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【6】
この気持ちに名前はあげない
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窓から差した朝日が床石を淡く白に染める。支度をする王子の衣装が擦れあい音を出す。それが朝の忙しなさを演出していた。
昨日、ウルム大聖堂で起こった騒ぎなど嘘のようだ。廊下にいる近衛隊達は昨日抜け出したことを知っているのだろうか? それともあそこにいた皆が口止めの約束を守っている…そういうことなのだろうか?
時を知らせる聖堂の鐘が鳴り、役人の一人が扉を叩く。
「殿下のお支度、整っております。少々お待ち下さい」
「さーて、今日もお仕事頑張りますかー」
扉のノッカーに手を乗せたポルトが声を潜ませる。
「昨晩部屋から抜け出したことを聞かれたらどうしましょうか?近衛隊の皆さんにガッツリ怒られそう……」
「俺に言われて、隣の部屋の窓から降りたって言っておけ。お前は一度、役人達の前で実演しているから皆信じるだろ」
「……そういえばそうでしたね」
背中を負傷して療養中だった時、狼達に会いたい気持ちが抑えきれず、窓から麻ロープを放った。何かを予感したフォルカーが会議場所を真下の部屋に変更し、予想通り降りてきた阿呆従者を捕獲。十人は超える役職者達の白い目に囲まれて、嘆きながら退室したことを覚えている。
こんなことを根拠にした言い訳なんかして、窓に鉄格子でもはめられたらどうするんだろう。
扉の前で何故か立ち止まるフォルカー。ちらりと横目で従者を見る。
「いってらっしゃいのキスでもする?」
「またその流れですか?」
昨日のセクハラでは足りぬというということだろうか。
「これからエルゼを相手にするんだろ?俺に触られるのも慣れておいた方がいいんじゃない?」
「柱、そこに立ってますんで。お好きなだけドーゾ」
「……でかいし角あるし、硬いし冷たいし古い木の臭いしかしない」
「捨てられた犬みたいな顔したってダメですからね」
「ちぇっ」
呆れ顔のポルトがドアを開くと役人が頭を下げ、ポルトもつられて頭を下げる。
「今日はカロンを森へ連れて行きます。シーザーのこと、よろしく頼みますね。それでは殿下、いってらっしゃいませ」
「はいはい、わかりました」
そのすれ違い際、フォルカーの腕が細い腰に回りポルトの身体を引き寄せた。まるで水が流れるような動きで抱きしめると、跳ねている金髪にすりすりすりすりすりすりすりすりっと頬ずり。
「ひぇぇええぇぇぇっっっ」
「行ってきまぁす♥」
「もぉーーー!!」
そんな二人を見守る家臣達。モリトール卿の視線は今日も絶好調に凍っている。
王子が従者をからかうのは家臣達にとって日常茶飯事。ローガンだけが一人気難しい顔をしていたが、いつもと同じ一日の始まりだった。
――しかし、それは午後の鐘が鳴るまでの間。
フォルカーのいる会議室に役人が息を切らせて飛び込んできた。その顔色は悪く、一目で良くない知らせを持ってきたことがわかった。
◆◆◆
すっかり葉の落ちた森は見るからに寒々しいが、狼の毛が一番厚くなる季節でもあるので、昔ほど嫌いではない。換毛期に集めた彼らの大量の抜け毛を薄い麻袋に入れてジャブジャブと洗う。臭いと汚れが落ちるまで続け、干して保管しておくのだ。
大狼二匹分ともなるとその量も多い。綺麗になった毛は羊毛を混ぜてフェルトにしてもいいし、数年分まとめてベッドの下に敷いても良いし、クッションにして狼達の寝床に使っても良い。今から楽しみだ。
城内では思うように動けない狼を交代で森に放つことにしている。鎖を解かれたカロンは蝶のように飛び回り、森の奥へと消えていった。きっと帰ってくる頃には土汚れで黒くなっていることだろう。
「タオルも用意しなくっちゃ」
上げた目線。いつもあの人を見上げる時はこれくらい…、そんなことにふと気がついた。
「――――……」
あの綺麗なエメラルドグリーンの瞳を思い出すとなんだかソワソワする。少し低い声が耳の奥でくすぐったい。触れらた場所から自分とは違う体温が伝わってきて、どうしていいかわからなくなる。
そういえば最近、あの人が側にいないと少し寒い。スースーと風が通るような肌寒さを感じるの。
訪れた季節のせい?こんなことは初めてで、もしかしたら風邪の引き始めなのかもしれない。
(ロイター様に触られた時はすごく嫌だし、ローガン様にぎゅってされた時は特に何も感じなかったんだけどな……)
なんだか力が入らなくて近くの木に身体を預ける。幹に額を押し付けると少し痛かった。
(小さくて、丸くて、あったかくて、やわらかくて、いい匂い…か。いっぱい褒められちゃった)
昨日言われたフォルカーからの言葉。最初はただのご機嫌取りかと疑い、いまいち信用できなかったけれど…本当なら凄く嬉しい。でもどうやって表現していいかわからない。
気恥ずかしさでむず痒くなった身体を静ませようと、木の幹にぎゅうっとしがみついた。
「…っ!…っっ!」
今朝彼が言っていたとおり、木は固くて冷たくてゴツゴツして独特の匂いがする。それでもぐりぐりと額を押し付けた。
彼にも言えないことが色々あって、まだ教えてもらってないこともたくさんあるんだろう。それでも特別に…大切にされているんだなと感じる。
ふんわりとした温もりで胸がいっぱいになって、鼓動は駆ける馬の脚のように早くなった。
(冗談でも殿下に好きって言われたの初めてだな。ちっちゃいのも悪く無いのかも……)
今まで「自惚れんな!」と言われることもあった。残念だとしか思ってこなかったこの身体が、少し許せそうになる。どうやら彼は指輪を光らせる意外にも不思議な魔法が使えるらしい。流石神に選ばれた一族だ。
木に抱きついたまま、弱く唇を噛む。ふにふにとした感触はいつもと変わらない。でも昨日の出来事を思い出すと変な感じがしてくる。
罪ゲームでもないし薬を飲ませる為でもなかった。
エルゼの前でしたアレは目的達成の為のアレだったかもしれないが、指輪の前でしたアレは……多分もう少し気持ち的な面で純度の高いアレだったと思う。
突然過ぎて今となっては所々朧げな記憶。
例えばあの腕の中でぎゅうっとされて……大切に大切にされたままするアレは……とても良いものなのだろうか?
あの夜、彼の真剣な眼差しに応えていたら…今頃…もしかして………
「な…なんちゃって!!」
木の幹にゴスッと頭突きをする。
「ナイナイナイナイナイッ!ナイから、ホントに!」
ゴスゴスゴスゴスッと額で小突きながら、ふわふわとした空気を一掃。
確かにこれからも一緒にいられたら良いと思った。それは間違いない。でも男女間での意味とかじゃなくて……!
「あれ?ポルト?何をやっているんだ?」
「ぉわ!?」
妄想にふけっていて気が付かなかった。
声のする方を見てみれば数メートル先で近衛隊の白いローブが揺れている。ローガンだ。引き気味な面持ちなのは多分気の所為ではないだろう。
「今ものすごい勢いで頭をぶつけてたけど…おでこ、大丈夫?」
「い・いえ!!たいしたことでは‥…!ローガン様こそどうされたんですか?」
「あぁ、ちょっと団長にヤボ用を頼まれてね。今日はこっちにカロンがいるんだろ?だから寄ってみたんだ。あ、勿論手土産もあるぞ」
そう言って嬉しそうに懐から包み紙を取り出した。
「この前獲った鹿肉で作った新作ジャーキー!いつものよりちょっとソフトな感じで、生肉っぽさも残ってると思うんだけど…どうかなっ?」
「なるほど、新作の試食というわけですね!」
「保存させるならいつもの硬い物の方が良いんだけどね。いつも同じおやつじゃ飽きるかなって」
「流石ローガン様です!カロンを呼びますので、ちょっとお待ち下さいね!」
肺いっぱいに空気を吸うと大声で数度名を呼ぶ。
「これで帰ってくるんだ。賢い子だな」
「はい!シーザーは時々ふざけちゃうことがあるんですけど、カロンは落ち着いています。あの子は特に人間の言うことを少しはわかっていると思いますよ」
その言葉通り、しばらくするとカロンが息を切らせて走ってきた。
白い毛が大きく波打つと同時にローガンの鼓動も強く跳ねる。しかし白狼はローガンの姿を見つけるとあえてそのまわりを避けるように飛び跳ね、世話係に愛の突進。ポルトは「うぁっ」と仰け反り、ローガンは避けられたショックで頭が垂れた。
「今日のおやつは俺があげてもいいかな?カロンをリードに繋いでもらっていい?」
「あ、はい。かまいませんよ」
いつもカロンには避けられてしまうので、ポルトにおやつを預ける。でも今日は方法を変えるらしい。カロンのハートをがっちり掴む自信作なのだろうか?
ポルトはカロンをリードにつなぐと、柵にしっかりと結びつけた。
「さ、ローガン様、どうぞっ」
「……」
「ローガン様?」
大好きな狼を前に何故か緊張気味。彼はもう顔見知りだ。噛まれる心配はないと思うのだが……
「あ…!うん。ありがとう」
慌ててジャーキーを黒い鼻先に差し出す。しかし何度手を近づけてもカロンにそっぽを向いたまま。完全拒否の姿勢を崩さない。
「うーん……、私の臭いをつけましょうか?」
「え?」
そう言ってポルトはローガンの手を取ると自分の手をこすり合わせる。
これでカロンの気が少しは紛れてくれると良いのだが……。
「――……」
「なんだか今日のカロンは特に気難しく感じます。どうしたんだろう……。繋がれてるのが嫌なのかな?」
リードに繋がれることなんて今更のはずなのに。むむむと眉根をひそめる。
「あ・あのさ……」
「はい?」
顔を上げると伏目がちのローガンが何か言いたげにしている。
「どうされましたか?」
「ポルト……、実は君に聞きたいことがあって」
神妙な声音にポルトが小首をかしげる。
「突然こんなことで変だと思うかもしれないけど……何か困っていることはない?」
「え?」
「どうしていいかわからなくて悩んでいること…とか。あー、例えば…将来の事とか?何か不安に思っていることはない?」
「将来のこと…ですか?急にどうされたんです?」
「そ・そのっ、俺はさ、君より年長だしその分知ってることも多いだろうし、立場的にも色々手助けをしてやれるだろ?」
「???」
「き・君には犬の件で借りがたくさんある…!こうやってカロンに触れるのも君のおかげだし…っだから何か返せればって思って…っ」
「そんなことしなくても大丈夫ですよ。私もこの子たちの魅力をわかってくれる人がいて嬉しいし、こうしてお話出来る方って私には貴重ですし……」
「でもこれから何があるかわからないだろ?」
「あれ?もしかして今朝の殿下がふざけていたことですか?主人の愚行が止められない従者をクビしようなんていう話が出てるとか……?」
朝、人目をはばからない王子に絡まれた様を思い出すと顔から火が出そうだ。モリトール卿なんて表情が「無」になっていたし、きっとローガンは彼から小言も聞いていることだろう。もしかして団長に言われたヤボ用って……。
「あ・あの!殿下には再三ふざけないように言ってあるんですっ。でもあの人、余計に面白がっちゃって……っ。すみません!」
「そんな話はしてないよ、大丈夫。なんていうかな…、ポルトは……」
「?」
「ポルトは…殿下が好きかい?」
「!」
「前から思ってたんだ。普通の主人と従者っていう雰囲気じゃない時もあるし……。殿下は兄妹がおられないから、年が近い君を従者以上に思っているのかなって。君も殿下には心を許しているように見える。だから二人は――……」
突然の話題に思わず鼓動が跳ね上がる。ローガンの言う将来の不安とは、もしかしてもしかしてメイド達が休憩中にするような件だったりするのだろうか?
「そ・それはこれだけずっとお側にいるからで……っローガン様もご覧になっててお分かりなるでしょ?殿下の良い玩具になっているだけですよっ」
『従者以上』……。その言葉は嬉しくて苦しい。
「私は…私はそんなこと全然……。で・出来るなら、フォンラント様のようになりたいです」
「陛下の従者の?」
「あの方は若い頃から陛下にお仕えして、何十年と経った今も一緒です。側にいられたら、困った時にいつでも声をかけてあげられます。腕を伸ばして支えてあげられます。それってすごく素敵なことだなって」
「……」
いつか家族が欲しいと願っていた。
血なんて繋がっていなくても良い。『特別』を表すようなの名ついた関係でなくても良い。大切にしたい人の側で季節を重ねていけば、いつかそれがそう呼べるものになるだろう。それで十分だ。
もし万が一、ありとあらゆる反対を押し切って王子が本当にこんな小娘を迎え入れようとしているのなら、それを止めるのがこの小娘の役目である。
「殿下には然るべき方とご結婚してもらい、私はご家族が末永く幸せに暮らしていく様を見守っていきたいのです。ファールンが…この国にいるみんなが幸せになれるようにお手伝いが出来れば、それが一番ですよね」
「――――……」
ローガンはポルトの言葉に頷くと、優しく微笑む。そして何かを考えるようにしばらく黙り込むと……顔を上げ、声音を落とした。
「ね、ポルト。君はこれからもここにいるし、それが出来るんだって…そう思っていい?」
「ローガン…様?」
「俺がここに来た理由を話すよ」
昨日、ウルム大聖堂で起こった騒ぎなど嘘のようだ。廊下にいる近衛隊達は昨日抜け出したことを知っているのだろうか? それともあそこにいた皆が口止めの約束を守っている…そういうことなのだろうか?
時を知らせる聖堂の鐘が鳴り、役人の一人が扉を叩く。
「殿下のお支度、整っております。少々お待ち下さい」
「さーて、今日もお仕事頑張りますかー」
扉のノッカーに手を乗せたポルトが声を潜ませる。
「昨晩部屋から抜け出したことを聞かれたらどうしましょうか?近衛隊の皆さんにガッツリ怒られそう……」
「俺に言われて、隣の部屋の窓から降りたって言っておけ。お前は一度、役人達の前で実演しているから皆信じるだろ」
「……そういえばそうでしたね」
背中を負傷して療養中だった時、狼達に会いたい気持ちが抑えきれず、窓から麻ロープを放った。何かを予感したフォルカーが会議場所を真下の部屋に変更し、予想通り降りてきた阿呆従者を捕獲。十人は超える役職者達の白い目に囲まれて、嘆きながら退室したことを覚えている。
こんなことを根拠にした言い訳なんかして、窓に鉄格子でもはめられたらどうするんだろう。
扉の前で何故か立ち止まるフォルカー。ちらりと横目で従者を見る。
「いってらっしゃいのキスでもする?」
「またその流れですか?」
昨日のセクハラでは足りぬというということだろうか。
「これからエルゼを相手にするんだろ?俺に触られるのも慣れておいた方がいいんじゃない?」
「柱、そこに立ってますんで。お好きなだけドーゾ」
「……でかいし角あるし、硬いし冷たいし古い木の臭いしかしない」
「捨てられた犬みたいな顔したってダメですからね」
「ちぇっ」
呆れ顔のポルトがドアを開くと役人が頭を下げ、ポルトもつられて頭を下げる。
「今日はカロンを森へ連れて行きます。シーザーのこと、よろしく頼みますね。それでは殿下、いってらっしゃいませ」
「はいはい、わかりました」
そのすれ違い際、フォルカーの腕が細い腰に回りポルトの身体を引き寄せた。まるで水が流れるような動きで抱きしめると、跳ねている金髪にすりすりすりすりすりすりすりすりっと頬ずり。
「ひぇぇええぇぇぇっっっ」
「行ってきまぁす♥」
「もぉーーー!!」
そんな二人を見守る家臣達。モリトール卿の視線は今日も絶好調に凍っている。
王子が従者をからかうのは家臣達にとって日常茶飯事。ローガンだけが一人気難しい顔をしていたが、いつもと同じ一日の始まりだった。
――しかし、それは午後の鐘が鳴るまでの間。
フォルカーのいる会議室に役人が息を切らせて飛び込んできた。その顔色は悪く、一目で良くない知らせを持ってきたことがわかった。
◆◆◆
すっかり葉の落ちた森は見るからに寒々しいが、狼の毛が一番厚くなる季節でもあるので、昔ほど嫌いではない。換毛期に集めた彼らの大量の抜け毛を薄い麻袋に入れてジャブジャブと洗う。臭いと汚れが落ちるまで続け、干して保管しておくのだ。
大狼二匹分ともなるとその量も多い。綺麗になった毛は羊毛を混ぜてフェルトにしてもいいし、数年分まとめてベッドの下に敷いても良いし、クッションにして狼達の寝床に使っても良い。今から楽しみだ。
城内では思うように動けない狼を交代で森に放つことにしている。鎖を解かれたカロンは蝶のように飛び回り、森の奥へと消えていった。きっと帰ってくる頃には土汚れで黒くなっていることだろう。
「タオルも用意しなくっちゃ」
上げた目線。いつもあの人を見上げる時はこれくらい…、そんなことにふと気がついた。
「――――……」
あの綺麗なエメラルドグリーンの瞳を思い出すとなんだかソワソワする。少し低い声が耳の奥でくすぐったい。触れらた場所から自分とは違う体温が伝わってきて、どうしていいかわからなくなる。
そういえば最近、あの人が側にいないと少し寒い。スースーと風が通るような肌寒さを感じるの。
訪れた季節のせい?こんなことは初めてで、もしかしたら風邪の引き始めなのかもしれない。
(ロイター様に触られた時はすごく嫌だし、ローガン様にぎゅってされた時は特に何も感じなかったんだけどな……)
なんだか力が入らなくて近くの木に身体を預ける。幹に額を押し付けると少し痛かった。
(小さくて、丸くて、あったかくて、やわらかくて、いい匂い…か。いっぱい褒められちゃった)
昨日言われたフォルカーからの言葉。最初はただのご機嫌取りかと疑い、いまいち信用できなかったけれど…本当なら凄く嬉しい。でもどうやって表現していいかわからない。
気恥ずかしさでむず痒くなった身体を静ませようと、木の幹にぎゅうっとしがみついた。
「…っ!…っっ!」
今朝彼が言っていたとおり、木は固くて冷たくてゴツゴツして独特の匂いがする。それでもぐりぐりと額を押し付けた。
彼にも言えないことが色々あって、まだ教えてもらってないこともたくさんあるんだろう。それでも特別に…大切にされているんだなと感じる。
ふんわりとした温もりで胸がいっぱいになって、鼓動は駆ける馬の脚のように早くなった。
(冗談でも殿下に好きって言われたの初めてだな。ちっちゃいのも悪く無いのかも……)
今まで「自惚れんな!」と言われることもあった。残念だとしか思ってこなかったこの身体が、少し許せそうになる。どうやら彼は指輪を光らせる意外にも不思議な魔法が使えるらしい。流石神に選ばれた一族だ。
木に抱きついたまま、弱く唇を噛む。ふにふにとした感触はいつもと変わらない。でも昨日の出来事を思い出すと変な感じがしてくる。
罪ゲームでもないし薬を飲ませる為でもなかった。
エルゼの前でしたアレは目的達成の為のアレだったかもしれないが、指輪の前でしたアレは……多分もう少し気持ち的な面で純度の高いアレだったと思う。
突然過ぎて今となっては所々朧げな記憶。
例えばあの腕の中でぎゅうっとされて……大切に大切にされたままするアレは……とても良いものなのだろうか?
あの夜、彼の真剣な眼差しに応えていたら…今頃…もしかして………
「な…なんちゃって!!」
木の幹にゴスッと頭突きをする。
「ナイナイナイナイナイッ!ナイから、ホントに!」
ゴスゴスゴスゴスッと額で小突きながら、ふわふわとした空気を一掃。
確かにこれからも一緒にいられたら良いと思った。それは間違いない。でも男女間での意味とかじゃなくて……!
「あれ?ポルト?何をやっているんだ?」
「ぉわ!?」
妄想にふけっていて気が付かなかった。
声のする方を見てみれば数メートル先で近衛隊の白いローブが揺れている。ローガンだ。引き気味な面持ちなのは多分気の所為ではないだろう。
「今ものすごい勢いで頭をぶつけてたけど…おでこ、大丈夫?」
「い・いえ!!たいしたことでは‥…!ローガン様こそどうされたんですか?」
「あぁ、ちょっと団長にヤボ用を頼まれてね。今日はこっちにカロンがいるんだろ?だから寄ってみたんだ。あ、勿論手土産もあるぞ」
そう言って嬉しそうに懐から包み紙を取り出した。
「この前獲った鹿肉で作った新作ジャーキー!いつものよりちょっとソフトな感じで、生肉っぽさも残ってると思うんだけど…どうかなっ?」
「なるほど、新作の試食というわけですね!」
「保存させるならいつもの硬い物の方が良いんだけどね。いつも同じおやつじゃ飽きるかなって」
「流石ローガン様です!カロンを呼びますので、ちょっとお待ち下さいね!」
肺いっぱいに空気を吸うと大声で数度名を呼ぶ。
「これで帰ってくるんだ。賢い子だな」
「はい!シーザーは時々ふざけちゃうことがあるんですけど、カロンは落ち着いています。あの子は特に人間の言うことを少しはわかっていると思いますよ」
その言葉通り、しばらくするとカロンが息を切らせて走ってきた。
白い毛が大きく波打つと同時にローガンの鼓動も強く跳ねる。しかし白狼はローガンの姿を見つけるとあえてそのまわりを避けるように飛び跳ね、世話係に愛の突進。ポルトは「うぁっ」と仰け反り、ローガンは避けられたショックで頭が垂れた。
「今日のおやつは俺があげてもいいかな?カロンをリードに繋いでもらっていい?」
「あ、はい。かまいませんよ」
いつもカロンには避けられてしまうので、ポルトにおやつを預ける。でも今日は方法を変えるらしい。カロンのハートをがっちり掴む自信作なのだろうか?
ポルトはカロンをリードにつなぐと、柵にしっかりと結びつけた。
「さ、ローガン様、どうぞっ」
「……」
「ローガン様?」
大好きな狼を前に何故か緊張気味。彼はもう顔見知りだ。噛まれる心配はないと思うのだが……
「あ…!うん。ありがとう」
慌ててジャーキーを黒い鼻先に差し出す。しかし何度手を近づけてもカロンにそっぽを向いたまま。完全拒否の姿勢を崩さない。
「うーん……、私の臭いをつけましょうか?」
「え?」
そう言ってポルトはローガンの手を取ると自分の手をこすり合わせる。
これでカロンの気が少しは紛れてくれると良いのだが……。
「――……」
「なんだか今日のカロンは特に気難しく感じます。どうしたんだろう……。繋がれてるのが嫌なのかな?」
リードに繋がれることなんて今更のはずなのに。むむむと眉根をひそめる。
「あ・あのさ……」
「はい?」
顔を上げると伏目がちのローガンが何か言いたげにしている。
「どうされましたか?」
「ポルト……、実は君に聞きたいことがあって」
神妙な声音にポルトが小首をかしげる。
「突然こんなことで変だと思うかもしれないけど……何か困っていることはない?」
「え?」
「どうしていいかわからなくて悩んでいること…とか。あー、例えば…将来の事とか?何か不安に思っていることはない?」
「将来のこと…ですか?急にどうされたんです?」
「そ・そのっ、俺はさ、君より年長だしその分知ってることも多いだろうし、立場的にも色々手助けをしてやれるだろ?」
「???」
「き・君には犬の件で借りがたくさんある…!こうやってカロンに触れるのも君のおかげだし…っだから何か返せればって思って…っ」
「そんなことしなくても大丈夫ですよ。私もこの子たちの魅力をわかってくれる人がいて嬉しいし、こうしてお話出来る方って私には貴重ですし……」
「でもこれから何があるかわからないだろ?」
「あれ?もしかして今朝の殿下がふざけていたことですか?主人の愚行が止められない従者をクビしようなんていう話が出てるとか……?」
朝、人目をはばからない王子に絡まれた様を思い出すと顔から火が出そうだ。モリトール卿なんて表情が「無」になっていたし、きっとローガンは彼から小言も聞いていることだろう。もしかして団長に言われたヤボ用って……。
「あ・あの!殿下には再三ふざけないように言ってあるんですっ。でもあの人、余計に面白がっちゃって……っ。すみません!」
「そんな話はしてないよ、大丈夫。なんていうかな…、ポルトは……」
「?」
「ポルトは…殿下が好きかい?」
「!」
「前から思ってたんだ。普通の主人と従者っていう雰囲気じゃない時もあるし……。殿下は兄妹がおられないから、年が近い君を従者以上に思っているのかなって。君も殿下には心を許しているように見える。だから二人は――……」
突然の話題に思わず鼓動が跳ね上がる。ローガンの言う将来の不安とは、もしかしてもしかしてメイド達が休憩中にするような件だったりするのだろうか?
「そ・それはこれだけずっとお側にいるからで……っローガン様もご覧になっててお分かりなるでしょ?殿下の良い玩具になっているだけですよっ」
『従者以上』……。その言葉は嬉しくて苦しい。
「私は…私はそんなこと全然……。で・出来るなら、フォンラント様のようになりたいです」
「陛下の従者の?」
「あの方は若い頃から陛下にお仕えして、何十年と経った今も一緒です。側にいられたら、困った時にいつでも声をかけてあげられます。腕を伸ばして支えてあげられます。それってすごく素敵なことだなって」
「……」
いつか家族が欲しいと願っていた。
血なんて繋がっていなくても良い。『特別』を表すようなの名ついた関係でなくても良い。大切にしたい人の側で季節を重ねていけば、いつかそれがそう呼べるものになるだろう。それで十分だ。
もし万が一、ありとあらゆる反対を押し切って王子が本当にこんな小娘を迎え入れようとしているのなら、それを止めるのがこの小娘の役目である。
「殿下には然るべき方とご結婚してもらい、私はご家族が末永く幸せに暮らしていく様を見守っていきたいのです。ファールンが…この国にいるみんなが幸せになれるようにお手伝いが出来れば、それが一番ですよね」
「――――……」
ローガンはポルトの言葉に頷くと、優しく微笑む。そして何かを考えるようにしばらく黙り込むと……顔を上げ、声音を落とした。
「ね、ポルト。君はこれからもここにいるし、それが出来るんだって…そう思っていい?」
「ローガン…様?」
「俺がここに来た理由を話すよ」
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