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パラレル レティシアの初恋の結末その2-2
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休養日にルーン公爵邸に帰ったレティシアはルーン公爵に呼び出された。
ルーン公爵の執務室に入り、挨拶を終えたレティシアは椅子に座るように促された。
「マール公爵から婚約の打診が来ている。レティシアの語学力が欲しいそうだ」
レティシアはルーン公爵の言葉に驚きながらも、令嬢モードの穏やかな顔は崩さない。
レティシアは両親の前では常に令嬢モードである。
厳格な両親の前で常にルーン公爵令嬢らしくあることが求められているとレティシアは幼い頃から思い込んでおり、素を見せないように努めていた。
「お父様、この縁談にルーンの利はありますか?」
「私はレティシアを政略の道具に使うつもりはない。嫁ぎたいところに嫁がせたいと思ってるよ。念願かなってリオと婚約できる」
婚約にレティシアの意見を聞いてもらえるのは貴族令嬢としては贅沢なことである。リオへの恋慕があってもいつでも政略の道具になる覚悟はできていた。
心を隠して、淑女らしく、当主の意向通りに動くのはレティシアにとって簡単なことである。
でもレティシアに決める権利を与えられるならレティシアはもう選んでいた。
「ルーン公爵家として利がなく、私の意思を尊重してくださるならお断りしてください」
意思の強い瞳でルーン公爵を見つめ、迷いのない口調で話すレティシアにルーン公爵は驚く。
リオに失恋して落ち込んでいるのはシエルの報告を聞いて知っていた。
だからこそマール公爵家からの申し入れに喜ぶと思ってもいた。
「リオが好きなんだろ?」
ルーン公爵からの問いかけにレティシアは胸が傷んだ。
沈みそうな心を見つからないようにレティシアは目を閉じ思考をはじめた。
マール公爵家に能力を評価されたレティシアはマール公爵家にとって多少は利のある相手である。
子供は魔力の強い親の属性を引き継ぐため、魔力量の多いリオと無属性のレティシアの子供は風属性を受け継ぐ。ルーンの水属性を受け継がないなら、ルーン公爵家にとっての利用価値は低い。
冷静な目で見ればリオよりも医術への関心を持つ者や才能のある研究者、武術に優れる者など価値の高い存在はいる。
レティシアの恋心というものがなければルーン公爵家にとってリオは縁談相手の候補にも上がらないだろう。
国外への影響力をフラン王国で一番持っており、正妃の生家であるから序列一位を保つマール公爵家。
宰相一家として歴代王族の覚えも目出度く国内では一番影響力があり、民にも支持されるルーン公爵家。
ルーン公爵家にとってマール公爵家は傅かなければいけない存在ではない。
マール公爵家の当主になれない三男であるリオへ嫁ぐことは力を持つルーン公爵家にとって何の価値も見出せない。
だからルーン公爵令嬢として受ける必要のない縁談とレティシアは判断した。
思考しながらも胸の痛みは止まらない。
かつて幼いレティシアは一度だけルーン公爵に私的なお願いをした。
リオにふさわしくなれたらリオと一緒になりたいと。
ルーン公爵はいくつか条件を出して全て達成できたならリオと結ばれてもいいと言っていた。
条件の一つのリオの同意をレティシアは得られなかった。
告白しても相手にしてもらえない。
関心も必要もない者からの告白など煩わしいだけの迷惑なものである。
リオの「勘違い」という言葉はレティシアの間違いを正せば変わらない関係性を維持できるというリオなりの優しさとレティシアは数多の求愛を受けながら思い至った。
だから初恋を捨てられなくても、リオへの恋慕は隠そうと決めた。
リオの卒業パーティーでリオと踊らなかったことを後悔していない。
初恋の人の幸せを心から祈れなくても、リオのための最良の行動をするように努力するのがレティシアの選んだ道である。
「いつまでも子供のままではいられませんわ」
レティシアの幸せの代償がリオの不幸せ。
目先の欲望に目がくらんだ先にあるのは真っ暗な世界。
リオに迷惑をかけたレティシアができること。
リオにいらないレティシアでもできること。
散々悩んで答えは出ていた。
レティシアの選択にいつか後悔するかもしれない。でも後悔さえも糧として成長しろと暗闇から乱暴に引っ張りあげてくれる人がいると気付けたから進んでいけると信じて前を向く。
レティシアは瞼をゆっくりと上げて、意思の強い瞳でルーン公爵を見つめ返し微笑んだ。
「過去の話で、もう終わったことですわ。いつもリオのあとを追いかけ、アピールもしましたが振り向いてもらえませんでした。
リオに失恋して、苦しくて仕方のないときに、エイベルが私の能力を必要と言ってくれたんです。
誰かに私の能力を必要と言ってもらえたのは、はじめてであの時、確かに救われたんです。リオを追いかけるのをやめても隣にエイベルがいたから道を失わずに前を向けました。嫉妬に狂わず、公爵令嬢としての私を保てた。許されるなら、救ってくれて必要としてくれたエイベルの役に立ちたいんです。お父様、私はエイベル・ビアード様との縁談を望みます」
「後悔しないか?ビアード公爵家嫡男に嫁ぐのはマール公爵家三男に嫁ぐより苦労するだろう」
マール公爵家は文官一族、ビアード公爵家は武官一族であり常識が違う。
文官一族は文官一族同士で結ばれることが多く、武官一族から妻を迎えたルーン公爵もマール公爵もかつては社交界を騒がせた。
強い者が正義の武官一族に魔力のないレティシアが嫁ぐのはルーン公爵の結婚よりも騒がれ、平定するのも並大抵のことではない。
マール公爵家へ嫁ぐために努力を重ねたレティシアはマール公爵家に嫁げば苦労は少ない。
好きな男と添い遂げられる道を選ばないレティシアにルーン公爵は静かに問いかけた。
「はい。私個人の希望はエイベルと一緒になること。ですが私の縁談はお父様の判断に従いますわ。どこに嫁いでもルーン公爵令嬢として恥じないように努めましょう」
美しく微笑むレティシアのことを公爵令嬢にふさわしくないと囁いていた者はほとんどいなくなった。
「レティシアの意思はわかった。マール公爵家との縁談は断るが異存はないな?」
「はい。心から感謝申し上げますわ」
「ビアード公爵家との縁談は時期尚早だろう」
レティシアはビアード公爵家に嫁ぐ許しはもらえていない。でもリオとの婚約を断ってもらえることに安堵し微笑んだ。
胸は痛くてもリオにとって真っ暗な未来への道は壊せた。
初恋の人のためにできる唯一を成し遂げたレティシアは前に進んでいる。
ルーン公爵は美しく成長した愛娘の成長に誇らしいような寂しいような複雑な心境は顔には出さず冷めたお茶に口をつけた。
***
近衛騎士団長であるためビアード公爵はビアード領を留守にすることが多い。
ビアード公爵は息子から初めて話があるから時間を作ってほしいという手紙をもらい帰宅していた。
「父上、俺はレティシア・ルーンを選びたいと思います。いかがでしょうか」
主人の留守が多いビアード公爵の執務室。
エイベルは久しぶりに父の執務室に入り、父の顔を見てながら静かに告げた。
レティシアよりも鈍く人付き合いに不器用なエイベルでもわかっていた。
リオはレティシアと最後まで向き合うことを選ばなかった。
誠実さの欠片もない扱いをされ傷つけられたのに、「リオ兄様は優しいのですよ」とリオを責めることはなく感謝を述べ、瞳を揺らしながらも強気な微笑みを作っていたレティシア。
変な男に捕まり、不誠実な扱いを受けても献身的に尽くし、どんな理不尽も微笑みながら受け入れてしまう妹弟子。
あの惨事を目の前で繰り広げられるならエイベルの傍に置いたほうが安心である。
魔力があれば婚約者に選んでもいいと王太子にも能力を認められているレティシア。
どんな相手も懐柔してしまう手腕。
文官貴族を嫌う武門貴族だが、騎士を目指すエイベルの友人達は努力家のレティシア・ルーンに好感を持っている。
「治癒魔法は使えませんが、治療は得意ですのよ。貴方の体が悲鳴を上げています。これを飲んで休息を取ってください。お代は必要ありませんわ」
無理をしている生徒を見つければ声をかけ、適切な指示を与える。
美しく華奢なルーン公爵令嬢の好意を無下にする男は少ない。
ローゼ・ターナーの娘という存在は一部の武門貴族の憧れでもある。
レティシアの母親と繋がりが欲しくてレティシアに近づく男はいつの間にかレティシア本人に好意的な印象を持つように変わっていた。
「ルーン嬢は慕う相手がいるのだろう」
「レティシアがマールを好いているのは事実ですが、あの二人が結ばれることはありません。レティシア本人からは婚約への同意を得ています」
「エイベルの意思はわかった。だが、すぐには答えは出せない」
「わかりました。俺はビアード公爵家嫡男として未来のビアード公爵夫人として必要な資質がレティシア・ルーンにあると考えています。もしも父上達がレティシア以上にふさわしいと思う令嬢がいるならその決定に従います。それでは失礼します」
エイベルはビアード公爵に礼をして部屋を出ていく。
婚約者は自分で選んでいいと母親から言われていたが、エイベルの気持ちだけで答えを出せるほど簡単な問題ではない。
レティシアが本気で動けばビアード公爵家嫡男の婚約者の椅子は手に入れられる。
でもレティシアは自分がビアード公爵家嫡男の婚約者に誰よりもふさわしいと思っていないので本気で動くことはない。
「レティシアが欲しかったのはマールの隣。レティシアにとって俺は、俺でいいけど、俺がいいじゃない」
「坊ちゃんだけがいいとおっしゃるご令嬢もいらっしゃいますよ」
「俺が欲しいのはビアードや王家を優先に動ける奴だ。俺に焦がれられてもなにも返せない。それなら俺に期待も夢も憧れもないレティシアが一番だと思わないか?」
ビアード公爵領の家臣達はたった一人の坊ちゃんを大事に想っている。
好きな人がいるレティシアを選んだエイベルも好意も期待もなにも持てないと思う相手に選ばれたレティシアもどちらも不憫に思えてしまう。
家臣達の心配などは気付かずにエイベルは騎士達の訓練に混ざっていく。
エイベルのできることは限られている。
エイベルには提案を受け入れたレティシアの心境はわからないが、婚約者の椅子を用意してくれたならそのあとは最善を尽くすスタンスであることを長い付き合いのエイベルはわかっていた。
だからエイベルなりにできることを精一杯することにした。
***
「よろしいかしら?」
「ごきげんよう。ええ。もちろんですわ。移動しましょうか。エドワード、ビアード公爵夫人と二人で話させてくださいませ。すぐに戻りますわ」
王家主催のパーティーでビアード公爵夫人に声を掛けられたレティシアはエスコートするエドワードの手を解いた。
人気のないバルコニーに移動した。
「ここでのことは無礼講ですわ。わかってくださると信じてますわ」
レティシアは隠れて護衛する者達にビアード公爵夫人への危害も両親への報告も許さないと命じた。
この命令を守れないならレティシアはビアード公爵夫人と二人で護衛を撒くという考えを知っている護衛達は静かに頷いた。
ルーン公爵夫人から命じられているのは護衛のみ。
ルーン公爵が必要とする情報はレティシアがきちんと報告するので、会話内容の報告義務はもとからなかったが、そこまでレティシアは知らされていなかった。
「お待たせして申し訳ありません。時間に限りがありますので、私自身無礼講で構いませんわ」
ビアード公爵家よりも序列が高いルーン公爵家。
王太子との親交も深く、魔法以外の資質は全て持つルーン公爵令嬢の社交界での立ち位置はビアード公爵夫人よりも上である。
それでもルーン公爵令嬢は自分よりも立場の弱い当主夫人達にも礼を尽くした態度で接するゆえに疎まれることは少ない。
ビアード公爵夫人は挨拶以外で関わることはなかったが事情が変わった。
「エイベルと婚約を結びたいというのは本気ですか?」
ビアード公爵夫人の貴族夫人としてはありえない直球な質問にレティシアは微笑みながら頷く。
「エイベル様が望んでくださり、両家当主が認めてくださるなら喜んで婚約の話をお受けしたいと思います」
「リオ・マール様はまだ婚約を誰とも結んでいません」
レティシアはリオを好きなことを周囲に隠さなかった。
だからビアード公爵夫人に知られていることは驚かない。
フラン王国序列一位のマール公爵家と二位のルーン公爵家の出身である二人の関係について聞けるのは王家だけである。
社交界という公的な場でレティシアにリオとのことを質問する貴婦人は初めてであり、不躾であるがレティシアはどんな無礼も受け入れると決めている。
「私には関係ないことですわ。お父様の命がない限りリオ様と婚約することはありません。私はリオ様との婚約を望んでおりません。そして他の誰かとの婚約を望みながらエイベル様との婚約の話を了承するほど不誠実ではありません。私は兄弟子であるエイベル様には誠実でありたいと思っています。公爵令嬢らしくないと自覚はありますわ」
貴族は仕えてくれる領民に対しては慈しみ誠実であろうとするが、欲深い貴族相手なら話は変わる。
醜い心を隠すため美しい装いでごまかし、化かし合うのが社交界である。
豪華絢爛な会場で美しく装い、優雅にダンスを踊ってもそれは薄汚い思惑があってのことである。
社交の場でルーン公爵令嬢はビアード公爵夫人に敬意を持って接するが、本心を匂わせることはしない。
でもエイベル・ビアードの母が相手ならレティシア・ルーンとして本心をきちんと見せる。
「女心は移ろいやすいもの。エイベルの妻を務める自信はありますか?」
エイベルに嫁ぎたいのは一時の気の迷いではないか。魔力のないレティシアに公爵夫人ができるのかというビアード公爵夫人からの質問にレティシアは護衛に無礼講を命じたのは英断だったと微笑む。
ルーン公爵令嬢に格下のビアード公爵夫人を務まるのかとは無礼な質問である。
「私は魔力を持ちません。それゆえ、後継にはエイベル様の属性が引き継がれます。私自身は平凡ですが治癒魔法の天才である父、風魔法の天才である母の血を受け継いでいる私の血は価値があると思います。もしも私がビアード公爵家に嫁いで魔力を持つ嫡男が産まれなければ第二夫人や愛人を迎える手配を整えます。第二夫人を持たないお考えのビアード公爵家の慣習の抜け道を探す自信もあります。もしも私がエイベル様のためにならないなら遠慮なく切り捨ててくださいませ。私が病死するのは天命となるでしょう。ルーン公爵家に口出しさせませんし、見抜かれない自信もあります。使い捨てられる駒として試してみるのも一興ではありませんか」
美しく微笑みながら、必要なら病死に見せかけて自殺するという16歳の少女の言葉に嘘の匂いはない。
命を慈しみ慈愛の塊のようなイメージを民に抱かせているルーン公爵令嬢らしくない言葉。
「貴女にとってエイベルはどんな存在?」
「公爵家嫡男なのに貴族らしくはありません。ですが私にとっては尊敬できる兄弟子です。私が下を向きそうになると前を向けるように引き上げてくれます。レティシア個人としては、魔力を持たない平凡な私の能力を必要と言ってくれるエイベルに救われました。このご恩を返すためならどんなことでもしたいと思ってます。ルーン公爵令嬢としては許されない言葉ですが、落とし所を見つけるのは得意ですのよ」
エイベルに恋い焦がれているわけではない。
それでもエイベルのことを語るレティシアの瞳にはあたたかみを感じる。
いつも人形のような微笑みで感情を乗せない言葉でしか話さないルーン公爵令嬢と同一には思えないほどわかりやすい。
今までなんとも思っていなかったレティシアにビアード公爵夫人は初めて好感を持った。
そしてどんなときもエイベルに献身的に尽くすだろう姿が想像できビアード公爵夫人は認めることにした。
「エイベルが夢中になるのも仕方ないかしら…」
ビアード公爵夫人の小さな呟きはレティシアには届いていない。
武術にしか興味のない息子が婚約したい令嬢を自分で見つけてきたなんて奇跡に近いこと。
そしてエイベルの同世代にレティシア以上に能力があるのはセリア・シオン伯爵令嬢だけである。
能力は高くても研究のためだけに生きるシオン伯爵令嬢にビアード公爵夫人は務まらない。
幼い頃から社交界で鍛え抜かれたルーン公爵令嬢はビアード公爵夫人よりも視野が広く、社交能力が高い。
過酷な環境に放りこまれても、背筋を伸ばし微笑みながら著しい成長を遂げたルーン公爵令嬢。
無属性という貴族として致命的な欠陥を持っていても努力でのし上がってきた根性のある公爵令嬢なら文官貴族を嫌う武門貴族にも受け入れらるかもしれない。いずれは認められ敬愛される気さえしてきた。
「ビアードの者になりたいならどんなことをしてでも生き残る努力をなさい。でも心意気は気に入ったわ。さすがローゼの娘」
「ビアード公爵夫人からの指導に心からの感謝を申し上げますわ。招待状をいただければいつでもビアード公爵家まで足を運びましょう。それでは失礼します」
レティシアは礼をして立ち去った。
心配しているだろうエドワードと合流しルーン公爵に命じられた仕事をこなす。
ルーン公爵家からビアード公爵家に縁談を申し込むことはないと思っているレティシアはビアード公爵夫人に認められたことで、少しずつ前に進んでいる気がした。
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ビアード公爵家ではビアード公爵夫妻と執事長が向き合っていた。
「エイベルからルーン嬢と婚約したいと言われたんだがどう思うか?」
「ルーン嬢はマール令息を慕っているのではありませんか?」
執事長はビアード公爵の幼なじみ。
ビアード公爵夫妻が留守の時はビアード公爵邸のことを取り仕切るほど夫妻に信頼されている。
「エイベルは二人が結ばれることはないと言っているが」
女心のわからないビアード公爵と執事長の会話にビアード公爵夫人が笑う。
ビアード公爵夫人より情報通で、夫妻に忠告をすることの多い執事長にビアード公爵夫人が優位に立てることは少ない。
「貴方にしては情報が古いわ。その話はもう過去のこと。私は構いませんわ」
「なぜ?」
「ルーン嬢と話しました。もしうちに嫁いで魔力持ちの嫡男が産まれなければ第二夫人や愛人も受け入れるそうですよ。自身の能力を必要と言ってくれたエイベルのためにならないなら切り捨てても構わないという心意気が気に入りました」
「お前、そんなことを聞いたのか?」
無属性の公爵令嬢への配慮にかけた内容にビアード公爵と執事長は驚く。
「誤解ですよ。エイベルとの婚約についての意思を確認しただけです。ルーン嬢自ら魔力のことについて話されましたのよ。私の威圧に負けない勝ち気さも評価に値します。お人形さんのように冷たい方だと思っていましたが、素は真っすぐで気持ちのいいご令嬢」
男達は華奢なルーン公爵令嬢を威圧したというビアード公爵夫人に言葉を失う。
女性として大柄なビアード公爵夫人がぶつかれば、吹き飛ばされそうな体の同世代の中でも小柄な少女である。
「ルーン嬢の社交能力は問題ありません。エイベルより視野が広く、学生達にも慕われてます。あの子を慕ってうちの門下に入る子も多いでしょう。ルーン嬢は人を見る目もありますし、次期ビアード公爵夫人として問題ないと思います」
身内に甘く他人の評価に厳しいビアード公爵夫人が絶賛するなら未来のビアード公爵夫人としての資質は十分である。
「私は旦那様達の決断に従います。必要でしたら夫人として教育を致しましょう」
エイベルが選び、ビアード公爵夫人が認めた。
社交を妻に任せてばかりのビアード公爵は妻と息子の人をみる目を信じている。
ビアード公爵にとって恐怖の塊であるルーン公爵夫人と縁ができるのは心穏やかではいられないが、それは断る理由にはならない。
ビアード公爵家としてルーン公爵家に婚約の申し入れの手続きを進めることにしたが、ビアード公爵だけは嫌な予感に襲われていた。
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リオが卒業し、新学期を迎えエドワードが入学した。
レティシアとエイベルはよく一緒にいるが婚約を発表していない。
ビアード公爵家からルーン公爵家へ縁談の申し入れはあったが、ルーン公爵家からの返答はレティシアの婚約者に求める条件だった。
「あのルーン公爵夫人と手合わせできる機会をもらえるなんて」
ルーン公爵家からレティシアとの婚約にはエドワードと風の天才であるルーン公爵夫人に強さを示すことが条件と告げられてからエイベルは上機嫌である。
レティシアはこの条件を聞いたときに驚いた。
以前父親に言われた信頼のできる相手というのは最低条件であり、レティシアが望んだ相手と結ばれるためにはその後にいくつも試練が用意されていた。
ルーン公爵家の教育に耐えられ、合格を得るという条件は難しい。
もしもリオと結ばれても、レティシアの知る従兄はルーン公爵家からの試練を受けるくらいなら現実を受け入れ、婚約の申し出を取り下げるだろう。
レティシアの努力でリオと結ばれる道はなかったという現実に気付いた時は欲に負けなかった自分の選択は間違えていなかったと思えた。
そしてルーン公爵家からの不可能に近い条件に目を輝かせられるのはレティシアの知る限りエイベルだけである。
「勝機が微塵も見えませんが…」
「魔力も力も伸びやすいこの時期だ。巡り合わせに感謝するよ。お前との婚約にこんな利があるとは」
負けず嫌いではあるが、負ければさらに燃えるという性質を持つエイベル。
エイベルより体は小さいが賢いエドワードはエイベルより魔法の使い方がうまく先読みに長けるため勝率は横ばいである。
「その言葉は僕達への侮辱ですか?」
「エイベルはルーン公爵家を貶めたわけではありません。訓練が趣味だから強い方と手合わせする機会を得られることに最上の喜びを抱いてしまうのよ。エドワードも強いでしょ?」
「弱くないと思いますが強くはありません。母上に負けてばかりですから」
繊細なコントロールが必要な治癒魔法の王国一の使い手であるルーン公爵、武術の名門であるターナー伯爵家出身の風の天才と謳われるルーン公爵夫人、フラン王国の二人の天才に育て上げられたエドワード・ルーンは文官一族なのに武門一族に負けない実力の持ち主である。
同世代では負け知らず、エイベルにさえ時々勝つ実力者である。
エドワードは大事な姉を託すにはエイベルは物足りないと思っている。
ビアード公爵家はお抱えの騎士の数はルーン公爵家よりも多いが、資産力をはじめ騎士の練度はルーン公爵家のほうが上である。
ビアード公爵夫人として過ごすよりもルーン公爵令嬢のほうが価値も権力も高い。
苦労するのが目に見えているビアード公爵夫人の椅子よりエドワードの庇護の下、平穏な世界で幸せを掴んでほしい。
リオとレティシアの縁談なら姉のためにエドワードは苦労の少ない生活を整えることができた。
だがビアード公爵家ではエドワードの力はほとんど使えない。
狼ばかりの巣穴に子猫を放り込むことをエドワードはしたくなかったが、両親がエイベルを試すというなら反対はできなかった。
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シスコンで有名なエドワードが入学したことで、レティシアにアプローチする生徒は減った。
去年と比べればアプローチの数は減ったが、女子生徒の中では人気が高く頻繁にアプローチを受けるほうである。
レティシアは渡された手紙の山をぼんやりと見つめた。
ルーン公爵家の後見目当てがほとんどだが、時々恋煩いのような手紙も混ざっている。
どんなに褒め称えられてもレティシアの心はときめかない。
だが届かない想いがもたらすものも知っている。
「小説のように目を合わせただけで運命の相手がわかればいいのに」
アリッサが好きな新作の恋愛小説。
「レティシア様にとっての運命の相手は将来政略結婚させられる相手のことでしょう?レティシア様はそのあたりの情緒はいまいちよねぇ」
「必要ありませんから。後悔はしないと信じてますが、知らないほうが生きやすかったと思ってしまいます」
「真面目よねぇ…。人の心は移ろいやすいものよ。婚約を決めるか、礼儀をわからせればこんな無礼な手紙もなくなるわ」
レティシアはセリアとアリッサとお茶を飲みながら現実は小説のように単純ではないと役に立たない小説のページをめくる。
アリッサは王太子の婚約者の座を狙っているが、椅子までの道は遠い。
王太子の婚約者の椅子を狙うのはレティシア達よりも秀でる特技を持つ年上の美しい令嬢ばかりである。
「アリッサ様が激闘に疲れ現実逃避に、夢うつつに憧れるのも仕方ないこと。殿下は腹黒ですが外見は物語の王子様そのものですもの。いまだに婚約者を決める素振りは一切ありませんし、いっそ決闘でもして決めてしまえば、」
「国を統治する者が脳筋?」
「殿下や臣下がしっかりしているのできっと大丈夫ですわよ。どんな方を殿下が選んでも女にうつつを抜かすことはありえませんから。フラン王国は安泰です。まぁアリア様は決闘は優美でないとお許しいただけなそうでしょうが」
いつも穏やかな微笑みを浮かべ、周囲を魅了している王太子。
主君としては頼もしいが心の中を見せない腹黒王子や感情の起伏が激しく気まぐれな義母、プライベートでは関わりたくないタイプの王族達。
当主からの命令とはいえ、前途多難な道を目指すのに、わかりやすいままのアリッサをレティシアは時々無性に可愛らしいと思っている。
もしもアリッサが王妃の椅子に座れず、適齢期を逃したら個人的に手を差しのべてもいいかなぁと思うほど気に入っているのはレティシアの秘密である。
フラン王国で社交界の花と数えられるレティシア以外の令嬢は王太子の婚約者の椅子を争っている。
だからレティシアのように魔力がなかったり、王子の婚約者を狙えるほどの能力のない令嬢にも将来有望な貴族子息からアプローチを受けられる。
でも身の程をわきまえない縁談は身を滅ぼすことが多いので、この状況が幸せかどうかはレティシアにはわからない。
「俺の名前を出せば?」
レティシアに届けられるアプローチの手紙はなかなか減らない。
婚約者が決まっていない身分の高いルーン公爵令嬢にアプローチできる機会はステイ学園内だけなのでレティシアと婚約を結びたい男子生徒は遠慮しない。
シスコンのエドワードが一緒の時は近づかないが、ルーン姉弟の行動を調べた一部の生徒達は生徒会役員に選ばれたエドワードがいない時を狙っている。
婚約者は発表されなくてもステイ学園で四番目に身分の高いビアード公爵家嫡男の求婚を前向きに検討しているとわかればアプローチする者は減る。
家格に容姿などエイベルと同等以上のスペックを持つ生徒は少ない。
「らしくありませんねぇ。私の問題は私が対処します。またどうにもならない時だけ助けてくださいませ。そんなことよりも、ここ間違ってますよ」
エイベルが処理した書類への訂正を指摘するレティシア。
手紙を読み、瞳が揺れるレティシアの心情はエイベルにはわからない。
弱さを見せることを許さないレティシアに聞いてごまかされることだけはわかっている。
強がりのレティシアを弱くした男のことを思い出せばなぜか苛立ちを覚える。
レティシアは初恋に見切りをつけたが、終わらせ方が悪かった。
体の傷と違い心の傷は治らない。
レティシアとリオの関係にエイベルが口を出すことはない。
ただレティシアへのアプローチする者達がレティシアの傷に塩を塗るならできることがある。
「聞いてますか?」
物思いに耽っているエイベルを睨むレティシアの瞳は揺れておらず元気が戻っており切り替えの早さにエイベルは安堵の笑みをこぼした。
エイベルらしくないやわらかな笑みにレティシアは寒気に襲われた。
「調子が悪いなら休んでください。それは修正しておいてあげますわ。ほら、私の膝を貸してあげますよ」
「必要ない。自分でやる」
いつも通りの態度に戻ったエイベルにレティシアは見間違いと片付けることにした。
***
ステイ学園で恒例の武術大会。
最終学年にてとうとう優勝を掴んだエイベルは勝者の笑みを浮かべている。
観戦していたレティシアはまだまだ母には敵わないと思いながらも惜しみなく拍手を送った。
「俺はレティシア・ルーンとの婚約を望んでいる。ルーン公爵家の了承はまだだが、レティシアとうちは了承している。だからレティシアにちょっかいをかけるなら俺を倒してからにしろ。身分問わず、いつでも決闘を受けてやる。俺は俺より強い奴じゃないとレティシアの相手として認めない」
優勝者へのインタビューでのエイベルの発言に拍手は止まり、歓声、ざわめき、会場の雰囲気はカオスだった。
エイベルが初めて婚約者について自分の意思を表明した。
レティシアは公の場で会場中に聞こえる声での宣言に言葉を失う。
堂々と宣言するエイベルの姿は格好いい。
公爵家嫡男としてありえない態度、周囲から浴びせされる様々な視線、なによりレティシアに向って自信満々に笑うエイベルの顔を見て意識が失った。
「本来の目的に戻ろうか。倒れたレティシアは侍女に任せておけばいい。心配はいらないと思うよ。表彰式をはじめようか」
乱れた会場を王太子のクロードが穏やかな微笑みを浮かべたまま整えた。
レティシアの隣で観戦していたアリッサはクロードの手腕に感心することはなく、レティシアの地雷を踏みぬいたエイベルに同情した。
恋愛小説ならヒロインはヒーローに恋に落ちるが現実は甘くない。
****
意識が戻ったレティシアは見舞いに来たエイベルの訪問を受け入れた。
人払いした途端に枕をエイベルに向って投げたが、華麗に受け止められた。
「な、なんてことを」
眉を吊り上げ、子供のように怒るレティシアをみてエイベルはため息をついた。
そのため息がレティシアの怒りの火に油を注いだ。
「お前はエドワードに頼りたくないだろう?俺が卒業すれば今までのように助けてやれない。それまでに婚約を許されればいいんだが、難しいだろ?それならあの場で宣言するのが一番じゃないか。上位貴族らしくないって怒ってるんだろうけど、ここでは貴族らしさは必要ないだろう」
「学園だろうと関係ありません」
「お前と俺は違う。俺の指針はビアードだ。俺の行動はビアードらしくないか?」
騎士道精神を大事にするビアード公爵家。
エイベルの行動はレティシアの中ではありえないが、ビアードでは非難されない。
「守ってやるよ。レティシアの努力は知っているつもりだが、限界があるだろう?お前の苦手は俺の得意分野だ。だから素直に守られていればいい。女は男に守られるべきだろう?」
貴族令嬢は武術を学ばない。
護衛騎士がいるため自分で戦う必要はない。
頼もしく笑うエイベルの言葉にはわかりにくいが、エイベルなりの精一杯のレティシアへの気遣いがこめられている。
不器用なエイベルの精一杯の気遣いにレティシアは怒りをおさめることにした。
「エイベルの少ない特技ですものね」
「大事なのは質だろう?」
「昔は数重視の無茶の塊でしたのに成長しましたねぇ」
可愛らしくないレティシアの返答にエイベルは頭をポンと叩いた。
「体調は?」
「ご心配なく。優勝おめでとうございます。お祝いしてあげますわ」
令嬢モードではなく、笑顔でエイベルの賞賛をはじめるレティシア。
エイベルにとって珍しいレティシアからの賞賛の嵐に照れ、視線を逸らした。
「照れてますの?まぁ!?」
エイベルの反応にレティシアは悪戯心が刺激される。
レティシアが新しく見つけた遊びに目を輝かせた。昔のエイベルはレティシアの目が輝くときは嫌な予感に襲われ身構えた。でも今はなぜか嫌な予感がしない。
変わらないと思っていた二人の関係が少しずつ変わりはじめているのに気づいているのはエイベルの本能だけだった。
ルーン公爵の執務室に入り、挨拶を終えたレティシアは椅子に座るように促された。
「マール公爵から婚約の打診が来ている。レティシアの語学力が欲しいそうだ」
レティシアはルーン公爵の言葉に驚きながらも、令嬢モードの穏やかな顔は崩さない。
レティシアは両親の前では常に令嬢モードである。
厳格な両親の前で常にルーン公爵令嬢らしくあることが求められているとレティシアは幼い頃から思い込んでおり、素を見せないように努めていた。
「お父様、この縁談にルーンの利はありますか?」
「私はレティシアを政略の道具に使うつもりはない。嫁ぎたいところに嫁がせたいと思ってるよ。念願かなってリオと婚約できる」
婚約にレティシアの意見を聞いてもらえるのは貴族令嬢としては贅沢なことである。リオへの恋慕があってもいつでも政略の道具になる覚悟はできていた。
心を隠して、淑女らしく、当主の意向通りに動くのはレティシアにとって簡単なことである。
でもレティシアに決める権利を与えられるならレティシアはもう選んでいた。
「ルーン公爵家として利がなく、私の意思を尊重してくださるならお断りしてください」
意思の強い瞳でルーン公爵を見つめ、迷いのない口調で話すレティシアにルーン公爵は驚く。
リオに失恋して落ち込んでいるのはシエルの報告を聞いて知っていた。
だからこそマール公爵家からの申し入れに喜ぶと思ってもいた。
「リオが好きなんだろ?」
ルーン公爵からの問いかけにレティシアは胸が傷んだ。
沈みそうな心を見つからないようにレティシアは目を閉じ思考をはじめた。
マール公爵家に能力を評価されたレティシアはマール公爵家にとって多少は利のある相手である。
子供は魔力の強い親の属性を引き継ぐため、魔力量の多いリオと無属性のレティシアの子供は風属性を受け継ぐ。ルーンの水属性を受け継がないなら、ルーン公爵家にとっての利用価値は低い。
冷静な目で見ればリオよりも医術への関心を持つ者や才能のある研究者、武術に優れる者など価値の高い存在はいる。
レティシアの恋心というものがなければルーン公爵家にとってリオは縁談相手の候補にも上がらないだろう。
国外への影響力をフラン王国で一番持っており、正妃の生家であるから序列一位を保つマール公爵家。
宰相一家として歴代王族の覚えも目出度く国内では一番影響力があり、民にも支持されるルーン公爵家。
ルーン公爵家にとってマール公爵家は傅かなければいけない存在ではない。
マール公爵家の当主になれない三男であるリオへ嫁ぐことは力を持つルーン公爵家にとって何の価値も見出せない。
だからルーン公爵令嬢として受ける必要のない縁談とレティシアは判断した。
思考しながらも胸の痛みは止まらない。
かつて幼いレティシアは一度だけルーン公爵に私的なお願いをした。
リオにふさわしくなれたらリオと一緒になりたいと。
ルーン公爵はいくつか条件を出して全て達成できたならリオと結ばれてもいいと言っていた。
条件の一つのリオの同意をレティシアは得られなかった。
告白しても相手にしてもらえない。
関心も必要もない者からの告白など煩わしいだけの迷惑なものである。
リオの「勘違い」という言葉はレティシアの間違いを正せば変わらない関係性を維持できるというリオなりの優しさとレティシアは数多の求愛を受けながら思い至った。
だから初恋を捨てられなくても、リオへの恋慕は隠そうと決めた。
リオの卒業パーティーでリオと踊らなかったことを後悔していない。
初恋の人の幸せを心から祈れなくても、リオのための最良の行動をするように努力するのがレティシアの選んだ道である。
「いつまでも子供のままではいられませんわ」
レティシアの幸せの代償がリオの不幸せ。
目先の欲望に目がくらんだ先にあるのは真っ暗な世界。
リオに迷惑をかけたレティシアができること。
リオにいらないレティシアでもできること。
散々悩んで答えは出ていた。
レティシアの選択にいつか後悔するかもしれない。でも後悔さえも糧として成長しろと暗闇から乱暴に引っ張りあげてくれる人がいると気付けたから進んでいけると信じて前を向く。
レティシアは瞼をゆっくりと上げて、意思の強い瞳でルーン公爵を見つめ返し微笑んだ。
「過去の話で、もう終わったことですわ。いつもリオのあとを追いかけ、アピールもしましたが振り向いてもらえませんでした。
リオに失恋して、苦しくて仕方のないときに、エイベルが私の能力を必要と言ってくれたんです。
誰かに私の能力を必要と言ってもらえたのは、はじめてであの時、確かに救われたんです。リオを追いかけるのをやめても隣にエイベルがいたから道を失わずに前を向けました。嫉妬に狂わず、公爵令嬢としての私を保てた。許されるなら、救ってくれて必要としてくれたエイベルの役に立ちたいんです。お父様、私はエイベル・ビアード様との縁談を望みます」
「後悔しないか?ビアード公爵家嫡男に嫁ぐのはマール公爵家三男に嫁ぐより苦労するだろう」
マール公爵家は文官一族、ビアード公爵家は武官一族であり常識が違う。
文官一族は文官一族同士で結ばれることが多く、武官一族から妻を迎えたルーン公爵もマール公爵もかつては社交界を騒がせた。
強い者が正義の武官一族に魔力のないレティシアが嫁ぐのはルーン公爵の結婚よりも騒がれ、平定するのも並大抵のことではない。
マール公爵家へ嫁ぐために努力を重ねたレティシアはマール公爵家に嫁げば苦労は少ない。
好きな男と添い遂げられる道を選ばないレティシアにルーン公爵は静かに問いかけた。
「はい。私個人の希望はエイベルと一緒になること。ですが私の縁談はお父様の判断に従いますわ。どこに嫁いでもルーン公爵令嬢として恥じないように努めましょう」
美しく微笑むレティシアのことを公爵令嬢にふさわしくないと囁いていた者はほとんどいなくなった。
「レティシアの意思はわかった。マール公爵家との縁談は断るが異存はないな?」
「はい。心から感謝申し上げますわ」
「ビアード公爵家との縁談は時期尚早だろう」
レティシアはビアード公爵家に嫁ぐ許しはもらえていない。でもリオとの婚約を断ってもらえることに安堵し微笑んだ。
胸は痛くてもリオにとって真っ暗な未来への道は壊せた。
初恋の人のためにできる唯一を成し遂げたレティシアは前に進んでいる。
ルーン公爵は美しく成長した愛娘の成長に誇らしいような寂しいような複雑な心境は顔には出さず冷めたお茶に口をつけた。
***
近衛騎士団長であるためビアード公爵はビアード領を留守にすることが多い。
ビアード公爵は息子から初めて話があるから時間を作ってほしいという手紙をもらい帰宅していた。
「父上、俺はレティシア・ルーンを選びたいと思います。いかがでしょうか」
主人の留守が多いビアード公爵の執務室。
エイベルは久しぶりに父の執務室に入り、父の顔を見てながら静かに告げた。
レティシアよりも鈍く人付き合いに不器用なエイベルでもわかっていた。
リオはレティシアと最後まで向き合うことを選ばなかった。
誠実さの欠片もない扱いをされ傷つけられたのに、「リオ兄様は優しいのですよ」とリオを責めることはなく感謝を述べ、瞳を揺らしながらも強気な微笑みを作っていたレティシア。
変な男に捕まり、不誠実な扱いを受けても献身的に尽くし、どんな理不尽も微笑みながら受け入れてしまう妹弟子。
あの惨事を目の前で繰り広げられるならエイベルの傍に置いたほうが安心である。
魔力があれば婚約者に選んでもいいと王太子にも能力を認められているレティシア。
どんな相手も懐柔してしまう手腕。
文官貴族を嫌う武門貴族だが、騎士を目指すエイベルの友人達は努力家のレティシア・ルーンに好感を持っている。
「治癒魔法は使えませんが、治療は得意ですのよ。貴方の体が悲鳴を上げています。これを飲んで休息を取ってください。お代は必要ありませんわ」
無理をしている生徒を見つければ声をかけ、適切な指示を与える。
美しく華奢なルーン公爵令嬢の好意を無下にする男は少ない。
ローゼ・ターナーの娘という存在は一部の武門貴族の憧れでもある。
レティシアの母親と繋がりが欲しくてレティシアに近づく男はいつの間にかレティシア本人に好意的な印象を持つように変わっていた。
「ルーン嬢は慕う相手がいるのだろう」
「レティシアがマールを好いているのは事実ですが、あの二人が結ばれることはありません。レティシア本人からは婚約への同意を得ています」
「エイベルの意思はわかった。だが、すぐには答えは出せない」
「わかりました。俺はビアード公爵家嫡男として未来のビアード公爵夫人として必要な資質がレティシア・ルーンにあると考えています。もしも父上達がレティシア以上にふさわしいと思う令嬢がいるならその決定に従います。それでは失礼します」
エイベルはビアード公爵に礼をして部屋を出ていく。
婚約者は自分で選んでいいと母親から言われていたが、エイベルの気持ちだけで答えを出せるほど簡単な問題ではない。
レティシアが本気で動けばビアード公爵家嫡男の婚約者の椅子は手に入れられる。
でもレティシアは自分がビアード公爵家嫡男の婚約者に誰よりもふさわしいと思っていないので本気で動くことはない。
「レティシアが欲しかったのはマールの隣。レティシアにとって俺は、俺でいいけど、俺がいいじゃない」
「坊ちゃんだけがいいとおっしゃるご令嬢もいらっしゃいますよ」
「俺が欲しいのはビアードや王家を優先に動ける奴だ。俺に焦がれられてもなにも返せない。それなら俺に期待も夢も憧れもないレティシアが一番だと思わないか?」
ビアード公爵領の家臣達はたった一人の坊ちゃんを大事に想っている。
好きな人がいるレティシアを選んだエイベルも好意も期待もなにも持てないと思う相手に選ばれたレティシアもどちらも不憫に思えてしまう。
家臣達の心配などは気付かずにエイベルは騎士達の訓練に混ざっていく。
エイベルのできることは限られている。
エイベルには提案を受け入れたレティシアの心境はわからないが、婚約者の椅子を用意してくれたならそのあとは最善を尽くすスタンスであることを長い付き合いのエイベルはわかっていた。
だからエイベルなりにできることを精一杯することにした。
***
「よろしいかしら?」
「ごきげんよう。ええ。もちろんですわ。移動しましょうか。エドワード、ビアード公爵夫人と二人で話させてくださいませ。すぐに戻りますわ」
王家主催のパーティーでビアード公爵夫人に声を掛けられたレティシアはエスコートするエドワードの手を解いた。
人気のないバルコニーに移動した。
「ここでのことは無礼講ですわ。わかってくださると信じてますわ」
レティシアは隠れて護衛する者達にビアード公爵夫人への危害も両親への報告も許さないと命じた。
この命令を守れないならレティシアはビアード公爵夫人と二人で護衛を撒くという考えを知っている護衛達は静かに頷いた。
ルーン公爵夫人から命じられているのは護衛のみ。
ルーン公爵が必要とする情報はレティシアがきちんと報告するので、会話内容の報告義務はもとからなかったが、そこまでレティシアは知らされていなかった。
「お待たせして申し訳ありません。時間に限りがありますので、私自身無礼講で構いませんわ」
ビアード公爵家よりも序列が高いルーン公爵家。
王太子との親交も深く、魔法以外の資質は全て持つルーン公爵令嬢の社交界での立ち位置はビアード公爵夫人よりも上である。
それでもルーン公爵令嬢は自分よりも立場の弱い当主夫人達にも礼を尽くした態度で接するゆえに疎まれることは少ない。
ビアード公爵夫人は挨拶以外で関わることはなかったが事情が変わった。
「エイベルと婚約を結びたいというのは本気ですか?」
ビアード公爵夫人の貴族夫人としてはありえない直球な質問にレティシアは微笑みながら頷く。
「エイベル様が望んでくださり、両家当主が認めてくださるなら喜んで婚約の話をお受けしたいと思います」
「リオ・マール様はまだ婚約を誰とも結んでいません」
レティシアはリオを好きなことを周囲に隠さなかった。
だからビアード公爵夫人に知られていることは驚かない。
フラン王国序列一位のマール公爵家と二位のルーン公爵家の出身である二人の関係について聞けるのは王家だけである。
社交界という公的な場でレティシアにリオとのことを質問する貴婦人は初めてであり、不躾であるがレティシアはどんな無礼も受け入れると決めている。
「私には関係ないことですわ。お父様の命がない限りリオ様と婚約することはありません。私はリオ様との婚約を望んでおりません。そして他の誰かとの婚約を望みながらエイベル様との婚約の話を了承するほど不誠実ではありません。私は兄弟子であるエイベル様には誠実でありたいと思っています。公爵令嬢らしくないと自覚はありますわ」
貴族は仕えてくれる領民に対しては慈しみ誠実であろうとするが、欲深い貴族相手なら話は変わる。
醜い心を隠すため美しい装いでごまかし、化かし合うのが社交界である。
豪華絢爛な会場で美しく装い、優雅にダンスを踊ってもそれは薄汚い思惑があってのことである。
社交の場でルーン公爵令嬢はビアード公爵夫人に敬意を持って接するが、本心を匂わせることはしない。
でもエイベル・ビアードの母が相手ならレティシア・ルーンとして本心をきちんと見せる。
「女心は移ろいやすいもの。エイベルの妻を務める自信はありますか?」
エイベルに嫁ぎたいのは一時の気の迷いではないか。魔力のないレティシアに公爵夫人ができるのかというビアード公爵夫人からの質問にレティシアは護衛に無礼講を命じたのは英断だったと微笑む。
ルーン公爵令嬢に格下のビアード公爵夫人を務まるのかとは無礼な質問である。
「私は魔力を持ちません。それゆえ、後継にはエイベル様の属性が引き継がれます。私自身は平凡ですが治癒魔法の天才である父、風魔法の天才である母の血を受け継いでいる私の血は価値があると思います。もしも私がビアード公爵家に嫁いで魔力を持つ嫡男が産まれなければ第二夫人や愛人を迎える手配を整えます。第二夫人を持たないお考えのビアード公爵家の慣習の抜け道を探す自信もあります。もしも私がエイベル様のためにならないなら遠慮なく切り捨ててくださいませ。私が病死するのは天命となるでしょう。ルーン公爵家に口出しさせませんし、見抜かれない自信もあります。使い捨てられる駒として試してみるのも一興ではありませんか」
美しく微笑みながら、必要なら病死に見せかけて自殺するという16歳の少女の言葉に嘘の匂いはない。
命を慈しみ慈愛の塊のようなイメージを民に抱かせているルーン公爵令嬢らしくない言葉。
「貴女にとってエイベルはどんな存在?」
「公爵家嫡男なのに貴族らしくはありません。ですが私にとっては尊敬できる兄弟子です。私が下を向きそうになると前を向けるように引き上げてくれます。レティシア個人としては、魔力を持たない平凡な私の能力を必要と言ってくれるエイベルに救われました。このご恩を返すためならどんなことでもしたいと思ってます。ルーン公爵令嬢としては許されない言葉ですが、落とし所を見つけるのは得意ですのよ」
エイベルに恋い焦がれているわけではない。
それでもエイベルのことを語るレティシアの瞳にはあたたかみを感じる。
いつも人形のような微笑みで感情を乗せない言葉でしか話さないルーン公爵令嬢と同一には思えないほどわかりやすい。
今までなんとも思っていなかったレティシアにビアード公爵夫人は初めて好感を持った。
そしてどんなときもエイベルに献身的に尽くすだろう姿が想像できビアード公爵夫人は認めることにした。
「エイベルが夢中になるのも仕方ないかしら…」
ビアード公爵夫人の小さな呟きはレティシアには届いていない。
武術にしか興味のない息子が婚約したい令嬢を自分で見つけてきたなんて奇跡に近いこと。
そしてエイベルの同世代にレティシア以上に能力があるのはセリア・シオン伯爵令嬢だけである。
能力は高くても研究のためだけに生きるシオン伯爵令嬢にビアード公爵夫人は務まらない。
幼い頃から社交界で鍛え抜かれたルーン公爵令嬢はビアード公爵夫人よりも視野が広く、社交能力が高い。
過酷な環境に放りこまれても、背筋を伸ばし微笑みながら著しい成長を遂げたルーン公爵令嬢。
無属性という貴族として致命的な欠陥を持っていても努力でのし上がってきた根性のある公爵令嬢なら文官貴族を嫌う武門貴族にも受け入れらるかもしれない。いずれは認められ敬愛される気さえしてきた。
「ビアードの者になりたいならどんなことをしてでも生き残る努力をなさい。でも心意気は気に入ったわ。さすがローゼの娘」
「ビアード公爵夫人からの指導に心からの感謝を申し上げますわ。招待状をいただければいつでもビアード公爵家まで足を運びましょう。それでは失礼します」
レティシアは礼をして立ち去った。
心配しているだろうエドワードと合流しルーン公爵に命じられた仕事をこなす。
ルーン公爵家からビアード公爵家に縁談を申し込むことはないと思っているレティシアはビアード公爵夫人に認められたことで、少しずつ前に進んでいる気がした。
****
ビアード公爵家ではビアード公爵夫妻と執事長が向き合っていた。
「エイベルからルーン嬢と婚約したいと言われたんだがどう思うか?」
「ルーン嬢はマール令息を慕っているのではありませんか?」
執事長はビアード公爵の幼なじみ。
ビアード公爵夫妻が留守の時はビアード公爵邸のことを取り仕切るほど夫妻に信頼されている。
「エイベルは二人が結ばれることはないと言っているが」
女心のわからないビアード公爵と執事長の会話にビアード公爵夫人が笑う。
ビアード公爵夫人より情報通で、夫妻に忠告をすることの多い執事長にビアード公爵夫人が優位に立てることは少ない。
「貴方にしては情報が古いわ。その話はもう過去のこと。私は構いませんわ」
「なぜ?」
「ルーン嬢と話しました。もしうちに嫁いで魔力持ちの嫡男が産まれなければ第二夫人や愛人も受け入れるそうですよ。自身の能力を必要と言ってくれたエイベルのためにならないなら切り捨てても構わないという心意気が気に入りました」
「お前、そんなことを聞いたのか?」
無属性の公爵令嬢への配慮にかけた内容にビアード公爵と執事長は驚く。
「誤解ですよ。エイベルとの婚約についての意思を確認しただけです。ルーン嬢自ら魔力のことについて話されましたのよ。私の威圧に負けない勝ち気さも評価に値します。お人形さんのように冷たい方だと思っていましたが、素は真っすぐで気持ちのいいご令嬢」
男達は華奢なルーン公爵令嬢を威圧したというビアード公爵夫人に言葉を失う。
女性として大柄なビアード公爵夫人がぶつかれば、吹き飛ばされそうな体の同世代の中でも小柄な少女である。
「ルーン嬢の社交能力は問題ありません。エイベルより視野が広く、学生達にも慕われてます。あの子を慕ってうちの門下に入る子も多いでしょう。ルーン嬢は人を見る目もありますし、次期ビアード公爵夫人として問題ないと思います」
身内に甘く他人の評価に厳しいビアード公爵夫人が絶賛するなら未来のビアード公爵夫人としての資質は十分である。
「私は旦那様達の決断に従います。必要でしたら夫人として教育を致しましょう」
エイベルが選び、ビアード公爵夫人が認めた。
社交を妻に任せてばかりのビアード公爵は妻と息子の人をみる目を信じている。
ビアード公爵にとって恐怖の塊であるルーン公爵夫人と縁ができるのは心穏やかではいられないが、それは断る理由にはならない。
ビアード公爵家としてルーン公爵家に婚約の申し入れの手続きを進めることにしたが、ビアード公爵だけは嫌な予感に襲われていた。
****
リオが卒業し、新学期を迎えエドワードが入学した。
レティシアとエイベルはよく一緒にいるが婚約を発表していない。
ビアード公爵家からルーン公爵家へ縁談の申し入れはあったが、ルーン公爵家からの返答はレティシアの婚約者に求める条件だった。
「あのルーン公爵夫人と手合わせできる機会をもらえるなんて」
ルーン公爵家からレティシアとの婚約にはエドワードと風の天才であるルーン公爵夫人に強さを示すことが条件と告げられてからエイベルは上機嫌である。
レティシアはこの条件を聞いたときに驚いた。
以前父親に言われた信頼のできる相手というのは最低条件であり、レティシアが望んだ相手と結ばれるためにはその後にいくつも試練が用意されていた。
ルーン公爵家の教育に耐えられ、合格を得るという条件は難しい。
もしもリオと結ばれても、レティシアの知る従兄はルーン公爵家からの試練を受けるくらいなら現実を受け入れ、婚約の申し出を取り下げるだろう。
レティシアの努力でリオと結ばれる道はなかったという現実に気付いた時は欲に負けなかった自分の選択は間違えていなかったと思えた。
そしてルーン公爵家からの不可能に近い条件に目を輝かせられるのはレティシアの知る限りエイベルだけである。
「勝機が微塵も見えませんが…」
「魔力も力も伸びやすいこの時期だ。巡り合わせに感謝するよ。お前との婚約にこんな利があるとは」
負けず嫌いではあるが、負ければさらに燃えるという性質を持つエイベル。
エイベルより体は小さいが賢いエドワードはエイベルより魔法の使い方がうまく先読みに長けるため勝率は横ばいである。
「その言葉は僕達への侮辱ですか?」
「エイベルはルーン公爵家を貶めたわけではありません。訓練が趣味だから強い方と手合わせする機会を得られることに最上の喜びを抱いてしまうのよ。エドワードも強いでしょ?」
「弱くないと思いますが強くはありません。母上に負けてばかりですから」
繊細なコントロールが必要な治癒魔法の王国一の使い手であるルーン公爵、武術の名門であるターナー伯爵家出身の風の天才と謳われるルーン公爵夫人、フラン王国の二人の天才に育て上げられたエドワード・ルーンは文官一族なのに武門一族に負けない実力の持ち主である。
同世代では負け知らず、エイベルにさえ時々勝つ実力者である。
エドワードは大事な姉を託すにはエイベルは物足りないと思っている。
ビアード公爵家はお抱えの騎士の数はルーン公爵家よりも多いが、資産力をはじめ騎士の練度はルーン公爵家のほうが上である。
ビアード公爵夫人として過ごすよりもルーン公爵令嬢のほうが価値も権力も高い。
苦労するのが目に見えているビアード公爵夫人の椅子よりエドワードの庇護の下、平穏な世界で幸せを掴んでほしい。
リオとレティシアの縁談なら姉のためにエドワードは苦労の少ない生活を整えることができた。
だがビアード公爵家ではエドワードの力はほとんど使えない。
狼ばかりの巣穴に子猫を放り込むことをエドワードはしたくなかったが、両親がエイベルを試すというなら反対はできなかった。
****
シスコンで有名なエドワードが入学したことで、レティシアにアプローチする生徒は減った。
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レティシアは渡された手紙の山をぼんやりと見つめた。
ルーン公爵家の後見目当てがほとんどだが、時々恋煩いのような手紙も混ざっている。
どんなに褒め称えられてもレティシアの心はときめかない。
だが届かない想いがもたらすものも知っている。
「小説のように目を合わせただけで運命の相手がわかればいいのに」
アリッサが好きな新作の恋愛小説。
「レティシア様にとっての運命の相手は将来政略結婚させられる相手のことでしょう?レティシア様はそのあたりの情緒はいまいちよねぇ」
「必要ありませんから。後悔はしないと信じてますが、知らないほうが生きやすかったと思ってしまいます」
「真面目よねぇ…。人の心は移ろいやすいものよ。婚約を決めるか、礼儀をわからせればこんな無礼な手紙もなくなるわ」
レティシアはセリアとアリッサとお茶を飲みながら現実は小説のように単純ではないと役に立たない小説のページをめくる。
アリッサは王太子の婚約者の座を狙っているが、椅子までの道は遠い。
王太子の婚約者の椅子を狙うのはレティシア達よりも秀でる特技を持つ年上の美しい令嬢ばかりである。
「アリッサ様が激闘に疲れ現実逃避に、夢うつつに憧れるのも仕方ないこと。殿下は腹黒ですが外見は物語の王子様そのものですもの。いまだに婚約者を決める素振りは一切ありませんし、いっそ決闘でもして決めてしまえば、」
「国を統治する者が脳筋?」
「殿下や臣下がしっかりしているのできっと大丈夫ですわよ。どんな方を殿下が選んでも女にうつつを抜かすことはありえませんから。フラン王国は安泰です。まぁアリア様は決闘は優美でないとお許しいただけなそうでしょうが」
いつも穏やかな微笑みを浮かべ、周囲を魅了している王太子。
主君としては頼もしいが心の中を見せない腹黒王子や感情の起伏が激しく気まぐれな義母、プライベートでは関わりたくないタイプの王族達。
当主からの命令とはいえ、前途多難な道を目指すのに、わかりやすいままのアリッサをレティシアは時々無性に可愛らしいと思っている。
もしもアリッサが王妃の椅子に座れず、適齢期を逃したら個人的に手を差しのべてもいいかなぁと思うほど気に入っているのはレティシアの秘密である。
フラン王国で社交界の花と数えられるレティシア以外の令嬢は王太子の婚約者の椅子を争っている。
だからレティシアのように魔力がなかったり、王子の婚約者を狙えるほどの能力のない令嬢にも将来有望な貴族子息からアプローチを受けられる。
でも身の程をわきまえない縁談は身を滅ぼすことが多いので、この状況が幸せかどうかはレティシアにはわからない。
「俺の名前を出せば?」
レティシアに届けられるアプローチの手紙はなかなか減らない。
婚約者が決まっていない身分の高いルーン公爵令嬢にアプローチできる機会はステイ学園内だけなのでレティシアと婚約を結びたい男子生徒は遠慮しない。
シスコンのエドワードが一緒の時は近づかないが、ルーン姉弟の行動を調べた一部の生徒達は生徒会役員に選ばれたエドワードがいない時を狙っている。
婚約者は発表されなくてもステイ学園で四番目に身分の高いビアード公爵家嫡男の求婚を前向きに検討しているとわかればアプローチする者は減る。
家格に容姿などエイベルと同等以上のスペックを持つ生徒は少ない。
「らしくありませんねぇ。私の問題は私が対処します。またどうにもならない時だけ助けてくださいませ。そんなことよりも、ここ間違ってますよ」
エイベルが処理した書類への訂正を指摘するレティシア。
手紙を読み、瞳が揺れるレティシアの心情はエイベルにはわからない。
弱さを見せることを許さないレティシアに聞いてごまかされることだけはわかっている。
強がりのレティシアを弱くした男のことを思い出せばなぜか苛立ちを覚える。
レティシアは初恋に見切りをつけたが、終わらせ方が悪かった。
体の傷と違い心の傷は治らない。
レティシアとリオの関係にエイベルが口を出すことはない。
ただレティシアへのアプローチする者達がレティシアの傷に塩を塗るならできることがある。
「聞いてますか?」
物思いに耽っているエイベルを睨むレティシアの瞳は揺れておらず元気が戻っており切り替えの早さにエイベルは安堵の笑みをこぼした。
エイベルらしくないやわらかな笑みにレティシアは寒気に襲われた。
「調子が悪いなら休んでください。それは修正しておいてあげますわ。ほら、私の膝を貸してあげますよ」
「必要ない。自分でやる」
いつも通りの態度に戻ったエイベルにレティシアは見間違いと片付けることにした。
***
ステイ学園で恒例の武術大会。
最終学年にてとうとう優勝を掴んだエイベルは勝者の笑みを浮かべている。
観戦していたレティシアはまだまだ母には敵わないと思いながらも惜しみなく拍手を送った。
「俺はレティシア・ルーンとの婚約を望んでいる。ルーン公爵家の了承はまだだが、レティシアとうちは了承している。だからレティシアにちょっかいをかけるなら俺を倒してからにしろ。身分問わず、いつでも決闘を受けてやる。俺は俺より強い奴じゃないとレティシアの相手として認めない」
優勝者へのインタビューでのエイベルの発言に拍手は止まり、歓声、ざわめき、会場の雰囲気はカオスだった。
エイベルが初めて婚約者について自分の意思を表明した。
レティシアは公の場で会場中に聞こえる声での宣言に言葉を失う。
堂々と宣言するエイベルの姿は格好いい。
公爵家嫡男としてありえない態度、周囲から浴びせされる様々な視線、なによりレティシアに向って自信満々に笑うエイベルの顔を見て意識が失った。
「本来の目的に戻ろうか。倒れたレティシアは侍女に任せておけばいい。心配はいらないと思うよ。表彰式をはじめようか」
乱れた会場を王太子のクロードが穏やかな微笑みを浮かべたまま整えた。
レティシアの隣で観戦していたアリッサはクロードの手腕に感心することはなく、レティシアの地雷を踏みぬいたエイベルに同情した。
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****
意識が戻ったレティシアは見舞いに来たエイベルの訪問を受け入れた。
人払いした途端に枕をエイベルに向って投げたが、華麗に受け止められた。
「な、なんてことを」
眉を吊り上げ、子供のように怒るレティシアをみてエイベルはため息をついた。
そのため息がレティシアの怒りの火に油を注いだ。
「お前はエドワードに頼りたくないだろう?俺が卒業すれば今までのように助けてやれない。それまでに婚約を許されればいいんだが、難しいだろ?それならあの場で宣言するのが一番じゃないか。上位貴族らしくないって怒ってるんだろうけど、ここでは貴族らしさは必要ないだろう」
「学園だろうと関係ありません」
「お前と俺は違う。俺の指針はビアードだ。俺の行動はビアードらしくないか?」
騎士道精神を大事にするビアード公爵家。
エイベルの行動はレティシアの中ではありえないが、ビアードでは非難されない。
「守ってやるよ。レティシアの努力は知っているつもりだが、限界があるだろう?お前の苦手は俺の得意分野だ。だから素直に守られていればいい。女は男に守られるべきだろう?」
貴族令嬢は武術を学ばない。
護衛騎士がいるため自分で戦う必要はない。
頼もしく笑うエイベルの言葉にはわかりにくいが、エイベルなりの精一杯のレティシアへの気遣いがこめられている。
不器用なエイベルの精一杯の気遣いにレティシアは怒りをおさめることにした。
「エイベルの少ない特技ですものね」
「大事なのは質だろう?」
「昔は数重視の無茶の塊でしたのに成長しましたねぇ」
可愛らしくないレティシアの返答にエイベルは頭をポンと叩いた。
「体調は?」
「ご心配なく。優勝おめでとうございます。お祝いしてあげますわ」
令嬢モードではなく、笑顔でエイベルの賞賛をはじめるレティシア。
エイベルにとって珍しいレティシアからの賞賛の嵐に照れ、視線を逸らした。
「照れてますの?まぁ!?」
エイベルの反応にレティシアは悪戯心が刺激される。
レティシアが新しく見つけた遊びに目を輝かせた。昔のエイベルはレティシアの目が輝くときは嫌な予感に襲われ身構えた。でも今はなぜか嫌な予感がしない。
変わらないと思っていた二人の関係が少しずつ変わりはじめているのに気づいているのはエイベルの本能だけだった。
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