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【7】
薄氷
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※今回、「断固!!殿下×ポルト派!某、それ以外認めぬっ!!」という方は、スルー&そっ閉じ推奨です……!
(念の為注意書き……(笑))
◆
その夜、強い北風は色を無くした厚い雲を連れてきた。己の葉と枝を激しくぶつけながらざあざあと音を立てる木々。道路で粉塵を叩くはずだった雨粒は白く凍り、音もなく貼り付いては色を消していく。指先ほどの雪粒は少しずつ、少しずつ、しかし確実に大地を侵食していく。びゅうと吹く風の音に混じって、どこかで羊が鳴く声がした。白い嵐を恐れたのだろうか?しかし様子を見に行く人間はおらず、皆しっかりと家の鎧戸を締めて薄い布団や重ねた衣類の下で氷の寒さに耐えていた。
部屋の中では城壁と同じ石材で作られた暖炉、その中で火は赤々と燃え闇を焦がしている。炉火は床に照り返し、光の中に重厚なオークの木で出来たベッドを浮かび上がらせる。白いリネンは夕日のようなオレンジ色に染まり、時折強く波打っては新しい皺を作り、崩れていった。
高鳴る鼓動を果てさせた熱い肢体が妖艶さを纏ったまま気だるそうに横たえる。氷の季節に抗うようにしっとりと汗を滲ませた女の髪がプラム色の模様をリネンに施した。
「……皆が噂していましたわ。あのシュミット侯爵のお嬢さん…名前はエルゼだったかしら?彼女と貴方がご婚約されるって……」
紅がすっかり落ちた唇は、まだ赤く熱を持っている。
「わたくしをこうして抱いてくださるのも最後の独身時間を惜しんでのこと?年上女はこれでもう抱き納め。これからは若い娘を愛でるってことかしら?」
髪と同じ色をしたまつ毛が隣りにいる男の方を向く。瞳には暖炉の炎が映り刹那の輝きを見せた。日に焼けることを知らない白い腕が男の胸にまわる。
青年らしい、瑞々しく引き締まった筋肉の上を細い指先が滑る。するとくすぐったそうな笑い声が小さく転がった。
女が視線を上げるとなだらかな顎のラインが見えた。まるで蝶が花に吸い寄せられるように唇を押し当て、軽く歯を立てる。
「やめなさい」、そう言うように男は女の口を自分のそれで塞ぐ。互いの温もりを惜しむような口づけをして、やっと二人は大人しくなった。
パチパチと木の皮が弾ける音を聞きながら、エメラルドの瞳が宙を何気なく見つめる。
「その類の話はいつだってある。私が知っているだけで六件。知らない場所ではもっとあるだろう。お相手も国内外問わず……。もう聞き飽きたくらいだ。いっそ日替わりで相手をさせてくれたらより多くの人間を幸せにできると思うけどね」
「そんな蛇の巣をつつくような事……。女達が貴方を巡って争う様を見るのがお好きなのかしら?」
「まさか。君は百合と薔薇、どちらが美しいか判断することは出来る?色、形は違えど皆美しい花々。甲乙つけることなど愚かなことだ。散らし合うなどもっての外だ」
男にはない甘い香りのする髪を指に絡め、薄い耳の輪郭に沿ってキスを落とすと女はくすぐったそうに目を細めた。
「いつご結婚されてもおかしくない年齢ですもの。お気に入りの玩具も手放して、いよいよその気になられたのだって…そう思うのは不思議なことじゃなくてよ?それとも、もう二度と会うこともなくなる女には、会話を楽しむ時間もご面倒に感じられるのかしら?」
「はははっ、焼きもちかい?そもそも我々の世界では品行方正な夫婦の方が珍しいってもんさ。そうだろ?」
男の言葉に女もまんざらではないように口元を緩ませる。
「人生は思うほど長くない。持っているものを使わずに腐らせてしまうのは良くないぞ。男も、女もね」
「……では、これからもこうしてお会いになって下さるの?もしわたくしが、来年も再来年もこうして殿下の腕の中に収まりたいと言ったら叶えてくださる?それとも…わたくしの身体に貴方を覚えるだけ覚えさせて捨ててしまうおつもり?」
「そんなに待たずとも、すぐに君を呼ぶよ。城の騒動は落ち着いたし、小五月蝿い従者もいなくなった。……これからはゆっくりと自分の時間が取れる。君が望むなら結婚後と言わず来月にでも……おや?」
「?」
ベッドから離れた扉の前で、重い足音が止まる。
「……来客だな。今夜はこれくらいにしておこうか」
男は身体にかかっていたブランケットを払うと、ベッドの脇に転がしてあった革靴に爪先を押し込んだ。軽く伸びをしながら椅子にかけていた服を手に取る。深夜にお忍びで来た為、着てきたものはシャツとズボン、そして厚手のローブくらいだ。簡単に腰帯を締め、乱れた毛先を手で軽く整える。
止まった足音からしばし時間を置いて、うす暗い部屋の扉をノックする音が二人きりの甘い時間を終わらせる。その頃には二人ともすっかり身支度を終えていた。
夜の終わりに寂しそうに眉根を寄せる女の瞼にキスを落とし、そしてそのまま眉間に、頬、軽く開いた唇に自分のそれを押し当てると深い口づけを愉しむ。
女の目がトロリと潤んだ所でやめ、「では、また次の夜に」と耳元で甘く囁き、別れを告げた。
扉を開くと赤いサーコートを着た衛兵と近衛隊の男が一人、随分と難しい顔で立っている。さっきまで愛した女と比べれば随分と見苦しい生き物だ。特に近衛隊の方は上唇の上に黒炭で書いたような髭が生えていて、無駄に男っ気を出してくる。憮然たる横目でチラリと見た後、冷え込む廊下で上着の裾をなびかせる。その歩幅は広く、早い。
決して良いとは言えない彼の機嫌を伺うように衛兵が恐恐と声を掛ける。
「ここにおられましたか……。急にお姿が見えなくなったので皆心配を……」
「黙れ」
「……っ!も・申し訳ありません……っ」
「殿下、お疲れの所大変申し訳ないのですが、明日のご予定をまだお伝えできておらず……。明日は早朝より地方へ戻る諸侯達の見送りが――……」
「五月蝿い、わかっている。……はぁ……。お前らの太い声は本当に耳障りだな」
彼らの表情を見れば小言の一つでも言いたいのだろうとは察する。先程一緒に居た女は西側の小さな領地を治めているブラント伯爵の妻で、晩餐に招いた客の一人だった。四歳年上の彼女は当初夫と同じ部屋を与えられたが、「イビキがうるさくて眠れない」と別の寝室を頼んだらしい。その話をわざわざ城のメイドを通じて知らせてきたのだ。この城に出入りする者で、王太子がどんな性格の持ち主かを知らぬ者はいない。彼女が何を意図していたのかはすぐにわかった。
そんなお誘いが数件あったが、今夜は癒やすよりも癒やされたい気分がして一番経験のありそうな相手を選んだ。そしてそれはベストな選択だったことを実感する。
勿論褒められることではない。ただ止める者もいない。あの厳格な父親でさえ、あの一件の後は小言が減った。腫れ物だとでも思っているのかもしれないが、干渉されないなら好都合だ。彼女の夫、その家臣たちには多少の恨み言で口を歪ませているかもしれないが、野郎共のことなど知ったことではない。
衛兵はさっきの一言で萎縮してしまったらしく、近衛兵の後ろで肩を小さくしている。なんだか自分が悪いことでもしたみたいではないか。彼らだって、娼館で楽しんだ後むさい男の顔を見るなんて嫌だろうに。
もう「察してくれ」なんて言うのも諦めた。今度から衛兵ではなく若いメイドに迎えに来て欲しい。
「身体を流す。湯の用意を。あと腹が減った」
――『大陸一の女好き』。そう呼ばれた男が再び姿を現したのは、指輪が見つかってしばらく後の頃だった。
私室の門番として立っていた近衛隊員は衛兵へと代わり、城での行事も人の流れも日常を取り戻していく。
ダーナー公の喪が明けて初めて開かれた今晩の晩餐会、この機会を待ち望んでいたのはフォルカーだけではない。諸侯等にとっても社交場は普段とは違う場所へのツテを作る重要な機会であり、自分の娘を未婚の王子に売り出す絶好の機会でもある。
私欲と利己主義の需要と供給がマッチしたこの市場は、道徳観など何処かへ置き忘れたたまま活性化。絶大な抑止力となっていたあの小さき者も今はいない。……王太子フォルカーの従者、第五城兵隊所属のポルト=ツィックラー。華やかに彩られた壁の隅で、柱の陰で、口元を隠した扇の下で噂が花開く。
――複数の罪を犯し強制除隊処分になったらしい。
――ほう?一体どんな罪をどれだけ犯した?
――盗ったのは金か?女か?
限られた情報は人づてに次々と伝わり、尾ひれをつけては奇形を成していく。
強制除隊とは、なんらかの不祥事を起こし、引退後も国から何の保証も名誉も与えられない不名誉なものとされている。騎士ならば「一族の恥」と蔑まれ縁切りをされてもおかしく無い程の処分だ。
あの従者も収監された後は軍人として城に出てくるどころか、知り合いにも合わせる顔がなくなり、今は王子ですら何処にいるのかわからなくなっている……と言われている。そのまま辺境にいる家族のもとに戻ったとも……。
一方、王子の方はまるでリードの切れた犬のように跳ね回り、鳥かごから放たれた鳥のように飛び回り、網から逃げた魚のように泳ぎまわり……。噂になった女性の数はすでに二桁になっていた。
疑惑の従者は処罰されたが、それにより今までとは違うトラブルが起きてしまったのではないかと、役職者達の間では大きなため息が落ちている。
「――殿下?」
「……っ」
少し温めの湯が満たされた湯桶に身体を浸からせたフォルカーがふと瞼を押し開ける。温かさと深夜の静けさに包まれて少し眠っていたらしく、二人の若いメイドが心配そうに顔を覗き込んでいた。思っていたより疲れているのかも知れない。
「お疲れですのね、殿下」
メイドは濡れたシャツに若い肌を透かせながら、湯に浸したタオルで太い腕を洗う。香油を垂らした湯は蒸気となって部屋中に広まり、その芳香は部屋の外まで伝わる程だ。残り湯と言えども、欲しがる若い娘はいくらでもいることだろう。
「差し出がましいことかもしれませんが、お遊びはほどほどにしてゆっくりお休みになる時間を作られた方が……」
「そうですわ…。もしお身体を壊されたらと、使用人皆が心配してます」
「そんな悲しい顔をしないでおくれ、可愛い人。でもおかげで君達とこうして会えたのだから、私に後悔などひとつもないのだよ」
エメラルドの優しい瞳が一人の少女の視線を捕える。城での奉公をはじめ間もないこの少女はまだ男慣れをしていないのであろう、あまりにも真っ直ぐ見つめられ恥ずかしくなったのか耳まで赤くして顔を背けた。
(かわいい……♥)
蝶が花から花へ飛び回る気持ちがよく分かる。遊びを知っている大人の女性も良いし、元気な娘も良い。でもこういうしとやかな感じも女性らしい仕草が映えて、とても愛らしく見える。
しばらく少女二人と他愛もない会話を楽しみ湯船を上がる頃、聞き覚えのある金属音が耳の奥で響いた。
「――……」
くっと締まるような痛みに息を吸い、花の芳香で肺を満たす。
腕の水滴を拭っていたメイドの頬を指の背でなぞると、少し驚いた表情をされた。
「少しだけ、ぎゅってしてもいい?」
「え……っ?」
何処か憂いのある青年の色気は空気をも薄紅色に染める。
「少しだけ。ね?」
娘は恥ずかしそうに口元を隠しながらも、コクンと頷いた。「ありがとう」、耳元でそう囁いて華奢な身体を腕の中に収め、優しく力を入れた。
何かを知らせるように鳴る音は少し間隔を開けてまた鳴る。
リィン……リィン……。
それは小さな鈴が風に揺れるようで、自分の胸の内を知らせるようでもあった。
(今更…俺に何を望む)
王の命を狙った男を助け王太子に剣を向けた。本来なら裁判も挟まず処刑されても仕方ない罪を犯した娘を……自分を裏切った娘を、無傷のまま生かしてこの城から逃してやったのだ。もう良いだろう。指輪はこれ以上自分に何をさせようというのか。
主人を手懐けた方法で、他の男をたらしこめば良いのだ。っていうか、すでに新しい相手がいるではないか。そいつに頼め、阿呆。知るか。
「で…んか……っ、苦しいです……っ」
「あ……っ、ごめんごめん。華奢で可愛くって、ついつい……」
前髪を上げた丸い額にキスをした。不平等にならないように、もう一人のメイドにも同じことをする。女性は出来るだけ平等に扱うのが争い事を減らす秘訣だ。
寝間着に着替え終えるとメイドは深々と頭を下げ出ていった。何度か引き止め、寝る前の一杯を勧めてみたがどうやらメイド長から「誘いに乗らないように」ときつく注意されていたらしい。今後、メイドといちゃつく時はそっちの目も気にしなくてはならないということか。
このメイド長はウルリヒ王が王太子の時代からこの城に仕えていて、実に生真面目に仕事をこなす女である。生真面目にこなし過ぎて婚期は迷宮奥深くに迷い込み、未だ回収できていない。毛ほどの教養も無かったあの従者に城内での礼儀作法を叩き込んだ教育の猛者であり、出し抜くには少々骨が折れそうだ。
ロウソクが揺れる部屋の中で今後の算段を考えていると再びあの金属音。
まるで戸口の隙間からいつの間にか吹き込んでくる風のようだ。
「――……っ」
テーブルの上には深夜の要求にもかかわらず白パンと腸詰め肉のスープ、ドライフルーツの盛り合わせという簡単な食事が用意されている。枝付き干しぶどうは寒暖差のある秋の風に吹かれて、深みのある甘さをその小さな粒の中に凝縮させている。以前ならあの阿呆がうらやまけしからん瞳で隅から盗み見そうな光景だ。
思い出すと口元が緩み、鼻で笑った。
刹那、片腕でその全てを薙ぎ払う。
激しく床に叩きつけられた皿が大きな音をたてて割れ、スープが方方へ飛び散る。
入り口を守っていた衛兵が驚いて扉を開き、剣を構えながら飛び込んできた。
「殿下!?ご無事ですか!?お怪我は!?今の音は一体……!」
彼らの目に映るのは、散乱した食事と乱れた長い前髪を手で上げる主。
「片付けろ」
その声音に、思わず衛兵の背筋が冷える。拒絶を隠さない彼の表情には一切の感情はなく、瞳に光があるかどうかすらわからなかった。
(念の為注意書き……(笑))
◆
その夜、強い北風は色を無くした厚い雲を連れてきた。己の葉と枝を激しくぶつけながらざあざあと音を立てる木々。道路で粉塵を叩くはずだった雨粒は白く凍り、音もなく貼り付いては色を消していく。指先ほどの雪粒は少しずつ、少しずつ、しかし確実に大地を侵食していく。びゅうと吹く風の音に混じって、どこかで羊が鳴く声がした。白い嵐を恐れたのだろうか?しかし様子を見に行く人間はおらず、皆しっかりと家の鎧戸を締めて薄い布団や重ねた衣類の下で氷の寒さに耐えていた。
部屋の中では城壁と同じ石材で作られた暖炉、その中で火は赤々と燃え闇を焦がしている。炉火は床に照り返し、光の中に重厚なオークの木で出来たベッドを浮かび上がらせる。白いリネンは夕日のようなオレンジ色に染まり、時折強く波打っては新しい皺を作り、崩れていった。
高鳴る鼓動を果てさせた熱い肢体が妖艶さを纏ったまま気だるそうに横たえる。氷の季節に抗うようにしっとりと汗を滲ませた女の髪がプラム色の模様をリネンに施した。
「……皆が噂していましたわ。あのシュミット侯爵のお嬢さん…名前はエルゼだったかしら?彼女と貴方がご婚約されるって……」
紅がすっかり落ちた唇は、まだ赤く熱を持っている。
「わたくしをこうして抱いてくださるのも最後の独身時間を惜しんでのこと?年上女はこれでもう抱き納め。これからは若い娘を愛でるってことかしら?」
髪と同じ色をしたまつ毛が隣りにいる男の方を向く。瞳には暖炉の炎が映り刹那の輝きを見せた。日に焼けることを知らない白い腕が男の胸にまわる。
青年らしい、瑞々しく引き締まった筋肉の上を細い指先が滑る。するとくすぐったそうな笑い声が小さく転がった。
女が視線を上げるとなだらかな顎のラインが見えた。まるで蝶が花に吸い寄せられるように唇を押し当て、軽く歯を立てる。
「やめなさい」、そう言うように男は女の口を自分のそれで塞ぐ。互いの温もりを惜しむような口づけをして、やっと二人は大人しくなった。
パチパチと木の皮が弾ける音を聞きながら、エメラルドの瞳が宙を何気なく見つめる。
「その類の話はいつだってある。私が知っているだけで六件。知らない場所ではもっとあるだろう。お相手も国内外問わず……。もう聞き飽きたくらいだ。いっそ日替わりで相手をさせてくれたらより多くの人間を幸せにできると思うけどね」
「そんな蛇の巣をつつくような事……。女達が貴方を巡って争う様を見るのがお好きなのかしら?」
「まさか。君は百合と薔薇、どちらが美しいか判断することは出来る?色、形は違えど皆美しい花々。甲乙つけることなど愚かなことだ。散らし合うなどもっての外だ」
男にはない甘い香りのする髪を指に絡め、薄い耳の輪郭に沿ってキスを落とすと女はくすぐったそうに目を細めた。
「いつご結婚されてもおかしくない年齢ですもの。お気に入りの玩具も手放して、いよいよその気になられたのだって…そう思うのは不思議なことじゃなくてよ?それとも、もう二度と会うこともなくなる女には、会話を楽しむ時間もご面倒に感じられるのかしら?」
「はははっ、焼きもちかい?そもそも我々の世界では品行方正な夫婦の方が珍しいってもんさ。そうだろ?」
男の言葉に女もまんざらではないように口元を緩ませる。
「人生は思うほど長くない。持っているものを使わずに腐らせてしまうのは良くないぞ。男も、女もね」
「……では、これからもこうしてお会いになって下さるの?もしわたくしが、来年も再来年もこうして殿下の腕の中に収まりたいと言ったら叶えてくださる?それとも…わたくしの身体に貴方を覚えるだけ覚えさせて捨ててしまうおつもり?」
「そんなに待たずとも、すぐに君を呼ぶよ。城の騒動は落ち着いたし、小五月蝿い従者もいなくなった。……これからはゆっくりと自分の時間が取れる。君が望むなら結婚後と言わず来月にでも……おや?」
「?」
ベッドから離れた扉の前で、重い足音が止まる。
「……来客だな。今夜はこれくらいにしておこうか」
男は身体にかかっていたブランケットを払うと、ベッドの脇に転がしてあった革靴に爪先を押し込んだ。軽く伸びをしながら椅子にかけていた服を手に取る。深夜にお忍びで来た為、着てきたものはシャツとズボン、そして厚手のローブくらいだ。簡単に腰帯を締め、乱れた毛先を手で軽く整える。
止まった足音からしばし時間を置いて、うす暗い部屋の扉をノックする音が二人きりの甘い時間を終わらせる。その頃には二人ともすっかり身支度を終えていた。
夜の終わりに寂しそうに眉根を寄せる女の瞼にキスを落とし、そしてそのまま眉間に、頬、軽く開いた唇に自分のそれを押し当てると深い口づけを愉しむ。
女の目がトロリと潤んだ所でやめ、「では、また次の夜に」と耳元で甘く囁き、別れを告げた。
扉を開くと赤いサーコートを着た衛兵と近衛隊の男が一人、随分と難しい顔で立っている。さっきまで愛した女と比べれば随分と見苦しい生き物だ。特に近衛隊の方は上唇の上に黒炭で書いたような髭が生えていて、無駄に男っ気を出してくる。憮然たる横目でチラリと見た後、冷え込む廊下で上着の裾をなびかせる。その歩幅は広く、早い。
決して良いとは言えない彼の機嫌を伺うように衛兵が恐恐と声を掛ける。
「ここにおられましたか……。急にお姿が見えなくなったので皆心配を……」
「黙れ」
「……っ!も・申し訳ありません……っ」
「殿下、お疲れの所大変申し訳ないのですが、明日のご予定をまだお伝えできておらず……。明日は早朝より地方へ戻る諸侯達の見送りが――……」
「五月蝿い、わかっている。……はぁ……。お前らの太い声は本当に耳障りだな」
彼らの表情を見れば小言の一つでも言いたいのだろうとは察する。先程一緒に居た女は西側の小さな領地を治めているブラント伯爵の妻で、晩餐に招いた客の一人だった。四歳年上の彼女は当初夫と同じ部屋を与えられたが、「イビキがうるさくて眠れない」と別の寝室を頼んだらしい。その話をわざわざ城のメイドを通じて知らせてきたのだ。この城に出入りする者で、王太子がどんな性格の持ち主かを知らぬ者はいない。彼女が何を意図していたのかはすぐにわかった。
そんなお誘いが数件あったが、今夜は癒やすよりも癒やされたい気分がして一番経験のありそうな相手を選んだ。そしてそれはベストな選択だったことを実感する。
勿論褒められることではない。ただ止める者もいない。あの厳格な父親でさえ、あの一件の後は小言が減った。腫れ物だとでも思っているのかもしれないが、干渉されないなら好都合だ。彼女の夫、その家臣たちには多少の恨み言で口を歪ませているかもしれないが、野郎共のことなど知ったことではない。
衛兵はさっきの一言で萎縮してしまったらしく、近衛兵の後ろで肩を小さくしている。なんだか自分が悪いことでもしたみたいではないか。彼らだって、娼館で楽しんだ後むさい男の顔を見るなんて嫌だろうに。
もう「察してくれ」なんて言うのも諦めた。今度から衛兵ではなく若いメイドに迎えに来て欲しい。
「身体を流す。湯の用意を。あと腹が減った」
――『大陸一の女好き』。そう呼ばれた男が再び姿を現したのは、指輪が見つかってしばらく後の頃だった。
私室の門番として立っていた近衛隊員は衛兵へと代わり、城での行事も人の流れも日常を取り戻していく。
ダーナー公の喪が明けて初めて開かれた今晩の晩餐会、この機会を待ち望んでいたのはフォルカーだけではない。諸侯等にとっても社交場は普段とは違う場所へのツテを作る重要な機会であり、自分の娘を未婚の王子に売り出す絶好の機会でもある。
私欲と利己主義の需要と供給がマッチしたこの市場は、道徳観など何処かへ置き忘れたたまま活性化。絶大な抑止力となっていたあの小さき者も今はいない。……王太子フォルカーの従者、第五城兵隊所属のポルト=ツィックラー。華やかに彩られた壁の隅で、柱の陰で、口元を隠した扇の下で噂が花開く。
――複数の罪を犯し強制除隊処分になったらしい。
――ほう?一体どんな罪をどれだけ犯した?
――盗ったのは金か?女か?
限られた情報は人づてに次々と伝わり、尾ひれをつけては奇形を成していく。
強制除隊とは、なんらかの不祥事を起こし、引退後も国から何の保証も名誉も与えられない不名誉なものとされている。騎士ならば「一族の恥」と蔑まれ縁切りをされてもおかしく無い程の処分だ。
あの従者も収監された後は軍人として城に出てくるどころか、知り合いにも合わせる顔がなくなり、今は王子ですら何処にいるのかわからなくなっている……と言われている。そのまま辺境にいる家族のもとに戻ったとも……。
一方、王子の方はまるでリードの切れた犬のように跳ね回り、鳥かごから放たれた鳥のように飛び回り、網から逃げた魚のように泳ぎまわり……。噂になった女性の数はすでに二桁になっていた。
疑惑の従者は処罰されたが、それにより今までとは違うトラブルが起きてしまったのではないかと、役職者達の間では大きなため息が落ちている。
「――殿下?」
「……っ」
少し温めの湯が満たされた湯桶に身体を浸からせたフォルカーがふと瞼を押し開ける。温かさと深夜の静けさに包まれて少し眠っていたらしく、二人の若いメイドが心配そうに顔を覗き込んでいた。思っていたより疲れているのかも知れない。
「お疲れですのね、殿下」
メイドは濡れたシャツに若い肌を透かせながら、湯に浸したタオルで太い腕を洗う。香油を垂らした湯は蒸気となって部屋中に広まり、その芳香は部屋の外まで伝わる程だ。残り湯と言えども、欲しがる若い娘はいくらでもいることだろう。
「差し出がましいことかもしれませんが、お遊びはほどほどにしてゆっくりお休みになる時間を作られた方が……」
「そうですわ…。もしお身体を壊されたらと、使用人皆が心配してます」
「そんな悲しい顔をしないでおくれ、可愛い人。でもおかげで君達とこうして会えたのだから、私に後悔などひとつもないのだよ」
エメラルドの優しい瞳が一人の少女の視線を捕える。城での奉公をはじめ間もないこの少女はまだ男慣れをしていないのであろう、あまりにも真っ直ぐ見つめられ恥ずかしくなったのか耳まで赤くして顔を背けた。
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しばらく少女二人と他愛もない会話を楽しみ湯船を上がる頃、聞き覚えのある金属音が耳の奥で響いた。
「――……」
くっと締まるような痛みに息を吸い、花の芳香で肺を満たす。
腕の水滴を拭っていたメイドの頬を指の背でなぞると、少し驚いた表情をされた。
「少しだけ、ぎゅってしてもいい?」
「え……っ?」
何処か憂いのある青年の色気は空気をも薄紅色に染める。
「少しだけ。ね?」
娘は恥ずかしそうに口元を隠しながらも、コクンと頷いた。「ありがとう」、耳元でそう囁いて華奢な身体を腕の中に収め、優しく力を入れた。
何かを知らせるように鳴る音は少し間隔を開けてまた鳴る。
リィン……リィン……。
それは小さな鈴が風に揺れるようで、自分の胸の内を知らせるようでもあった。
(今更…俺に何を望む)
王の命を狙った男を助け王太子に剣を向けた。本来なら裁判も挟まず処刑されても仕方ない罪を犯した娘を……自分を裏切った娘を、無傷のまま生かしてこの城から逃してやったのだ。もう良いだろう。指輪はこれ以上自分に何をさせようというのか。
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「あ……っ、ごめんごめん。華奢で可愛くって、ついつい……」
前髪を上げた丸い額にキスをした。不平等にならないように、もう一人のメイドにも同じことをする。女性は出来るだけ平等に扱うのが争い事を減らす秘訣だ。
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ロウソクが揺れる部屋の中で今後の算段を考えていると再びあの金属音。
まるで戸口の隙間からいつの間にか吹き込んでくる風のようだ。
「――……っ」
テーブルの上には深夜の要求にもかかわらず白パンと腸詰め肉のスープ、ドライフルーツの盛り合わせという簡単な食事が用意されている。枝付き干しぶどうは寒暖差のある秋の風に吹かれて、深みのある甘さをその小さな粒の中に凝縮させている。以前ならあの阿呆がうらやまけしからん瞳で隅から盗み見そうな光景だ。
思い出すと口元が緩み、鼻で笑った。
刹那、片腕でその全てを薙ぎ払う。
激しく床に叩きつけられた皿が大きな音をたてて割れ、スープが方方へ飛び散る。
入り口を守っていた衛兵が驚いて扉を開き、剣を構えながら飛び込んできた。
「殿下!?ご無事ですか!?お怪我は!?今の音は一体……!」
彼らの目に映るのは、散乱した食事と乱れた長い前髪を手で上げる主。
「片付けろ」
その声音に、思わず衛兵の背筋が冷える。拒絶を隠さない彼の表情には一切の感情はなく、瞳に光があるかどうかすらわからなかった。
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