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第五話「海の手」④

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「こっちだ……もう大丈夫だから! 早くっ!」

 灰峰姉さんが同じ様に姿勢を低くして、ここまで来た上で、俺の腕を掴んでくれていた。
 
 そのまま、腕を抱えられると灰峰姉さんも片手を付きながら、しゃがみ歩きみたいな姿勢で、時折、俺の背後を気にしているような様子ながら、ゆっくりと誘導してくれる。

 半ば引きずるようだった感じだった足も、少し動くようになった……これならっ!

 背後で、何かの気配がして、沖からの風に乗って、生臭い磯の匂いを強烈にしたような匂いが鼻を突く。
 
 気配は一つじゃなかった……いくつものように感じられる。

 ざわざわと何かがうごめく気配、すぐ近く……身体にも何かが纏わり付いているような気がする……なんなのだ、これは?
 
 振り返ろうとすると、叫ぶような声で止められる。
 
「駄目だ! 後ろは見るな! このまま、私が誘導する……今は、絶対に立っちゃ駄目だし、決して後ろを振り返るなっ! 持っていかれるぞ!」

 姉さんもまるで、なにかが纏わり付いて来て、それを振り払うかのように、片腕を煩わしそうに振り回している。

「姉さんには、何が見えてる? いったい、何が起きてるんだ! 持っていかれるって何が!」

「……話は、あと……いいから、焦らずゆっくりと、落ち着いて行動するんだ。もうすぐで、階段だ……そこまで逃げ切れれば、たぶん大丈夫。私を信じろっ!」
 
 ざわざわ、ズルズルと潮騒の音に混ざって、奇妙な音が聞こえていたような気がしていたのだけど。

 不意にその音が途切れると、いきなり地面が無くなったような感触がして、転げ落ちそうになる……でも、何やら柔らかい感触と共に押し止められる。
 
「な、なにがどうなって……」

「ああもう、世話が焼けるなぁ……どう? 立てそう? 全く、学生時代に身体鍛えてたから、良かったものの……大の男を身体張って、支えるとか、女子の身にはかなり辛いんだぞ? あと、それ以上動くな……なんでか理由は聞かないこと」

 言われて、顔をあげると狭い階段を頭から転げ落ちそうになりながら、灰峰姉さんの胸に抱きかかえられたような状態で、引っかかっていた。
 
 なんか、やわいと思ったら……顔を上げたら、思わず目があって、真っ赤になられてしまう……。

 灰峰姉さんがゆっくりと抜け出すと、俺も身体の向きと姿勢を無理やり変えて、階段の一番上の段に座り込むような感じになる。

 さっきのめまいも耳鳴りも、嘘のように消えていた。
 
 あたりを見回しても、潮騒の音が聞こえるだけで、背後に感じていたおぞましい気配も嘘のように消えていた。
 
 姉さんの言ってた通りだった……まさに、この堤防の内側は別世界だった。
 
「……すまない。私が無理を言ったばかりに……。とにかく、もうここは引き上げよう。詳しい話はあとでするから、今は何も聞かないでほしい」

「解った。俺も無茶が過ぎた……やっぱり、姉さんの警告はちゃんと聞いとくべきだった」

 この世ならざるものには、物理的な危害を加えられる事もありえない。
 俺もそう思っていたのだけど、こう言うやり口もあったってことだった。
 
 もしも一人だったら、なんて思うとゾッとする。
 
 
 それから……。

 俺達は平塚の近くにある24時間営業のデニーズに場所を移していた。
 
 非日常から、日常へ……いつもながら、この瞬間はホッとする。
 
「ひとまず、お疲れさん。まったく、私がさんざん警告したのに、無茶しやがって……。君は、しきりに堤防の先に、人がいるとか言ってたけど、ほんとに見たのかい?」

「ああ、最初、堤防の突端に誰かいたように見えてたんだ。人がいるなら、安心……そう思ってたんだ。けど、あの時点であの堤防には、誰も居なかった……」

「うん、まずその釣り人らしき人影は、私にも見えてたよ。君が言うように、ああ言う危なかっしい状況でも、先行者が居ると不思議と大丈夫な気になる……そんなものだからね」

「確かに……前も、先人が通れたなら、大丈夫って、泥沼突っ込んでって、揃って埋まりそうになったりとかしたからねぇ……。ちなみに、あそこはどうも雨が降ったりすると流れが出来るところだったみたいで、底なし沼状態の危険な場所だったらしい……なんと言うか、思わぬナチュラルトラップだった」

「ははっ、懐かしいね……あの時は、君に助けられたんだっけ。まったく、足跡もあったから大丈夫だと油断してたら、あっという間に膝まで沈んでしまったからねぇ。あんな所で、あんな時間……一人だったら、あのまま沈んで、津久井湖の藻屑になっていたかも知れない」

「まぁ、あの後……川で水と戯れる姉さんなんて、レアなのを見れたんだけどね」

 その後、お互い泥まみれになったので、上流の方で泥を洗い流してるうちに、姉さんが暑いし誰も見てないからなんて言い出して、下着姿で泳ぎだすという珍事が起きたのだ。

 本人曰く、服洗いたかったし、デニムじゃ泳げないとの事で、俺が見なきゃ問題無いって理屈。

 一見下着に見えないスポーティなデザインのだったから、水着みたいなもんだと言い聞かせてた。
 
 たまに、そう言う大胆なことやらかすんだよな……この人。
 大抵、確信犯だから、結構タチが悪い……。
 
「はっはっは。あれはもう忘れてくれよ……つか、触れんな。思い出したら、急に恥ずかしくなってきた……」

「イエスマム、そう言うことにしとく……それより、あの釣り人、結局なんだったんだ? 確かにはっきり見た訳じゃないけど、動きとか明らかに人間っぽくみえたんだよなぁ……」

「あれは……あれは、言ってみれば、寄せ餌みたいなもんだったんだろうね。要するに、そこが安全だって思わせる為の罠……だったんじゃないかって思う。もっとも、どうせ、君には見えてないだろうし、あそこから先はちょっとまずい状態になってたから、行くなとだけ言ってたんだけど……。説明不足だった上に、むしろ、けしかけるようになってしまった……すまなかった」

「無理言って、強引に様子見に行ったのは、俺自身の判断だ。姉さんが正しかった……あの時、堤防から海を見た時、潮が不自然に渦を巻いてるのが見えたんだけど……。いきなり平衡感覚が無くなって、めまいに襲われたんだ。それも、立ってられないくらいの強烈なヤツ」

「うん、それは見てて解った。正直、かなり危うい状況だった……私に、何が見えてたか、聞きたいかい?」

「そうだね……正直、ロクでもない事になってそうだった。なんか、ザワザワとかズルズルとか、何かがいっぱい居るような音は聞こえてたし、何かがいるって気配も解ったよ……」

「そうだね。君は見えないけど、気配を感じたり、音や匂いと言う形で、あっち側の存在を認識できるんだったね。……具体的に言うと、さっきの大磯の砂浜の方なんだけど、海の上の到るところから半透明の手が生えてたんだよ。ちなみに、港の内側には何もなかったんだけど、あの階段から先は海はもちろん、堤防の上までびっしり手が生えてた。それを見て、行こうなんて思う?」

 灰峰姉さんがどうしても、あそこから先に行きたがらなかった訳が解った。
 そんな事になってたのか……。
 
「いや、見えてたら、俺も行かなかったよ……。そ、そんな事になってたんだ。でも、あの時の様子だと、俺が行った時点では見えなくなってたんだよな?」

「まぁ……そう言うことだったんだけどね。あの時、もうちょっと強く止めるべきだった。見延君なら、案外大丈夫かもしれないってついつい、思っちゃって……。私も……君の師匠を自認している以上、あのままボウズで終わるとかかっこ悪くてね。あわよくばって、つい欲をかいてしまったんだ」

「……気持ちは解るよ。そういや、引っ張ってくれてた時、何度も振り向くなって言ってたけど、あれはなんで?」

「うん、君の身体にもその手がまとわりついててね……。実際、私にもいくつか、纏わり付いてきてたんだけど、君を助けないとって一心で、必死で振り払ってたんだ。まったく、こっちも身体張ったんだから、少しくらい感謝してくれないと……」

 ……さすがに、改めて聞くと、怖気立つ話だった。
 
 海の手……そんな感じの怪談をどこかで聞いた事があった。
 
 海で泳いでる人を海の底に引きずり込んだり、堤防の釣り人の足を掴んで、引き込んだり……色んなパターンがあるのだけど。
 
 共通しているのは、ダイレクトに人を殺す、殺意に満ちた手だけの怪物だということ。
 
 けど、灰峰姉さんにも、一時的にそれが見えなくなっていたのは、何とも意図的なものを感じさせる。

 何のことはない、それ自体が誘いだったんだろう。

 釣りやってると、良くある話なんだけど、釣ってやろうと思って、ムキになればなるほど、魚に殺気でも伝わるのか、絶対に釣れなくなる。

 無心になって、釣ってやろうと言う気をなくしてから、さり気なくルアーを投げて、ぼんやりとあたりの風景でも眺めながらリールを巻いてると、以外とあっさり釣れたりするものなのだ。
 
 敢えて隙を見せて、相手を油断させる……なんとも、巧妙な真似をやってくれたものだ。
 完全に甘く見てた……俺はまんまと罠にかかってしまった……そう言う事だった。

 けど、そんな有様にもかかわらず、危険を承知で、命がけで助けに来てくれた灰峰姉さんには、感謝してもしたりなかった。
 
「……解った。ここの払いは俺がするから、何でも好きなのを頼んでくれ。貸し借りは、それでチャラって事でいいかい?」

「おお、そいつはラッキー! なんだ……たまには、恩着せがましいことも言ってみるもんだね。なら、特製ジャンボチョコレートパフェでも頼もう……ふふふ、私はこう見えて、甘党なんだよ。チョコシフォンケーキと紅茶も付けていいかな?」

「知ってた……もう全部、奢るから、好きに頼んでいいよ。でも、そう言うことなら、俺はこっちのフルーツパフェでも頼もうかな。野郎一人でファミレスで甘い物頼むとか、なかなかやりにくいけど、姉さんがいるなら、問題ないね」

「なんだ、カモフラージュ役が欲しけりゃ、いつでも付き合ってあげたのに……ふふっ、なんと言うか気が合うね」
 
 そう言って笑い合うと、呼び出しチャイムを押す。
 
 まぁ、持つべきものはなんとやらって奴だった。
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