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【2】

ゆらゆらゆれる。(★)

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 インクの匂いが鼻孔をくすぐり、くしゅんと一度クシャミをした。

 目の前にはベッドテーブルと、その上には十数枚の書簡。そしてポルトの右手には鹿骨製の印章が握られている。隣では椅子にドカリと座ったフォルカーが、束になっている書簡に目を通し、読み終えたものをポルトのテーブルに放り込んでいた。

 読んだ書簡に印を押す、これがポルトに課せられた本日のお仕事。
 先日の脱走劇で彼女の暇さ加減を危惧したフォルカーが、見張りもかねて仕事を用意したのだ。
 書簡の内容は様々で、中には限られた役人しか見ることが出来ない機密書類もあったりしたわけだが、ただでさえ満足に文字が読めないポルトには専門用語がちりばめられた書類の内容の把握など到底無理な話で、そもそもポルト自身、内容には全く興味がなかった。
 決められた位置に、上下間違えず、ハッキリと、綺麗に印章押す。そして時々フォルカーから聞く扉の向こう側の世界の話に耳を傾けている。

「――――と、いうわけで、この部屋の外ではとんでもねぇ噂がたっているから、何か聞かれてもおかしな事を答えないよーに!」
「なんてことをしでかしたんですか」
「うるせぇ、黙れ」

 扉の向こうで起きていた状況……、フォルカーが従者と深い関係にあるという噂が城中に広まっていることを初めて聞いた。
 ただでさえ暢気なことを言っている場合ではないのに、こんな下らない噂で城内を騒がせてどうする……。

(殿下が依怙贔屓するような人物だって思われたらどうしようって心配してたのに……。)

 まさかそっちの方向で噂になるとは……。
 友達を作る前に違う目的の人物が寄ってきてしまったらどうしよう。

「おい、眉間のシワがとんでもねぇ深さになってるぞ。ま、噂なってもんはいつか消える…と思うから、お前もそう割り切れ」
「そうですね……。今更どうしようもないですし……」

 二人の深いため息が静かに部屋に落ちた。
 食事の時間が近づき、「今日はここまで」とフォルカーが伸びをする。そして「あ」と、何か気がついたように顔を上げた。

「?」

 書類を片付けながら首をかしげるポルト。

「そういえば夕食の前の分はまだだったよな?」

 ベッドの近くにあるサイドテーブル、その引き出しを開き、中に入っていた丸い陶器のケースを取り出した。貝殻のように真っ白な蓋を外すと、中から薄緑色をした軟膏が顔を出す。
 それを見ていたポルトは慌てて首を横に振った。

「そ・そろそろ自分で塗れると思うんです!だいぶ動けるようになってきたし、これ以上殿下のお手を煩わせるようなことは…!っていうか、こういう誤解されそうなこと止めましょうよっ」
「あん?今更何言ってんだ。今までずっと塗ってやってたのに。他に見てる連中もいないだろ」
「もう自分で塗れますっ。問題ありませんっ」
「問題なく塗れると思うお前の頭に問題がある。寝癖すらまともに直せねぇくせに…、せいぜい塗った気になるのが精一杯だろ。わかったらさっさと後ろ向いて背中出せ」

「で……でんかぁ……」
「手 こ ず ら せ ん な 」
「「……………………………………………………」」

 沈黙の中で行われた懇願と却下。ポルトは仕方なく背を向け、着ていたシャツを脱ぐ。巻かれていた包帯をほどき、丸めたシャツと一緒に胸の前でぎゅうっと抱いた。
 別に隠すほどの内容は持ち合わせてはいないのだけれど、なんとなく気恥ずかしい。

 指先で薬を練りながら、フォルカーが傷の様子を見ている。

「それにしても……女相手に手加減のない奴だな。男の風上にもおけねぇ。お前も、どうせ背中に爪痕つけるなら、もっと色気のあるモンにしろよ」

 白い肌に残る古傷達の中心にあるのは、四本の新しい筋傷。一番深いものが矢尻、その側についたやや浅いものは未だ捕まらない犯人の爪痕だそうだ。

「あの…、どうでしょうか?最初に比べて痛みも感じなくなっているんですけど……」
「ああ。殆どふさがってる。経過は良好だな。さすが王室付きの名医が作った良薬。そしてその名医に頼んだ俺」
「……そ・そうですね……」

 ネドナは歴史上にも度々名前が出てくる。暗殺といえばコレ!というほどオーソドックスな代物だ。ファールンでも過去にこれを使った暗殺事件が起きていて、今まで多くの治療薬研究がされてきた。この薬もその成果のひとつなのだそうだ。

 一日二回、解毒用の飲み薬、その他に傷口用の塗り薬を処方された。独特のハーブの香りがする薬が傷口に乗せられ、薄く伸ばされていく。
 撫でられているような感触に、ポルトは気持ちよさそうに膝を抱いて目を細めた。

「……殿下が父様だったらいいのに」
「はぁ?」
「女癖の悪さはともかく……、その……殿下はとてもいい人だから……」

 ここにあるのは何にも追われず、剣も盾も持たず、ただただ守られているだけの生活。親鳥の懐に潜り込んだひな鳥にでもなったようだ。

「父様……ね。じゃぁ、もし友達が出来たらちゃんと父親に紹介しろよ。端から味見してやるから」
「すみません。さっきの言葉無かったことにして下さい」

 とんでもない親鳥の懐に潜り込んでしまった。やはり自立は必要だと考え直す。
 落ちかけた夕陽の差し込む部屋は柔く静かで、肌の上を指が滑る音だけがかすかに聞こえるだけ。
 薬を塗りおえた指先が他の傷跡をなぞる。ポルトには、それは先日出来たものでないことがすぐにわかった。

「そこにはきっと効かないでしょう。お見苦しいかと思いますが、どうぞそのままで……」
「昔……まだ俺が小さい時の話だ。母上と一緒に保養地にある浴場に行ったんだ。母上の肌にもお前みたいに、なんだかよくわからねぇ傷跡がいっぱいあってさ。『これどうしたの?』って聞いたら『戦いの歴史だ』って言って笑ってたな。終いにゃタトゥーまで入れてたっけ」
「え?王妃様がですか?」

 高貴な身分の女性は、皆陶磁器のように美しい肌を持つものだと思っていた。
 例えばエルゼのように、日焼けのない白く、なめらかな肌。近づけばふわりと甘い良い香りがする。

「母上は美しい方だったが、極一般的な『姫君』に比べると少々異質でな。自ら剣や斧を手に取り、大の男相手に互角以上の戦いをする戦女神のような方だよ」

「へぇえ…。では殿下の剣の腕前は陛下ではなく王妃様似という可能性もありますね!」
「かもな。えーと、あとは口のとこだな。そこにも塗っておくか」

 最初に殴られた所だ。地面で擦った傷もある。まだ青い痣が残ってはいるものの、腫れはすっかり引いていた。
 背中に塗った薬が乾くのを待っている間、傷口を刺激しないように塗り込まれていく。

「………」
「何だ?」
「殿下は昔から部下達にこのようなことを?」
「女性使用人なら喜んで。なんだったら通ってもいいぞ」
「あ、そうですよね。……では、私が曲がりながらにも女だからってことですね」
「……お前がバラすなって言ったからこういうことになってんだろうがっ」
「そりゃそうですけど……。でも……」

 診療部屋で治療を続けていても良かったし、なんだったら身分を明かさず、どこかの町医者の元へ放り込むということも出来たはずだ。

「まぁ、確かに女は好きだ。三度の飯より女が好きだ」
「それはよく存じております」

 やっぱりそういうことか。
 今の今まで、彼が女性を無碍に扱った姿など見たことがないし、もうしばらくこのままでいても大丈夫なのかもしれない。

「………」
「どうした?急に黙り込んで……。つーか、さっきから変なことばかり気にしてるな。暇すぎて頭がおかしくなっちまったのか?」

 気の抜けたようなフォルカーとは裏腹に、ポルトはふと我に返り、視線と落とす。
 彼の言うとおりだ。どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。特に最近は初めての経験ばかりで調子が狂ってばかりだ。自分でも自分に何が起こっているのかわからない。

「すみません………。慣れていないんです。今身の回りにあるもの全部、馴染みのないものばかりで。綺麗な部屋も、こんなにふかふかなベットも、立派なカバーがついている本も。お医者様に何度も診て頂いて、動けるのにベッドで寝たきりになってることも。それに、空の上の身分である貴方がここにいることも……。全部全部夢なんじゃないかと思う時があります」

「お前を窓の外で見つけた時は俺もそう思った」
「…………それに関してはもう……なんというか……」

 部屋のドアには衛兵が見張っている。誰にも見られず外に出るには窓しかない。
 しかし……

(まさか本当に窓から出るとは………)
(まさか下の階に先回りされて見張られているとは……)

 思わなかった……。
 窓を挟んで目が合った、あの瞬間の絶望にも似た気まずい空気は今でも忘れられない。

「とにかく、傷が開いたらそっちの方が面倒だ!余計なことは考えずに黙って寝とけ!……それに、医者から逃げ回ってなけりゃ、その考えも少しは変わっていたかもしれねぇぞ?俺は各駐屯地ごとにちゃんと軍医を派遣していたはずだ」

 戦場では軍医はいくらいても足りない。按じた彼は、ある程度の怪我ならば兵自身で処置が行えるよう、兵に教育を施した。このおかげで助かった命は決して少なくはない。
 ポルト自身、戦場にいながらも辛うじて医者にかからず性別もばれずにすんだが、怪我だらけになっても医者を見たら逃亡するという、非常にオリジナリティの高い習性ができてしまった。

「ったく、面倒臭ぇ奴だな」
「……すみません……」

 なんだかいつも以上に謝ってばかりだ。こういう奴は職場でも暗い奴だと思われ倦厭されることも珍しくない。しかしフォルカーの口調はぶっきらぼうながらも声音は優しかった。

 彼はまっすぐで良い人だ。本当にそう思う。
 彼の言うとおり、余計なことは考えず素直に身を委ねられたら良いのに。信じたいのにどこかで歯止めがかかってしまって、疑心暗鬼になってしまう。
 いつか別れることになるんじゃないか、不要だと思われるんじゃないか、望んでも手に入らないものだと気がつく日が来るんじゃないか……。

 優しさを感じると嬉しくて、同時に不安にも襲われる。
 そもそもここ最近は全てが上手くいきすぎている。もうこれからの人生、転落しかないんじゃないかと思ってしまうほどだ。きっと彼にはこんな気持ちはわからないかもしれないが………。

「――――………」

 思いが葛藤する頭の上に、大きな手が乗せられた。温もりがじんわりと伝わり、軽く二三度跳ねるように撫でる。

「!」

 それは段々スピードを上げていき、ガシガシと髪をかき回すと勢いそのままに今度は傷のない片頬をいじり始めた。ぶにぶにと頬肉が縦横無尽に変形しているのが自分でもよくわかる。

「よーしよしよしよし!!」

 黒い靄をはらすように散々かき回すと、その後には嵐で荒らされた鳥の巣みたいな髪型とあっけにとられているポルトが完成する。

「ひょふぇ……っ!?」
「うはははっ!変な顔!ハゲそうな顔してるぞ!だっせぇ!」

 ワケがわからずフォルカーを見上げるが、彼は笑っているだけだ。犬小屋というにはあまりにも大きすぎる家を与えられている狼二匹を考えれば、今の自分の待遇はそんなに大層なものではない……のかもしれない。
 こんな納得の仕方で良いのかどうか、今度仲間に会ったら聞いてみよう。シャツを着ながらむむむと考え込んだ。

「シ・ワ!」
「!」

「お前は楽しくても困ってもしかめっ面だな。たまには笑顔のひとつも見せてみろっ。生きて行くには愛想だって大切だろっ?」
「城内に…しかも殿下のお側にいるときは任務中です!気を緩めるようなことは……っ」

 任務どころか警護すべき相手にベッドで看病されているわけなのだが。

「ほら、にーって笑ってみろ!にーっ!」

 フォルカーに強要されて益々困惑した表情になってしまう。

「違う、そうじゃない。俺をよく見ろ。こうだ、こう!」

 そういって、今度は姫君達に見せるような『麗しの王子の微笑』を見せる。
 白い歯が輝き、謎の効果音が出るんじゃないかと思わせるこの微笑。すでにプロの領域に入っているということに違いない。
 ぬいぐるみが手放せない幼子の警戒心を溶解し、子供が自立したマダムを青春時代に引き戻す微笑を、ポルトは見よう見まねで再現してみせた。

「…………」
「………それはただ薄目で歯茎を見せているだけだ。それが俺だというなら結構ショッキングな事実だし、国中の女性達の美的センスを疑わにゃならん」
「すみません……」

 しょんぼりと落ち込むポルトを見て、フォルカーはクスクスと笑い出す。こういう時の彼は大広間や中庭で咲く薔薇の前で見せるものとは違い、良く晴れた日の太陽みたいな笑い方をする。此方の彼の方が魅力的だと思うのだが、話してもきっとわかってもらえないだろう。
 フォルカーがポルトの額をペチンと一度弾いた。

「よく聞け、阿呆従者」
「!」
「『女は守る、男なら共に戦う』それが俺の信条だ。見知った相手を裏切るようなことはしねぇよ。主が死んだ後のアントン隊だって、ちゃんと回収してやっただろうが。これは夢じゃねぇ、現実だ。シーザー達同様、お前のことも最後までちゃんと面倒みてやる」
「………っ」
「だから今後一切、俺がお前にすることに疑問を持つな!わかったな?」
「……ぁ……」
「へ・ん・じ!」
「は・はいっ!承知……しました……」

 まだ整いきれていない髪を揺らしながら、ポルトは頷く。
 それを見たフォルカーは満足そうに口角を上げ「よし!」と一言。そして隣の自室へと戻っていった。

 閉められたドア。急に部屋は静かになった。
 薬を塗られてからまだ一時間もたっていない。この短い間に色々ありすぎて頭の中がぐるぐるする。
 あの人は時々、無意識な言葉でこの呼吸を止めてしまうのだ。

 思い出すと体中がくすぐったい。冷え性の身体がほのかに熱をもったかのようだ。
 はにかみそうになって、慌てて唇を噛む。




 窓から見える空には、卵の黄身のようなまん丸い夕陽が浮かんでいる。


 腹の虫がきゅうっと鳴った。
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