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25「うえのは したのは まえば おくば」
しおりを挟む――十秒後。さっきまで虎呼郎の向かいに居た少年は今、虎呼郎の真後ろに居た。
虎呼郎の背中に胸を引っ付けて、首の横から両腕を伸ばしていた。まるでおんぶか二人羽織かみたいな格好となっていた。
「これは……」と虎呼郎は戸惑う。
子供特有の高い体温を背中に感じる。感じざるを得ない。
夜も遅くで気温室温が低めだから余計にそう感じてしまうのか。
「はーい。前を向いてくださーい」
虎呼郎と少年は二人揃って洗面台の正面に立った。
大きめの鏡に映っているのは奇妙なツーショットだった。
力無く微笑む虎呼郎。楽しそうで嬉しそうな笑顔を咲かせた少年――だが、これで少年の表情が暗かったら完全に子供の幽霊に取り憑かれている中年男性の図だった。
少年は虎呼郎の背後霊みたいな状態になっていた。
「はい。あーんして」
虎呼郎は再び目を閉じて「んあー……」と口を開ける。
「うん。さっきよりもずっと入れやすい。動かしやすい」
虎呼郎の耳元で少年が囁いていた。……いれやすいとか。うごかしやすいとか。
「いーってして」
少年の言葉に虎呼郎は大人しく従った。従順に成り下がる。まさに「犬」か。いや「犬」以上だ。少年が発する言葉の一つ一つを虎呼郎はしっかりと理解していた。
「上の奥歯からね。はい。ごしごし。ごしごし」
その言葉の意図をしっかりと理解しないと……妙な誤解をしてしまいそうだった。
「ごしごし。ごしごし。歯と歯ぐきの間に歯ブラシをななめに入れてー。ごしごし。ごしごし。ひとつの歯を十往復くらいずつ、ていねいに。ごしごし。ごしごし……」
言われるがまま。されるがまま。無防備な口の中を蹂躙される思いだった。
「痛くなあい?」
「ふぁあ」
「しゃべらない」
どうしろと。
「痛かったら左手を上げてくださーい」
歯医者か。
「あははっ」と少年はいつものような笑い声を上げた。
以心伝心か。いや違う。虎呼郎の心の声が聞こえていたわけではないだろう。
流れでしてみた歯医者さんごっこが楽しくなってしまっただけだ。きっと。
何だか分からないけれども笑ってしまう。よくある事だ。
「ふッ」と虎呼郎の表情も緩んでしまった。
ごしごし、ごしごし。ごしごし、ごしごし……。
結局、一杯のラーメンを食べ切るのと同じ時間の十分以上にも渡って虎呼郎の歯は磨かれ続けたのだった。……ようやく終わった。終わってくれた。
虎呼郎が、
「んべッ」
と吐き出した口の中の泡はやっぱり赤く染まっていた。いちご味の歯磨き粉なんかじゃない。元々は真っ白い歯磨き粉だった。
「……少年」と虎呼郎は呟いてやった。
「あのね。ちがうよ。歯医者さんもね、ふだんからちゃんと歯みがきしてない歯ぐきだと、ちゃんと歯みがきしたときに最初は血が出るって言ってたから。大丈夫だよ。大丈夫な血だから」
「…………」
「大丈夫」にしては口の中がひりひり、じんじんと痛いんだが。
……当然のダメージだ。非常に刺激の強過ぎる「ごしごし」であった。
大人である虎呼郎が悲鳴を上げるほどではなかったのだが。
耐えられなくはない痛みではあったが。
心地良くは決してなかった。絶妙に「強過ぎる刺激」だった。
……何かを試されているのかとすら思ってしまったほどだった。
「これで歯ぐきが強くなるんだよ。次からはもう血も出ないから」
少年は言ったが、
「次……は自分でするから。今回をお手本にしてちゃんと自分で磨くから。おじさんの歯磨きは今回で終わりにしよう」
虎呼郎は「次」を拒否した。やんわりとだがはっきりと。
「えー……」
「少年は自分の歯を自分で磨いているんだろう?」
「僕はそうだけど。おじさんは僕の犬なのに」
「自分で磨いたから。ちゃんと磨けている事を褒められて嬉しかったんだろう?」
「うん。僕はちゃんとみがけるんだよ。だから」
「……おじさんも褒められたいなあ」
虎呼郎は斜め上に目を遣りながら呟いた。
達矢に向かって言うのではなくて、独り言のように呟いてみた。
「え……」
少年が息を止めた。虎呼郎は追い打ちを掛ける。
「おじさんもちゃんと自分で歯を磨いて。少年に褒められたいなあ。……駄目か?」
「うーん……」と少しだけ考えてから、
「……ダメじゃないかも」
少年は言った。良し。言質は取った――とばかりに虎呼郎は畳み掛ける。
「じゃあ。おじさんは自分で歯を磨きます」
「うんっ。ちゃんとみがけたらほめてあげるからね。がんばって!」
少年はぱっと明るい笑顔を咲かせた。
数秒前までは渋っていたのだが実に子供らしい切り替えの早さを見せてくれた。
「ふッ」と虎呼郎は息を吐いた。
この後――少年が飽きるか忘れるかするまでのしばらくの間、二人の挨拶は「おはよう」でも「こんばんは」でも「おかえり」でも「ただいま」でもなく「にぃーっ」と「にぃーっ」になってしまった。
朝でも夜でも休みの日でも。虎呼郎と達矢が顔を合わせれば、
「にぃーっ」
「にぃーっ」
と白い歯を見せ合った。そして、
「……うん。よくみがけています。おじさん。えらい」
「少年も。きちんと歯を磨けていて偉いぞ」
と褒め合う。それは何ともくすぐったい挨拶であった――。
「……しかし」と虎呼郎は回顧する。自室で独り。後日。
今回は本当に危なかった。
何か……何かに目覚めてしまいそうだった。しかし。踏み止まった。
何度でも言おう。あれは決して心地良くはなかった――と。
自分の意思とは無関係。互いの意図も交差せず。ただ少年の思うがままに虎呼郎の口内は擦られた。突かれた。引っ掻かれた。……なぶられた。
事実、虎呼郎は出血もしていた。あれは確かに強過ぎる刺激であった。
……そう。あの時にはまだ。
あれを続けていたならばきっと慣れてしまえた。慣れてしまえば「強過ぎる」とは感じなくなっていただろう。
口の中を好きに弄られて。血を流して。その刺激をいずれは「強過ぎる」とは感じなくなっていた――。
……恐ろしい話だ。
よく踏み止まった。鈴木虎呼郎。偉い。これこそ褒めてやらねばなるまい。
ぐっじょぶ――俺。
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