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しおりを挟む花村春生は何故だか滅多に「春生」と下の名前では呼ばれない。
彼を「春生」と呼ぶのは、その母親や兄といった親類縁者ばかり。気の置けないクラスメートらは彼の事を愛を込めて「チビッコ」と呼んだり、敬意を払って「委員長」と呼んだりしていた。
……浴槽の中、彼は思う。
(昨日の放課後に初めて、話して……そりゃ、多少は濃い、恥ずかしい話をしたかもしれないけど……昨日の今日で、ソッコウ、名前呼びだったからなあ。)
しかし。正直、戸惑ってはしまったものの……春生は不思議と不快には感じなかった。
照れ隠し半分に「馴れ馴れしいヤツだな」とすらも思わず、
(ありゃあ……「スポーツマン」特有の「爽やかな人懐っこさ」みたいなもんなのかな。)
と、そんな考えに至ってしまったのだった。
「何か用?」
美空は、両の手でそわそわしく長いポールをもてあそびながらに小首を傾けた。
「今日は別に部活禁止じゃないでしょ。昨日みたいな『監視』だったら、もう要らないと思うんだけど」
何を苛ついているのか知らないが。つっけんどんな言葉を、そうとは聞こえない調子でさらりと囁く。それは、彼女の「才能」と言っても良いかもしれない。
「ああ」と苦笑混じりに頷いて、春生は、
「今日は『御目付役』じゃない」
肩に掛けていた鞄を砂場の端に落とし、その上に「どっこらせ」と腰をおろした。
「超・個人的に、ちょっと、聞きたい事があってさ」
「……聞きたい事?」
美空は、クネクニ、ビョンビョンともてあそんでいたポールを右の手に持ち直し、
「何……長くなんの?」
と、自身の肩にそれを立て掛けた。
花村春生は真っ直ぐに瀬尾美空を見据え、口を開く。
「……本人に確認を取ったわけじゃないからさ。ただの噂なのかも、だけど。安藤果歩、柔道部を辞めたんだってな。……瀬尾は、知ってた?」
「ああ……ウン。知ってる。本人から、昨日。『辞める』って言ってた」
「……何でだろうな?」
「はあ~? 『何で』って。そんな事、あたしに聞かれてもなあ……。……そういうのは、本人に聞かないと」
「残念ながら。オレ、安藤果歩と面識が無いんだよね。……紹介とか、してくれる?」
「ああ~……『紹介』とかしたらねえ、ゼッタイに誤解されるよ? ……『運命』とか感じられちゃうかも」
「……『運命』?」
「なんていうのかなあ……。カホって、そういう『ベタ』ってか、『漫画チック』なのに、ホント、弱いから……。『恋に恋する~』じゃないけど。かなりの『乙女』なんだよね。ハルキさあ……そうなっちゃった場合、責任を持って、あのコに『お付き合い』出来る?」
「ン~……じゃあ、やっぱ、瀬尾に聞くしかないんじゃんか。『安藤果歩は、どうして、突然、柔道部を辞めたんだろうな』って」
「アハハ。……『どうして』かあ。そだねえ……多分、こういう時に『是非、お付き合いさせてください』とか、言われてみたくて、辞めるんだと思う」
「……それは、どういう……?」
「昨日、カホと話したのは、全校集会の時。あのコが言ってたのは『高校に入るまでに、痩せる。今とは違った自分になる。可愛い服とか着て、渋谷とか歩きたい』だったから。……『どうして』の『答え』は、そんな――学校中の噂になっちゃうような、皆が大騒ぎするような大袈裟なモノじゃなくて、ただの……普通の『乙女』の思想だよ。……多分」
「……そっか」と、春生は溜め息のような、弱い吐息を漏らした。
瀬尾美空が口にした「安藤果歩の想い」――その気持ちは「乙女」ではない春生にも、解からなくはなかった。解かる気はした。けれども……である。
「……でも。何で、急に、そんな……? ……このタイミングで……」
親友である水谷鈴呼の起こしてしまった殺人事件が、自身を見詰め直すキッカケとでもなったのか。いや。それにしては、急が過ぎる。瀬尾美空は「昨日、全校集会の時」に、安藤果歩から「柔道部を辞める」事を聞いたのだと言った。多少の噂は聞こえ漏れていたかもしれないが、水谷鈴呼の凶行はその全校集会で初めて生徒達に明らかとされたのだ。時間の余裕的に「親友の犯してしまった殺人」が、安藤果歩の「キッカケ」になったとは考え難い。
水谷鈴呼と安藤果歩。事の大小はあれど、二人は同じような時期に、校内の噂となってしまうほどな「事件」を起こしてしまった。それは、先発の「事件」が、もう一方な「事件」の「キッカケ」となったのではなく、親友同士であった二人共に共通して「何か」が起こり、その「何か」こそが「事件」の「キッカケ」になったと考えた方が自然だった。
そして――湯船に浸かった花村春生が今にして、思うには……。
(もしかしたら……その「何か」は「二人」に起きたんじゃあなくて。「二人」と同じく、あの日、不自然なくらい、棒高跳びに没頭していた「瀬尾美空」を含めた「三人」に起こった「出来事」なのかもしれない……のか?)
白い湯気に巻かれながら春生はぼんやりと考えた。
放課後の瀬尾美空は、それ以上、安藤果歩の話をしてくれはしなかった。
「てかさ……ハルキは部活とか、良いの? 今日はどこの部も休みじゃないでしょ? もしかして、サボり? 駄ッ目だなあ~……」
「サボり……になるのかな」と、春生は苦笑いを浮かべた。
「あれ? そいえば、ハルキって何部なの?」
美空は無邪気っぽく、小首を傾げた。
「ああ、パズル部だよ」
「パズル部?」
春生の答えに美空は、右に傾げていた首を、今度は左に傾けた。
「去年は三年生が何人か居たんだけどね。今じゃ、部員は一人の校内、最弱小部」
「へえ~。そんな部、あったんだ? ……って、部員が一人じゃ、サボり、マズイじゃん。今頃、顧問の先生、部室でマチボウケ状態なんじゃないの? ほら。さっさと行かないと、とっちめられちゃうよ? ほらほら」
これぞ「厄介払い」か……というような、非常に分かり易い態度を示してくれた美空に、春生は、
「ン~……」
とその表情を曇らせた。
言ってしまうべきか、言わないでおくべきか……数秒ほど、悩んだ末、
「……とっちめてくれる顧問の先生は、もう、居ないんだ」
春生は、その事を隠しておいた場合、後から事実を知った美空に迅速なフォローを入れる事は難しく、お互い、気不味い想いを引き摺るはめになってしまうのではないかと……「言う」方を選択したのだった。
「え……」と美空は目を見張った。
「その顧問って、滝田先生なの……?」
「ああ。後々、別の顧問が決まるかもしれないけど。しばらくは休部かな。部員はオレ、一人だし。もしかしたら、廃部になるのかもしれない。……一年生もゼロだしなあ」
意識的に、春生は悲愴感の無い苦笑いをこしらえた。
「ハルキは……もしかしてさ」と、美空は口を開いた。
今にも泣き出してしまいそうな――とは、こんな顔を指して言うのだろうか。哀しげに歪められた彼女の表情に、春生は、ふと「……瀬尾美空らしくもない」と感じてしまった。
……花村春生は、瀬尾美空の何を知っているわけでもないのに。
何も知らない相手に対して「らしくもない」とは、可笑しな話だった。
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