忠犬ポチは人並みの幸せを望んでる!

Lofn Pro

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【4】

黒い影

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 暖炉を背にうずくまる。暗い部屋の中、炎の灯りの中に黒い影が伸びていた。視線の先で咳をする声。無意識に立ち上がる。

「――――――殿下……っ」

 ベッドには汗で頬を濡らす主が息苦しそうにしていた。目を覚ます気配はなく、ポルトは額に乗っていたタオルで汗を軽くぬぐう。

(ご飯…あんまり食べてない……。汗もいっぱい……。)

 タオルを絞り直し彼の額に戻す。この水の冷たさが少しでも彼の苦痛を和らげると良いのだが……。
 彼の耳元には、自分の身代わりにと着けたイヤリングがそのままになっている。町で買った簡素な装飾品だ。一国の王子が使うにはあまりにも不釣り合いなものだったが、外すことはしなかったようだ。面倒だっただけなのかもしれないし、小さいイヤリングに気がつかなかったのかもしれない。

(殿下…、少しはお役にたちましたか……?)

 少しでもこのイヤリングの意味が伝わっていれば……、とも思ったが、それはそれで「ガキじゃねぇんだ、なめんな」とか言われそうでちょっと複雑な気分にもなる。
 今日は彼が起きるまで側にいるつもりだ。役目を果たしたイヤリングを外し、自分のポケットの奥にねじこむ。ついでに彼が起きた時の為に着替えを用意した。
 他に何かできないだろうか、色々頭の中で巡らせては準備したり、しまい直したりを繰り返す。しばらくするとそれにも飽きて、さっきまで座っていた場所に戻ると再び膝を抱えた。

 静寂の中で生まれる息苦しそうな呼吸は、聞いているこちらの肺をも侵食するかのようだった。横たわる主を前に出来ることは何一つ無い。無意味に流れていく時間がもどかしくて悔しい。
 夜の静寂すら彼を孤独に追いやっているように見えた。
 じわり、手に汗が滲む。

「――――――…っ」

 胸の奥で、ゆっくりと黒い影が頭をもたげた。
 徐々に強さを増す鼓動。
 不安だけではない気配に筋肉が強ばっていく。
 落ちた視線が暖炉の炎に揺られる自分の影を捉える。
 別れの時に振る手の動きにも似たそれは、目の前で大きく膨らんだかと思うとズルリと伸び、まるで蛇が顔を向けるかのようにゆっくりと動き出した。

「!?」

 この世のものとは思えない光景に激しい動揺が起き、指先の動きすら止めた。
 息を飲むと喉の奥でゴクリと落ちていく生唾。
 浅く、早くなる呼吸。

(……っ!?)

 影は床を這い、壁から天井へと這い登り、横に大きく広がり始めた。
 夜とは違う闇の中で何かがうごめいている。
 ……手だ。
 いくつもの黒い人間の手が何かを探すように壁を探っている。

 ――――これは…あの「夢」……?
 最近すっかり見なくなっていたあの夢が、目の前に現れたとでもいうのだろうか。

 脳の芯が絞られるような頭痛に襲われる。
 瞳孔がぎゅっと狭くなっていくのがわかる。
 草木がザワザワと揺れるような音を出し、影はフォルカーが眠るベッドへと伸びていく。
 気配を察たのか苦しそうに歪むフォルカーの表情。
 首元に影は手を伸ばした。 

「――――待……っ!」

 身体を縛り付ける力に無理矢理あがない、影を振り払おうと腕を上げ………止まる。
 瞬いた直後、目の前の影は消えてしまったのだ。
 目の前には先ほどと同じ体勢のまま、フォルカーが眠っている。

「――――――……っ」

 振り上げた手は小さく震えていた。ぐっと拳を作ると胸元に置く。荒く乱れる呼吸を落ち着かせると、気が抜けたようにその場にへたり込んだ。背中をしっとりと濡らす汗。
 一体何をしているんだ……、そう思いながらゆっくりと視線をフォルカーに向ける。

「っ!?」

 彼はこちらを見ていた。
 しかしその顔は真っ黒で、生々しい眼が魚の鱗のようにぬらりと光る。
 これは主ではない。
 亡霊のように黒い影になったは、赤い口を大きくと広げた。

『――――…ナ…デ……』

 だらりとした舌と一緒に垂れ落ちるのは途切れ途切れの言葉。
 片手をこちらに向かってゆっくりと伸ばす。

『――――何デ……』

 力の抜けた身体に無理矢理注ぎ込まれる感情は、暗くて、重くて、そしてどこか引きずられる。

(その人は駄目だ……。絶対に…駄目なんだよ……)

 影はポルトに向かってずるりと身を乗り出しすと獣のような吐息を吐き出す。
 視線は見えない錠をかけられ逸らせない。

 どんなに足掻いたところで逃れられない闇を知っている。
 そんなものに直面した時、人はどうすればいいのか?
 ただ黙って受け入れるしかないのだろうか?
 見たこともない神に祈り手を作り、降りてくるはずのない救いの手を待つしかないのだろうか?

 形だけ人を成す影が待ち受けている。
 意志とは関係なく持ち上がった手が何故かその影に向かって伸びていく。
 指先が触れようとした、その時、フォルカーが突然咳き込んだ。

「――――……ッ……!」

 ―――……気がつけば、膝を抱えたまま眠っていた。悪夢から解放されたポルトは二三度瞬きをする。周囲を見渡したが、どこにもあの影はない。……いつもの部屋の中だった。
 むにゃむにゃと口元を動かし、寝返りを打つ主はこちらの異変にはまるで気がついていないようだ。

 念のため頬を二三度つついてみたが、肌は黒くならないしオバケみたいな顔にもならない。安堵と共に脱力してしまった。
 ベッドの縁に額を乗せ、震える指先が眠る主のシャツの端をつまむ。こんな形でも誰かと繋がっていると安心出来た。

 我ながら情けないとは思うが、あんなもの相手に生身で戦っても勝てる気がしない。一体どうすればいいのだろうか……。考えても答えは出なかった。

 ポルトはめくれた毛布をかけ直すと、気晴らしに少し部屋を出ることにした。

「!」
「……」

 扉を出るとすぐにモリトール卿と目があった。いつもの鋭い眼光でこちらを不快そうに見ている。一方、ローガンはいつも通りにこやかだったが、ポルトを見ると様子が変わった。

「……どうした?なんだか顔色が悪い」
「だ…大丈夫です。問題ありません……」
「すごい汗だ……。もしかして殿下の風邪がうつったんじゃないのか?」

 ローガンの手がポルトの額に当てられる。熱もないし、咳やクシャミもない。一方、モリトール卿は「失礼します、殿下」と扉を開き、部屋を見回した。何も起きていないことを確認すると静かに扉を閉める。
 彼もポルトの様子に疑問を持ったようだ。

「お前、中で何をしていた?」

 詰め寄ったブーツの靴底が鳴り、大きな手がポルトの胸ぐらを掴んだ。

「……何でもありません……。何も……」

 中で起こったことなど言えるはずもない。彼の顔を見ていられず思わず顔をそらした。
 小さく震える手を、バレないように押さえたが……。

「――――この… 軟弱者が……ッ!」

 鈍い音と共に頬に痛みが走った。
 衝撃に耐えきれなかった身体が壁に打ち付けられる。
 一瞬何が起きたのかわからなかったが、頭上で睨み付けているモリトール卿の手の甲が赤くなっているのを見て、自分が殴られたことを知る。

「団長……!?」
「つまらん幻想で暇を潰している場合か…!気合いを入れろ、馬鹿者ッ!その腑抜けた顔を今すぐ洗ってこい!」
「……は・はい……!申し訳ありません……!!」

 ポルトは姿勢を正し一礼するとその場を後にした。
 小さな背中をローガンが見つめる。モリトール卿の行動はいつになく衝動的で、ローガンにも到底納得のいくものではなかった。

「団長、何故あんなことを……!仮にも彼はフォルカー殿下の従者なのですよ…!?近衛隊の我々が自由に出来る方ではありません!何か問題があったなら、口頭で伝えれば良いでしょう…!理由も告げず、いきなりあんなこと……!弱者への敬意を欠くことは騎士の道に反します……!」
「お前は気がつかなかったのか?」

 言葉の意味がわからず眉根をひそめる。少年の様子は確かにいつもと違っていたが、心配こそすれ叱咤されるものではなかった。

「黒い指だ」
「……っ?」
「あれは黒き神に魅入られている」
「―――……!?」

 その身を危機に晒した者が、恐怖から黒き神を自身の内に招き入れてしまうことがあるのだという。
 邪神は身体の中で何度も恐怖を繰り返させ、精神を蝕み情緒や感情を乱れさせる。中には神の暴走に耐えきれず、周囲の者を傷つけるだけでなく己の命すら絶つ者もいるらしい。
 破滅へ引きずり込まれる様はまるで冥府から手が伸びているようだと言われ、いつからか〈黒い指が絡まる〉とも例えられた。
 モルトール卿は過去に何人も同じような男を見てきた。ポルトの様子は彼らとよく似ていて、一目でわかったのだという。

「心の脆さにつけ入られた軟弱者だ。だから喝を入れてやったのだ。あいつは先の戦からの帰還兵だったそうだな。どうせどこかの戦場で拾ってきたんだろう。…ったく、鍛え方が足りんのだ」

 モリトール卿も指揮官として王子と共に戦場に出たが、彼の精神は全くの無傷。もう一度戦が起きればもっと上手く立ち回れる自信すらある。

「そ…それにしても、あんなやり方は……」

「勘違いするなよ、ローガン。我々は王とその一族を…このファールンを守る騎士だ。そしてあの従者も、国を守るために存在する兵士の一人。責務を忘れ馬鹿みたいな友達ごっこがしたいなら、白獅子の紋章と剣を置いて今すぐこの城を去れ……!」
「っ……」

 彼の言葉は冷たいほど正論だ。納得は出来ないが言い返す言葉も見つからなくて、ローガンは口をつぐんだ。

「お前は気の優しい所がある。人と付き合うには向いている性格なんだろうが、社交場だけにしておけ。気のゆるみはもしもの時に命取りにもなりかねん。鍛錬が足りていないんじゃないのか?……最近は殿下の警護でまとまった時間も取れていないしな。よし、今度、お前の相手を努めてやろう」

 規律に厳しくあること、乱さぬことは自分も望むところだが心は晴れない。これも未熟さ故のものなのだろうか。
 答えを出せないまま、ローガンはモリトール卿に頭を下げた。
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