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20「二年に一度の引っ越し作業」

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 夜。マンションの廊下をキョロキョロと人目を気にした様子で歩くひとつの人影があった。

 里見達矢はちょっとしたイタズラ心でその人影の背後から忍び寄ると、

「おっじさんッ!」

 わっと驚かすように大きな声を掛けた。

「うおぉぉぉーぅッ!?」

 人影の「おじさん」こと鈴木虎呼郎は予想以上に大驚きの声を上げてくれた。

 達矢は、あはははは……ッと長く笑いながら、

「驚き過ぎだよ、おじさーん。大丈夫?」

 その場に立ち止まったままこちらに振り向きもせず固まってしまっていた虎呼郎の前に回り込む。二人の間では虎呼郎が達矢の「犬」とされていたが今の虎呼郎の前に回り込んだ姿などは逆に達矢の方が人懐っこい仔犬みたいであった。

「しょ、少年……。……こんばんは」

 正面に立って見上げてみたおじさんの顔は――怯えているような困っているような焦っているような、変な顔だった。いつもとは違う顔だった。

「……大丈夫? びっくりさせすぎちゃった? ごめんなさい」

 と頭を下げた達矢の目線が「……あれ?」と虎呼郎の胸元で止まる。

 その声に「う……」とおじさんも反応を示す。

 虎呼郎はその胸に大きめの段ボール箱を抱えていた。

「おじさん。なに持ってるの……?」

「あ~……と。まあ……」

 おじさんは答えてくれなかった。

 ……なんだろう。段ボール箱を抱えているおじさんのこの姿は前にも見た事があるような、ないような。少なくともその時には話し掛けなかった気がする。話し掛けていればもっと記憶にはっきりと残ってる気がするから。

 何で話し掛けなかったんだろう……ああ、そっか。その時はまだおじさんが「知らないおじさん」だったからだ。

 ――あれ?

 と達矢は不思議に思う。

 でもおじさんは僕が「魔法の本」を使って呼び出したはずなのにまだ呼び出す前にもおじさんが居て……あれ? あれ?

「ど、どうした? 少年」

 声を掛けられて顔を上げる。おじさんの顔を見る。おじさんも達矢を見ていた。

 わからない……けれど。いま、おじさんは此処に居る。それだけは確かだった。

「僕、前にもおじさんがそうやって段ボール箱を持ってるの見た事があるかも」

 素直に伝える。

「ええ?」とおじさんが軽く驚く。

「……ああ。引っ越してきた時か……?」

「お引っ越し……?」と達矢はおじさんの呟きをオウムのように繰り返した。

「……おじさん、お引っ越ししてるの……?」

「まあ……そうだな。作業的には似たような」

「え……? え? 帰っちゃうの? 出ていっちゃうの? このマンションから」

 おじさんの言葉の途中で達矢は騒ぎ出す。だって。おじさんのその言葉を最後まで聞いていられないくらいに衝撃だったのだ。……おじさんが居なくなっちゃう……?

「……やだ」

 達矢は呟いた。「ん? なんて言った?」ととぼけるおじさんの上着をつかむ。

 親指の腹と人差し指の横で遠慮がちに。けれどもギュッと強く。強く。おじさんをつかまえる。

「ど、どど、どうした? どうした、少年?」

 急に上着を掴まれた虎呼郎は少年に問い掛ける。

「本当にどうした? 大丈夫か?」

 この少年にはいつもいつも驚かされていた。いまさっき背後から大きな声を掛けられた時には心臓が止まるかとも思った。

 虎呼郎は普段、少年の「元気」に驚かされていた。あとは「無邪気」か。虎呼郎にとって少年と言えば「元気」と「無邪気」だった。

 だがしかし。今、目の前に居る少年は随分と沈んでいるように見えた。……ほんの数十秒前まではいつも通り、元気が過ぎて困るくらいに元気だったはずだが。

 俯き加減の少年が、

「……いっちゃやだ」

 怯えるような上目遣いで虎呼郎の事を見る。どきんと虎呼郎の胸が鳴る。

 ……いつもとはまた違う種類の高鳴りだった。

「やだとか言われても。おじさんは用事があるから。行かないと」

「……どこに行くの? どこに持っていくの? その段ボール箱」

「んん? この段ボールはまだ空箱で。これから入れて持って帰って」

「その段ボール箱に入れて持っていくの?」

「持って行くというか持って帰るというか。まあ。同じか」

 いつもとはまた違う不慣れな胸の高鳴りの処理に、脳みその働きを持っていかれてしまっているのか。虎呼郎の思考は何だか鈍くなってしまっているようだった。

 耳も口も。日本語が良く分からなくなってきていた。

 そんな状態の虎呼郎に少年が突如、

「……僕も入れて?」

「僕にも挿入れて?」と超絶ワードを撃ち込んできた――ように聞こえてしまった。

 普段の元気一杯な声じゃない。甘えているような怯えているようなこちらの顔色を窺うような声色だった。

「ねえ……おじさん。僕も入れてよ……?」

 少年は掴んでいた虎呼郎の上着をくいくいと引っ張りながら言った。

「僕も挿入れて」――ちがう。ちがう。空耳だ。違う。

 虎呼郎は「――ぶはッ」と鼻の穴から空気と水とを噴射してから数秒後、深く自己嫌悪に陥る。邪念を振り払おうと首をぶんぶんと横に振っていると、

「ダメなの……?」

 と弱々しい声で追い打ちを掛けられてしまった。

「おじさん……僕も入れて?」

 いれて、いれていれていれて……とその単語が虎呼郎の脳内でリフレインされる。

「……おじさん」

「わ、分かった。わかったから。それ以上は何も言うな……!」



 その結果――。

「…………」

「…………」

 マンションの廊下に置かれた大きめの段ボール箱の中に入ってこちらを窺う表情を見せる十歳の少年。その姿はまさに捨て犬であった。さっきの仔犬が今度は捨て犬になってしまった。……哀愁が漂ってくる。

「……おじさん」

「な、何かな?」

「待っていって」

「いやいやいやいやいや」

 子共とはいっても流石に人間を入れたまま持ち上げようとすれば段ボール箱の底が抜けるだろう。

「……そろそろ出てくれるかな?」

「やだ」

「少年……」

「僕も一緒に連れて行って」

「うーん……」

 正直、困ってしまう。虎呼郎はこれからマンションの地下にある住人用の駐車場に行く予定だった。

「もうすぐ車検なんだよ」

 とりあえず口に出して言ってみたが、

「シャ剣? シャ剣て何?」

 やはり少年には通じなかった。

「普通に普通車検だ」

「フツーニフツーシャ剣!? なんかカッコいい」

「……そうなのか?」

 虎呼郎が年を取ったからだろうか、それとも単純に世代間ギャップか「普通に普通車検」の何が格好良いのか虎呼郎には欠片も理解が出来なかった。

「まあ……それは仕方がないとして」

 どうしたものか。車検で他人に車を預ける前に車内に置きっ放しになっている物や趣味的な匂いが少しでもする物をまとめて部屋に避難されておこうと思っていたのだけれども。少年が一緒にくっついてきてしまうとなるとそのような作業は出来ない。

「シャ剣て魔法? 魔法かな?」

 段ボール箱に収まったまま、そのふちに手を掛けて少年はこちらを見上げていた。

 ……心臓に悪い光景だった。虎呼郎のどきがむねむねしてしまう。

「ん? んー……魔法、魔法かあ。十分に発達したナンタラは魔法と区別がつかないとか良く言うし。車の中身なんて全く分からない俺からしたら確かに魔法かもなあ」

 虎呼郎はテキトウに同意してしまった。……いやだって。あんな目で表情で角度で見上げられたら同意するしかないじゃないか。誰に対してなんだか虎呼郎は言い訳を考える。

「すごい、すごい、すごい。やっぱり」と少年ははしゃいでいた。

 よく分からないが、ちょっとは元気になったみたいだ。

 虎呼郎はほっと目を細めた。

「それじゃあ。少年。そろそろ段ボール箱から出てもらえるかな」

「……やだっ」

 今度は元気に断られてしまった。

「……ふぅ」と虎呼郎は頭を抱える。さて。どうしたものか……。



 虎呼郎は達矢少年の求める答えに見当もつかないまま――段ボール箱は車に置いてある荷物を詰めて部屋に持ってくる為のもので、虎呼郎自身は別に何処へも行かないという事実の共有に至るまで、二人による「少年……」と「やだ」の繰り返しという不毛な攻防はこの後も延々と三十分以上は続いたのであった。



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