忠犬ポチは人並みの幸せを望んでる!

Lofn Pro

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【8】

【前】始まりの日

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 風すら動きを止める静かな水面に映る白い月。地殻に吸い寄せられた霧雫がひとつ、水音を鳴らし鏡面に波紋を作った。

「――………」

 骨と肉の重さから解き放たれていた身体に血の流れと熱を感じ、元いた世界へと再び戻ってきたような感覚がした。指先の動きはまだ鈍い。
 きっと長い長い夢を見ていたのだ。良い夢だったような気も、悪い夢だったような気もする。どこを歩き、何を見て、誰と何を話していたのか……その記憶は砂塵のごとく消えてしまって、思い出すことはできない。

 淡い光を感じて重い瞼をゆっくりと押し開けた。半分開いたところで眼球が痛み、もう一度閉じる。

「――――っ……」
 
 ぼんやりと音が聞こえる。跳ねる水滴に似た音がかすかに……。耳に綿でも詰められているようではっきりと聞くことはできない。
 もう一度瞼を開いた。ゆっくりと、徐々に光に慣らしていくように。
 まだうつろ気な金色の瞳が、古い梁と板で出来た天井をとらえる。お世辞にも新しいとは言えない梁には所々特徴的な木目……。通い慣れた隊の宿舎のものではないし、城のものでも狼小屋のものでもない。

(――………?)

 覚えのないものは天井だけではなかった。動かした視界の先にある壁も、鎧戸の閉まっている窓も。指を動かし地面を掘るように探れば、布が擦れる感触がした。自分はベッドに寝かされている…?いつの間にこんなところに??

 徐々に戻ってきた身体の感覚で身体を起こそうとしても、固まってしまったかのように節々が重い。しかも胸を打つ鼓動に合わせてこめかみ辺りがズキズキと傷む。そういえば以前、寝ている間にカールトンに頭を小突かれていたことがあったが、今回は何かに殴られたというより風邪の時の頭痛に近い……。

(私……どこで何を……??)

 朦朧とした意識の中でここに至った経緯を探す。
 まず場所。ここは城ではないようだ。……そうだ、城になんているわけない。王子に啖呵を切って、カールトンと一緒に城を出て来たのだった。
 そして国境を目指して旅をしている途中盗賊と戦って……村の宿屋に到着して、そしたらまた盗賊が来て……ああ、そうだ。宿の奥さんが赤ちゃんを産んだ。
 一時はどうなることかと思ったけれど、無事に生まれてきてくれて本当に安心した。宝石みたいに輝いて見えた。全てが小さくて可愛かった。

 そしてその後……は??……ん??
 ただでさえ朧げな記憶が更に曖昧になり、痛むこめかみを指先が抑えた。

「目が覚めたか」

 ふいに隣から男の声がして、足音が近づいてきた。
 「誰?」と咄嗟に声を出そうとしたが喉がカラカラで思わず咳き込む。どれだけ瞼を閉じていたかわからない瞳は、窓の鎧戸から差し込む光にもまだ慣れず、視界も霞んだ。
 焦点を合わすことにすら疲れてそのまま倒れ込もうとすると、二つの腕がそれを支える。

「お前はここ数日、殆ど何も食ってなかったんだ。空気も乾燥する時期だし、喉乾いてるだろ?うがいしろ、うがい」

 男は体を支えたままコップに入れた水を口に含ませてくれた。言われるまま埃っぽい喉で二三度うがいをして、隣の小さなテーブルに置いてあった盆に吐き出す。
 空になったコップにはすぐに水が足され、今度は飲み干した。喉の奥を冷たい水が通っていく感覚はなんだか久しぶりだ。

「わかるか?」

 再び空になったコップは、語りかけてきた声の主によって傍らのサイドテーブルに置かれる。
 この声は兄のものではない。他に知り合いで若い男性はいない。介護されているお婆ちゃんのように横抱き状に支えられたままだ。……ぼやける視界で幾重にも重なる相手の輪郭。そのせいだろうか、彼が知り合いに見えてきた。
 
(……殿下……?)

 髪型も目の形も輪郭も…見れば見るほどあの王子にそっくり。ただ色が違う。雪のように白い。唯一瞳だけが深い深い蒼色だった。綺麗な色をしていたが、それは想い焦がれたあのエメラルドグリーンではない。 

(そうか。神様は白いから……)

 明るが灯るように記憶がひとつ蘇る。
 ファールン国境を越える前日、星を見に外へ出ておまじない・・・・・をした。二度と会えないあの人をもう思い出さないように。思い出しても何も感じないように。すると白い女の人が出てきて……。
 焦点の定まらないぼやけた視界の中、優しい声で話をしてくれた。
 意識がなくなる直前、蒼い瞳と目が合った。きれいなきれいな深い蒼色。
 きっとあれも神様の一人だったのだろう。

(そうか……。私…あのまま雪の中で……)

 終わってしまえばあっけないものだった。まるで寝る前に吹き消したロウソクのような命。それでも最後まで燃え尽きることが出来たのは幸運だったと思う。
 ぼんやりと宙を見つめていると、再び身体を揺らされた。

「おい、しっかりしろ。」

 続け様に頬の弾力で遊ぶかのようにペチペチと頬を叩く手は男の人らしく骨ばって大きなもの。でもとても冷たい。血など通っていないかのようだ…とも思ったが、そもそも通う必要もないのだろう。

 まだ白い靄が頭にかかっている気分だったが、何処か胸の重りが取れたみたいに胸はすっきりといている。

「か…み…さま……」

 身体はまだ辛いです。でも、もう心は全然辛くないんですよ。
 もう王子を陥れるような弱みじぶんは無くなった。もし彼を傷つけようと狙っていた輩がいたなら思っきり「ザマーミロ!」と言ってやりたい位だ。

 そして、もし……もし万が一。彼がかつての従者を思い出す瞬間が奇跡的にあったとして、それがワインのお供にでもなっていたなら。笑い話のひとつにでもなっていてくれたなら、それで十分だ。

 不器用な生き方しか出来なかったし、心残りが全く無いといえば嘘になるかもしれない。
 でも一生懸命頑張れた。この結末に満足をして――……

(あれ……?)

 そんなことを考えているうちにふと気がついた。
 もし死んているなら、もう細々こまごまとした面倒なことは全部チャラになったのでは……?

 別に性別がなんだろうが生まれが何処だろうが、頭の悪さがどうだろうが、死んでしまえば関係などなくなってしまうのではないだろうか?
 手を広げてじぃっと見た。透明じゃない。五本の指は生きている時と同じように見えている……のは、流石に見ているのが自分本人だからだろう。生きてる人からすれば自分はこの世の者ではない幽霊だ。

(つまり…見えない……!)

 いや、もしかしかたら特別な力を持つある一定の人間には見えるかもしれない。
 ただ、少なくとも王子の周りにそんな話をする人はいなかった。唯一聖職者であるクラウス司教だけには注意して、例えば悪霊退散みたいなことをされないように気をつければ……。

 手の平をぐっと握る。

「神様……!私、行かなくちゃ……!」
「は?行く?行くってどこへ……」

 戸惑いを隠せない男の言葉は気にもとめず、気合を入れるように自分の両頬をパチンッと叩いた。
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