エンペラーズ・ハイ〈断章〉

環希碧位

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陛下と殿下のかつてあったかもしれない話・邂逅編(2)

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 つかの間の休暇を楽しむ皇子の前に、いきなり現れた彼の姿は疫病神に映ったかもしれない。

「よぉ皇子様」

 ここに来て唯一出来た、同世代の友人であるシード=クェーサーと、チェスに興じていた甥が、突然の呼びかけに顔を上げた。
 〈護戦神〉の来訪に何事かと立ち上がりかけた二人の若者を手振りで制して、エリフォンは用件を口にした。

「今夜俺の執務室に来い。わかったな」
「え……」
「これは命令だ。場所はわかるよな?必ず来るんだぞ」
「…………」

 それだけ言うと、エリフォンはこちらの返答を待たずに去っていった。
 彼の態度に釈然としないものを感じて、残された二人は端正な顔を見合わせ、首を傾げる。

「何かしたかな……僕」

 困惑を隠せないでいる皇子を安心させるように、彼と負けず劣らず才気に溢れた若き提督は、優しく肩を叩いた。

「あの方の気まぐれは今に始まったことじゃない。
 お前はうまくやっている。そう深く考えるな、テルゼ」

「そうだね」

 彼の顔に笑顔が戻る。
 考えても仕方ない。どうせ今夜参上すれば分かることだ。
 それについての思索は中断し、テルゼはチェス盤を睨むと、現状を打開する戦略のためだけに頭を使うことにした。


        ■■■


 そして約束の夜がきた。

「よぉ来たな。まぁ座れや」

 座れと言われても……どこに座ればいいのだろう?
 エリフォンの執務室に入ったと同時、テルゼは口を半開きにしたまま立ち尽くしてしまった。

(き……汚過ぎる)

 これが、特に武官の中では絶大な敬意を集める、かの名高き〈護戦神〉の居室か?
 執務卓の上には、何時からあるのか分からない書類が山積みにされ、他にも仕事に関係あるものない物、ごちゃまぜになって置かれている。
 応接用のテーブルや椅子にも、例外なく何かが置かれていたり、かけられていたり。
 他人を通せるような部屋ではとてもとても……

「あの……掃除したことないんですか?」

 テルゼがおずおずと口を開くと、

「ん?ああ、ここは実際、仕事にゃほとんど使ってない部屋だしな。
 私室なら別にかまやしないだろ」
「はぁ……」

 大雑把過ぎる物言いに、テルゼはもう呆れて言葉も出ない。
 しかし、こんな時間に自分をここへ呼び出した理由だけは聞いておかねばなるまい。

「ところで兄さん。今夜ここへ僕を呼び出された訳をお聞きしたいのですが……」
「理由?そんなもん何のこたぁねぇ。
 ちょっと一緒に酒でも飲みながら話がしたかっただけだよ」
「お話……ですか?」

 エリフォンは椅子をぐるりと回転させ、立ち上がった。
 パチンと指を鳴らす。
 散らかり放題だった室内が、一瞬で、見違えるようにすっきりした。
 彼ほどのクラスの天魔になると、魔術の発動に際して呪文詠唱も何もいらないのである。

「そんなに簡単に掃除出来るなら、何故散らかったままにしておくんです?」

 もっともなことをテルゼが訊ねると、

「適度に散らかってた方が人間、落ち着くもんなんだよ。
 ほれ、せっかく綺麗好きの皇子様のためにサービスしてやったんだ。早く座れよ」 
(あれで適度……)

 唖然としながら、言われてテルゼはソファに腰を下ろした。
 エリフォンは彼の心境を知ってか知らずか、マイペースに聞いてくる。

「お前は何飲む?
 ビールか?焼酎か?それとも渋く日本酒か?」

 どこからともなく取り出したクーラーボックスから、順にビンをテーブルに並べ出すエリフォンに、テルゼは遠慮がちに言った。

「せっかくですが僕……アルコールは……」
「下戸か?つまんねぇ野郎だな」
「いえ、そんなことはないですけど。
 この後、ちょっとやりたい仕事があるので」

 エリフォンが形のよい眉を吊り上げた。

「仕事ォ?何だよそりゃ」
「今回の戦いで出た、戦死者の遺族の方々に手紙を書くんです」
「戦隊長はシードの野郎だろ。んなもんアイツに任せておきゃいいだろうが」
「でも……」

 なおも言いつのるテルゼに、

「デモもテロもねぇ!この俺がいいって言ってんだ!
 ほら飲め!みんな忘れて飲んじまえ!」

 強引にグラスを掴ませ、ワインを注ぐ。

(仕方ないなぁ……)
 テルゼは諦めて、叔父の晩酌に付き合うことに決めた。


        ■■■

 
 気がつくと、夜もすっかり更けており、いつの間にか日付が変わっていた。

「僕……将来は母の後をついで教師になるか、小さいお店を開きたいってなぁって思ってたんです」

 見かけによらず、なかなかの酒豪っぷりを発揮してみせたテルゼであったが、『うわばみの中のうわばみ』と呼ばれ称されるエリフォンには、さすがに及ばなかったようである。
 白磁の肌はほんのり桜色に染まり、とろんとした目は今にも瞼に隠れてしまいそうだ。

「何か人に喜ばれることがしたかった……喜んでもらえると僕も嬉しくなれるから……ここに生きてるんだなぁって感じられるから……」

 アルコールの効果で何時になく饒舌になっている甥の話を、エリフォンはいまだ涼しい顔でグラスを口に運びながら聞いている。

「それでいつか素敵な女性と、ささやかでも幸せな家庭が作れたらいいなぁ……なんて……ふふ、これは今からでも実現可能かなぁ」

 すっかり緩みきった顔で、テルゼはまたグラスに口をつけた。

「お前の顔と性格なら、嫁さん候補に困ることはないだろうよ」

 エリフォンが適当に相槌を打つと、

「そんなぁ……本当かなぁ……おだてても何も出ませんよー……へへへ」

 嬉しそうに笑い、テルゼは空になったグラスを置き、どっかりとソファにもたれかかった。
 ややあって、彼は大儀そうに瞼を開き、テーブルの上に目を向けると、

「あー、いけない……そこ……片付けな……きゃ」

 のろのろと起き上がろうとしたが、結局そのままソファに倒れ込んでしまった。

「おい、大丈夫か?」

 エリフォンはテルゼに近づき、耳を澄ますと、すうすうと規則的な息遣いが聞こえてくる。

「……寝ちまったのか」

 少し身体を丸めた姿勢で穏やかな寝息を立てているその姿は、ほんの少し前の彼からは考えられないほど、とても幼く見える。

(幼い…って実際ガキなんだけどな)
 エリフォンは軽くため息をついた。

「……まったく無防備に可愛い寝顔さらしやがって」

 そっと彼に向かって手を伸ばす。
 柔らかな金髪を撫で、桜色に染まった頬に触れた。
 まるで女性のようにきめの細かい、滑らかな肌。
 形のよい唇は、どこか挑発的にうっすらと開いていて……

(何考えてやがる……)
 そっと唇を指でなぞったところで、エリフォンは己に愕然とした。
(こいつは男だぞ?ましてや兄貴のガキじゃないか)
 彼の顔を間近に見ながら、必死に頭の中で言い聞かせる。

 そんなことしたら……いや、考えていることがばれただけでも、兄達になんと言われるか。それ以上に自分が恥辱の余り顔向け出来ない。
 何よりこのテルゼ本人を傷つけることになる。

『……教師になるか、小さいお店を開きたいってなぁって思ってたんです』
『いつか……ささやかでも幸せな家庭がつくれたら……』

 純真な笑顔。
 無垢な願い。

「くそ……」

 胸の上に置かれた白い手。その意外に無骨な指先に気づいて、エリフォンの口から思わず苦鳴が漏れる。
 ……必死に人間の味方をしてきただろうに。結局こんなことになっちまって。 

「兄貴……何でアンタはコイツを……天魔に……男に生まれさせちまったんだよ……!」
 天魔でなかったら……男でなかったら……戦士でなかったら、きっと……
「俺も……抱く理由になんぞに困ることはなかったろうによ」

 無邪気な寝顔がさらに近づく。
 端正な二つの唇が、優しく重なった。

        ■■■

 何だか息苦しい……
 かすかな違和感にテルゼはゆっくりと目を開けた。
 酔いがまだ残る意識が徐々に覚醒するにつれ、自分の置かれた状況に脳内が混乱を起こし始める。

「………?
 ………!……ふっ…んんっ……!」

 誰かに唇を塞がれている……即ち、キスされている。
 そしてその誰かとは他でもない……

「ん…はっ……」

 唇が開放されるやいなや、テルゼは呼吸を整える間もなくソファから身体を起こした。
 いつの間にか目の前にいるエリフォンと、目が合う。
 彼がらしくなく神妙な面持ちでこちらをじっと見ているので、勝手の違いにこちらもどうリアクションをとったらいいのか、困ってしまう。

 対応に苦慮しているのは、またエリフォンも同様であった。

 とうとう行為に至ってしまった自分自身に対する驚きと、怒るわけでもなく、ただ呆然とこちらを見ているテルゼの反応に、彼の思考回路は完全凍結してしまっている。

 何とも気まずい沈黙が二人の間を流れた。
 そのまま一分が過ぎ、二分が過ぎ……

「あ……あの……」 

 耐えられず、沈黙を先に破ったのはテルゼであった。

「すいません。僕、ちょっと驚いてしまって……ここの習慣については、まだ学ばなければならない部分がたくさんあるとは思っていましたが……肉親同士でも、挨拶にまさかこれほど濃厚な接吻をするとは考えてもみなくて……何と言うか……世界は広いですね、本当に……」

 このセリフにエリフォンは目を丸くした。
 こいつ、本気で言ってんのか?
 テルゼの口調には皮肉も侮蔑も含まれていない。ただ心底驚き、感心しているといった様子である。

(やめてくれよ……可愛すぎるぞおい……)

 頭を抱えるエリフォンの中に、どうしようもない悪戯心と衝動が芽生える。
 こんな奇妙な気分になるのは、永い時を渡ってきた彼をして初めてだったかもしれない。

「そうだな。その通りだ。
 でもお前、一つ勘違いしてるぜ?」
「え……?」

 いきなり抱き寄せられて、テルゼが大きく目を見開く。

「あれくらいを濃いだって?
 馬鹿言うなよ。濃いキスってのはこういうのを言うんだよ」

 舌で唇をなぞられ、テルゼは思わずぞくりとする。
 今度は吸われるだけに留まらず、深く強く重ねられた唇の隙間をぬって、エリフォンの舌が口内へと侵入してくる。
 歯列を割り、柔らかな感触がテルゼの舌を捕らえた。

(んお……?)
 テルゼの舌を一気に絡め取ろうとしたエリフォンの眉が、小さく動く。

「んっ……」
(コイツ……自分から絡めてきやがった)

 予想外の反応に、あやうく仕掛けたこちらが飲み込まれそうになって、エリフォンは少したじろいだ。
 これが挨拶の一環だと、まったく信じて疑っていないのだろうか?この青年は。

 聞く者の心を否が応にも熱くさせる甘い吐息を漏らしながら、テルゼは積極的に舌を使った。飲み込み切れない唾液が、口の端から滴り落ちていく。 
 からかい半分で始めた悪戯のつもりが、気がつけば本気の情交へとすり変わっていた。

 テルゼは抱きかかえられたまま、ソファの上に押し倒される。

 抵抗する気は起こらなかった。それ以前に身体に力が入らず、押し返そうにも腕が役に立たない。息苦しさの中にも、内から込み上げてくる何とも言えない感覚に、頭がくらくらし、思考は心地よい麻痺に侵されつつあった。
 始めはアルコールの効果だと思っていたが、どうもそれだけではなさそうだ。

「っふ…はあっ……」

 濡れて艶を増した唇から零れる悩ましい息遣い。上気した触り心地のよい白い肌。涙に潤む深い紫紺の瞳。どれもこれも極上の色香を漂わせている。本物の「女」でさえこれほど魅惑的な表情を見せることの出来る者は、そういない。

 エリフォンの胸を過ぎった罪悪感は、彼の顔を見た瞬間、四散せざるを得なかった。
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