顔は、いつも周りにもその笑みを、明るさを分け与えていた。
しかし、今リバーが浮かべた笑顔は引き攣った固いもので、見ていて無理をしているのは明らかだった。
きっとリバー以外にも、ほかのオーヴに住む人も同じだろう。
いつ次の被害者が出るか分からない不安、張り詰めた緊張、奪われ、壊された自由と平和――、それは過度なストレスとなり、穏やかに過ごして来た人々を苦しめている。
きっとこれは自分の出る幕ではない。アレイナに出来ることの許容量を遥かに超えているのだ。
アレイナはそう思い、大人しくオーヴ支部に戻ろうとした時だった。
薄暗い物陰の中、二人の人物が何かこそこそと話している姿が見えた。そして、その人物に見覚えのあったアレイナは、オーヴ支部へと向けていた足を翻し、
「ラッツさん、ディートさん」
物陰にいた二人の名前を呼んだ。
突然のアレイナの声に、ラッツとディートは肩を撥ねらせて驚いた。思わずアレイナも驚いてしまうほどの反応だった。
ラッツとディートは、恐る恐る背後を振り返り、そこにいる人物がアレイナだということを確かめると、安堵の息を吐いた。
「……おお、アレイナか。すまんなぁ、最近町が騒がしいだろう」
「あ、いえ。別にラッツさんが謝ることでは……」
アレイナを諭すためか、穏やかな笑みを湛えたまま話し掛けるラッツに、アレイナは首を振って答える。
そして、三人の間で沈黙が流れてしまった。
いつもとは違う、互いに互いを探り合うような張り詰めた空気が漂っていた。鈍感なアレイナでさえも察することが出来るほど、異質な空気だった。ただし、その原因まではアレイナには分からない。
「そ、そういえば、最近変な事件ばっかりダオレイスで起こってますね。この前のシエル教団の巡回も、クルム・アーレントって人に邪魔されたみたいですし」
「……そうだな」
話題に困ったアレイナは、先日見た新聞の話をした。事実、ここ最近のダオレイスは荒れていて、只事ではない雰囲気が流れていることが新聞からも読み取れた。このまま進んでは、何かよからぬことでも起こるのではないかと途方もない不安に苛まれる。極め付けに、この世界に住む人々の希望の象徴でもあるシエル教団の巡回に、罪人クルム・アーレントによって水が差されてしまったのだ。
しかし、ラッツの反応は悪かった。アレイナの話を横流しにし、自分の考えに耽っているように見える。
それもそうだ。この状況の中で、世間話などしている余裕などあるはずがないだろう。
アレイナは思い切って、
「どうですか、事件の状況は?」
単刀直入に尋ねた。
しかし、アレイナの問いに、ラッツは苦い顔を浮かべる。
「実は犯人の目星を付けることが出来たのだが……、正直この町は予想よりも遥かに危うい状況に陥っている」
「危うい状況……ですか?」
ラッツは小さく頷いた。ディートは値踏みするかのように、視線を逸らすことなくアレイナのことを見つめている。
「ティルダ・メルコスという人物がまとめているメルコス組が、この事件に関わっているようなんだ」
「メルコス組……」
いつかの新聞でそのような名前を見た覚えがあったのを、アレイナは思い出した。最近勢いがついている少数精鋭の団体らしい。勢いが増している裏には、非合法な行ないがたくさんあるのだろう。
「そして、奴らはバルット荒地にあるボロ屋を仮の拠点にして、この町の子供を攫っている」
「なら、このことを皆に!」
居場所まで分かっているなら、もう問題はないはずだ。
どうしてラッツとディートが渋っているのかが分からないが、やるべきことは決まっているはずだ。
オーヴに住む人手を集めて、攫われた子供達を奪還すること――、それが何においても最優先事項だ。
そう判断し、アレイナが踵を返した時――、
「余計なことをするなよ、アレイナ」
ラッツの制止が入った。その声は、今までに耳にしたことのない冷酷なものだった。
「な、なんでですか……?」
アレイナは理解が出来ず、その理由を問いかけた。その声は、自分でも分かるほど震えていた。
「メルコス組には、腕利きの用心棒がいるという情報を、ここにいるディートが掴んだ」
「はい。メルコス組の用心棒は、正直別格です。オーヴに住む人総出で挑んでも、彼にとっては準備運動にもならないでしょう」
ディートの言葉に、ラッツはゆっくりと確かに頷く。
「もし我々が無謀な挑戦をして、返り討ちにあってこの町が崩壊したらしょうもない話だろう? 幸か不幸か、今のところ被害を受けているのは子供達だけだ。だから、このままでいれば、町は助かる」
ラッツの声を耳にする度、アレイナは拳を強く握り締めていた。
ラッツの言葉は、ある意味では正しいのかもしれない。
けれど、それは自分のことしか考えていない保身的な考えだ。
「子供達を犠牲にするんですか? このことをみんなが知れば――」
「だから、言っただろう? この情報を知っているのは、私とディート。そして、アレイナだけだ」
ラッツの言い方は、有無を言わせないような圧力があった。
「分かっておるな。他言は無用だぞ。これは――、町長命令だ」
そう最後に言い残すと、ラッツとディートはアレイナの前から姿を消していった。
この時ほど、アレイナは自分自身にもどかしさを感じたことはなかった。
もしアレイナに力があれば、オーヴの状況を自分で打破することが出来たはずだ。けれど、アレイナにはその力がない。安逸な環境に染まって生きて来たのだ、今までやって来たものがない。そもそもどう動いていいのかさえ分からずにいる。
本当に困った時、アレイナは誰に頼られることはなかった。
「……はぁ」
いつも能天気なアレイナには珍しく溜め息を吐くと、肩を落としながらオーヴ支部へと戻った。
――そして、五人目の犠牲者が出たのは、この直後だった。
***
カランコロン、と誰かが門を開く音が聞こえた。
その音に、アレイナはやや遅れて顔を上げる。誰かがオーヴ支部の門を開けるなんて、ここ数日では珍しいことだった。
見ると、そこには見たことのない女性が立っていた。アレイナよりも若く、若草色の瞳に束ねられた髪は、その女性の快活さを感じさせる。
そして、その手にはアレイナによく見覚えのあるエインセルがあった。
つまり、彼女は――、
「大陸支部のリッカ・ヴェントです。オーヴ立ち入りの申請をしたいのですが」
世界政府の人間――アレイナの同僚だった。
大陸支部と言うことは、彼女にはこのトレゾール大陸の中を自由に駆け回る権限が付与されている。
大陸支部に所属されるには、相当な実力がないといけないはずだ。
それなのに、アレイナよりも見た目が若いリッカが大陸支部に所属されているということは、彼女はきっとアレイナの想像にも及ばないくらい優秀なのだろう。
「あのー、手続きをしていただいてもいいですか?」
「あ、ひゃい! 今すぐやりますね!」
ぼーっとリッカのことを見ていたアレイナは、リッカの声に体を撥ねらせ、急いで仕事に取り掛かった。
といっても、普段全くといっていいほど、世界政府としての仕事が舞い降りてこない環境だ。ほぼ初めてに近い作業に、アレイナは戸惑っていた。
「え、えーっと、確か、ここにエインセルを置いて、それで、えーっと」
「あ、慌てないで大丈夫ですよ。ゆっくりやってください」
「うぅ、この町に世界政府の人が来るなんて全然ないから、覚えてなくて」
「私もまだ新米なので、分からないことだらけです。えーっと」
「あ、私はアレイナです。アレイナ・リーナス」
言いあぐねていたアレイナは、リッカの言いたいことを敏感に感じ取って、自らの名前を伝えた。そう言えば、まだアレイナは名乗っていなかったのだ。
アレイナの名前を聞いたリッカは、ニッコリと人懐っこい笑みを浮かべると、
「アレイナさんですね。私はリッカ・ヴェントです」
「さっき聞いたから知ってますよぉ」
アレイナの指摘に、リッカも顔はみるみる赤くなった。
恥ずかしがるリッカの姿を見て、アレイナは数日振りに声を出して笑った。この場所に誰かが来ること自体が久し振りで、最近誰かと話をすることもなかった。
心に突っかかっていたしこりが、アレイナの中から萎んでいくのが分かった。
「リッカさん、お茶飲みますか? ちょっと時間が掛かりそうなので、ゆっくりしていってください」
「敬語なんていらないですよ。お言葉に甘えさせていただきますね」
「はーい。よっと――、はいどうぞ。手続きが終わるまでゆっくり休んでてね、リッカちゃん」
「あ、ありがとうございます」
アレイナは慣れた手つきで、リッカの前にお茶を出す。リッカはその速さに、思わず驚いた。
「……すごい」
「ふふっ」
そして、驚くのは速さだけではなかった。ちゃんと味も美味しかったのだ。アレイナが出したお茶に心を奪われたリッカを見たアレイナは、気分を良くさせながら仕事に取り掛かった。
一度に多くの人を一人でもてなすアレイナだ。このオーヴの中で、お茶を出すことにおいてアレイナを超える者はいないだろう。
「えーっと、ここにエインセルを置いて……、承認ボタンを押して……」
アレイナは一つ一つ口にして確かめながら、リッカに世界政府としての滞在に許可出ししていく。
「それから……」
作業を続けるアレイナの耳に、ふと激しく食器がぶつかる音が入って来た。
「リッカちゃん? どうかしたの?」
アレイナは作業を止め、リッカを振り返った。
振り返った先には、目の前に新聞を広げているリッカの姿があった。リッカの表情は、どこか青ざめているように見えた。
しかし、それも一瞬だけで、アレイナの声にリッカはハッと我に返ると、
「あ、いえ、何でもありません」
アレイナの前で何事もなかったかのように笑みを見せた。
しかし、そのリッカの表情はどこか無理が生じているようだった。
「……もし何かあったら遠慮なく言ってね」
「はい、お気遣いありがとうございます」
同じ世界政府の仲間とはいえ、今日初めて会ったばかりの二人だ。アレイナはどこまで踏み込んでいいのか分からず、ひとまず無難な言葉を掛けてから、再び作業に取り組んだ。
リッカのエインセルにオーヴの情報を読み取らせながら、アレイナはリッカの様子を盗み見た。
リッカは真剣な表情で新聞を読んでいた。その新聞がいつのものなのか、何が書かれているのか、アレイナには分からなかった。時折、悔しそうな表情をするのが印象的だった。
そんなリッカのことを見続けるのは、どこか申し訳ない気がして、アレイナは業務に集中することにした。
そして、暫し無言の時間がオーヴ支部の中を流れて、
「よぉし、出来た。そしたら、はい。これでリッカちゃんのエインセルに、滞在許可とオーヴの詳細な地図が発行されたはずだよ」
「ありがとうございます」
アレイナからエインセルを受け取ったリッカは、早速エインセルの中を確認する。操作を進めていく内に、エインセルの中でオーヴの詳細な地図が表示された。
その大きさは、普通の町と比べて明らかに小さいだろう。
リッカはオーヴの地図を考え込むように見つめると、
「アレイナさん。今この町で何か起きてるんですか?」
「え?」
ふと顔を上げてアレイナに問いかけた。アレイナは咄嗟のことで、上手く言葉を返すことが出来なかった。
リッカは頭の中で的確な言葉を探すように、少しの時間だけ沈黙した。
「……実はここに来るまでの間、オーヴを少し探索したのですが、どうも人々に余裕がないように見えました。何か只事ではない雰囲気が町を覆っているようようで、今すぐにでも解決しなければ――」
「さすがだね、リッカちゃん。世界政府に入ってすぐに大陸支部に所属される訳だよ」
「あ、いえ、そんな」
リッカは謙遜をしていたが、アレイナは本気でリッカに感心していた。
少なくとも、アレイナはこの町にずっと滞在していながらも、すぐにこの異変に気付くことはなかった。また気付いたとしても、アレイナはすぐに行動に移さなかった。
けれど、目の前にいるリッカは違った。
今さっき訪れた町の異変を直ちに察知し、どうにか窮地に陥っているオーヴを救えないかと悩んでいる。
「この町は、事件も何も起こらないことだけしかウリがないくらいに平和な町だったんだ。なのに、今この町で子供達の誘拐事件が起きてるの」
「誘拐……」
「最初は子供達の質の悪い悪戯かと思って、町の人もそこまで気にしなかったわ。でも、立て続けに子供達の姿が消えてしまえば、さすがに異常だと感じざるを得なかった。人々は躍起になって探し回ったけど、子供達の消息は分からないままだったの」
真剣な眼差しで語るアレイナを、リッカもまた真剣な表情で聞きとめる。
「それと――、最近この町に一番近い町でシエル教団の巡回が行なわれたでしょ? 住民達は、そこに一縷の望みを懸けることにした。英雄の恩恵が、この町に振り注がれることを願ってたんだ。でも、クルム・アーレントという罪人に邪魔されたことにより、その希望は潰されたの。そして、結果今も子供達の失踪は続いてしまっている。それから、人々の余裕のなさに拍車が掛かってしまったわ」
その瞬間、リッカが自分の膝の上で拳を握ったのが見えてしまった。
真面目なリッカは、きっとこのオーヴの事件の全貌を、全て自分のことのように思っているのだろう。加えて、リッカから受け取ったエインセルには、シエル教団による巡回の当日、リッカは現場であったヴェルルに滞在していた記録がある。そのことが、より一層リッカに自責の念を抱かせているのだろう。
アレイナはそう推測した。
「だから、余所者に風当たりが強いのも仕方がないのかもしれない。もし今目の前に罪人が現れたら、その人を犯人として見立ててしまうかもしれないわ」
アレイナは空気を和ますように細やかな冗談を織り交ぜたが、リッカは笑わなかった。むしろ、一層思い悩むような表情を浮かべさせてしまった。
リッカの雰囲気を感じ取ってか、アレイナは笑いを止めて下を向くと、
「でも、本当は――」
そこでアレイナは口を噤んだ。
思い出したのは昨日の出来事――、ラッツとディートのことだ。半ば脅しかけるようなラッツの言い方が鮮明に脳裏をよぎり、アレイナは首元を握られたような冷ややかな感触を得た。
「本当は……?」
いきなり黙り込んだアレイナを催促するように、リッカはアレイナと同じ言葉を繰り返した。
アレイナはゆっくりと息を呑む。
ここでアレイナが先日知った情報をリッカに伝えれば、何かが変わり始める――、そんな予感はあった。
それは自分自身か、ラッツ達か、はたまたオーヴという町ごとか。それは分からない。
アレイナはリッカに向けて顔を上げると、
「本当はそんな単純なものじゃないと私は思ってるの」
口から出た言葉は、アレイナが本当に伝えたい言葉ではなかった。
知り得る真実を全て明らかにする勇気はアレイナにはなかった。けれど、自分の意見を言うということは、アレイナにとっては大きな一歩だろう。
そして、二人の間で沈黙の時間が漂った。
どちらから何を言えばいいのか、探りあぐねているようだ。
「……ごめんね」
ふとアレイナの口から謝罪の言葉が出ていた。
何に対して謝っているのか、何故この言葉が出て来たのかさえもアレイナ自身分からない。
リッカは一瞬きょとんとした顔を浮かべた。
当然だ。脈絡もなく謝られても、言われた相手は困るだけだろう。
しかし、リッカは柔らかい表情を浮かべると、
「謝ることじゃないですよ」
包み込むような温かい声音で言った。
リッカの優しさに、アレイナは首を振る。
「私、あなたと同じ世界政府なのに何も出来ないの。町の人にも、事件に深入りしなくていいって言われるし」
言葉を紡いでいく内に、アレイナが何に対して謝ったのか分かった。
世界政府なのに事件を解決できないこと、住民の言葉に甘えていること、上手くリッカに情報を伝えられなかったこと。
何も行動を起こさなかった自分の弱さに嫌気が差し、申し訳のなさを抱いていたのだ。
「……」
リッカはアレイナの独白を黙って聞いていた。
本来なら、アレイナの話をリッカが聞く筋合いはなかった。この何もないオーヴ支部にいるよりも大切な仕事を、リッカは抱えているに違いない。
それでも、ちゃんと聞いてくれるリッカに、アレイナは好印象を抱いた。
「――私、だめだね」
改めて、このオーヴ支部に所属されてからの経験を振り返り、アレイナは自ら嘲笑を浮かべた。
自分が世界政府として残して来たことは、何もない。
「――アレイナさんは、この町の人にとって欠かせない人なんですね」
「え?」
しかし、そんな自暴自棄に陥っているアレイナに、思ってもいなかった言葉が降り注がれた。
アレイナはゆっくりと顔を上げていく。
目の前には、すべてを受け止める慈母のような笑みを湛えるリッカがいた。
「だって、そうじゃないですか。もしアレイナさんをただの世界政府の人間としてしか見ていなかったら、彼らはきっとアレイナさんのことを蔑ろに扱っているはずです。この事件の責任をすべてアレイナさん一人に押し付けてもおかしくはない。でも、アレイナさんのことを大切に思っているから、危険な目に合わせたくなくて、わざと関わらせないようにしているんですよ」
「……」
「だから、アレイナさんがこのオーヴ支部に来てから残したものはたくさんあると思います。ダメだなんてことは、絶対にありません」
アレイナは言葉を失って、リッカのことを見つめる。
確かにアレイナより幼いはずなのに、語るリッカはアレイナの数倍も多く多様なことを経験している熟練した人間に見えた。
「――って、私は思いますけどね」
話を区切ったリッカは、お茶目にも砕けた笑顔を見せた。
咄嗟の切り返しだったが、先ほどまでの真剣な口調と打って変わったリッカに、アレイナは思わず声を出して笑った。リッカもつられて笑う。
久し振りに、オーヴ支部の中に笑い声が満ち溢れる時間だった。
「ありがとう、リッカちゃん」
「いえ、私の方こそ手続きして頂いてありがとうございました」
そう言うと、リッカは椅子から腰を上げた。
「そろそろ私の連れが心配する頃なので、行きますね」
「あ、うん。ごめんね、なんだか長話に付き合わせちゃって」
「楽しかったですよ」
リッカはにこりと笑うと、オーヴ支部の扉に手を掛けた。
そして、ドアノブを捻り、外に出ようとした瞬間――、
「あ、そうだ」
思い出したようにリッカは扉の前で留まり、アレイナの方に振り返った。
「アレイナさん、今日か明日には忙しくなると思うので、覚悟してくださいね」
「――え、どういうこと?」
リッカの言う意味が分からずに、アレイナは疑問符を上げていた。
「私と――、そして、私の連れの人騒がせなお人好しが、この事件を解決して来ますから」
そう言い残すと、今度こそリッカはオーヴ支部を颯爽と飛び出していった。
***
結局、次の日にはリッカの言う通り、オーヴを騒がしていたメルコス組がバルット荒地で拘束され、事件が収拾された。
アレイナがその事実を知ったのは、眠りから目を覚ました直後、顔なじみのリバーが大慌てでオーヴ支部の扉を叩いた時だった。
「アレイナちゃん! 大変だ!」
「ど、どうしたんですか?」
その慌てぶりから、またオーヴに只ならぬことが起こったと容易に察することが出来、アレイナの声も自然と上擦んだ。
リバーは一度呼吸を整えるために、唾を呑み込むと、
「今、子供達が帰って来たんだよ!」
息を荒げながらそう言った。
アレイナはリバーが話したことを、一瞬理解することが出来なかった。
「え?」
「だから、今まで失踪した子供達五人が全員無事に帰って来たんだって! 誰一人怪我もない!」
思わず聞き返すアレイナに、リバーは声を荒げる。しかし、その声の荒げ方にマイナスの感情はない。あまりの嬉しさに、自分でも感情のコントロールをすることが出来ないでいるのだろう。
その証拠に、リバーの顔は明らかに綻んでおり、安堵していることが丸分かりだった。
「い、一体どうやって……」
そう言いながら、アレイナの脳裏には昨日出会ったリッカ・ヴェントのことが思い浮かんでいた。
この事態を収束させたのは間違いなく、リッカとリッカの言う人騒がせなお人好しだ。
「どうやら、誰かが連れ戻してくれたらしい。俺も詳しくは知らないんだが……」
「まだいるんですか?」
リバーが慌ててここまで教えに来てくれたということは、子供達がオーヴに帰って来てからそこまでの時間は経過していないはずだ。
「……あ、ああ、たぶん」
リバーの言葉を聞くと、アレイナは自然と体が動いていた。
「あ、アレイナちゃん! どこへ行くんだ?」
「ちょっと確かめたいことがあるんです!」
アレイナはオーヴ支部を振り返ることなく、この町の事件を解決した人物を目指して駆け出していた。
***
ここまで走ったのはいつぶりだろうか。暫くの間、全力で走るということをしていなかった。
今まで怠けていたつけか、心臓が高鳴り、足もパンパンに引き攣っていくのが感じられた。
オーヴの人々が、物珍しそうにアレイナのことを見ていたが、それでも構わなかった。
とにかく、リッカにもう一度会てみたかったのだ。
しかし、オーヴという町は小さいのにも関わらず、アレイナは目的とする人物に出会うことは叶わなかった。
それでも止まらない。ここで止まると、二度とこの場所から飛び出して世界を目にする機会がなくなるとアレイナは何となく直感していた。
恥ずかしい話ながら、アレイナは今まで一度も事件の現場に立ち会ったことがない。
オーヴ支部に配属される前――つまり、世界政府の見習いの立場の時も、運がよくも悪くもアレイナは事件の現場に出会ったことはなかった。
当時のアレイナは、それでもいいと思っていた。命の危険に晒されることはないからだ。
そして、事件に立ち会う機会もなかったアレイナは、現在穏やかな環境にいることに加えて天性の穏やかな性格もあり、一層増してゆっくりとした呑気な性格に変わった。それは到底、世界政府のものとは思えない性格だった。
けれど、元々アレイナが世界政府になりたいと思った理由は、困っている人の力になりたいと思ったからだ。
それは、まさに自らの命も顧みずに事件の最前線へと突き進み、事件を解決してしまうリッカ・ヴェントのように――。
そして、名前も顔も分からない人騒がせなお人好しという人のように――。
その記憶を思い出させてくれた二人に、アレイナはどうしても話がしてみたかった。
「――!」
そして、アレイナはようやく念願の人影を見つけた。
オーヴとスーデル街道との境目――、そこからリッカの背中と子供を背負っている一人の青年の姿が小さく見えた。もうだいぶ遠く離れてしまっている。
そこでアレイナは一度立ち止まり、考えた。
今更追いかけたところで、きっと迷惑だろう。当然のことだ。分かっている。頭では、分かっていた。
しかし、アレイナの足はオーヴの町を飛び出して、スーデル街道を歩いているリッカ達に向かっていた。
「――――リッカちゃん!」
声が届くか届かないか分からない距離にも拘わらず、アレイナは声を張り上げていた。
予想通り声は届くことはなく、リッカ達は続けて歩いていく。
「――リッカちゃん!」
アレイナは声が届くまで、走りながら何度もリッカの名前を呼んだ。
そして声を張り上げて何度目になるか分からないが、
「……アレイナさん?」
ようやくリッカが足を止め、アレイナの方に振り返った。隣にいる青年も足を止め、アレイナに顔を向ける。
アレイナはリッカの前まで辿り着くと、膝に手を添えて息を整えた。
「ど、どうしたんですか? こんなところまで……」
そんなアレイナの姿を見て、リッカは心配そうに声を掛けた。リッカにとっては、アレイナがこんなに息を切らしてまで追いかけて来る理由がないのだから当然だろう。
「はぁ、はぁ。あ、ありがとう!」
「え?」
満面の笑みを浮かべるアレイナに、リッカは間の抜けた声を漏らした。
「リッカちゃんとそちらの人騒がせなお人好しさんが解決してくださったんですよね。私、どうしても直接お礼が言いたくて……」
「そ、そうですけど」
「あなた達が来なければ、この町はきっと終わってたわ。本当にリッカちゃん達が来てくれてよかった」
口を濁すリッカに構わず、アレイナはリッカの手を思い切り握り締める。
「良かったですね、リッカさん」
「何を言ってるんですか! 私はあなたにも感謝しているんですよ、クル……人騒がせなお人好しさん!」
隣で他人事のようにリッカに言葉を掛ける青年に、アレイナはリッカの手を強く握りながら、顔だけを向ける。
希望を宿したような青年の黄色い瞳が、大きく開かれた。
「その怪我を見れば、あなたがこの町の子供のためにどれだけ頑張ってくださったのか分かります! だから、世界政府として――いや、オーヴを代表して私からお礼を言わせてください。本当にありがとうございました!」
その勢い、アレイナは頭を大きく下げた。
「あの、僕は――」
「それでは、私はこれでオーヴに戻りますね」
青年の言葉を遮り、アレイナは顔を上げると、リッカ達とは反対方向へと歩き始めた。
「あの、アレイナさん!」
リッカの声にアレイナは一度足を止め、振り返る。リッカは隣にいる青年をちらちらと横目にしながら、何かもの言いたげにしていた。
「えっと、この隣の人は――」
「これから忙しくなるんでしょ? メルコス組の後始末に、オーヴもヴェルルも騒がせたお人好しさんについても町の人に話していかなきゃ」
リッカに言葉の続きを言わせないかのように、アレイナはもう一度大きく頭を下げた。
「――」
オーヴという町の恩人である、リッカ・ヴェントとクルム・アーレントが息を呑んだのが感じられた。
そのことが、アレイナはたまらなく嬉しかった。
「じゃあ、またね」
アレイナは満面の笑みをリッカとクルムに見せると、今度こそオーヴへと戻っていった。
***
リッカとクルムに会って、話したいことが全部話せたのかは分からなかった。
けれど、一番伝えたいことは伝えたはずだ。
本当にリッカとクルムには感謝の想いしかなかった。
無関係の町にも拘わらず、リッカ達は命を懸けて、この町を守ってくれた。
それは、普通の人には成せない、本当にすごいことだ。世界政府であるアレイナ自身が、一番分かっている。
最後に二人を直接見送ることが出来て、改めて良かった。
それに今世界を賑わせている罪人クルム・アーレントも、いざ目の前で彼の姿を見て、その噂も違っていることが分かった。
クルム・アーレントは人々に不安や恐怖を与えるような人間でもなければ、無闇に目立とうとする人間でもない。
これからリッカの言う通り、アレイナは確かに忙しくなりそうだ。
世界政府にオーヴで起こった事件を報告すること、オーヴの人々の暮らしを取り戻すこと、そしてクルムの誤解を解くこと――、やることは様々ある。
不思議と忙しくなることを楽しみとしているアレイナ・リーナスがいた。
「アレイナちゃぁん!」
オーヴに戻って来たアレイナを迎えたのは、メルコス組に攫われていた子供達だった。まさしくリッカ達によって守られたこの町の未来、そのものだ。
「――テリーくん、アレックスくん、エマちゃん、……みんな。無事で本当によかった!」
「アレイナちゃん、苦しいよぉ」
腕の中に温もりを感じる。誰一人欠けることなく、この町に戻って来てくれた。これは夢ではなく、現実だ。
「こんな町の出口まで来て、どうしたの?」
「もうエーユーは行っちゃったの?」
「え?」
「シンクとクルムとリッカちゃんのことだよ!」
嬉々と語る子供達の表情には、嘘偽りがない。子供達同士で交わされる言葉は、放っておいたらいつまでも続いていきそうだった。
「ねぇ、もしよかったら、そのお話の続きはオーヴ支部でジュースでも飲みながらにしない?」
アレイナは膝を屈めて、子供達と同じ目線で問いかける。
その瞬間、子供達の目がキラキラと輝くのが見て分かった。
「え、ジュースくれるの?」
「うん、もちろん」
「わぁい! ありがとう、アレイナちゃん!」
「早く行こうぜ、アレイナ!」
子供達は自分の家のように慣れ親しんだオーヴ支部に走り出した。エマはアレイナの手を掴んで、急かすように引っ張っていく。
子供達を包み込むように太陽に光が差し込んだ。その眩さに、アレイナは思わず目を閉じる。
もう二度と子供達を――、未来を失わないために、アレイナは自分に出来ることをやることを決めた。
きっと今更なのだと思う。
それでも、アレイナは世界政府の一員として生きていくことを決意した。
今回の事件が起こらなければ、アレイナはオーヴ支部という場所に籠って、平凡に生きて続けたに違いない。けれど、そのままではいけないと思い知らされた。
自分から行動しなければ、変わる事なんて一つたりともありはしない。
「そんな急がなくても、ジュースはなくならないよぉ」
そう言うアレイナだったが、速度を緩めて子供達に水を差すような真似をするつもりはなかった。
――この瞬間、オーヴ支部に初めて世界政府の人員が配属されるようになった。今までにもいることにはいたが、今度は名ばかりではない。
その名前は、アレイナ・リーナス。
人よりも少しおっとりでのんびりしていて、人よりも一歩を踏み出すのが遅いところもあるが、優しい心に僅かに燻ぶらせた正義感を抱く、確かに世界政府に選ばれた女性だ。
ここオーヴという名の町は、平和な町だ。
ダオレイスという世界的規模で見ても栄えているトレゾール大陸の更に中心国であるグリーネ大国――、そのグリーネ大国に位置しながらも、その恩恵をオーヴは受けることは出来ていない。
理由は単純明快。オーヴという町は、グリーネ大国の中で最も小さな町であり、人々の関心が集まらないのだ。
スーデル街道というヴェルルと中心都市シンギルを結ぶ道に面していながらも、オーヴに人が集まることはなく、オーヴに訪れたとしても観光目的ではなく、そのほとんどが体を休めるためだけの素泊まりで利用されている。素泊まりで利用した旅人も、疲れが取れたらそのまま夜も明けない内に去っていくのが常だ。
だから、オーヴの住民達は、自分達が住みたいように町を作っており、まさにオーヴは住民たちにとって楽園と化していた。
争いも諍いもない、ただただ平然と時が流れる町――、それがオーヴであった。
「んー」
そんなオーヴの町に常駐している世界政府の一員、アレイナ・リーナスは今日も退屈だった。
業務の時間にも拘わらず、アレイナは大きく伸びをして、眠そうな顔を隠すことはしない。太陽の明るい日差しが燦々と降り注がれるような建物の構造、その中にずっと座り続けていれば眠くなることも当然だろう。
「今日もいい天気だなぁ」
アレイナは腕を伸ばしたまま、だらしなく机に突っ伏す。
世界政府のオーヴ支部にアレイナが配属されてから早三年くらい経つが、その間事件が起きたことは一度もない。そもそもアレイナが配属される前の先輩の代から、ここで事件が起こった例がないそうだ。
つまり、誰がいようといまいと関係のない支部――、それがオーヴだった。世界政府の間では、突出した才能のない者が追いやられる支部としてもっぱら有名であった。
しかし、そのような話はアレイナ・リーナスには関係のないことである。
アレイナの性格は基本的に穏やかで大雑把で、のんびり屋。その特徴は、平和な町オーヴと類似している。
世界政府の中で一番最適な場所に、アレイナは配属されていた。
「よっ、アレイナちゃん! 今日も平和そうで何よりだ」
「あ、リバーさん。お茶飲みますか?」
「お、いつも悪いねぇ」
朗らかな笑顔を携えて、オーヴ支部の門を開けたのはリバーという中年の男性だった。リバーはオーヴ支部に入るなり、我が物顔で椅子に腰を掛ける。普通、世界政府に関係する建物に入るならば、顔色を窺ったり、真剣な問題ごとを抱えているはずなのに、リバーからは一切そのような事情は垣間見えない。
「今日のお茶は、ラッツさんから頂いた茶葉なんですよ」
「おぉ、町長が栽培している茶葉は美味しいんだよね」
リバーは目の前に置かれたコップを手にし、お茶を飲んでいく。アレイナも自分用に入れたお茶をのんびりと飲み始めた。
「いやぁ、やっぱアレイナちゃんのいる場所は落ち着くねぇ」
「ありがとうございますぅ。あ、ところでリバーさん、知ってます?」
二人はお茶を飲みながら、雑談を始めた。二人の会話の内容は他愛もない事で、とても世界政府の支部の中で話すようなものではなかった。
そして、二人が雑談で本格的に花を開かせて来た頃、
「今日も盛り上がってるわね」
「アレイナちゃん、こんにちは!」
「あ、ミランダさんにディアナちゃん! こんにちは、今ジュース出すから待っててね」
「わーい」
ミランダとその子供ディアナがオーヴ支部にやって来た。
ディアナは微笑ましい姿で、世界政府特注のオーヴ支部の椅子に座り込んだ。ディアナが座ると、椅子は沈み込み、その分反動で弾み上がる。その感触が楽しいのか、ディアナは椅子の上で何度も身を弾ませた。
「ミランダ、旦那はどうしたんだ?」
「ああ、今日はゆっくり休みたいから家で一人にいさせてくれって言われたの。だから、アレイナのところに行こうかなって」
リバーの質問に、ミランダはディアナのことを見つめながら答える。
「はい、ジュース。ミランダさんもお茶どうぞ」
「いつもありがとう」
「わぁ、美味しい!」
ふかふかの椅子に興奮していたディアナも落ち着き、二人は目の前に出された飲み物を口にする。
そして、二人がコップから口を離し、息を吐こうとした瞬間、
「おっす、アレイナ! 遊びに来たぞ!」
「アレイナさん、聞いてくださいよぉ」
更に多くの人が押し寄せるように、オーヴ支部へと現れ始めた。
さすがに、この人数も二桁を越え始めると広さ的に厳しいものもある。それでも、アレイナは持ち前の能天気さが働いて、全く気に留めることはなかった。
オーヴにはこれといった観光名所もなく、人々が集まれるような娯楽施設もない。だから、オーヴの住民がこれ見よがしにアレイナ・リーナスがいるオーヴ支部に集まることは当然のこととも言えた。
これが平和な町オーヴの日常である。
***
世界政府とは、ダオレイスの秩序と平和を実質的に守る組織であり、人々から感謝と尊敬、そして憧れの念を抱かれ、本来ならば格式が高い組織だ。
それにも関わらず、世界政府に属するオーヴ支部は、もはや町の集会所のような住民の憩いの場となっていた。
アレイナがオーヴ支部で行なっていることは、オーヴの住民と密に関わることくらいだろう。しかし、その関わり方も、世界政府としてではなく、近所に住んでいる人と同じようなものだ。
そんなアレイナ・リーナスが行なう世界政府らしい仕事といえば、新聞等で世界の時事に詳しくなることと、半月に一回ほど世界政府の本部に提出する報告書の作成くらいであった。もちろん報告書に書くことは殆どない。
だが、そんなアレイナの平坦な世界政府生活に突如異変が起こった。
始まりは、オーヴに住むテリーという男の子の行方が分からなくなったことだった。
ここオーヴの町は小さく、遊ぶことも限られている。誰がどこで遊ぼうとも、すぐに町の人々に把握されてしまうことが、ある意味この町の特徴だ。オーヴに住む人が総出で町中を探せば、数時間も掛からずに網羅できるほど狭い町である。
それにも関わらず、テリーを見つけることは叶わなかった。
夜も深まり、これ以上の捜索は困難だと判断した住民達は、再び明日オーヴの町、加えて近くのスーデル街道やバルット荒地に範囲を広げることを決めた。わんぱくな年頃で、悪戯好きなテリーが、もしかしたらオーヴの人々の関心を集めようと、郊外に出たことも考えられたからだ。
しかし、人々の決意を嘲笑うように、次の日にまた一人行方不明者が増えた。
今度はテリーの友人だったアレックスという男の子だった。テリーとアレックスは二人揃ってオーヴの中では悪戯っ子として有名だ。
オーヴの人々は、二人を見つけたら悪戯を仕掛けたことを叱ろうと考えていた。そうすることで、ある一つの最悪な推測から逃れたかったのかもしれない。
けれど、どこを探してもテリーとアレックスを見つけることはおろか、手掛かり一つさえ掴むことは出来なかった。
なんとも不思議で、奇妙で、恐ろしい悪戯だろうか。もしオーヴの住民を困らせるためだけの悪戯なら、もうその目的は十分に叶った。しかし、住民達が手を上げても、テリーとアレックスが姿を現す様子は全くなかった。
正直、人々の表情には疲労の色が滲み始めていた。
そして、最初の失踪事件から二日後――、つまり三日目の日。人々は考えまいとしていた最悪な推測を、現実にして向き合わなければならなくなった。
オーヴで三人目の行方不明者が現れたのだ。今度はエマという女の子だった。
エマはテリーやアレックスと違って大人しく、お淑やかな子供だ。二人のように、オーヴの郊外へ黙って遊びに行くことは考えられなかった。
ここに来てようやく人々は、この平和な町オーヴで誘拐事件が多発しているという事実に思い当たった。
人攫いがこの静かな町であるオーヴを狙いに定めているという、最悪な事態だ。
そこで、町長であるラッツの指揮の元、オーヴの人々は主に男性を中心に捜索と警備に奮起するようになった。これ以上被害を増やさないことに加え、一刻も早く三人の子供を助けるためだ。
そして、残された女性や子供は、英雄シエル・クヴントに助けを祈り求めた。無事に子供達が戻るように、これ以上事件が起こることがないようにと、ひたすらに願い求めた。
幸い、翌日はシエル教団による巡回が近くの町ヴェルルで行なわれる。もしかしたら、巡回の恩恵を受け、行方不明になった子供達が見つかるかもしれない。
切羽詰まった人々は、ただひたすらに一筋の希望に縋るようになった。
そして翌日、人々の祈りが英雄に届いたのか、ここ三日間連続して起こっていた子供達の失踪事件は止まった。その日は、シエル教団による巡回が行なわれた。
人々は歓喜に溢れたが、それもしばらくの間だけで、すぐに子供達の捜索に移った。人攫いの手が止まったこの時こそ、チャンスだと踏んだのだ。
しかし、人々の努力は虚しく、やはり攫われた子供達を見つけることは叶わなかった。
全く光明の見えない捜索ではあったが、オーヴの人々は諦めることはしなかった。
そう希望はあるのだ。
英雄シエル・クヴントが共にし、きっとこの状況を打破してくれると信じている。
けれど次の日、人々の希望を打ち砕くように、再び一人の子供が小さなオーヴから姿を消した――。
***
「うぅ……」
オーヴ支部に一人籠っていたアレイナは、頭を抱えていた。
アレイナはぼんやりと部屋を見渡す。毎日あんなにも騒がしくなっていたオーヴ支部も、今やそんなことが本当にあったのかと疑いたくなるほど静まっていた。多くの人で賑わって狭いとさえ感じていた部屋の中も、アレイナ一人ではこんなにも広いものなのかと痛感した。
現在、オーヴは前代未聞の事態に見舞われている。もうこの町から四人の子供の行方が分からなくなり、人々はいつ終わるのかという不安に苛まれていた。
オーヴに住む人々は穏やかで人柄もよく、皆が家族のような親しさだったのに、人攫いのせいで余裕を失くしているのか、そのような姿はなくなっていた。
人々は家の外に出ることが少なくなっており、外出するとしても必要最低限の買い物くらいになっていた。
「……どうすればいいんだろ」
オーヴが直面している現実に、アレイナは思わずため息を吐いた。
今までこんな状況に面したことがないのだ。アレイナが迷いあぐねているのも致し方のない事だった。
アレイナは他支部に応援を求めるか、待機すべきか、自分が動くべきか、この場における最善の行動が何なのか分からなかった。
だから、アレイナは誰かがオーヴ支部の扉を開けるのを待っていた。
しかし、最初の事件発生からもう六日が経過しているというのに、誰もアレイナを――否、世界政府を頼ろうとはして来なかった。こうしている間にも、五人目の犠牲者が出てしまうかもしれないのだ。
このままでは何も力になれないまま終わってしまう。
アレイナは意を決して、自分から扉を開けてオーヴの町中へと飛び出した。
穏やかで波風が立たなかったオーヴの姿は、もう目の前にはなかった。
オーヴを漂う空気もピリピリと張り詰めた痛々しいものへと変わっていった。明らかに町全体の活気が落ちてしまっている。
今までアレイナが親しみを感じていたオーヴとは、まるで別物だった。
「……っ、リバーさん!」
「――ああ、アレイナちゃん。最近顔を出せなくてゴメンよ」
数日ぶりに見たリバーは、表情も反応も疲労が滲み出ていた。
リバーはこの町を活気付けてくれる底抜けに明るい男だ。年も五十手前に関わらず、年齢を感じさせないくらい若々しい。けれど、今のリバーの顔は年齢に比例していた。
「あ、あの……。私も何かした方が……」
「ああ。いいよ、いいよ。アレイナちゃんを危険な目に合わせる訳にはいかないから」
リバーは笑みを浮かべると、そのままアレイナの前から立ち去って行った。
アレイナはリバーの後を追いかけることはおろか、気の利いた言葉一つさえも掛けることが出来なかった。
リバーの笑顔は、いつも周りにもその笑みを、明るさを分け与えていた。
しかし、今リバーが浮かべた笑顔は引き攣った固いもので、見ていて無理をしているのは明らかだった。
きっとリバー以外にも、ほかのオーヴに住む人も同じだろう。
いつ次の被害者が出るか分からない不安、張り詰めた緊張、奪われ、壊された自由と平和――、それは過度なストレスとなり、穏やかに過ごして来た人々を苦しめている。
きっとこれは自分の出る幕ではない。アレイナに出来ることの許容量を遥かに超えているのだ。
アレイナはそう思い、大人しくオーヴ支部に戻ろうとした時だった。
薄暗い物陰の中、二人の人物が何かこそこそと話している姿が見えた。そして、その人物に見覚えのあったアレイナは、オーヴ支部へと向けていた足を翻し、
「ラッツさん、ディートさん」
物陰にいた二人の名前を呼んだ。
突然のアレイナの声に、ラッツとディートは肩を撥ねらせて驚いた。思わずアレイナも驚いてしまうほどの反応だった。
ラッツとディートは、恐る恐る背後を振り返り、そこにいる人物がアレイナだということを確かめると、安堵の息を吐いた。
「……おお、アレイナか。すまんなぁ、最近町が騒がしいだろう」
「あ、いえ。別にラッツさんが謝ることでは……」
アレイナを諭すためか、穏やかな笑みを湛えたまま話し掛けるラッツに、アレイナは首を振って答える。
そして、三人の間で沈黙が流れてしまった。
いつもとは違う、互いに互いを探り合うような張り詰めた空気が漂っていた。鈍感なアレイナでさえも察することが出来るほど、異質な空気だった。ただし、その原因まではアレイナには分からない。
「そ、そういえば、最近変な事件ばっかりダオレイスで起こってますね。この前のシエル教団の巡回も、クルム・アーレントって人に邪魔されたみたいですし」
「……そうだな」
話題に困ったアレイナは、先日見た新聞の話をした。事実、ここ最近のダオレイスは荒れていて、只事ではない雰囲気が流れていることが新聞からも読み取れた。このまま進んでは、何かよからぬことでも起こるのではないかと途方もない不安に苛まれる。極め付けに、この世界に住む人々の希望の象徴でもあるシエル教団の巡回に、罪人クルム・アーレントによって水が差されてしまったのだ。
しかし、ラッツの反応は悪かった。アレイナの話を横流しにし、自分の考えに耽っているように見える。
それもそうだ。この状況の中で、世間話などしている余裕などあるはずがないだろう。
アレイナは思い切って、
「どうですか、事件の状況は?」
単刀直入に尋ねた。
しかし、アレイナの問いに、ラッツは苦い顔を浮かべる。
「実は犯人の目星を付けることが出来たのだが……、正直この町は予想よりも遥かに危うい状況に陥っている」
「危うい状況……ですか?」
ラッツは小さく頷いた。ディートは値踏みするかのように、視線を逸らすことなくアレイナのことを見つめている。
「ティルダ・メルコスという人物がまとめているメルコス組が、この事件に関わっているようなんだ」
「メルコス組……」
いつかの新聞でそのような名前を見た覚えがあったのを、アレイナは思い出した。最近勢いがついている少数精鋭の団体らしい。勢いが増している裏には、非合法な行ないがたくさんあるのだろう。
「そして、奴らはバルット荒地にあるボロ屋を仮の拠点にして、この町の子供を攫っている」
「なら、このことを皆に!」
居場所まで分かっているなら、もう問題はないはずだ。
どうしてラッツとディートが渋っているのかが分からないが、やるべきことは決まっているはずだ。
オーヴに住む人手を集めて、攫われた子供達を奪還すること――、それが何においても最優先事項だ。
そう判断し、アレイナが踵を返した時――、
「余計なことをするなよ、アレイナ」
ラッツの制止が入った。その声は、今までに耳にしたことのない冷酷なものだった。
「な、なんでですか……?」
アレイナは理解が出来ず、その理由を問いかけた。その声は、自分でも分かるほど震えていた。
「メルコス組には、腕利きの用心棒がいるという情報を、ここにいるディートが掴んだ」
「はい。メルコス組の用心棒は、正直別格です。オーヴに住む人総出で挑んでも、彼にとっては準備運動にもならないでしょう」
ディートの言葉に、ラッツはゆっくりと確かに頷く。
「もし我々が無謀な挑戦をして、返り討ちにあってこの町が崩壊したらしょうもない話だろう? 幸か不幸か、今のところ被害を受けているのは子供達だけだ。だから、このままでいれば、町は助かる」
ラッツの声を耳にする度、アレイナは拳を強く握り締めていた。
ラッツの言葉は、ある意味では正しいのかもしれない。
けれど、それは自分のことしか考えていない保身的な考えだ。
「子供達を犠牲にするんですか? このことをみんなが知れば――」
「だから、言っただろう? この情報を知っているのは、私とディート。そして、アレイナだけだ」
ラッツの言い方は、有無を言わせないような圧力があった。
「分かっておるな。他言は無用だぞ。これは――、町長命令だ」
そう最後に言い残すと、ラッツとディートはアレイナの前から姿を消していった。
この時ほど、アレイナは自分自身にもどかしさを感じたことはなかった。
もしアレイナに力があれば、オーヴの状況を自分で打破することが出来たはずだ。けれど、アレイナにはその力がない。安逸な環境に染まって生きて来たのだ、今までやって来たものがない。そもそもどう動いていいのかさえ分からずにいる。
本当に困った時、アレイナは誰に頼られることはなかった。
「……はぁ」
いつも能天気なアレイナには珍しく溜め息を吐くと、肩を落としながらオーヴ支部へと戻った。
――そして、五人目の犠牲者が出たのは、この直後だった。
***
カランコロン、と誰かが門を開く音が聞こえた。
その音に、アレイナはやや遅れて顔を上げる。誰かがオーヴ支部の門を開けるなんて、ここ数日では珍しいことだった。
見ると、そこには見たことのない女性が立っていた。アレイナよりも若く、若草色の瞳に束ねられた髪は、その女性の快活さを感じさせる。
そして、その手にはアレイナによく見覚えのあるエインセルがあった。
つまり、彼女は――、
「大陸支部のリッカ・ヴェントです。オーヴ立ち入りの申請をしたいのですが」
世界政府の人間――アレイナの同僚だった。
大陸支部と言うことは、彼女にはこのトレゾール大陸の中を自由に駆け回る権限が付与されている。
大陸支部に所属されるには、相当な実力がないといけないはずだ。
それなのに、アレイナよりも見た目が若いリッカが大陸支部に所属されているということは、彼女はきっとアレイナの想像にも及ばないくらい優秀なのだろう。
「あのー、手続きをしていただいてもいいですか?」
「あ、ひゃい! 今すぐやりますね!」
ぼーっとリッカのことを見ていたアレイナは、リッカの声に体を撥ねらせ、急いで仕事に取り掛かった。
といっても、普段全くといっていいほど、世界政府としての仕事が舞い降りてこない環境だ。ほぼ初めてに近い作業に、アレイナは戸惑っていた。
「え、えーっと、確か、ここにエインセルを置いて、それで、えーっと」
「あ、慌てないで大丈夫ですよ。ゆっくりやってください」
「うぅ、この町に世界政府の人が来るなんて全然ないから、覚えてなくて」
「私もまだ新米なので、分からないことだらけです。えーっと」
「あ、私はアレイナです。アレイナ・リーナス」
言いあぐねていたアレイナは、リッカの言いたいことを敏感に感じ取って、自らの名前を伝えた。そう言えば、まだアレイナは名乗っていなかったのだ。
アレイナの名前を聞いたリッカは、ニッコリと人懐っこい笑みを浮かべると、
「アレイナさんですね。私はリッカ・ヴェントです」
「さっき聞いたから知ってますよぉ」
アレイナの指摘に、リッカも顔はみるみる赤くなった。
恥ずかしがるリッカの姿を見て、アレイナは数日振りに声を出して笑った。この場所に誰かが来ること自体が久し振りで、最近誰かと話をすることもなかった。
心に突っかかっていたしこりが、アレイナの中から萎んでいくのが分かった。
「リッカさん、お茶飲みますか? ちょっと時間が掛かりそうなので、ゆっくりしていってください」
「敬語なんていらないですよ。お言葉に甘えさせていただきますね」
「はーい。よっと――、はいどうぞ。手続きが終わるまでゆっくり休んでてね、リッカちゃん」
「あ、ありがとうございます」
アレイナは慣れた手つきで、リッカの前にお茶を出す。リッカはその速さに、思わず驚いた。
「……すごい」
「ふふっ」
そして、驚くのは速さだけではなかった。ちゃんと味も美味しかったのだ。アレイナが出したお茶に心を奪われたリッカを見たアレイナは、気分を良くさせながら仕事に取り掛かった。
一度に多くの人を一人でもてなすアレイナだ。このオーヴの中で、お茶を出すことにおいてアレイナを超える者はいないだろう。
「えーっと、ここにエインセルを置いて……、承認ボタンを押して……」
アレイナは一つ一つ口にして確かめながら、リッカに世界政府としての滞在に許可出ししていく。
「それから……」
作業を続けるアレイナの耳に、ふと激しく食器がぶつかる音が入って来た。
「リッカちゃん? どうかしたの?」
アレイナは作業を止め、リッカを振り返った。
振り返った先には、目の前に新聞を広げているリッカの姿があった。リッカの表情は、どこか青ざめているように見えた。
しかし、それも一瞬だけで、アレイナの声にリッカはハッと我に返ると、
「あ、いえ、何でもありません」
アレイナの前で何事もなかったかのように笑みを見せた。
しかし、そのリッカの表情はどこか無理が生じているようだった。
「……もし何かあったら遠慮なく言ってね」
「はい、お気遣いありがとうございます」
同じ世界政府の仲間とはいえ、今日初めて会ったばかりの二人だ。アレイナはどこまで踏み込んでいいのか分からず、ひとまず無難な言葉を掛けてから、再び作業に取り組んだ。
リッカのエインセルにオーヴの情報を読み取らせながら、アレイナはリッカの様子を盗み見た。
リッカは真剣な表情で新聞を読んでいた。その新聞がいつのものなのか、何が書かれているのか、アレイナには分からなかった。時折、悔しそうな表情をするのが印象的だった。
そんなリッカのことを見続けるのは、どこか申し訳ない気がして、アレイナは業務に集中することにした。
そして、暫し無言の時間がオーヴ支部の中を流れて、
「よぉし、出来た。そしたら、はい。これでリッカちゃんのエインセルに、滞在許可とオーヴの詳細な地図が発行されたはずだよ」
「ありがとうございます」
アレイナからエインセルを受け取ったリッカは、早速エインセルの中を確認する。操作を進めていく内に、エインセルの中でオーヴの詳細な地図が表示された。
その大きさは、普通の町と比べて明らかに小さいだろう。
リッカはオーヴの地図を考え込むように見つめると、
「アレイナさん。今この町で何か起きてるんですか?」
「え?」
ふと顔を上げてアレイナに問いかけた。アレイナは咄嗟のことで、上手く言葉を返すことが出来なかった。
リッカは頭の中で的確な言葉を探すように、少しの時間だけ沈黙した。
「……実はここに来るまでの間、オーヴを少し探索したのですが、どうも人々に余裕がないように見えました。何か只事ではない雰囲気が町を覆っているようようで、今すぐにでも解決しなければ――」
「さすがだね、リッカちゃん。世界政府に入ってすぐに大陸支部に所属される訳だよ」
「あ、いえ、そんな」
リッカは謙遜をしていたが、アレイナは本気でリッカに感心していた。
少なくとも、アレイナはこの町にずっと滞在していながらも、すぐにこの異変に気付くことはなかった。また気付いたとしても、アレイナはすぐに行動に移さなかった。
けれど、目の前にいるリッカは違った。
今さっき訪れた町の異変を直ちに察知し、どうにか窮地に陥っているオーヴを救えないかと悩んでいる。
「この町は、事件も何も起こらないことだけしかウリがないくらいに平和な町だったんだ。なのに、今この町で子供達の誘拐事件が起きてるの」
「誘拐……」
「最初は子供達の質の悪い悪戯かと思って、町の人もそこまで気にしなかったわ。でも、立て続けに子供達の姿が消えてしまえば、さすがに異常だと感じざるを得なかった。人々は躍起になって探し回ったけど、子供達の消息は分からないままだったの」
真剣な眼差しで語るアレイナを、リッカもまた真剣な表情で聞きとめる。
「それと――、最近この町に一番近い町でシエル教団の巡回が行なわれたでしょ? 住民達は、そこに一縷の望みを懸けることにした。英雄の恩恵が、この町に振り注がれることを願ってたんだ。でも、クルム・アーレントという罪人に邪魔されたことにより、その希望は潰されたの。そして、結果今も子供達の失踪は続いてしまっている。それから、人々の余裕のなさに拍車が掛かってしまったわ」
その瞬間、リッカが自分の膝の上で拳を握ったのが見えてしまった。
真面目なリッカは、きっとこのオーヴの事件の全貌を、全て自分のことのように思っているのだろう。加えて、リッカから受け取ったエインセルには、シエル教団による巡回の当日、リッカは現場であったヴェルルに滞在していた記録がある。そのことが、より一層リッカに自責の念を抱かせているのだろう。
アレイナはそう推測した。
「だから、余所者に風当たりが強いのも仕方がないのかもしれない。もし今目の前に罪人が現れたら、その人を犯人として見立ててしまうかもしれないわ」
アレイナは空気を和ますように細やかな冗談を織り交ぜたが、リッカは笑わなかった。むしろ、一層思い悩むような表情を浮かべさせてしまった。
リッカの雰囲気を感じ取ってか、アレイナは笑いを止めて下を向くと、
「でも、本当は――」
そこでアレイナは口を噤んだ。
思い出したのは昨日の出来事――、ラッツとディートのことだ。半ば脅しかけるようなラッツの言い方が鮮明に脳裏をよぎり、アレイナは首元を握られたような冷ややかな感触を得た。
「本当は……?」
いきなり黙り込んだアレイナを催促するように、リッカはアレイナと同じ言葉を繰り返した。
アレイナはゆっくりと息を呑む。
ここでアレイナが先日知った情報をリッカに伝えれば、何かが変わり始める――、そんな予感はあった。
それは自分自身か、ラッツ達か、はたまたオーヴという町ごとか。それは分からない。
アレイナはリッカに向けて顔を上げると、
「本当はそんな単純なものじゃないと私は思ってるの」
口から出た言葉は、アレイナが本当に伝えたい言葉ではなかった。
知り得る真実を全て明らかにする勇気はアレイナにはなかった。けれど、自分の意見を言うということは、アレイナにとっては大きな一歩だろう。
そして、二人の間で沈黙の時間が漂った。
どちらから何を言えばいいのか、探りあぐねているようだ。
「……ごめんね」
ふとアレイナの口から謝罪の言葉が出ていた。
何に対して謝っているのか、何故この言葉が出て来たのかさえもアレイナ自身分からない。
リッカは一瞬きょとんとした顔を浮かべた。
当然だ。脈絡もなく謝られても、言われた相手は困るだけだろう。
しかし、リッカは柔らかい表情を浮かべると、
「謝ることじゃないですよ」
包み込むような温かい声音で言った。
リッカの優しさに、アレイナは首を振る。
「私、あなたと同じ世界政府なのに何も出来ないの。町の人にも、事件に深入りしなくていいって言われるし」
言葉を紡いでいく内に、アレイナが何に対して謝ったのか分かった。
世界政府なのに事件を解決できないこと、住民の言葉に甘えていること、上手くリッカに情報を伝えられなかったこと。
何も行動を起こさなかった自分の弱さに嫌気が差し、申し訳のなさを抱いていたのだ。
「……」
リッカはアレイナの独白を黙って聞いていた。
本来なら、アレイナの話をリッカが聞く筋合いはなかった。この何もないオーヴ支部にいるよりも大切な仕事を、リッカは抱えているに違いない。
それでも、ちゃんと聞いてくれるリッカに、アレイナは好印象を抱いた。
「――私、だめだね」
改めて、このオーヴ支部に所属されてからの経験を振り返り、アレイナは自ら嘲笑を浮かべた。
自分が世界政府として残して来たことは、何もない。
「――アレイナさんは、この町の人にとって欠かせない人なんですね」
「え?」
しかし、そんな自暴自棄に陥っているアレイナに、思ってもいなかった言葉が降り注がれた。
アレイナはゆっくりと顔を上げていく。
目の前には、すべてを受け止める慈母のような笑みを湛えるリッカがいた。
「だって、そうじゃないですか。もしアレイナさんをただの世界政府の人間としてしか見ていなかったら、彼らはきっとアレイナさんのことを蔑ろに扱っているはずです。この事件の責任をすべてアレイナさん一人に押し付けてもおかしくはない。でも、アレイナさんのことを大切に思っているから、危険な目に合わせたくなくて、わざと関わらせないようにしているんですよ」
「……」
「だから、アレイナさんがこのオーヴ支部に来てから残したものはたくさんあると思います。ダメだなんてことは、絶対にありません」
アレイナは言葉を失って、リッカのことを見つめる。
確かにアレイナより幼いはずなのに、語るリッカはアレイナの数倍も多く多様なことを経験している熟練した人間に見えた。
「――って、私は思いますけどね」
話を区切ったリッカは、お茶目にも砕けた笑顔を見せた。
咄嗟の切り返しだったが、先ほどまでの真剣な口調と打って変わったリッカに、アレイナは思わず声を出して笑った。リッカもつられて笑う。
久し振りに、オーヴ支部の中に笑い声が満ち溢れる時間だった。
「ありがとう、リッカちゃん」
「いえ、私の方こそ手続きして頂いてありがとうございました」
そう言うと、リッカは椅子から腰を上げた。
「そろそろ私の連れが心配する頃なので、行きますね」
「あ、うん。ごめんね、なんだか長話に付き合わせちゃって」
「楽しかったですよ」
リッカはにこりと笑うと、オーヴ支部の扉に手を掛けた。
そして、ドアノブを捻り、外に出ようとした瞬間――、
「あ、そうだ」
思い出したようにリッカは扉の前で留まり、アレイナの方に振り返った。
「アレイナさん、今日か明日には忙しくなると思うので、覚悟してくださいね」
「――え、どういうこと?」
リッカの言う意味が分からずに、アレイナは疑問符を上げていた。
「私と――、そして、私の連れの人騒がせなお人好しが、この事件を解決して来ますから」
そう言い残すと、今度こそリッカはオーヴ支部を颯爽と飛び出していった。
***
結局、次の日にはリッカの言う通り、オーヴを騒がしていたメルコス組がバルット荒地で拘束され、事件が収拾された。
アレイナがその事実を知ったのは、眠りから目を覚ました直後、顔なじみのリバーが大慌てでオーヴ支部の扉を叩いた時だった。
「アレイナちゃん! 大変だ!」
「ど、どうしたんですか?」
その慌てぶりから、またオーヴに只ならぬことが起こったと容易に察することが出来、アレイナの声も自然と上擦んだ。
リバーは一度呼吸を整えるために、唾を呑み込むと、
「今、子供達が帰って来たんだよ!」
息を荒げながらそう言った。
アレイナはリバーが話したことを、一瞬理解することが出来なかった。
「え?」
「だから、今まで失踪した子供達五人が全員無事に帰って来たんだって! 誰一人怪我もない!」
思わず聞き返すアレイナに、リバーは声を荒げる。しかし、その声の荒げ方にマイナスの感情はない。あまりの嬉しさに、自分でも感情のコントロールをすることが出来ないでいるのだろう。
その証拠に、リバーの顔は明らかに綻んでおり、安堵していることが丸分かりだった。
「い、一体どうやって……」
そう言いながら、アレイナの脳裏には昨日出会ったリッカ・ヴェントのことが思い浮かんでいた。
この事態を収束させたのは間違いなく、リッカとリッカの言う人騒がせなお人好しだ。
「どうやら、誰かが連れ戻してくれたらしい。俺も詳しくは知らないんだが……」
「まだいるんですか?」
リバーが慌ててここまで教えに来てくれたということは、子供達がオーヴに帰って来てからそこまでの時間は経過していないはずだ。
「……あ、ああ、たぶん」
リバーの言葉を聞くと、アレイナは自然と体が動いていた。
「あ、アレイナちゃん! どこへ行くんだ?」
「ちょっと確かめたいことがあるんです!」
アレイナはオーヴ支部を振り返ることなく、この町の事件を解決した人物を目指して駆け出していた。
***
ここまで走ったのはいつぶりだろうか。暫くの間、全力で走るということをしていなかった。
今まで怠けていたつけか、心臓が高鳴り、足もパンパンに引き攣っていくのが感じられた。
オーヴの人々が、物珍しそうにアレイナのことを見ていたが、それでも構わなかった。
とにかく、リッカにもう一度会てみたかったのだ。
しかし、オーヴという町は小さいのにも関わらず、アレイナは目的とする人物に出会うことは叶わなかった。
それでも止まらない。ここで止まると、二度とこの場所から飛び出して世界を目にする機会がなくなるとアレイナは何となく直感していた。
恥ずかしい話ながら、アレイナは今まで一度も事件の現場に立ち会ったことがない。
オーヴ支部に配属される前――つまり、世界政府の見習いの立場の時も、運がよくも悪くもアレイナは事件の現場に出会ったことはなかった。
当時のアレイナは、それでもいいと思っていた。命の危険に晒されることはないからだ。
そして、事件に立ち会う機会もなかったアレイナは、現在穏やかな環境にいることに加えて天性の穏やかな性格もあり、一層増してゆっくりとした呑気な性格に変わった。それは到底、世界政府のものとは思えない性格だった。
けれど、元々アレイナが世界政府になりたいと思った理由は、困っている人の力になりたいと思ったからだ。
それは、まさに自らの命も顧みずに事件の最前線へと突き進み、事件を解決してしまうリッカ・ヴェントのように――。
そして、名前も顔も分からない人騒がせなお人好しという人のように――。
その記憶を思い出させてくれた二人に、アレイナはどうしても話がしてみたかった。
「――!」
そして、アレイナはようやく念願の人影を見つけた。
オーヴとスーデル街道との境目――、そこからリッカの背中と子供を背負っている一人の青年の姿が小さく見えた。もうだいぶ遠く離れてしまっている。
そこでアレイナは一度立ち止まり、考えた。
今更追いかけたところで、きっと迷惑だろう。当然のことだ。分かっている。頭では、分かっていた。
しかし、アレイナの足はオーヴの町を飛び出して、スーデル街道を歩いているリッカ達に向かっていた。
「――――リッカちゃん!」
声が届くか届かないか分からない距離にも拘わらず、アレイナは声を張り上げていた。
予想通り声は届くことはなく、リッカ達は続けて歩いていく。
「――リッカちゃん!」
アレイナは声が届くまで、走りながら何度もリッカの名前を呼んだ。
そして声を張り上げて何度目になるか分からないが、
「……アレイナさん?」
ようやくリッカが足を止め、アレイナの方に振り返った。隣にいる青年も足を止め、アレイナに顔を向ける。
アレイナはリッカの前まで辿り着くと、膝に手を添えて息を整えた。
「ど、どうしたんですか? こんなところまで……」
そんなアレイナの姿を見て、リッカは心配そうに声を掛けた。リッカにとっては、アレイナがこんなに息を切らしてまで追いかけて来る理由がないのだから当然だろう。
「はぁ、はぁ。あ、ありがとう!」
「え?」
満面の笑みを浮かべるアレイナに、リッカは間の抜けた声を漏らした。
「リッカちゃんとそちらの人騒がせなお人好しさんが解決してくださったんですよね。私、どうしても直接お礼が言いたくて……」
「そ、そうですけど」
「あなた達が来なければ、この町はきっと終わってたわ。本当にリッカちゃん達が来てくれてよかった」
口を濁すリッカに構わず、アレイナはリッカの手を思い切り握り締める。
「良かったですね、リッカさん」
「何を言ってるんですか! 私はあなたにも感謝しているんですよ、クル……人騒がせなお人好しさん!」
隣で他人事のようにリッカに言葉を掛ける青年に、アレイナはリッカの手を強く握りながら、顔だけを向ける。
希望を宿したような青年の黄色い瞳が、大きく開かれた。
「その怪我を見れば、あなたがこの町の子供のためにどれだけ頑張ってくださったのか分かります! だから、世界政府として――いや、オーヴを代表して私からお礼を言わせてください。本当にありがとうございました!」
その勢い、アレイナは頭を大きく下げた。
「あの、僕は――」
「それでは、私はこれでオーヴに戻りますね」
青年の言葉を遮り、アレイナは顔を上げると、リッカ達とは反対方向へと歩き始めた。
「あの、アレイナさん!」
リッカの声にアレイナは一度足を止め、振り返る。リッカは隣にいる青年をちらちらと横目にしながら、何かもの言いたげにしていた。
「えっと、この隣の人は――」
「これから忙しくなるんでしょ? メルコス組の後始末に、オーヴもヴェルルも騒がせたお人好しさんについても町の人に話していかなきゃ」
リッカに言葉の続きを言わせないかのように、アレイナはもう一度大きく頭を下げた。
「――」
オーヴという町の恩人である、リッカ・ヴェントとクルム・アーレントが息を呑んだのが感じられた。
そのことが、アレイナはたまらなく嬉しかった。
「じゃあ、またね」
アレイナは満面の笑みをリッカとクルムに見せると、今度こそオーヴへと戻っていった。
***
リッカとクルムに会って、話したいことが全部話せたのかは分からなかった。
けれど、一番伝えたいことは伝えたはずだ。
本当にリッカとクルムには感謝の想いしかなかった。
無関係の町にも拘わらず、リッカ達は命を懸けて、この町を守ってくれた。
それは、普通の人には成せない、本当にすごいことだ。世界政府であるアレイナ自身が、一番分かっている。
最後に二人を直接見送ることが出来て、改めて良かった。
それに今世界を賑わせている罪人クルム・アーレントも、いざ目の前で彼の姿を見て、その噂も違っていることが分かった。
クルム・アーレントは人々に不安や恐怖を与えるような人間でもなければ、無闇に目立とうとする人間でもない。
これからリッカの言う通り、アレイナは確かに忙しくなりそうだ。
世界政府にオーヴで起こった事件を報告すること、オーヴの人々の暮らしを取り戻すこと、そしてクルムの誤解を解くこと――、やることは様々ある。
不思議と忙しくなることを楽しみとしているアレイナ・リーナスがいた。
「アレイナちゃぁん!」
オーヴに戻って来たアレイナを迎えたのは、メルコス組に攫われていた子供達だった。まさしくリッカ達によって守られたこの町の未来、そのものだ。
「――テリーくん、アレックスくん、エマちゃん、……みんな。無事で本当によかった!」
「アレイナちゃん、苦しいよぉ」
腕の中に温もりを感じる。誰一人欠けることなく、この町に戻って来てくれた。これは夢ではなく、現実だ。
「こんな町の出口まで来て、どうしたの?」
「もうエーユーは行っちゃったの?」
「え?」
「シンクとクルムとリッカちゃんのことだよ!」
嬉々と語る子供達の表情には、嘘偽りがない。子供達同士で交わされる言葉は、放っておいたらいつまでも続いていきそうだった。
「ねぇ、もしよかったら、そのお話の続きはオーヴ支部でジュースでも飲みながらにしない?」
アレイナは膝を屈めて、子供達と同じ目線で問いかける。
その瞬間、子供達の目がキラキラと輝くのが見て分かった。
「え、ジュースくれるの?」
「うん、もちろん」
「わぁい! ありがとう、アレイナちゃん!」
「早く行こうぜ、アレイナ!」
子供達は自分の家のように慣れ親しんだオーヴ支部に走り出した。エマはアレイナの手を掴んで、急かすように引っ張っていく。
子供達を包み込むように太陽に光が差し込んだ。その眩さに、アレイナは思わず目を閉じる。
もう二度と子供達を――、未来を失わないために、アレイナは自分に出来ることをやることを決めた。
きっと今更なのだと思う。
それでも、アレイナは世界政府の一員として生きていくことを決意した。
今回の事件が起こらなければ、アレイナはオーヴ支部という場所に籠って、平凡に生きて続けたに違いない。けれど、そのままではいけないと思い知らされた。
自分から行動しなければ、変わる事なんて一つたりともありはしない。
「そんな急がなくても、ジュースはなくならないよぉ」
そう言うアレイナだったが、速度を緩めて子供達に水を差すような真似をするつもりはなかった。
――この瞬間、オーヴ支部に初めて世界政府の人員が配属されるようになった。今までにもいることにはいたが、今度は名ばかりではない。
その名前は、アレイナ・リーナス。
人よりも少しおっとりでのんびりしていて、人よりも一歩を踏み出すのが遅いところもあるが、優しい心に僅かに燻ぶらせた正義感を抱く、確かに世界政府に選ばれた女性だ。
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