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しおりを挟む真田大輔、16歳。高校二年生。彼は非常に大きな問題を抱えていた。
その問題に比べれば、世間の大好物である政治家の裏金問題も芸能人の不倫問題もご家庭の嫁姑問題も小さい小さい。どうでも良い。
当然、今、大輔の目の前で繰り広げられているクラスメートの財布紛失・盗難疑惑問題なんて小さ過ぎて、彼にとっては問題にすらなっていなかった。
「犯人はこの中に居るわ!」
長崎知世が大きな声を上げた。
クラス中の注目が彼女に集まる。
「南河君のお財布を盗んだ人物。それは――宮下ワタル君! アナタよ!」
知世はこのクラスで一番地味な男子生徒の名前を上げた。ビシッと強く指を差す。
「えッ!? ち、ちが……」
宮下ワタルは慌てて椅子から立ち上がるも、
「宮下が……? ……でもあの長崎さんがあそこまでハッキリ言うんだったら」
「言われてみれば、ずっと挙動不審だったよね」
「そういや宮下の家ってすげえ貧乏だってウワサが」
教室内に居た生徒ほぼ全員の嫌な視線を一身に受けて固まってしまった。
「…………」
真田大輔はその「ほぼ全員」には含まれていなかった。宮下ワタルの事を嫌な目で見てはいなかった。
それは大輔が宮下ワタルの無実を信じていたからでも別の真犯人を知っていたからでもなかった。
大輔は名探偵気取りの長崎知世にも、大金が入っていたという財布を無くしてしまったらしいカワイソウな南河利夫にも、真偽の分からぬまま今まさに窃盗犯として吊るし上げられようとしている宮下ワタルに対しても何一つ感じていなかった。
「…………」
真田大輔はただただ、やる気の全く無い目で賑やかな教室内を俯瞰していた。
「財布ん中にはいくら入れてたんだよ」
「……20万」
「はあ? ニジュウマン!? なんでそんなに入ってんだよ」
「……学校帰りにスマホ買い替えるつもりで」
「くあぁ~……アホだなあ」
財布が無くなったと落ち込む男子生徒とその友人たちを中心に、
「よく探したの?」
「実は家に置いてきたとかじゃなくて? 本当に持ってきてはいたわけ?」
少しだけ冷静なクラスメートや、
「いつまでは確実にあった?」
「今日歩いたルートをもう一回歩いてみよう。途中で落としたか置き忘れてるかも」
「先生にはもう話した? 拾った人が職員室に届けてる可能性もあるよ」
理知的な提案をするクラスメートたちがわらわらと集まっていた。
「先生に言って校内放送で『拾ったら届けてください』とか言ってもらうか?」
「それは……どうなん? 同じクラスの俺らはまだしも他学年のヒトらにそんなこと言ったら宝探しが始まっちゃわねえ? 20万も入ってたらゼッタイ抜かれるだろ」
効果の程や現実味を考えた場合に良い案かどうかは別にして皆、真面目には考えていた。無くした金額が20万円という高校生にとっては超が付くほどの大金だっただけに茶化したりや笑ったりと出来る雰囲気ではなかった。
そんな中で一人、長崎知世だけがいつも通りの自信に満ち溢れた明るい表情をしていた。ただの地顔かもしれないが「表情というやつは、生活が刻んだ年輪のようなもの」だと書かれた古い本もある。
長崎知世はおよそ完璧な女の子だった。
容姿端麗で運動神経も抜群。成績優秀の才色兼備。更には品行方正。清廉潔白。
基本的にも応用的にも間違った言動は取らず、かといって融通が利かなかったりや冗談が全く通じなかったりとするお堅い人間というわけでもない。
はしゃぐべき時にはちゃんとはしゃぐし、羽目も外し過ぎない程度には外したりもしている。
それでもギリギリの一線は絶対に越えない。失敗というものをしない。
そんな日々の積み重ねから知世はクラスの皆に信頼されていた。
異性同性を問わずカリスマ的な人気があった。人望を集めていた。
彼女は決して間違わない。皆が思っていた。いや、知っていた。
長崎知世が口にする言葉は全て正しいのだと皆が無意識的に思い込んでいた。
そんな知世が不意に大きな声を上げた。
「犯人はこの中に居るわ!」
クラスの皆が安堵や期待の眼差しを彼女に向ける。
まるでもう問題は解決したかのような雰囲気さえ醸し出され始めていた。
「南河君のお財布を盗んだ人物。それは――宮下ワタル君! アナタよ!」
「えッ!? ち、ちが……」
「宮下が……? ……でもあの長崎さんがあそこまでハッキリ言うんだったら」
「言われてみれば、ずっと挙動不審だったよね」
「そういや宮下の家ってすげえ貧乏だってウワサが」
クラス全体の空気が一つの向きに流れ始める。
「おれじゃない! 盗んでない! ちがう!」
犯人だと名指しされた宮下ワタルは必死の抵抗を見せたが、
「諦めろって。長崎さんが言ってんだぞ」
「さっさと返して謝っちゃいなよ」
「いまならまだ冗談で済むぞ。そうだ。ドッキリなんだろ? ドッキリ」
こうなるともう止まらない。誰にも止められない。
「待ってくれよ。なんで。証拠は? おれが盗んだって証拠はあるのかよ!」
「はい。出ました。犯人は必ず言うんだよ『証拠はあるのか』って」
「語るに落ちたな」
教室内の空気が淀み始める。
「宮下」
「宮下君」
「おい」
「宮下ぁ」
吊るし上げが始まった。皆、嫌な顔をしていた。醜い顔だ。
長崎知世はまた一人、唇を真横に引いて自信満々な正義面をこしらえていた。
「みやしたくん」
「みやした……」
「みやしたぁ」
「みやした」
「みやしたー」
「……みやした」
まるで呪詛のように宮下ワタルの名前が連呼されていたさなか、
「――あ」
と誰かが別の言葉を発した。
「ワルイ……。ケツポケットにずっとスマホ入れてると思ってたんだけど。スマホはカバンに入ってたわ。ケツポケにずっと入ってたの――財布だった。持ってたわ」
20万円も入れていた財布が無くなったとさっきまで死人のような顔をしていた南河利夫だった。
「…………」
「…………」
「…………」
数瞬の間を置いて。クラスの空気がまた変わる。
「えー。もー。何やってんのよー」
「なあんだ。ったく。ビビらせんなよなあ」
「お前……マジでアホな」
「でもよかったね。『無くなった財布』はなかったんだ」
一同「わっはっは」の大団円となりかけたところで、
――ガシャーン!
大きくて強い音が鳴らされた。
ついさっきまで皆に責め立てられていた宮下ワタルが自分の机を蹴り倒したのだ。
宮下は、
「ふぅ……ッ、ふぅ……ッ」
興奮したバイソンみたいに鼻息を荒くしていた。がそれ以上は何も言わない。
無言のままクラスメートほぼ全員を見回した後、最後に長崎知世をじっと見た。
そして、
「…………」
宮下は何の言葉も口にしないまま教室から出て行ってしまった。
クラスがまた沈黙に包まれる。今回は数瞬ではなくて数秒と長かった。
「……そりゃそうだよ」
と誰かが口を開いたのを皮切りに皆が一斉に喋り始める。
「宮下君は犯人じゃなかったのに」
「怒るよな。普通」
「可哀想」
「冤罪だったんだな」
「証拠も無かったのに」
「誰だよ。宮下が犯人だなんて言い出したの――」
今度は長崎知世に皆の注目が集まった。
だがその視線の多くは知世の事を責めているというよりも、
「でも。長崎さんが間違えるなんて」
戸惑っていた。困惑していた。混乱していた。
「そうだよな。本当に宮下は南河の財布を盗んでなかったのか?」
「何言ってんのよ。お財布は南河君のポケットに入ってたんでしょう」
「犯人だってバレそうになった宮下君が急いで南河君のポケットに押し込んだとか」
クラスの皆はあくまでも「長崎知世は完璧であって、決して失敗なんかしない」という前提で話し合っていた。
「長崎さんも人間なんだもの。たまには間違う事もあるでしょう。完璧な人間なんてこの世に居ないわよ」という当たり前の言葉が誰の口からも出てこない。
もしもまともな人間がこの場面に居合わせていたならば、このクラスの生徒たちは洗脳でもされているのか集団催眠かと恐怖した事だろう。
今現在、この教室の中に居て洗脳にも集団催眠にも掛かっていなそうな人間は話題の根本である長崎知世を除くと真田大輔ただ一人だけであったが、
(…………。)
大輔は大輔で「無気力」という別の症状に囚われてしまっていた。
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