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【8】

青い空の下で-2

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「……て、思っていたんですけど」

 何もない虚空を見つめるような瞳で過去を語る口に、先程までとは違う空気が漂う。

「え?何」
「その……何日かしたらものすごくお腹が空いて」
「……状況から考えりゃ、腹が減ってるのはおかしくないだろう」
「しばらく我慢してれば収まるものなんですけど、何故かその時だけは今までにないくらいお腹が鳴ったんです」
「は?」
「頭の中はもう死ぬ準備ができてるのに…身体だってもう動けないほど限界だったはずなのに。自分でも不思議でした。そこで、『ああ、意識と身体って別物なんだなぁ』って感じて。……しかもそのお腹の音が…ウロの中でかなり響くんですよ……」

 腹の中に違う生き物が住んでいるのではないかと疑ってしまう程の重低音が、鼓膜の奥までなだれ込んで来た。睡眠前に家のすぐ隣で工事が始まった時の心境はこれと類似しているだろう。

「……え?……それ何?俺悲しむところなの?笑うところなの?」

 ややげんなりした顔をしているポルトに、王子は思わず馬鹿げた確認をしてしまう。

「自分のお腹の音が耳障りになってきて、段々落ち着かなくなってきて。しかも今までじっと横になっていたからなんとなく体力も回復してて。……結局それでウロを出てきました。とりあえず少し食べてもう一度戻ろうと、近くの川で水を飲んで…小さなカエルとか魚を獲って食べました。そしたら視界がはっきりしてきて、なんとなく陽の光が綺麗だなって思っていたら、また歩き始めていて……」
「……な…なんか……凄くお前っぽい話だな……」

 その後、また漁り屋に戻り生きるだけの生活を送っていた中、マテック領の村で志願兵募集を募集する公示人の声を聞いたのだという。

「入隊後はアントン隊長が面倒を見てくれました。きっと、ずっと一人でいる私を気にかけてくれていたんでしょうね。最初は戸惑いしか無かったですけど、彼、根気強くて。そんなある日、配給が少ない日があったんです。私は任務で取りに行くのが遅くなったせいで他の誰かに盗られてちゃってて……。そしたら隊長が自分のパンを半分ちぎって分けてくれたんです」

 国から優先的に配られるものだとはいえ、決して大きなものではない。
 体格の良いアントンには両手に余るほどなければ腹も膨れないだろう。
 しかし一度、二度…三度、アントンはポルトを隣に呼び、パンを分け与えたのだという。
 『硬ェけど、今の俺達にゃこれでもごちそうだな』、そういって彼はいつも隣で笑っていた。

「私……誰かの笑顔の隣でご飯食べたの、初めてだったのかもしれない」

 薄暗い『家』には、いつ倒れてもおかしくない子供しかいなかった。 
 笑顔を浮かべられるほど余裕なんて誰も持っていなかったのだから。

 アントンの少し下がった目尻が、優しい声が、自分を肯定してくれているように、生きていくことを応援してくれているように感じた。
 太陽の光にも似た暖かさを肌で感じて、身体の芯がゆっくりと温まっていった。

「そのパンを食べ続けているうちに、段々とご飯が美味しく感じるようになりました。……とても久しぶりでした。きっと彼が私の人生の中で初めてちゃんと向き合ってくれた人です」

 食事を全部食べたら褒められた。それも初めての経験だった。
 まるで奉公先で見た優しい父親のようで、いつか迎えにくるはずの実父の面影を時折彼に重ねた。

「――……お前のことを調べた時、アントンにも話を聞いた。お前、なんでも噛まずに飲み込んじまうからそのうち喉に詰まらせて死ぬんじゃないかって思われてたんだってな。その癖を治すのに随分と時間がかかったって言ってたぞ」
「早く飲み込んで次を口にいれないと、いつ誰に取られるかわからないでしょ?隊長はご実家が食堂なので、そういう所は気になるみたいです」
「犬かよ」
「犬だったら良かったのにと思ったことは何度もありましたよ」

 野良犬の寿命など二、三年のものだろう。あっという間に天からお迎えがくる。

「結局…私は運が良かったんです。力とか、容姿とか、身分とか…何か特別なものを持っていたわけじゃないのに、今もこうして生きている。城での生活は今までで一番安定した場所でした。そして、そんな生活の中で時々昔のことを思い出すんです」
「――……」

 ゴミを漁ることは無くなったが、兵士として剣を握り戦場を渡り歩くことになった。
 理不尽に奪われるのは土地や金品だけではない。

 兵士が傷つくのはまだ理解できるが、何故関係のない人間や土地まで巻き込まれなくてはいけないのか。
 地獄だと思った故郷から逃れた足は、また違う誰かの無残な姿へと繋がっていた。
 結局外に出てもこうなのか、唇を何度噛んだことだろう。

「本当は死んだ人の中にも能力の高い人がいたはずなのに、良い人だっていたはずなのに……。なんで生き残ったのが私だったんだろう、って」
「……」
「私の代わりに…子供を残して死んでしまった母親とか、私よりもずっと幼い…まだ将来がある赤ちゃんとか、私よりもずっとずっと勉強ができる学者さんとか、叶えたい夢があった人とか…そんな人達が生き残れば良かった……。なのになんで…私だったんだろうって……」
「ポチ……」

 その言葉に、表情に、少女がどれだけの人間を見送って来たのかを感じる。
 他人も自分も救えず、どれだけ無力さをその小さな身体で飲み込んできたのだろうか。

「俺はそうは思わないぞ……!俺はお前が生き残って良かったって思ってる!他の連中にも聞いてみろ!絶対皆そう言うからな!」
「……みんな…ですか………」

 その言葉にポルトはうつむいてしまった。
 確かに城にいる皆は優しかった。きっとフォルカーが言う通りだろう。

 それでも、今後の選択を考えればきっと反応は変わってしまう。

「貴方に一緒にいようって言われた時…とても嬉しかった。でも、それが何を意味しているのかもわかります。気持ちだけで一緒にいられる相手じゃない。貴方が望むそれは…貴方と同じ世界を見て、貴方が守りたいものを一緒に守れる人じゃないと……」
「――……」

 想いを寄せたとしてもわかっていた結果。
 だから、せめて使用人の一人として側にいられたらと願ったこともあった。
 しかしそれも、叶えてはいけない望みなのだと痛感することになる。

「恐れていたことは現実になった。北牢へ入れられた時、私は貴方の足枷になってしまった。これからもきっと、貴方の側にいる限り同じ様なことが起きてしまうでしょう。誰にだってわかることです」
「お前の過去なんてどうせどこの記録にも残っていないんだろ……っ?だったらそれで良いじゃねぇか!誰に何か言われても全力ですっとぼけろ!後は俺がなんとかしてやる!」
「知っています」
「っ?」

 ポルトが自分の胸に手を置いた。

「知ってますよ。誰でもない、私自身が」
「……な……!」
「私は…自分が人の上に立つような人間じゃないことを知っています。私が歩いてきた道は人々が忌み嫌うものばかり。政を扱う知識も経験も…あるわけない。それでも我儘を貫いて、貴方の望みをその通りに受け入れたとして…何か起きたらどうするんですか?もし私のせいで貴方を守れなかったら?貴方が守ろうとしたこの国の人々に何かあったら?私が見てきた情景が、より大きな形で広がってしまったら?その足元にすがった子供達の姿を…貴方も見たでしょう?」
「――っ…!」
「そんなことになったら…私は私を許せなくなる。何度首を吊っても、毒を飲んでも、ナイフで心臓を差しても取り返しがつかない」
「――……」
「貴方の手の中にある世界は大きくて…とてもとても大切なもの。……私には守りきれない」

 フォルカーはその言葉には聞き覚えがあった。

 ――『お前はどこにでもいるような普通の人間ではない。鏡でその髪を見てみろ。ファールンの『赤』だ。血に刻まれたお前の役割はあまりにも大きい』

 それはポルトを追いかける許しを父王に願い出た時。

(お前は…正反対の場所にいながら王と同じ言葉を口にするのか……!?)
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