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しおりを挟む鈴木虎呼郎は今、少年の薄い尻にその顔を埋めていた。
正確に言えば、自分の年齢の三分の一以下と思われる歳の少年が何の躊躇も無く簡単にぺろんと剥き出しにした小さくも柔らかい生尻をぐりぐりと顔面に押し付けられていた。断じて! 虎呼郎が自らの意思で少年の尻に「イヤッホウ」とダイビングしたわけではなかった。
「止べべぶべ。ばびをびべぶぶば」
「あははは。しゃべらないで、そのまま。くすぐったいから」
必死の抗議は実らない。一笑に付されたというよりは、まるで通じていなかった。
「ねえ、どう? わかった? もういい? まだ?」
少年が言った。が、少年の言葉も少年の言葉で虎呼郎には意味が分からない。
「ばびばぼうびびぶば」
「あははははは。だから、しゃべらないでって」
段ボール箱だらけで狭くなってしまっている部屋の中、どうしてこんな事になってしまっているのか。その始まりは、ほんの十数分前の事だった。
この日、このマンションに引っ越してきた鈴木虎呼郎は、
「いや。別に業者を信用していないわけじゃないんだが」
頼んでいたプロによる作業が全て滞りなく済んだ後、個人的に抱えていた荷物の数々を新しい部屋にせっせと運び込んでいた。それはとてもではないが他人には見せられないものの違法性は全く無い品々だった。誰にも迷惑は掛けていないはずの趣味の物たちであった。
勿体振らずにぶっちゃけてしまえば、虎呼郎の趣味とは、令和の現在、なんとなく市民権を得つつある「男性同士の恋愛」の中でも更に数歩ほどディープな「成人男性と少年の恋愛」モノだった。
ただし。その対象は小説や漫画、映画などの創作物に限られていた。
あくまでも「ファンタジー」な世界のお話として虎呼郎はそれを楽しんでいた。
「リアルで少年に手を出す輩は死ねば良い!」
何年か前、一度だけ参加した同好の士の集まりで良い感じに酔っ払ってしまった虎呼郎は居酒屋の個室で声高に唱えてしまい、以降、その集まりには呼んでもらえなくなってしまったが、その代わりに虎呼郎と同じような考えを持っていたらしい心友が一人だけ出来たなんて事もあった。
閑話休題。他人には見せられない荷物を抱えて地下にある駐車場から七階となった自分の新たな部屋にまで何度も何度も往復する事には体力的にも精神的にもかなりの疲労感が伴っていた。荷物の運び入れ自体はプロの方々の手を借りていたがそれでも引っ越しというものは立派に重労働だ。諸々をこなし終えた現在、普段に比べて頭も回っていなかったのだろう。虎呼郎がその回数を減らそうと通常よりも多めに荷物を重ねて移動してしまっていた事はある意味で仕方のない間違いであった。大きな失敗であった。
「よっこらせ」
と玄関で一息をついた直後だった。「……あれ?」と最近のお気に入りで特に内容の濃ゆかった同人誌を一冊、車から自室までの何処かで落としてきてしまっていた事に気が付いた虎呼郎は、
「やっばいッ」
一瞬の内に全身を冷や汗でびしょ濡れにしながらも急いで廊下に出た――ところ、
「びゃーッ!?」
その目に映った光景に驚きおののいた虎呼郎は思わず奇声を上げてしまった。
十歳程度と思われる純朴そうな少年が虎呼郎の落としてしまった同人誌をその手に持っていた。広げていた。少年は軽く俯いており、明らかにその本を読んでいた。
「……が……に入って……ギシギシ……」
ていうか読み上げていた。小さく声に出していた。虎呼郎は、
「勘弁してくださいッ。言う事、何でも聞きますから。もう犬と呼んでください!」
少年の足元へと滑り込むようにスライディング土下座を決めてみせた。
「え?」と少年が漏らした驚きの声を虎呼郎は後頭部で聞いていた。
実はこの技、大仰にひれ伏して許しを請いまくる以外にも最初から最後まで頭を低く下げ続けている事で相手からは虎呼郎の顔が見えないという重要な利点があった。
土下座した状態のまま「…………」と鈴木虎呼郎は考えていた。
本当に申し訳ないが不意を突かせてもらって少年から同人誌を無事に奪い返したら速攻で逃げよう。その際にはちらっと顔を見られてしまうかもしれないが、その程度なら後ですれ違っても「いいえ? はじめまして」で押し通せる。いや、無理矢理にでも「はじめまして」で押し通してみせる。
これは夢。数瞬の白昼夢だ。そうしてやった方が虎呼郎は言わずもがな、この純朴そうな少年にとっても幸せに違いなかった。その同人誌に描かれていた素晴らしき世界は、このような少年が知るにはまだまだ早過ぎる「深み」であった。
顔は下に向けながら目だけでちらりと少年の様子を窺おうとした虎呼郎の横顔を、
「おじさん、犬なの?」
少年は間近からじっと見詰めていた。いつの間に!? 気が付けば少年は虎呼郎の右手側でちょこんとしゃがみ込んでいた。同じ高さの頭と頭。ばっちりとがっつりと虎呼郎は少年にその顔を目撃されてしまっていた。
「……ハイ。ワタクシはアナタサマのイヌにゴザイマス……」
虎呼郎は自らの死を受け入れてしまったかのような顔色でごそごそと答えた。
大不幸中のちっぽけな幸いとして、虎呼郎が落とした同人誌は一目見てその内容が丸分かりな漫画ではなくて、必要以上に難しめの漢字が多用されていた実に趣味的な文章の小説であった為、普通の少年が何秒か目を落としてみた程度では到底、読めてなどいなかったであろうという「事実」に虎呼郎が気付いたのはこの時よりも随分と後になってからであった。
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