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【7】
【後】私が選んだもの(★)
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村はいくつかの篝火を燃やしながら、静かな時間を迎えていた。茂った木々の遠くから時折聞こえる狼の声を邪魔するものもなく、星々の煌めく澄んだ空に吸い込まれていく。白い雪をかぶった家々は窓の鎧戸をしっかりと閉めて竈以外の火を落とす。皆そろそろ乾いた藁を敷き詰めたベッドに疲れた身体を横たえている頃だろう。
遅い夕食を終えたポルトは皿を洗い、カールトンは早々に部屋に戻る。この村で迎える最後の夜だ。他に何かできることはないかと店主に聞きに行くと、「もう十分だよ」と夫婦に笑い返された。
「今夜は雲が晴れててな、さっきから流れ星がいくつも流れてるぞ。あんたも見てみたらどうだい?」
「流れ星?すごい。ちょっと外に出てきます」
ローブは持ってきていないが少しくらいなら外に出ても大丈夫だろう。借りたランタンを片手に外へ出て、きょろきょろと辺りを見回した。
昼間は木槌や人々の声で賑やかだった村も人の気配はなくひっそりとしている。少し歩けば雪原に黒々とした木々の影が冷気を含んだ夜風に揺れていて乾いた音を立てていた。
暗闇から濃紺のグラデーションに染まった空には宝石のような星々がちりばめられている。
「わぁ…、綺麗……っ」
弾む声にふわりと浮かぶ白い息。冬は星が一番綺麗に見える季節だと誰かが言っていた。あの星をひとつでも手に入れることが出来たら、夜を明るく過ごせるかもしれない。
「さむ……っ……」
ふいにぴゅうっと吹いた北風に両腕で身体を抱く。
ファールンの夜空は吸い込まれそうな世界だった。大きさも、色も、瞬く光も違う星々。あれは死んだ人の魂なのだそうだ。その数は自分が見てきた死者の数よりもずっと多いように感じる。
……世界にはどれくらいの人間がいて、どれくらいが死に、そして産まれているのだろう。ふとそんな事を考えた。
神様の世界は白くて綺麗で平和で…『楽園』と呼ぶにふさわしい場所らしい。あの星の瞬きを見ていれば、村が人で活気づくようにあちらの世界も賑やかなのだろうと推測できる。きっと幸せに暮らしているから、あんなに綺麗に輝いているのだ。
遠く遠く、果ての無い先を見つめながら……、あのエメラルドの瞳も夜空を見上げているのだろうか、ふとそんなことを考えた。脳裏にその姿を浮かべた瞬間、理性の手が左右に揺れて像を散らす。
(違うこと考えなきゃ)
仕事の為だったとはいえ、今までずっと自分の世界の中心にいた人だ。朝起きてから夜眠りにつくまで、あの人が快適に過ごせるように、間違った方向へ行かないように、ずっと心を砕いて尽くした人だった。そのせいだろう、何もせずにぼうっとしてると無意識に思い出してしまう。
違うことを考えよう。村の人が今日も顔を見せてくれたこと。美味しかった今日のごはんのこと。ご主人にレシピを教わったこと。赤ちゃんが小さくて今日も満点に可愛かったこと。子守唄を歌う母親の歌声は瞬きを忘れるほど優しかったこと。
――ほら、大丈夫。あの人がいなくても――……。
理性をまとった自分が何処か言い聞かせるような言葉をかける。
これは時間が癒やしてくれる傷だ。最愛の妻を無くしたウルリヒ王は今も立派な執政を行っているし、最愛の母を無くしたフォルカーは今も城の皆を困らせるほど元気に走り回っている。死別したわけじゃない。理不尽な理由で離れたわけでもないのだ。
こんな寒い夜だし、あの人は外なんか出ないで部屋に入っているだろう。一人で大人しく眠っているかもしれないし、もしかしたら二人かもしれない。そして朝を迎えて、また夜を迎えて、木の年輪のように新しい思い出を重ねていくのだ。
立派な従者を迎えて、屈強な狼の世話係を迎えて、共に未来を歩く女性を迎えて……。そう、それは宿で見た親子の仲睦まじい姿と同じ。誰もが羨む『家族』の姿。愛と幸福に満たされた世界だ。
「――っ……」
奥歯を噛み息苦しさにぶんぶんと頭を振ると、くしゃりと前髪を掴む。駄目だ。こんな感情…間違っている。世話になった人の幸福を喜べないなんて、ただの性格が悪い奴だ。嫉妬と妬みに囚われた小さな人間だ。
「――……っ……」
将来を誓いあった相手を想い、未来に胸を焦がす娘。
愛しい人の子を産み、その手に抱く母親。
愛情に包まれた小さな命。
(あれが…私の捨てたもの……)
それは具現化された自分の夢そのものじゃないか。
自覚した瞬間、心臓が強い圧力を受けたかのようにきしみ視界が一瞬暗くなった。
いつも優しかったあの人。裏切りの言葉をぶつけても、まだ守ろうとしてくれた。
身体はまだあの体温を覚えている。抱きしめられた時の感触も、まだ……まだ覚えているのに。
理性をまとった自分にもう一人の自分が問いかける。
――ほら、大丈夫。あの人がいなくても。
――本当に?
……大丈夫に決まっている。身体が健康ならば絶食した所でしばらく死にはしない。明日この国を出るのだから問題など無い。ファールンの支配圏を抜ければ……。そう、だから。二度と会うことはない。
……二度と。もう二度と。
傷と共に薄れる記憶、風に散る砂のように消える輪郭、それが全てになる。これからはどんなに願っても、そうなってしまう。
――本当に…大丈夫なの?
おもむろに指先が天に伸びた。
天は高くて、手を伸ばしてもただ宙を漂うだけだ。
牢で最後に差しだした手もそうだった。硬質のエメラルドグリーンの瞳の前で、ただ宙を漂っただけ。
凍てつく冷気が体温をじわりじわりと奪い、指先はジンジンと痛みを帯びてきた。
それでも。……それでも、あの別れ際に感じた胸の痛みに比べたらどうということはない。
冷えた指先でぐっと拳を握る。
(自分で言い出したくせに……!)
この様はなんだ。心の中では今も二人の自分がせめぎ合っている。
『お前は一生、俺の側にいるんだ』。あの人は嬉しそうに……そう言って笑った。そんな人、今まで見たことがない。
自分の前には現れないと思って諦めていた。どんなに望んでも、願っても全ては儚いものなのだと思っていたんだ。
「忘れて」とも「忘れないで」とも言えなくて、行き場を失った想いは強く激しくうねり大きな波を起こす。
「……っ……」
星々の瞬きに誘われるように瞳から涙がこぼれた。
滴は天に昇ることは出来ず、静かに地に落ちる。
昔『無駄なものだ』と教えられ、自覚し、一度は枯れた。でも再び姿を見せてはこの頬をつたう。
こんなもの取り戻しても無駄なだけだった。どれだけ流したところで、やっぱり何も変えられない。望んだものを与えられても掴む事は出来ない人間だったのだ。
ただ体力を消費するくらいならいっそ涙など無くなってしまえばいいのに……。そう思っても、意志とは関係なく次から次へと頬を流れ落ちていく。
(ごめんなさい……)
雫はこぼれる度に胸の奥の言葉を露わにしていく。滲んで見えなくなる視界と引き換えるように、押し隠していた自分が形をなしていく。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
込み上げる熱い息が白く凍って、歯を食いしばった。
(……一緒にいたかった……)
たとえ『女』としてじゃなくて良い。僕でも良い。犬でも良い。側にいられるのなら何だってしようと思った。でもそれは自分が思っていたよりもずっとずっと難しいことで……。生まれて初めての感情に、その熱に浮かされて…何もわかっていなかった。いや、気づきそうになったから目をそらして見えないふりをしていただけ。逃げていただけだ。
「……――ごめんなさい……。殿下……ごめんなさい……っ」
この手はあまりにも小さくて、こぼれ落ちるのは涙だけでは済まなかった。
どれほどの人に迷惑を掛けただろう。どれだけ彼を裏切り傷つけた?
最後には目をそらされ、この存在を拒絶された。当然だ。大切な人ですら傷つけてしまう自分なんて、誰が想ってくれる?全ては自業自得の結果じゃないか。
――何が『大丈夫』だ。
これから新しい相手に出会う度に思い出すだろう。新しい季節を迎える度に空を仰ぎ、幸福を感じた瞬間、瞼の裏に失った時間を描くだろう。
プツン、と何かが小さく途切れた。
嗚咽だけだった泣き声は叫びになり、虚空の空に消えていく。
振りまくのは無駄なものばかりなのに、止めることは出来ない。
(どうすれば良いの……?)
こんなにも息苦しい想いを…これからもずっとずっと引きずっていかねばならないのか。
終わらない贖罪に身も心も軋ませながら…これからも…ずっとずっと……このまま……。
どうすればいい。
……いや、どうしようもない。
種は知らない内に小さな双葉を芽吹かせていた。
目覚めた想いは、今や心の奥深くまで根を張っていて――……。
熱い息を飲み込んで握りしめた拳をゆっくりと胸に置いた。
氷のような空気をゆっくりと肺いっぱいに吸い込む。
(――石になれ)
痛みに耐えながらも暴れる鼓動を押さえ込むように力を入れた。
(――石になれ。石になれ…。石になれ……)
暖かい記憶は胸を刺す。面影は孤独を連れてくる。全てを受け入れるには、この身体と心は幼すぎた。
いつか成長を遂げる日まで、大人になる日まで……、この感覚、感情全てを無機質な石にしてしまえばいい。
それは幼き日、兄妹達に教えられた方法だ。そうして今まで生きてこられた。今一度、ここで。
何度も何度も呟いた。祈りを捧げるように、呪いをかけるように。
(石になれ。石になれ。石になれ。石になれ……)
それは雨に濡れても、風に吹かれても、蹴られても、火をくべられても……何も感じないただの塊。
(石になれ、石になれ、石になれ、石になれ……)
幾度と無く繰り返せば、その度にインクで塗りつぶすかのように息苦しさが消えていく。
痛いと思う感覚も愛おしいと思う感覚も、自分を自分と思う心ごと闇色に染めていく。
(石になれ。石になれ。石になれ。石になれ。石に、なれ……)
石は寒さを感じない。
石は痛みを感じない。
石は何も思わない。
ただそこに在るだけの存在。
石になれ。石に、なれ。
石に、石に、石に、石、に。石、に。
石、に、石、に、石、に、石、に、石、に………、石……、石……いし……い……
しばらくすると頭の奥がぼんやりとして、全てが遠いおとぎ話のように思えてきた。
めくられた本のページを見ていただけだったのかもしれない。
色を失っていく記憶を惜しいとすら思わない。
嗚呼、なんて懐かしい世界の拒絶。
底なしで堕ちる虚無の海。形の無い混沌の大地。静寂の漆黒。
曖昧になる意識の中で、いつか夢で見た廃墟がぼんやりと輪郭を現し、出会った幼子が赤い口を広げて笑ったような気がした。
水の流れに身を任せるように、飲み込まれるように、瞼を下ろしていく。
光を失っていく瞳から最後の滴が落ちた。
温かいそれは凍る風に触れて瞬く間に冷たくなる。
頬からすべり落ち、白い地面に跳ねた瞬間――……、小さな光が宿った。
宙に浮かんだままのそれは海に眠る真珠のように優しい銀色を放ちながら、ゆっくりと舞い上がり増えていく。
「――……」
虚ろになった瞳はどこでもない空だけを見つめ、追いかけることもしなかった。その前で、さざ波が砂の形を変えるように、風が枝を揺らぐように、光は増え、集まり、少女よりも大きく人の形に成る。
旋風が起きた。
裾が舞い上がったのは肢体の緩やかなラインをかたどる真っ白なローブ。銀の光で出来た長い髪が流星のように真っ直ぐ流れた。淡い陰影を浮かばせるそれは、もう『光』ではなく一人の女――……。
幻獣を模したような仮面で目元が覆われていたが、その姿を空洞の瞳が映すことはない。
女は少女に向かい、形の良い赤い唇で静かに空気を揺らす。
『――己が選んだ道ならば、滅びもまた答えとなるだろう。……しかし、もう誰も傷つかなくて良いと……そう願ったのはお前自身ではなかったか?』
「――……」
その声が少女の記憶のページをめくる。それは牢の前、尋問に連れて行かれる時のこと。全ての希望を絶たれたような石造りの仄暗い部屋の中で膝を抱えた。
辛いことが多すぎた。もう誰も傷つかなくて良い。巡る季節を、心許せる者と穏やかに過ごせればそれで十分だ、と。
今となっては、それは本当に自分だったのかどうかすらわからない。
『……一人の手で変えられるものなど僅かなものだ。その弱さを恐れるな。頑なになるな。自分と皆を信じろ。そうすれば、二度と心を凍らせる必要など無いとわかる』
額にかかった前髪をかき分けられ、唇が優しく触れた。
『本当に…阿呆な娘だな』
「―――……っ…」
意地悪な言葉。でも優しい声音。どこかで………。
淡く戻った瞳の光。視線が銀に輝く仮面の奥…その瞳を捕らえた。見覚えはあったが……頭がぼんやりとして上手く働かない。
透き通るような白い肌、明けの空にも深い海にも似た深い蒼の瞳。やんちゃな子供のように口角が上がった。
それはまるであの人と同じ笑い方で――……。
金色の瞳の奥にある瞳孔がきゅうっと小さくなる。
深い深い穴に落ちるように意識が遠くなり、少女は雪原の中に音もなく倒れた。
遅い夕食を終えたポルトは皿を洗い、カールトンは早々に部屋に戻る。この村で迎える最後の夜だ。他に何かできることはないかと店主に聞きに行くと、「もう十分だよ」と夫婦に笑い返された。
「今夜は雲が晴れててな、さっきから流れ星がいくつも流れてるぞ。あんたも見てみたらどうだい?」
「流れ星?すごい。ちょっと外に出てきます」
ローブは持ってきていないが少しくらいなら外に出ても大丈夫だろう。借りたランタンを片手に外へ出て、きょろきょろと辺りを見回した。
昼間は木槌や人々の声で賑やかだった村も人の気配はなくひっそりとしている。少し歩けば雪原に黒々とした木々の影が冷気を含んだ夜風に揺れていて乾いた音を立てていた。
暗闇から濃紺のグラデーションに染まった空には宝石のような星々がちりばめられている。
「わぁ…、綺麗……っ」
弾む声にふわりと浮かぶ白い息。冬は星が一番綺麗に見える季節だと誰かが言っていた。あの星をひとつでも手に入れることが出来たら、夜を明るく過ごせるかもしれない。
「さむ……っ……」
ふいにぴゅうっと吹いた北風に両腕で身体を抱く。
ファールンの夜空は吸い込まれそうな世界だった。大きさも、色も、瞬く光も違う星々。あれは死んだ人の魂なのだそうだ。その数は自分が見てきた死者の数よりもずっと多いように感じる。
……世界にはどれくらいの人間がいて、どれくらいが死に、そして産まれているのだろう。ふとそんな事を考えた。
神様の世界は白くて綺麗で平和で…『楽園』と呼ぶにふさわしい場所らしい。あの星の瞬きを見ていれば、村が人で活気づくようにあちらの世界も賑やかなのだろうと推測できる。きっと幸せに暮らしているから、あんなに綺麗に輝いているのだ。
遠く遠く、果ての無い先を見つめながら……、あのエメラルドの瞳も夜空を見上げているのだろうか、ふとそんなことを考えた。脳裏にその姿を浮かべた瞬間、理性の手が左右に揺れて像を散らす。
(違うこと考えなきゃ)
仕事の為だったとはいえ、今までずっと自分の世界の中心にいた人だ。朝起きてから夜眠りにつくまで、あの人が快適に過ごせるように、間違った方向へ行かないように、ずっと心を砕いて尽くした人だった。そのせいだろう、何もせずにぼうっとしてると無意識に思い出してしまう。
違うことを考えよう。村の人が今日も顔を見せてくれたこと。美味しかった今日のごはんのこと。ご主人にレシピを教わったこと。赤ちゃんが小さくて今日も満点に可愛かったこと。子守唄を歌う母親の歌声は瞬きを忘れるほど優しかったこと。
――ほら、大丈夫。あの人がいなくても――……。
理性をまとった自分が何処か言い聞かせるような言葉をかける。
これは時間が癒やしてくれる傷だ。最愛の妻を無くしたウルリヒ王は今も立派な執政を行っているし、最愛の母を無くしたフォルカーは今も城の皆を困らせるほど元気に走り回っている。死別したわけじゃない。理不尽な理由で離れたわけでもないのだ。
こんな寒い夜だし、あの人は外なんか出ないで部屋に入っているだろう。一人で大人しく眠っているかもしれないし、もしかしたら二人かもしれない。そして朝を迎えて、また夜を迎えて、木の年輪のように新しい思い出を重ねていくのだ。
立派な従者を迎えて、屈強な狼の世話係を迎えて、共に未来を歩く女性を迎えて……。そう、それは宿で見た親子の仲睦まじい姿と同じ。誰もが羨む『家族』の姿。愛と幸福に満たされた世界だ。
「――っ……」
奥歯を噛み息苦しさにぶんぶんと頭を振ると、くしゃりと前髪を掴む。駄目だ。こんな感情…間違っている。世話になった人の幸福を喜べないなんて、ただの性格が悪い奴だ。嫉妬と妬みに囚われた小さな人間だ。
「――……っ……」
将来を誓いあった相手を想い、未来に胸を焦がす娘。
愛しい人の子を産み、その手に抱く母親。
愛情に包まれた小さな命。
(あれが…私の捨てたもの……)
それは具現化された自分の夢そのものじゃないか。
自覚した瞬間、心臓が強い圧力を受けたかのようにきしみ視界が一瞬暗くなった。
いつも優しかったあの人。裏切りの言葉をぶつけても、まだ守ろうとしてくれた。
身体はまだあの体温を覚えている。抱きしめられた時の感触も、まだ……まだ覚えているのに。
理性をまとった自分にもう一人の自分が問いかける。
――ほら、大丈夫。あの人がいなくても。
――本当に?
……大丈夫に決まっている。身体が健康ならば絶食した所でしばらく死にはしない。明日この国を出るのだから問題など無い。ファールンの支配圏を抜ければ……。そう、だから。二度と会うことはない。
……二度と。もう二度と。
傷と共に薄れる記憶、風に散る砂のように消える輪郭、それが全てになる。これからはどんなに願っても、そうなってしまう。
――本当に…大丈夫なの?
おもむろに指先が天に伸びた。
天は高くて、手を伸ばしてもただ宙を漂うだけだ。
牢で最後に差しだした手もそうだった。硬質のエメラルドグリーンの瞳の前で、ただ宙を漂っただけ。
凍てつく冷気が体温をじわりじわりと奪い、指先はジンジンと痛みを帯びてきた。
それでも。……それでも、あの別れ際に感じた胸の痛みに比べたらどうということはない。
冷えた指先でぐっと拳を握る。
(自分で言い出したくせに……!)
この様はなんだ。心の中では今も二人の自分がせめぎ合っている。
『お前は一生、俺の側にいるんだ』。あの人は嬉しそうに……そう言って笑った。そんな人、今まで見たことがない。
自分の前には現れないと思って諦めていた。どんなに望んでも、願っても全ては儚いものなのだと思っていたんだ。
「忘れて」とも「忘れないで」とも言えなくて、行き場を失った想いは強く激しくうねり大きな波を起こす。
「……っ……」
星々の瞬きに誘われるように瞳から涙がこぼれた。
滴は天に昇ることは出来ず、静かに地に落ちる。
昔『無駄なものだ』と教えられ、自覚し、一度は枯れた。でも再び姿を見せてはこの頬をつたう。
こんなもの取り戻しても無駄なだけだった。どれだけ流したところで、やっぱり何も変えられない。望んだものを与えられても掴む事は出来ない人間だったのだ。
ただ体力を消費するくらいならいっそ涙など無くなってしまえばいいのに……。そう思っても、意志とは関係なく次から次へと頬を流れ落ちていく。
(ごめんなさい……)
雫はこぼれる度に胸の奥の言葉を露わにしていく。滲んで見えなくなる視界と引き換えるように、押し隠していた自分が形をなしていく。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
込み上げる熱い息が白く凍って、歯を食いしばった。
(……一緒にいたかった……)
たとえ『女』としてじゃなくて良い。僕でも良い。犬でも良い。側にいられるのなら何だってしようと思った。でもそれは自分が思っていたよりもずっとずっと難しいことで……。生まれて初めての感情に、その熱に浮かされて…何もわかっていなかった。いや、気づきそうになったから目をそらして見えないふりをしていただけ。逃げていただけだ。
「……――ごめんなさい……。殿下……ごめんなさい……っ」
この手はあまりにも小さくて、こぼれ落ちるのは涙だけでは済まなかった。
どれほどの人に迷惑を掛けただろう。どれだけ彼を裏切り傷つけた?
最後には目をそらされ、この存在を拒絶された。当然だ。大切な人ですら傷つけてしまう自分なんて、誰が想ってくれる?全ては自業自得の結果じゃないか。
――何が『大丈夫』だ。
これから新しい相手に出会う度に思い出すだろう。新しい季節を迎える度に空を仰ぎ、幸福を感じた瞬間、瞼の裏に失った時間を描くだろう。
プツン、と何かが小さく途切れた。
嗚咽だけだった泣き声は叫びになり、虚空の空に消えていく。
振りまくのは無駄なものばかりなのに、止めることは出来ない。
(どうすれば良いの……?)
こんなにも息苦しい想いを…これからもずっとずっと引きずっていかねばならないのか。
終わらない贖罪に身も心も軋ませながら…これからも…ずっとずっと……このまま……。
どうすればいい。
……いや、どうしようもない。
種は知らない内に小さな双葉を芽吹かせていた。
目覚めた想いは、今や心の奥深くまで根を張っていて――……。
熱い息を飲み込んで握りしめた拳をゆっくりと胸に置いた。
氷のような空気をゆっくりと肺いっぱいに吸い込む。
(――石になれ)
痛みに耐えながらも暴れる鼓動を押さえ込むように力を入れた。
(――石になれ。石になれ…。石になれ……)
暖かい記憶は胸を刺す。面影は孤独を連れてくる。全てを受け入れるには、この身体と心は幼すぎた。
いつか成長を遂げる日まで、大人になる日まで……、この感覚、感情全てを無機質な石にしてしまえばいい。
それは幼き日、兄妹達に教えられた方法だ。そうして今まで生きてこられた。今一度、ここで。
何度も何度も呟いた。祈りを捧げるように、呪いをかけるように。
(石になれ。石になれ。石になれ。石になれ……)
それは雨に濡れても、風に吹かれても、蹴られても、火をくべられても……何も感じないただの塊。
(石になれ、石になれ、石になれ、石になれ……)
幾度と無く繰り返せば、その度にインクで塗りつぶすかのように息苦しさが消えていく。
痛いと思う感覚も愛おしいと思う感覚も、自分を自分と思う心ごと闇色に染めていく。
(石になれ。石になれ。石になれ。石になれ。石に、なれ……)
石は寒さを感じない。
石は痛みを感じない。
石は何も思わない。
ただそこに在るだけの存在。
石になれ。石に、なれ。
石に、石に、石に、石、に。石、に。
石、に、石、に、石、に、石、に、石、に………、石……、石……いし……い……
しばらくすると頭の奥がぼんやりとして、全てが遠いおとぎ話のように思えてきた。
めくられた本のページを見ていただけだったのかもしれない。
色を失っていく記憶を惜しいとすら思わない。
嗚呼、なんて懐かしい世界の拒絶。
底なしで堕ちる虚無の海。形の無い混沌の大地。静寂の漆黒。
曖昧になる意識の中で、いつか夢で見た廃墟がぼんやりと輪郭を現し、出会った幼子が赤い口を広げて笑ったような気がした。
水の流れに身を任せるように、飲み込まれるように、瞼を下ろしていく。
光を失っていく瞳から最後の滴が落ちた。
温かいそれは凍る風に触れて瞬く間に冷たくなる。
頬からすべり落ち、白い地面に跳ねた瞬間――……、小さな光が宿った。
宙に浮かんだままのそれは海に眠る真珠のように優しい銀色を放ちながら、ゆっくりと舞い上がり増えていく。
「――……」
虚ろになった瞳はどこでもない空だけを見つめ、追いかけることもしなかった。その前で、さざ波が砂の形を変えるように、風が枝を揺らぐように、光は増え、集まり、少女よりも大きく人の形に成る。
旋風が起きた。
裾が舞い上がったのは肢体の緩やかなラインをかたどる真っ白なローブ。銀の光で出来た長い髪が流星のように真っ直ぐ流れた。淡い陰影を浮かばせるそれは、もう『光』ではなく一人の女――……。
幻獣を模したような仮面で目元が覆われていたが、その姿を空洞の瞳が映すことはない。
女は少女に向かい、形の良い赤い唇で静かに空気を揺らす。
『――己が選んだ道ならば、滅びもまた答えとなるだろう。……しかし、もう誰も傷つかなくて良いと……そう願ったのはお前自身ではなかったか?』
「――……」
その声が少女の記憶のページをめくる。それは牢の前、尋問に連れて行かれる時のこと。全ての希望を絶たれたような石造りの仄暗い部屋の中で膝を抱えた。
辛いことが多すぎた。もう誰も傷つかなくて良い。巡る季節を、心許せる者と穏やかに過ごせればそれで十分だ、と。
今となっては、それは本当に自分だったのかどうかすらわからない。
『……一人の手で変えられるものなど僅かなものだ。その弱さを恐れるな。頑なになるな。自分と皆を信じろ。そうすれば、二度と心を凍らせる必要など無いとわかる』
額にかかった前髪をかき分けられ、唇が優しく触れた。
『本当に…阿呆な娘だな』
「―――……っ…」
意地悪な言葉。でも優しい声音。どこかで………。
淡く戻った瞳の光。視線が銀に輝く仮面の奥…その瞳を捕らえた。見覚えはあったが……頭がぼんやりとして上手く働かない。
透き通るような白い肌、明けの空にも深い海にも似た深い蒼の瞳。やんちゃな子供のように口角が上がった。
それはまるであの人と同じ笑い方で――……。
金色の瞳の奥にある瞳孔がきゅうっと小さくなる。
深い深い穴に落ちるように意識が遠くなり、少女は雪原の中に音もなく倒れた。
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このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。
怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。
※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。
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