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「おじさーんッ」と大きな声を上げながら無遠慮にガチャッとドアノブを回す――が回り切らない。ガチャ、ガチャガチャ、ガチャガチャガチャ。やっぱり回らない。

「あれ? あれ? 開かない?」

 里見達矢は八の字眉のしょんぼり顔で呟いた。

 此処はとあるマンションの七階。「おじさん」こと鈴木虎呼郎の自宅前、玄関の外側に達矢は立っていた。時間帯は夕方、小学生の達矢にとっては放課後だったが社会人である虎呼郎にとってはまだまだ就業時間中だった。家主不在で出入り口のドアに鍵が掛けられている事は当然と言えば当然なのだが、

「おじさーん? 鍵しまってるよ? 居ないのー?」

 達矢は不満げに囁いた。

 ランドセルも背負ったまま、虎呼郎の部屋のすぐ隣にある自宅に立ち寄るわずかな時間も惜しんで直行したのだ。虎呼郎に非は全く無いが達矢の頬は膨らんでしまう。

 仕方がないから自宅に帰り、ランドセルを自室に置いて手を洗う。その間、数分。

「……もう帰ってきたかな?」

 達矢は再び虎呼郎の部屋へと向かった。

 ――ガチャ、ガチャガチャ、ガチャガチャガチャ。回り切らない。

 ドアの鍵は掛けられたままだった。

「もう」と達矢は唇を突き出す。自宅に戻る。

 五分後、十五分後、十分後、三十分後、三分後、達矢は何度も何度も虎呼郎の部屋を訪れたがその結果は全て同じだった。

 そのうちに夕方が過ぎて夜となる。達矢の父親は仕事から帰ってきたが虎呼郎はまだ帰ってこない。達矢は夕食を食べ終えたが虎呼郎はまだ帰ってこない。達矢はお風呂を済ませたが虎呼郎はまだ帰ってこない。宿題を終えたが、歯を磨いたが、明日の学校の時間割を揃え終えたが、虎呼郎はまだ帰ってこない。

「……眠くなってきちゃった」

 ベッドに入ったらソッコウで眠りに落ちてしまいそうだった達矢は学習机の四角い椅子に浅く腰掛けて背筋をぴんと伸ばしていた。意識して、頑張っていないと一瞬で寝てしまいそうだったのだ。

 時刻は夜の……何時だろう。時計を見たら諦めてしまいそうだった。

「もう……無理かも。おじさ……」

 うとうととし始めてしまっていた達矢の耳に、コツコツコツと小さな小さな足音が聞こえた気がした。

 ――カッ! と目を見開いた達矢は急いで部屋を出る。

 気のせいじゃない。希望的幻聴じゃない。ゼッタイに聞こえた。間取り的にもマンションの廊下はこの部屋の壁一枚、向こうだ。他に音の少ない夜に耳を澄まし続けていれば帰宅する人の足音の一つや二つくらい、聞こえてきてもおかしくはなかった。

   

 夜遅く。残業も終えた鈴木虎呼郎は自宅の鍵を開けて玄関に入る。

 無言のまま、ガチャリ。スーとドアを開けて、またスーとドアを閉める。バタン。無機質な音だけが鳴っていた。

 一人暮らしの歴が長い虎呼郎には、帰宅時に「ただいま」という言葉を口に出して言うという習慣が無かった。はじめの頃こそ心の中では「ただいま」と思ったりもしていたが、口に出さずにいるうちにいつの間にか「ただいま」を思う事もなくなってしまっていた。

 のっそりと振り返り、後ろ手に閉めたドアの鍵を掛け――ようとしたところで、

「おじさーんッ!」

 大きな声と同時に、ガチャンッ! と必要以上に大きな音を立てながらドアノブが回される。ドアが大きく引き開かれた。そこに姿を現したのは、

「遅いよッ! 眠いよッ! 遅いよッ! もうッ! やっとおかえりーッ!」

 隣の部屋に住む里見達矢だった。元気が過ぎる深夜のハイテンションだ。

 いや、これが里見達矢の平常運転なのかもしれない。思えば、昨日の昼間の少年も十二分に元気だった。どちらにしても、

「しょ、少年。夜だから。落ち着いて」

 この時間帯には全く相応しくないボリュームの声だった。御近所迷惑千万だった。

 それなのに、

「おーかーえーりーッ!」

 と満面の笑顔を向けられてしまった虎呼郎は、

「た、ただいま帰りました」

 苦笑いながらも確かに「笑って」しまった。本当に久し振りに「ただいま」と口に出して言った気がする。達矢は「おーかーえーりーッ!」に続けて、

「おそい! 居なくなっちゃったのかと思った。よかった!」

 と喜怒哀楽を一息に表してみせた。虎呼郎は、

「ふッ」

 と目を細めた。笑うというよりは眩しかった。素直な感想だ。

「何で遅かったの? いつも遅いの? 明日も? 明後日も?」

「仕事だよ。いつも帰りはこのくらいになるかな。明日も。明後日も。ずっとだね」

 マシンガンのように撃ち出された質問を全て打ち返す。

「う~……」と達矢は不満げな唸り声を上げていた。

 虎呼郎は「ああ。そうだ」と大切な事を思い出す。

「少年が昨日、拾った本なんだけど。実はあれ、おじさんの本なんだ」

「え。うん。知ってる。あれは『おじさんの本』なんだよね」

「し、知ってたかあ」と虎呼郎は苦笑いを拵える。想定外の答えだった。

 知っていながら持って帰ったとなると、

「あの本、少年が家に持って帰っていたよね? 返してもらえないかなあ?」

「……やだ」

 そうなるよなあ、やっぱり。虎呼郎は困ってしまった。

 二人は互いに気が付いていなかったが、虎呼郎が「おじさん’s 本」のつもりで「おじさんの本」と言っていたのに対して、達矢は「本 of おじさん」の意味で「おじさんの本」と返していた。日本語は難しい。

「なんでいやなのかな?」

「……なんとなく?」と達矢は小首を傾げた。可愛らしい。可愛らしいけれども。

「くふッ」

 虎呼郎は鼓動の高まる左胸を強く押さえた。そんな場合ではないのだ。

「ねえ。おじさん」

 子供の勘は鋭いというが達矢は言った。

「……本を返したら居なくなっちゃうんでしょ?」

 真剣な眼差しでやや下方から真っ直ぐに見詰められてしまい、

「そ、ソンナコトナイヨ?」

 虎呼郎はそっと目を逸らした。

 次の瞬間から「おじさんッ!」と苛烈に責め立てられるかと思いきや、そのまま、数秒が過ぎてもまだ何の言葉も来やしない。

 ……呆れられたか?

 虎呼郎が恐る恐る達矢の方に目を向けてみると、

「…………」

 その顔を深く俯かせていた少年は無言のまま、虎呼郎の胸に向かって、スーッと、しなだれかかってきていた。

「しょ、少年?」と虎呼郎は慌てて両手を差し出して、達矢の事を受け止める。

 達矢の額がこつんと虎呼郎の胸に収まった。

「しょしょしょ少年」

 虎呼郎は達矢の細い両肩を手で軽く押さえたり、その手を離してみたりとパタパタしてしまっていた。

 体感的には十五分、実際には十五秒ほどであろうか後、虎呼郎は気が付いた。

 里見達矢は、

「……寝てる?」

 すぅーふぅーと安らかな寝息を立てていた。

   

 肩を貸すか背中におぶうか迷った挙げ句、眠っている子供を運ぶにはこうする事が一番、安全なのではないかと虎呼郎は本当に他意無く、邪念の「じゃ」の字も無く、達矢と向かい合うかたちで彼を抱き上げた。

「ん~……」と眠ったまま、達矢は股を広げて虎呼郎のウエストに脚でしがみつく。

「くッ」と虎呼郎は奥歯を噛み締めて正気を保った。

 ――ピンポーン。

 里見家のインターフォンを押す。程なくしてガチャッと通話が繋がった。

「夜分に申し訳ありません」

 日本語として「申し訳ない」という言葉はあるが「申し訳ありません」や「申し訳ございません」なんて言葉は無いなんて話を聞いた事もあったが、人付き合いで大切なのは正確な言葉遣いではなくて、ちゃんと気持ちが伝わるかどうかなのだ。

「正しい日本語」を意識し過ぎて、

「夜分に申し訳ない事でございますが」

 などと言ってしまえば格式張り過ぎていて、相手に過剰な緊張を強いてしまいかねない。かといって、

「夜分にスミマセン」

 ではちょっと弱い。一歩でも間違えれば、こちとら未成年者略取の現行犯だ。

 二人揃って玄関まで出てきてくれた達矢の両親は、

「はーい。どちらさまで?」

 と最初の通話でこそ少々訝しげだったが、虎呼郎が事情を話すと、

「す、すみません。本当に。ウチの子がとんだ御迷惑を。すみませんでした」

「遅くまでお疲れの所に申し訳ありませんでした。そんな子じゃないんですが」

 こちらが恐縮してしまいそうになるくらいにぺこぺこと頭を下げられてしまった。

「いえいえいえ。ははは。元気なお子さんで羨ましいくらいです」

 表面上の見た目だけとはいえ、余裕を持って応えてみせたその態度で良くも悪くも達矢の両親に好感を持たれてしまった虎呼郎は、良い人そうね、会ったばかりの子供にこれだけ好かれる人だからね、と知らぬ間に今後の達矢との交流を軽く承認されてしまっていた事に気付けていなかった。

 これによって安易な通報をされてしまう危険性は非常に低くなったがその実、鈴木虎呼郎はより深い沼の底へと引きずり込まれ始めていたのであった。


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