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「体の傷は元に戻っても……心は死んだままなのね」

 心臓は動いているのに。体温もあるのに。呼吸もしているのに。

「このまま……何時間も置いておいたら自然と目を覚ましたりしないかしら」

「日にち薬」という言葉がある。辞書にも載っている日本語だ。その言葉を知らない知世も「心の傷を癒やすには時間という薬が必要だ」なんて台詞はドラマやらで聞いた覚えが事があった。

「真田君の親御さん。ごめんなさい。とても心配をおかけするとは思いますが、一晩だけ、真田君をお借りします」

 知世は適当に定めた「真田家の在る方角」に向かって頭を深く下げてから、動かない大輔をヨイショ、ヨイショと引きずって、自分の部屋に文字通り引っ張り込んだ。

 ベッドの前で立たせてから「えいっ」と押し倒す。

 今日のこの時間、長崎家には誰も居らず、知世と二人きりになってしまうと知った大輔は「だったら俺は帰るぞ」と言っていた。

 紳士を気取っていた大輔が明くる日の朝、このベッドの中で目を覚ました時、隣で知世が眠っていたら何を思うだろうか。何と言ってくれるだろうか。

「うわぁ!?」と驚くのか。

「……責任を取ろう」なんて思うのか。

 もしかしたら、

「これは夢か。夢だったら好きにしよう」

 とかなんとか言ってまだ眠っている知世の事を欲望の赴くままに襲ってしまったりするかもしれない。

「うーん。その場合、どの段階で真田君はこれが現実だって気が付くのかしら。気が付いたあとは何を言われるんだろう。土下座して謝るのかしら。それとも逆ギレして同じベッドに入っていた私を叱るのかしら」

 詮無い事を考えて、知世は独りで「ふふふ」と笑った。

 今はまだ夕方。知世が眠るには早い時間だ。

 ベッドには動かない大輔だけを横たわらせて毛布と掛け布団を胸まで掛けておく。何だか人形遊びをしているみたいな気分になる。

「少し……懐かしい感じ」

 何故だろう。不思議だった。知世はリカちゃんもバービーも持っていなかったし、シルバニアファミリーなんかで遊んだ記憶も無かった。

「昭和を知らない世代でも昭和文化を『懐かしい』とか言っちゃうあの感覚かしら」

 少しの間、動かない大輔の「寝顔」を眺めた後、知世は部屋を出る。

 リビングに戻ると白いテーブルの上、手付かずのまま放置されていたチョコレートケーキを冷蔵庫に戻した。

 仕事に出ている両親が帰ってくる前にお風呂の掃除を済ます。冷蔵庫の中身を見て夕飯のメニューを決める。買い置きしてある材料で作れそうなものの中から何を食べたいかを決めるのは知世だが実際に料理を作るのは母親だった。

「親が忙しいからと子どもに家事を丸投げはしたくない」という両親の教育方針なのかポリシーなのかを尊重して、知世は夕飯を作りながら両親の帰宅を待つという事はしていなかった。

「休みの日とかは一緒に作ったりもするけど。普段の日にひとりで作って待ってると嬉しいよりも申し訳ないって顔をされちゃうのよね」

 その代わりに「夕飯のメニューを考えるのが一番、大変」とよく言っていた母親の為に、知世は「おかえりなさい。今日はナニナニが食べたい」とすぐにリクエストを出来るように予め食べたいものを考えておくという「お手伝い」をしていた。

 長崎知世の日常のひとコマだ。昨日と同じ。一昨日と同じ夕方だ。

「……真田君のこと、忘れそうになっちゃうな」

 このまま明日も同じ夕方が訪れそうな気がしてくる。

 その後、母親が帰宅して、父親も帰ってきた。

 三人で夕飯を食べて、順番に風呂に入る。いつも通りに一日が終わる。

 自室に戻った知世は大きく膨らんでいるベッドの端に腰掛けて、

「……だいじょうぶ。なにもしないから。ほんとだって。マジで」

 ちょいと小芝居を打ってみた。

 題して「うぶなカノジョの寝込みを襲うチャラ男カレシ」だ。

「信じて。ほんと。なにもしないって。横で寝るだけ。てかいまチョー眠ぃから何かしようと思ってもできないから。ほんと。横で寝かせて。それだけ」

 掛け布団と毛布を軽くめくって、するりと知世は風呂上がりでほかほかの体をその中に滑り込ませる。

「…………」

 数秒の沈黙を間に挟んで、

「……真田君。笑いもツッコミもナシですか」

 知世は唇を尖らせた。

 ……分かっていた。掛け布団と毛布をめくるよりも前、部屋に入ってベッドに目を向けた時から知世は大輔が少しも動いていなかった事には気が付いていた。ベッドの膨らみのカタチが数時間前と全く一緒だったのだ。

 無理にでも明るく振る舞わないと知世は現実に押し潰されてしまいそうだった。

「あー。狭い狭い。真田君。もうちょっとそっちに行ってくれない? え、無理? 動けない? もー。最初にベッドの真ん中に寝かせちゃったのは失敗だったかなー」

 言って知世は大輔に体を寄せる。

 ほかほかな知世の体温よりは低いようだがそれでも大輔の体は温かかった。

 真田大輔は生きている。それは確かなのだ。

 夕方から就寝前までの数時間では起きなかった。夜から朝に掛けての数時間を更に過ごせば起きるだろうか。

「おやすみなさい。真田君」

 枕元に置いているリモコンを操作してベッドの中から部屋の照明を消した。

 真っ暗闇の中、

「……もし。明日の朝、真田君が私よりも先に目を覚ましたら、そのときに私がまだ寝ていたら、どこかの王子様みたいに私のことを起こしてくれてもいいわよ」

 折角、許可してあげたのに。

 その数時間後。知世と大輔は同じベッドの中、並んで朝を迎えたが、

「んー……おはよう。真田君」

「…………」

 目を覚ましたのは知世だけだった。

「私が先に起きたからって、私は王子様みたいなことはしないわよ?」

 大輔は相変わらず「…………」と黙ったまま、怒りも笑いもツッコミもしてくれなかった。

「ふぅ……」と知世は息を吐く。

 冗談はさておき――だ。

 これからどうすれば良いのか。何が出来るのか。どうしようもないのか。

 考えなければいけない。

 ただ、真田大輔は生きている。生きているからこそ、このまま此処で寝かせ続けておく事は出来ない。

「ええと。私がリセットして戻ってくる前までは普通に動いていたわけで。真田君は自分の足で歩いてウチに来たのよね。だから今はまだ真田君が動かなくなってから、24時間も経っていないのね」

 昨日の夕飯は食べていないが、昼飯は学校で摂っていたはずだ。

「まだ餓死はしないだろうけど。ここに寝かせ続けていたらいずれそうなるわよね。ああ。食事よりも水分の方が問題かしら。んー……コップで口に流し込んだら自然に飲んでくれる? それとも無理に水を入れたら胃の方じゃなくて肺の方に流れて溺れちゃうのかしら。ネットで検索……してみても今の真田君は普通に眠ってる状態とは違うからどういう反応になるかはやってみないとわからないわよね」

「でも」と知世の手が止まる。

 万が一の事態になってしまったとしてもリセットで体の状態は戻せるが、あたかも人体実験のような事をして無駄に大輔の体を傷付けたくはなかった。

 大輔の意識が今、どのようになっているのか知世には分からないが少しでも苦しい思いをさせるのは不本意だった。


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