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パラレル レティシアの初恋3
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留学期間が終わりレティシアは平穏が訪れると思っていたがやはり現実は甘くなかった。
「ルーン公爵令嬢、少しでいいのでお時間をいただけませんか」
レティシアは男子生徒に追いかけられるようになった。
侯爵令嬢とリオの仲を祝福していたレティシアの姿を見た者はレティシアがリオを諦めたと判断した。
留学生の無礼も寛大な心で許したように周囲に勘違いされてもいた。
平等精神の学園ならば多少の無礼も許されると思い動き出す生徒が増え、誰にもアピールしないフリーになったレティシアは求愛に襲われていた。
「申し訳ありません。お気持ちだけいただきますわ」
ルーン公爵家とは比べものにならないほど力のない家出身の男子生徒が多く、ルーン公爵家の後ろ盾目当てがレティシアを選ぶ一番の理由。
貴族として利のために動くのは当然である。
平等の学園である程度の自由が許される環境で必死に動く気持ちもレティシアには理解できる。
気持ちは理解しても、ルーン公爵令嬢としての答えは決まっている。
レティシアは上品に微笑みながら全ての求愛に同じ返事を返した。
断られても何度もアピール生徒もおり、レティシアは複雑な思いを隠して上品に微笑みながら応対した。
感情を隠した令嬢モードの微笑みを浮かべているのに、時々レティシアの瞳が揺られていることに気づいている者はレティシアに求愛する男子生徒の中にはいなかった。
「リオ、ちょっと手を貸してくれないか?」
恒例のお断りをおえたレティシアは生徒会役員として助けを求められるリオの背中をを見つけた。
レティシアは足を止めた。
リオを見れば、胸が痛くなり、うまく気持ちがコントロールできない。
時間とともに気持ちは薄れるというセリアの言葉を信じたくても胸の痛みがなくなることはなかった。
リオの近くを通らないと辿り着けない図書室に行くのはやめて、踵を返した。
不運が続いているレティシアにとって唯一の幸運は学年が違うのでレティシアは会いにいかない限りリオと会うことはない。
恋するゆえにリオをすぐに見つけて視線を向けてしまうレティシアの特技はリオを避けるのに役に立っていた。
「失恋にはやけ食いが一番よ」
女子生徒の話している内容にレティシアは耳を傾け足を止めた。
シエルに命じて人生初めてのやけ食いに挑戦することにした。
「お嬢様、そろそろやめられたほうが」
「やけ食いをやり遂げないといけません。やり遂げたからわかるものがあるのかもしれませんわ」
感情を見せない顔で上品な仕草で淡々とテーブルに並べた料理に口に運ぶレティシア。
レティシアの好物の蜂蜜は高級品で稀少なため、レティシアは自分で取り寄せることはしない。
貴重なものは領民やお茶会の場で振舞うために使うようにしているレティシアは自分の欲のために手配するのは許さないのでシエルも主の意向に従いテーブルの上に並べていない。
レティシアが感情を見せない表情をしているときは不愉快な時が多いと知るシエルはやけ食いに真剣に取り組んでいる主に掛ける言葉がわからない。
できるのは食事を終えたあとにレティシアに飲ませる胃薬を用意することくらいである。
あまり食に興味がないレティシアはたくさん食べても気持ちは晴れなかった。
「お嬢様、こちらを」
レティシアはシエルが置いた薬を見て首を横に振った。
「必要ありません。治癒魔法に頼りすぎると耐性ができてしまいますが、薬も同じ。こちは自然の力で十分なもの。それにこれもやけ食いの醍醐味かもしれませんわ。お母様には内緒にしてくださいませね」
厳しい母親に知られれば怒られるだろう行為を隠してほしいと頼むレティシアにシエルは頷いた。
自己管理ができないことに対して特に厳しいルーン公爵夫人の叱責は時々非常識なこともある。
敵に襲われても常に先手を打てるようなポテンシャルを保つようにレティシアは教育されているがこれは貴族令嬢としてではなく、騎士の教えとはレティシアは知らなかった。
シエルには強がって令嬢モードで隠したレティシアは翌日の昼休みにエイベルの部屋を訪ねた。
食事を共にしたいというレティシアからの珍しい誘いにエイベルは了承した。
二人の昼食の用意を終えた使用人達にレティシアは人払いを命じた。
レティシアは食事の席から立ちあがり、来客用のソファに横になった。
「気持ち悪いですわ。しばらく食事はいりません。私の分も食べてくださいませ」
エイベルはレティシアからのお願いに眉間に皺が寄った。
「食事はおろそかにするなと言われてるだろうが」
「昨日三食分くらい食べましたわ。でもシエルは許してくれません」
「三食?」
「失恋にはやけ食いがいいと教わったので試しましたの。最後まで頑張りましたが効果はありませんでした」
胃はもたれ気持ちが悪くなり、さらに気分が沈む悪循環に襲われ大失敗だった。
レティシアの話を聞いたエイベルの眉間に皺はなくなったが馬鹿にしたように笑った顔をソファで丸くなっているレティシアは見ていない。
食が細く、胃も丈夫なほうじゃないレティシアにやけ食いは向かない。
「バカか」
レティシアはエイベルの言葉に反論したいがお願いしている立場なので我慢した。
レティシアはエイベルより賢いし、脳筋と揶揄われることはないと心の中だけで反論するのにとどめた。
エイベルはレティシアの心の内には気付かずに、妹弟子が真剣に考えて、失敗したなら多少は甘やかしてもいいかと昼食だけは見逃すことにした。
「余計なことを考える余裕がなければいいんだろう?体を動かして、ぐっすり眠れば簡単だろう。放課後、やるか?」
「お願いします!!」
レティシアはエイベルからの訓練の誘いに頷いた。
留学生の手を払いのけられなかったレティシアにはありがたい誘いだった。
放課後にエイベルと体術の手合わせをしたレティシアは地面に投げ飛ばされた。受け身を取っているので、ケガはないが体中は汚れている。
土を払うことを無駄に思えたレティシアはそのまま起き上がる。
「エイベル、もう一度お願いします」
負けず嫌いなレティシアにエイベルは笑い、手合わせを再開する。
小柄で美人なレティシアをためらうことなく投げるのはエイベルだけである。
近くで訓練している生徒達には二人の訓練は見慣れたものである。
騎士を目指す生徒達の中で手加減せずレティシアと手合わせするのはエイベルだけ。
公爵令嬢への遠慮する気持ちは理解できるので、レティシアは残念に思いながらも受け入れている。
体を動かし、体力の限界を迎えれば頭は朦朧としてリオのことが頭に浮かばないと発見したレティシアは毎日エイベルの鍛錬に混ぜてもらうことを決めた。
騎士を目指し、訓練が趣味のエイベルは早朝に鍛錬するのはエイベルの日課だった。
早起きするようになったレティシアは毎朝訓練でボロボロになっても、訓練中は余計なことを考えられない。体も鍛えられ一石二鳥とレティシアが喜んでもやっぱり現実は甘くない。
「お嬢様、連日の訓練はおやめください」
シエルはレティシアの体に小さな傷がどんどん増えていくのに気づいてレティシアを止めた。怪我が治らないうちにどんどんケガが増えていく。それを許すわけにはいかなかった。
レティシアの希望でもルーン公爵も嫡男のエドワードも今の現状を知れば動き出す。
ルーン公爵家が動けばビアード公爵家は取り潰されるかもしれない。
そんな悲劇をレティシアが望まないと知っているシエルを楽しそうなレティシアに令嬢らしい安全なことをするように忠言した。
「令嬢らしいですか、」
レティシアは本人が認識している以上にルーン公爵家で大事にされている。
愛情表現にとぼしいルーン公爵夫妻のおかげでレティシアはルーン公爵令嬢としてふさわしいかしか両親が関心がないと誤解しているが。
鈍感で思い込みの激しい面のあるレティシアは一度思い込んだら訂正するのは難しい。
そしれシエルの忠言に頷いたレティシアは新しいことを探しはじめた。
「刺繍できた!!受け取ってもらえるかなぁ」
ハンカチに刺繍をして、慕う男子生徒に渡すのが女子生徒の間で流行していた。
刺繍は貴族令嬢のたしなみの一つである。
レティシアは不器用なので刺繍は苦手である。
リオに贈るためにマール公爵家の複雑な紋章の練習をしていた時もある。
刺繍道具を見た瞬間に胸が痛んだ。
刺繍下手でも貴族令嬢として必要な刺繍技術は身に着けているレティシアは道具をじっと見つめて動かない。
気持ちが暗くなるものに必要もないのに触れるほど強い心はなかった。
「レティ?」
「ぼんやりしてましたわ。課題はなんでしたっけ?」
セリアに声を掛けられ我に返ったレティシア。授業中だったことを思い出し課題の刺繍に取り掛かる。
教師に提出した後は返されるハンカチ。
レティシアはルーン公爵家の紋章の刺繍を始めた。
マール公爵家の紋章はゆがむのに、王家とルーン公爵家の刺繍は美しく刺繍できるレティシア。
刺繍道具の中に紛れるマール公爵家の紋章は見ないフリをして針を進めた。
レティシアの近くにあるリオに関連したものは見ないフリをするしかできない自分に嫌気がさしても、どうにもならない現実に暗い思考に溺れそうになるのを救いあげてくれる何かを必死に探すしかできなかった。
いろんなことを試したレティシアは楽器の演奏と読書なら集中できると気づきレティシアの生活に取り入れた。
ただ演奏室や図書室などの共用スペースはレティシアに求愛する男子生徒が現れるのでエイベルの部屋に逃げることも覚えた。
セリアも研究用の部屋を持っているが、怪しい物ばかりのセリアの部屋は違う意味で落ち着かない場所なので除外した。危険と隣り合わせの部屋で常に警戒して過ごすなどレティシアの心がさらに荒むのが目に見えていた。
「リオに会わないって簡単みたいですわ」
「は?」
「叶わぬ恋でしたわ。会うと動揺してしまいますが、リオが卒業すればさらに会うことはなくなります。膝貸してください」
レティシアはエイベルをソファに座らせ、膝を枕に本を読み始めた。
エイベルの部屋にあった本はレティシアには難しいが、兵法はエイベルの得意分野なので教えてもらおうとこの姿勢にした。
レティシアの問いかけに専門用語ばかりの解説を始めたエイベルの声に耳を傾ける。文字を追うのはやめて襲ってくる眠気にレティシアは素直に身を委ねた。
***
リオは億劫でも立派に役目を果たし、留学生を無事に返し時間に余裕が生まれると最近姿を見せない銀髪を思い出した。
リオは休み時間にレティシアの教室に行くと机に顔を伏せて、丸くなっているレティシアを見つけてため息を飲み込んだ。
体調が悪いのに令嬢モードで隠してさらに体調を悪化させる悪癖のあるレティシア。
高熱があっても顔色一つ変えずに、社交をこなす姿は見慣れたもの。
帰りの馬車か邸に帰った途端に倒れるのも珍しいことではなかった。
リオがレティシアを医務室に連れていくために近づくと、強い力で腕を掴まれた。
腕を掴んだのはレティシアの親友で天才発明家のセリア・シオン伯爵令嬢。
セリアはリオともレティシアを通して幼い頃から親交がある。
セリアは真っ赤な瞳で怒りを隠さず、リオを睨みつける。
「リオ様、レティにもう近づかないでください」
「レティシア、具合悪いだろ?医務室に連れて行かないと」
セリアは心配そうなリオの態度に腹が立って仕方がない。
レティシアがリオへの初恋を断ち切れないのはレティシアだけが悪いとは思っていない。
「そうゆうことするから駄目なんですよ」
「は?」
馬鹿にしたような呆れた物言いをしたセリア。
「ご婚約おめでとうございます」
「は?」
「レティの面倒は私が見るのでご心配なく。妹分のことを思うならもう構わないであげてください」
「セリア、意味がわからない」
「自分で考えてください。レティに近づかないでください。レティのために。それだけご理解くださいませ。では」
セリアは会話についていけないリオに冷笑を浮かべて教室に戻った。
レティシアの傍にいくセリアを見て、リオはセリアに任せれば平気かと教室に戻った。
セリアはレティシアを大事にしているし、レティシアもセリアの言うことなら聞くと知っていた。何より危険物を発明し、常に被験者を探す癖を持つ怒っている意味のわからないセリアと関わるのはリオは避けたかった。
****
リオのところにレティシアが姿を現さなくなり半月以上が経った。
姿を見せないレティシアの体調不良をリオが心配しているとサイラスが物言いたげな視線を向けていた。
「なに?」
「なぁ、リオ、これでいいの?」
最近物思いにふけることが増えたリオ。サイラスは無自覚の友人にため息をついた。
「サイラス?」
「レティシア嬢のこと気になるんだろ?レティシア嬢来たよ」
リオの教室の前に立ち止まったレティシア。
教室の中を見回すレティシアを迎えるためにリオは席から立ち上がった。
先輩の教室に入るのを躊躇う生徒も多いが、身分の高いレティシアは気にしない。
会いたい人物を見つけ、笑みを浮かべて近づいていく。
レティシアは席を立ったリオに近づくことなく、音楽の名家出身のエイミー・リール公爵令嬢の前に立った。
「失礼いたします。エイミー様!!」
「あら?どうしたの?」
「楽譜ありがとうございました」
「弾けるようになった?」
「ええ。またお時間あるときお付き合いくださいませ」
「もちろん。もう少し難しい曲を弾いてみる?」
「是非、ありがとうございます」
リール公爵家とルーン公爵家は同派閥である。
同派閥のためお茶会で顔を合わせることも多い。エイミーはレティシアの初恋をあたたかく見守っている一人である。
最近傷心気味だったレティシアに気休めにと楽器の指導をしていたが、感情を音楽に乗せるのがうまいレティシアの指導が楽しくて仕方ない。
エイミーの指導は厳しくても集中できるものを探していたレティシアにはありがたかった。
嗜み程度の音楽にしか興味がなかったのが嘘のように暇なときは楽器を弄んでいる。
レティシアはエイミーから新たな課題を受け取り礼をして教室から出て行った。
いつもならリオを見つければ嬉しそうに笑い抱き着いていたが、リオに視線を向けることはなかった。
サイラスは立ち上がったまま固まっているリオに苦笑し、愛らしい笑みでレティシアの後ろ姿を見つめていたエイミーに問いかけた。
「リール嬢、レティシア嬢はどうしたの?」
「音楽の教養を高めたいんですって。最近はいつも演奏室かビアード様の部屋で練習しているみたいですよ」
「演奏室はわかるけどなんでビアード?」
エイミーは社交界では常に感情を見せない公爵令嬢らしいレティシアを幼い頃から知っている。リオに恋してから楽器の音色が変わった。
譜面通りの無機質な音から艶めかしい音に変化した。時々胸が痛くなるほど切ない音色も。
リオに恋してから人間らしくなったレティシアをエイミーは好ましいと思っている。
最近は胸が苦しくなるほど切ない音色。ようやく少しずつ明るさが生まれ出した。
レティシアのことをよくわかっていると自負しているリオはエイミーよりもレティシアのことをわかっていないと思っている。
何も気づいていないリオ。
エイミーは愛らしい笑みを浮かべながら、爆弾を落とすことにした。
「殿方はご存知ないのね。マール様が留学生を選ばれたので傷心のレティシアに近づく殿方が多いんですのよ。演奏室にも来るのでビアード様のお部屋で練習しているそうですわ。最初はビアード様も嫌がってましたけど、レティシアのお願いに折れたみたいですわ」
「よく知ってるね」
「令嬢の嗜みですから当然ですわ」
リオは事実無根のエイミーの言葉に固まった。
「リオ、大丈夫?」
「ああ。いい機会だな。やっと俺への気持ちが刷り込みだったと気づいたんだろう」
「へぇ」
放心しているリオを心配したサイラスの問への答えにエイミーが小さく笑った。
レティシアのリオへの報われない片思いをあざ笑っていた令嬢もいる。
魔力を持たない令嬢が高望みと。
レティシアが成長すればするほど、評価は変わった。
魔力を持たずともさすがあのルーン公爵家のご令嬢と。
片親にさえ魔力があれば魔力を継承させ後継をつくる方法はある。
教養深く社交能力の高いレティシアという少女に惹かれて婚約を望む者も家も多い。
身内という曇ったフィルターでしかレティシアを見れないリオ。
誤解とはいえ見る目のない男は断ち切ったほうが幸せかもしれないとエイミーはレティシアの誤解を解くことはやめた。
****
「間違えてないか?」
レティシアはエイベルの部屋でエイミーから借りた曲を練習していた。
気持ちよさそうに何度も弾いているのに、毎回音が違っていることにエイベルが指摘した。
エイベルに音楽の教養はたしなみ程度しかないが耳は良かった。
「その曲変じゃないか?」
フラン王国ではなく外国の音楽家が作った曲はエイベルの耳には慣れない音ばかり。
聞きなれない音を気持ち悪いと表現する音楽への教養のないエイベルにレティシアは馬鹿にしたように笑った。
「教えてさしあげましょうか?ご一緒に」
「興味ない。まだ前の曲のほうが聴きやすかった。それはうるさい」
前にレティシアが練習していた曲もフラン王国では異文化で好まれていない曲調。
音楽への才能皆無の教養の低いエイベルはどんな曲へも無関心で好きな曲はない。
そんなエイベルに聴きやすいと感じる曲ができたのは驚くべき成長だとレティシアは目を丸くした。
そして馬鹿にした笑みではなく、やわらかな自然な笑みをこぼした。
エイミーに会いに行くと同じ教室にリオがいる。
リオの近くで平静を装うためのレティシアの訓練の最終目標は初恋を捨てること。
同じ教室にいてもレティシアに声を掛けないリオ。
用がなければ話す価値もない単なる従兄妹という関係に胸が痛くなるレティシアにはまだまだゴールは見えない。
でも無意識なエイベルが変われたなら努力しているレティシアも変われるかもしれないと前向きになる。
「聴きたい曲はありますか?」
「ない」
レティシアは素っ気ないエイベルに笑いながら選曲を始めた。
楽しそうなレティシアにつられて笑うエイベルの顔に好きな曲を勘違いされたことはエイベルは気付かない。
****
サイラスはリオに哀れみの視線を向けた。
エイミーに会うためだけに教室を訪ねるレティシアを物言いたげに見つめるリオ。
レティシアは決して振り向かず、エイミーも愛らしい笑みを浮かべたまま気づかないフリをしている。
リオとサイラスが廊下を歩いていると聞き覚えのある声が響いていた。
「ありえませんわ。エイベルの」
「落ち着けよ。うるさい」
「うるさい!?」
頬を膨らませたレティシアがエイベルと言い争っていた。
視線を集めていても見られることになれているレティシアもエイベルも気にしない。
レティシアの頭を乱暴にエイベルが撫でるとレティシアはため息を飲み込んだ。
そして自分達に注がれている視線に気づき、礼をして立ち去ろうとしたがリオの銀の瞳と目が合った。
今のレティシアは無防備だった。
レティシアにとって向けられれば自然に笑みがこぼれた銀の瞳。
不機嫌を宿したリオの瞳にレティシアは悲しくてたまらなくなる。
レティシアの青い瞳がどんどん潤み、唇と目を固く結んで、隣にいるエイベルの背中に手を伸ばした。
エイベルは一瞬で背中にしがみついて顔を隠したレティシアに驚く。
そしてエイベルに悟られることなく素早く動いたレティシアの成長に笑った。
虚勢を張って無理して倒れるよりも、自分より強い者の後ろに隠れて身を守るために動くほうが貴族令嬢のレティシアには必要な行動である。
リオはエイベルの背中に抱き着くレティシアと笑って受け入れるエイベルに衝撃を受けた。
エイベルは睨まれていることに気づいて笑うのをやめて、無言で睨むリオを強い瞳で見つめ返した。
「マール、色々言いたいことがありそうだけど何?」
「いや、それ大丈夫なのか?引き受けるよ」
苦笑を浮かべたリオが泣きそうなレティシアに視線を向けると、エイベルにしがみつく腕に力が入った。
拒絶を全身で示すレティシアの手をエイベルが引きはがそうとしたが震えていることに気づき、宥めるように手を包んだ。
レティシアが人に動揺を悟られたくないとよく知っているエイベルは先ほどから穏やかそうに笑いながらも目が決して笑っていないリオをレティシア以上のバカだと思っている。
「レティシア、腕緩めろ、苦しい。そのままでいいから、力だけ緩めて。引き渡さないから」
レティシアは自分を物のように扱うエイベルの無礼な言葉に反論する余裕はなかった。
エイベルを盾にして、この場から消えたい。いまだにリオを見て動揺し続ける自分も嫌だった。
「最近宥めるコツ覚えたから平気だ。レティシアは俺が引き受けるから安心して幸せになれよ」
「は?」
「俺達はこれで。歩きにくいんだけど。嫌?仕方ないな。悪いが先に行ってくれ。たぶんこれ、お前が近くにいる限り動かない」
レティシアはエイベルの背中にしがみついたまま動かない。
リオはレティシアからの無言の拒絶に動揺しながらもサイラスに促され、通り過ぎた。
「邪魔、運ぼうか?」
「嫌。少しだけ、頭撫でて」
リオを諦めると決めたのに、会うと動揺する弱い自分が嫌でたまらないレティシア。
令嬢モードを纏えるようにエイベルの胸に抱きつき、ぬくもりに目を閉じる。
優しく頭を撫でてほしいのに、乱暴に頭を撫でるエイベルに指摘する余裕はない。
人目はエイベルが視線で散るように命じたからなくなった。
そんなことに気付く余裕は自分のことでいっぱいのレティシアにはなかった。
レティシア達から離れて、死角に入るとリオは振り返った。
サイラスは殺気を垂れ流しているリオの肩を叩いた。
「殺気出てるからやめて」
「悪い」
「殺気を向けるほど?」
「いや、それは…。脳筋に預けるのは…。雛鳥の巣立ちに複雑かもな」
「嫉妬じゃないの?相手がビアードじゃなくてカナト様で想像したら?」
「は?」
「例えだよ。リオがレティシア嬢を任せてもいいと思う相手でさっきの光景を想像しなよ」
「思い当たらない」
「レティシア嬢はいずれ誰かと婚約するよ。リオの許しに関係なく」
「公爵令嬢だから当然だろう」
「じゃあ今まで向けられてた好意が全部ビアードに向けられたらどうするの?」
リオはサイラスの問いに想像した。
自分以外に抱き着くレティシアを見るのは初めてだった。エイベルに満面の笑顔で抱きつき甘えるレティシアを想像するだけで不愉快な気持ちに襲われた。
「おもしろくない」
「レティシア嬢のビアードとの婚儀はきちんと祝福できる?」
リオはエイベルの腕に上品に微笑みながら寄り添うレティシアを想像すると不愉快でたまらなかった。
「無理そうだよね。リオとの婚儀は?」
嬉しそうに抱きついてくるレティシアを想像してリオの頬は緩んだ。頭を撫でたら可愛らしくニコッと笑う顔まで浮かんでいた。
「そのにやけてる顔の意味わかる?」
「にやけてる?まさか、いや、ありえない」
「必死に否定してるけどさ、それ、もう認めてない?」
リオは気付きかけた気持ちを認めるわけにはいかない。
もしも自分がレティシアに特別な感情を抱いても結ばれることはない。
「認めたところで無駄だよ。俺達は政略結婚から逃れられないよ」
「やっぱりバカなの?」
「は?」
サイラスはレティシアに関することは鈍すぎるリオに何度目かわからないため息をついた。
「レティシア嬢がなんでお前をあんなに必死に落とそうとしてたの?」
「それは…」
「違うよ。惚れてるからじゃない。お前のことが好きな気持ちだけであのルーン公爵令嬢が動く?」
社交界の花の一つに数えられるルーン公爵令嬢。
社交のパーティーでルーン公爵令嬢のエスコート役は弟のエドワード・ルーン。
不在の時はルーン公爵をはじめ、親族が務めている。
社交界ではレティシアはリオに恋慕の態度は一切見せない。
学園でのレティシアのリオへのアピールを目にしたものでなければ、ルーン公爵令嬢がマール公爵家三男に惚れているなんて誰も気づかなかっただろう。
社交界では公爵令嬢としてふさわしく振舞うレティシアが学園でリオにアピールしているのは、婚約者を選ぶ権利をレティシアが持っているからと予想している者が多い。
だからリオが素っ気ないので自分にも可能性があるとアピールする者が絶えない。
「まさか、叔父上の了承を?」
「さぁね。ただ縁談を控えたルーン公爵令嬢が恋心だけであんなに素直に動くとは思わない。好意を全面的にぶつけることが駆け引きかどうかは怪しいけど。社交の駆け引きは上手いのに不思議だよね」
「俺が他の令嬢を選べば素直に諦めるって言ってたのは」
一度も本気にしなかったレティシアの恋慕の言葉。
サイラスは思考できていない呆然としているリオの呟きに苦笑した。
「リオらしくないね。頭使うの得意なのに」
「ビアードが一緒にいるのは、」
武門貴族の間ではエイベルとレティシアが一緒に修行している姿は有名である。
放課後訓練場でエイベルとレティシアが手合わせをしている姿も、レティシアが差し入れにくる姿も騎士一族のサイラスには見慣れたもの。
文官貴族よりも礼儀に緩い武門貴族は兄妹のような遠慮のない掛け合いを微笑ましいと見ている者も多い。
「あの二人はもともと兄妹弟子で仲がいいからね。きっとビアードが慰めてるんじゃない?レティシア嬢は有言実行。お前に他の相手がいると思い込んでるなら諦めるだろ」
「事実無根なんだけど、なんでそうなったんだよ。シアは情報の裏取りしてないのかよ。どうすべきか」
「どうするかはリオがよく考えて決めるべきだと思うよ。リオにとって事実無根でもレティシア嬢にとっては信憑性があったんだから彼女だけが悪いとは思えないけど。一応教えてあげるけど、レティシア嬢は俺達武術の名門一族からすれば理想的だよ」
「は?」
「どんな時も家を最優先に考えてくれるだろう?戦地にも名誉なことと快く送り出してくれる。私情より家の利を優先してくれて社交に優れ、家を管理する能力もある。国で最高峰のルーン公爵家の治癒魔導士の力も借りられる。武門貴族の嫡男なら是非夫人にしたい。魔力がなくても」
「ビアードが傍にいるのは、」
「俺は思惑があると思うけど。ビアードは単純だけどバカじゃない。レティシア嬢、留学生にも気に入られてたし」
「留学生?」
「侯爵令息が一人いただろ?レティシア嬢の同級生に」
「いたな」
「レティシア嬢が外国語に堪能なのを知って必死に口説いてたみたいだよ。容姿もあるだろうけど」
「留学生関係の苦情は受けているけど、レティシアの話題はなかった」
「レティシア嬢がリオに話すわけないだろ。あんまり積極的に口説かれすぎて困ってるレティシア嬢を見かねてカーチス達が間に入ったみたいだけど。連れ攫われなくて良かったよな」
「俺が知らないだけで、シアって人気あるのか?」
リオの問いかけに丁寧に答えていたサイラスは言葉を失った。
魔力を持たない貴族令嬢の価値は暴落する。
ルーン公爵家がレティシアを厳しく教育しているのは有名である。冷遇はしていないが、溺愛もしていない。
レティシアを迎え入れてもルーン公爵家からの手厚い援助は期待できない。
レティシアが美人でも容姿だけで娶ろうとする上位貴族はほとんどいないと考えるリオの常識は恋愛結婚を認めるグランド伯爵家次男のサイラスには通じない。
「レティシア嬢より身分が低い生徒は自分から話しかけれないからわかりずらいかもしれないね。ルーン公爵家の後見、容姿端麗、品行方正、才色兼備。魔力がなく、リオに惚れてるという欠点を除けば理想の令嬢だろ?嘘だろう?まさか知らなかったの?」
「ああ。考えたこともなかった」
「男に絡まれてるの見た事ない?そっか、リオを見つけたら周りのやつなんて見向きもせず抱きついてくるもんな。それはわからないよな。どうするの?」
「わからない。シアと話してみるよ」
リオはレティシアへの気持ちがどんなものかははっきりしない。
でもエイベルに託したくない気持ちは認めざるおえなかった。
***
レティシアは夢中で本を読んでいた。
読書をして本の世界に引き込まれるのも今のレティシアにとっては好ましい時間である。
読書に集中しているレティシアに近付ける者は少ない。
エイベルから借りた兵法の本を真剣に読んでいるレティシアを見つけたリオをセリアが見つけた。
「タイムリミットですわ。もう終わり。略奪なんてしたくありませんし、できるとも思ってない。わかっているのに、痛くて、痛くて」
しばらく前にセリアの部屋を訪ねて、号泣したレティシア。
その後も何度か静かに泣いていた。
セリアはレティシアの誤解に気づいていた。
でもレティシアは諦めると決めたなら、それでいい。
セリアに恋はわからない。それでも記憶と同じく時とともに薄れていくと認識している。
前を向き、突き進むのが得意なレティシアならいずれ断ち切れると信じていた。
強がりでもエイミーと一緒に演奏したり、エイベルと手合わせしたり楽しそうに笑っている。セリアに抱き着いて放れない時もあるが頭を撫でると嬉しそうに笑う。エドワードからの手紙を読みながら嬉しそうに自慢の弟を褒めている。泣きながらよわよわしい微笑みを浮かべていたのが嘘のようだった。
セリアは前を向く努力をしている親友の邪魔者は排除すると決めている。
レティシアの優しさに甘えているのに気づかない、思わせぶりな態度ばかりとるくせにレティシアの気持ちは勘違いと突き放す男なんてレティシアの世界から消えてしまえばいいと思っている。
「リオ様、私、言いましたよね?」
「誤解だよ。婚約なんてしていない」
「だから?」
「は?」
「私はリオ様の婚約なんてどうでもいいです」
「なんで?」
機嫌の悪いセリアは何もわかっていないリオに教えてあげることにした。
「レティ、やっと自然に笑えるようになったんですよ。せっかく初恋を諦めたのに蒸し返すようなことはやめてください。さっさとお帰りください。レティのことは私にお任せを。取り巻きならいくらでもいるでしょ?女遊びはレティ以外でお願いします」
リオはセリアからの言葉に衝撃を受けた。
レティシアが勘違いに気づいたならリオにとっては喜ばしいことのはずだった。それでも全然嬉しい気持ちは起きず、逆に気持ちは沈んでいく。
午後の授業があるため教室に戻ったリオ。
授業が終わってもぼんやりしたまま動かないリオにサイラスが肩を叩いた。
「リオ、授業終わったけど帰らないの?」
「終わったのか。ありがとう」
「休み時間に話せたの?」
「セリアに近づくなって」
「シオン嬢の気持ちもわかるけど、このままでいいの?」
「それは」
「ビアードの部屋に行ってみなよ。きっといるから。そこで話してきなよ」
サイラスはレティシアが近づかなくなってから様子のおかしいリオの背中を叩く。
リオを追いかけていたレティシアが足を止めた。
それならリオから近づくしか先はない。
情けない男に惚れたレティシアには次があるかもしれない。
最高峰の令嬢に慕われていたリオに次が見つかる気はしなかった。
「ルーン公爵令嬢、少しでいいのでお時間をいただけませんか」
レティシアは男子生徒に追いかけられるようになった。
侯爵令嬢とリオの仲を祝福していたレティシアの姿を見た者はレティシアがリオを諦めたと判断した。
留学生の無礼も寛大な心で許したように周囲に勘違いされてもいた。
平等精神の学園ならば多少の無礼も許されると思い動き出す生徒が増え、誰にもアピールしないフリーになったレティシアは求愛に襲われていた。
「申し訳ありません。お気持ちだけいただきますわ」
ルーン公爵家とは比べものにならないほど力のない家出身の男子生徒が多く、ルーン公爵家の後ろ盾目当てがレティシアを選ぶ一番の理由。
貴族として利のために動くのは当然である。
平等の学園である程度の自由が許される環境で必死に動く気持ちもレティシアには理解できる。
気持ちは理解しても、ルーン公爵令嬢としての答えは決まっている。
レティシアは上品に微笑みながら全ての求愛に同じ返事を返した。
断られても何度もアピール生徒もおり、レティシアは複雑な思いを隠して上品に微笑みながら応対した。
感情を隠した令嬢モードの微笑みを浮かべているのに、時々レティシアの瞳が揺られていることに気づいている者はレティシアに求愛する男子生徒の中にはいなかった。
「リオ、ちょっと手を貸してくれないか?」
恒例のお断りをおえたレティシアは生徒会役員として助けを求められるリオの背中をを見つけた。
レティシアは足を止めた。
リオを見れば、胸が痛くなり、うまく気持ちがコントロールできない。
時間とともに気持ちは薄れるというセリアの言葉を信じたくても胸の痛みがなくなることはなかった。
リオの近くを通らないと辿り着けない図書室に行くのはやめて、踵を返した。
不運が続いているレティシアにとって唯一の幸運は学年が違うのでレティシアは会いにいかない限りリオと会うことはない。
恋するゆえにリオをすぐに見つけて視線を向けてしまうレティシアの特技はリオを避けるのに役に立っていた。
「失恋にはやけ食いが一番よ」
女子生徒の話している内容にレティシアは耳を傾け足を止めた。
シエルに命じて人生初めてのやけ食いに挑戦することにした。
「お嬢様、そろそろやめられたほうが」
「やけ食いをやり遂げないといけません。やり遂げたからわかるものがあるのかもしれませんわ」
感情を見せない顔で上品な仕草で淡々とテーブルに並べた料理に口に運ぶレティシア。
レティシアの好物の蜂蜜は高級品で稀少なため、レティシアは自分で取り寄せることはしない。
貴重なものは領民やお茶会の場で振舞うために使うようにしているレティシアは自分の欲のために手配するのは許さないのでシエルも主の意向に従いテーブルの上に並べていない。
レティシアが感情を見せない表情をしているときは不愉快な時が多いと知るシエルはやけ食いに真剣に取り組んでいる主に掛ける言葉がわからない。
できるのは食事を終えたあとにレティシアに飲ませる胃薬を用意することくらいである。
あまり食に興味がないレティシアはたくさん食べても気持ちは晴れなかった。
「お嬢様、こちらを」
レティシアはシエルが置いた薬を見て首を横に振った。
「必要ありません。治癒魔法に頼りすぎると耐性ができてしまいますが、薬も同じ。こちは自然の力で十分なもの。それにこれもやけ食いの醍醐味かもしれませんわ。お母様には内緒にしてくださいませね」
厳しい母親に知られれば怒られるだろう行為を隠してほしいと頼むレティシアにシエルは頷いた。
自己管理ができないことに対して特に厳しいルーン公爵夫人の叱責は時々非常識なこともある。
敵に襲われても常に先手を打てるようなポテンシャルを保つようにレティシアは教育されているがこれは貴族令嬢としてではなく、騎士の教えとはレティシアは知らなかった。
シエルには強がって令嬢モードで隠したレティシアは翌日の昼休みにエイベルの部屋を訪ねた。
食事を共にしたいというレティシアからの珍しい誘いにエイベルは了承した。
二人の昼食の用意を終えた使用人達にレティシアは人払いを命じた。
レティシアは食事の席から立ちあがり、来客用のソファに横になった。
「気持ち悪いですわ。しばらく食事はいりません。私の分も食べてくださいませ」
エイベルはレティシアからのお願いに眉間に皺が寄った。
「食事はおろそかにするなと言われてるだろうが」
「昨日三食分くらい食べましたわ。でもシエルは許してくれません」
「三食?」
「失恋にはやけ食いがいいと教わったので試しましたの。最後まで頑張りましたが効果はありませんでした」
胃はもたれ気持ちが悪くなり、さらに気分が沈む悪循環に襲われ大失敗だった。
レティシアの話を聞いたエイベルの眉間に皺はなくなったが馬鹿にしたように笑った顔をソファで丸くなっているレティシアは見ていない。
食が細く、胃も丈夫なほうじゃないレティシアにやけ食いは向かない。
「バカか」
レティシアはエイベルの言葉に反論したいがお願いしている立場なので我慢した。
レティシアはエイベルより賢いし、脳筋と揶揄われることはないと心の中だけで反論するのにとどめた。
エイベルはレティシアの心の内には気付かずに、妹弟子が真剣に考えて、失敗したなら多少は甘やかしてもいいかと昼食だけは見逃すことにした。
「余計なことを考える余裕がなければいいんだろう?体を動かして、ぐっすり眠れば簡単だろう。放課後、やるか?」
「お願いします!!」
レティシアはエイベルからの訓練の誘いに頷いた。
留学生の手を払いのけられなかったレティシアにはありがたい誘いだった。
放課後にエイベルと体術の手合わせをしたレティシアは地面に投げ飛ばされた。受け身を取っているので、ケガはないが体中は汚れている。
土を払うことを無駄に思えたレティシアはそのまま起き上がる。
「エイベル、もう一度お願いします」
負けず嫌いなレティシアにエイベルは笑い、手合わせを再開する。
小柄で美人なレティシアをためらうことなく投げるのはエイベルだけである。
近くで訓練している生徒達には二人の訓練は見慣れたものである。
騎士を目指す生徒達の中で手加減せずレティシアと手合わせするのはエイベルだけ。
公爵令嬢への遠慮する気持ちは理解できるので、レティシアは残念に思いながらも受け入れている。
体を動かし、体力の限界を迎えれば頭は朦朧としてリオのことが頭に浮かばないと発見したレティシアは毎日エイベルの鍛錬に混ぜてもらうことを決めた。
騎士を目指し、訓練が趣味のエイベルは早朝に鍛錬するのはエイベルの日課だった。
早起きするようになったレティシアは毎朝訓練でボロボロになっても、訓練中は余計なことを考えられない。体も鍛えられ一石二鳥とレティシアが喜んでもやっぱり現実は甘くない。
「お嬢様、連日の訓練はおやめください」
シエルはレティシアの体に小さな傷がどんどん増えていくのに気づいてレティシアを止めた。怪我が治らないうちにどんどんケガが増えていく。それを許すわけにはいかなかった。
レティシアの希望でもルーン公爵も嫡男のエドワードも今の現状を知れば動き出す。
ルーン公爵家が動けばビアード公爵家は取り潰されるかもしれない。
そんな悲劇をレティシアが望まないと知っているシエルを楽しそうなレティシアに令嬢らしい安全なことをするように忠言した。
「令嬢らしいですか、」
レティシアは本人が認識している以上にルーン公爵家で大事にされている。
愛情表現にとぼしいルーン公爵夫妻のおかげでレティシアはルーン公爵令嬢としてふさわしいかしか両親が関心がないと誤解しているが。
鈍感で思い込みの激しい面のあるレティシアは一度思い込んだら訂正するのは難しい。
そしれシエルの忠言に頷いたレティシアは新しいことを探しはじめた。
「刺繍できた!!受け取ってもらえるかなぁ」
ハンカチに刺繍をして、慕う男子生徒に渡すのが女子生徒の間で流行していた。
刺繍は貴族令嬢のたしなみの一つである。
レティシアは不器用なので刺繍は苦手である。
リオに贈るためにマール公爵家の複雑な紋章の練習をしていた時もある。
刺繍道具を見た瞬間に胸が痛んだ。
刺繍下手でも貴族令嬢として必要な刺繍技術は身に着けているレティシアは道具をじっと見つめて動かない。
気持ちが暗くなるものに必要もないのに触れるほど強い心はなかった。
「レティ?」
「ぼんやりしてましたわ。課題はなんでしたっけ?」
セリアに声を掛けられ我に返ったレティシア。授業中だったことを思い出し課題の刺繍に取り掛かる。
教師に提出した後は返されるハンカチ。
レティシアはルーン公爵家の紋章の刺繍を始めた。
マール公爵家の紋章はゆがむのに、王家とルーン公爵家の刺繍は美しく刺繍できるレティシア。
刺繍道具の中に紛れるマール公爵家の紋章は見ないフリをして針を進めた。
レティシアの近くにあるリオに関連したものは見ないフリをするしかできない自分に嫌気がさしても、どうにもならない現実に暗い思考に溺れそうになるのを救いあげてくれる何かを必死に探すしかできなかった。
いろんなことを試したレティシアは楽器の演奏と読書なら集中できると気づきレティシアの生活に取り入れた。
ただ演奏室や図書室などの共用スペースはレティシアに求愛する男子生徒が現れるのでエイベルの部屋に逃げることも覚えた。
セリアも研究用の部屋を持っているが、怪しい物ばかりのセリアの部屋は違う意味で落ち着かない場所なので除外した。危険と隣り合わせの部屋で常に警戒して過ごすなどレティシアの心がさらに荒むのが目に見えていた。
「リオに会わないって簡単みたいですわ」
「は?」
「叶わぬ恋でしたわ。会うと動揺してしまいますが、リオが卒業すればさらに会うことはなくなります。膝貸してください」
レティシアはエイベルをソファに座らせ、膝を枕に本を読み始めた。
エイベルの部屋にあった本はレティシアには難しいが、兵法はエイベルの得意分野なので教えてもらおうとこの姿勢にした。
レティシアの問いかけに専門用語ばかりの解説を始めたエイベルの声に耳を傾ける。文字を追うのはやめて襲ってくる眠気にレティシアは素直に身を委ねた。
***
リオは億劫でも立派に役目を果たし、留学生を無事に返し時間に余裕が生まれると最近姿を見せない銀髪を思い出した。
リオは休み時間にレティシアの教室に行くと机に顔を伏せて、丸くなっているレティシアを見つけてため息を飲み込んだ。
体調が悪いのに令嬢モードで隠してさらに体調を悪化させる悪癖のあるレティシア。
高熱があっても顔色一つ変えずに、社交をこなす姿は見慣れたもの。
帰りの馬車か邸に帰った途端に倒れるのも珍しいことではなかった。
リオがレティシアを医務室に連れていくために近づくと、強い力で腕を掴まれた。
腕を掴んだのはレティシアの親友で天才発明家のセリア・シオン伯爵令嬢。
セリアはリオともレティシアを通して幼い頃から親交がある。
セリアは真っ赤な瞳で怒りを隠さず、リオを睨みつける。
「リオ様、レティにもう近づかないでください」
「レティシア、具合悪いだろ?医務室に連れて行かないと」
セリアは心配そうなリオの態度に腹が立って仕方がない。
レティシアがリオへの初恋を断ち切れないのはレティシアだけが悪いとは思っていない。
「そうゆうことするから駄目なんですよ」
「は?」
馬鹿にしたような呆れた物言いをしたセリア。
「ご婚約おめでとうございます」
「は?」
「レティの面倒は私が見るのでご心配なく。妹分のことを思うならもう構わないであげてください」
「セリア、意味がわからない」
「自分で考えてください。レティに近づかないでください。レティのために。それだけご理解くださいませ。では」
セリアは会話についていけないリオに冷笑を浮かべて教室に戻った。
レティシアの傍にいくセリアを見て、リオはセリアに任せれば平気かと教室に戻った。
セリアはレティシアを大事にしているし、レティシアもセリアの言うことなら聞くと知っていた。何より危険物を発明し、常に被験者を探す癖を持つ怒っている意味のわからないセリアと関わるのはリオは避けたかった。
****
リオのところにレティシアが姿を現さなくなり半月以上が経った。
姿を見せないレティシアの体調不良をリオが心配しているとサイラスが物言いたげな視線を向けていた。
「なに?」
「なぁ、リオ、これでいいの?」
最近物思いにふけることが増えたリオ。サイラスは無自覚の友人にため息をついた。
「サイラス?」
「レティシア嬢のこと気になるんだろ?レティシア嬢来たよ」
リオの教室の前に立ち止まったレティシア。
教室の中を見回すレティシアを迎えるためにリオは席から立ち上がった。
先輩の教室に入るのを躊躇う生徒も多いが、身分の高いレティシアは気にしない。
会いたい人物を見つけ、笑みを浮かべて近づいていく。
レティシアは席を立ったリオに近づくことなく、音楽の名家出身のエイミー・リール公爵令嬢の前に立った。
「失礼いたします。エイミー様!!」
「あら?どうしたの?」
「楽譜ありがとうございました」
「弾けるようになった?」
「ええ。またお時間あるときお付き合いくださいませ」
「もちろん。もう少し難しい曲を弾いてみる?」
「是非、ありがとうございます」
リール公爵家とルーン公爵家は同派閥である。
同派閥のためお茶会で顔を合わせることも多い。エイミーはレティシアの初恋をあたたかく見守っている一人である。
最近傷心気味だったレティシアに気休めにと楽器の指導をしていたが、感情を音楽に乗せるのがうまいレティシアの指導が楽しくて仕方ない。
エイミーの指導は厳しくても集中できるものを探していたレティシアにはありがたかった。
嗜み程度の音楽にしか興味がなかったのが嘘のように暇なときは楽器を弄んでいる。
レティシアはエイミーから新たな課題を受け取り礼をして教室から出て行った。
いつもならリオを見つければ嬉しそうに笑い抱き着いていたが、リオに視線を向けることはなかった。
サイラスは立ち上がったまま固まっているリオに苦笑し、愛らしい笑みでレティシアの後ろ姿を見つめていたエイミーに問いかけた。
「リール嬢、レティシア嬢はどうしたの?」
「音楽の教養を高めたいんですって。最近はいつも演奏室かビアード様の部屋で練習しているみたいですよ」
「演奏室はわかるけどなんでビアード?」
エイミーは社交界では常に感情を見せない公爵令嬢らしいレティシアを幼い頃から知っている。リオに恋してから楽器の音色が変わった。
譜面通りの無機質な音から艶めかしい音に変化した。時々胸が痛くなるほど切ない音色も。
リオに恋してから人間らしくなったレティシアをエイミーは好ましいと思っている。
最近は胸が苦しくなるほど切ない音色。ようやく少しずつ明るさが生まれ出した。
レティシアのことをよくわかっていると自負しているリオはエイミーよりもレティシアのことをわかっていないと思っている。
何も気づいていないリオ。
エイミーは愛らしい笑みを浮かべながら、爆弾を落とすことにした。
「殿方はご存知ないのね。マール様が留学生を選ばれたので傷心のレティシアに近づく殿方が多いんですのよ。演奏室にも来るのでビアード様のお部屋で練習しているそうですわ。最初はビアード様も嫌がってましたけど、レティシアのお願いに折れたみたいですわ」
「よく知ってるね」
「令嬢の嗜みですから当然ですわ」
リオは事実無根のエイミーの言葉に固まった。
「リオ、大丈夫?」
「ああ。いい機会だな。やっと俺への気持ちが刷り込みだったと気づいたんだろう」
「へぇ」
放心しているリオを心配したサイラスの問への答えにエイミーが小さく笑った。
レティシアのリオへの報われない片思いをあざ笑っていた令嬢もいる。
魔力を持たない令嬢が高望みと。
レティシアが成長すればするほど、評価は変わった。
魔力を持たずともさすがあのルーン公爵家のご令嬢と。
片親にさえ魔力があれば魔力を継承させ後継をつくる方法はある。
教養深く社交能力の高いレティシアという少女に惹かれて婚約を望む者も家も多い。
身内という曇ったフィルターでしかレティシアを見れないリオ。
誤解とはいえ見る目のない男は断ち切ったほうが幸せかもしれないとエイミーはレティシアの誤解を解くことはやめた。
****
「間違えてないか?」
レティシアはエイベルの部屋でエイミーから借りた曲を練習していた。
気持ちよさそうに何度も弾いているのに、毎回音が違っていることにエイベルが指摘した。
エイベルに音楽の教養はたしなみ程度しかないが耳は良かった。
「その曲変じゃないか?」
フラン王国ではなく外国の音楽家が作った曲はエイベルの耳には慣れない音ばかり。
聞きなれない音を気持ち悪いと表現する音楽への教養のないエイベルにレティシアは馬鹿にしたように笑った。
「教えてさしあげましょうか?ご一緒に」
「興味ない。まだ前の曲のほうが聴きやすかった。それはうるさい」
前にレティシアが練習していた曲もフラン王国では異文化で好まれていない曲調。
音楽への才能皆無の教養の低いエイベルはどんな曲へも無関心で好きな曲はない。
そんなエイベルに聴きやすいと感じる曲ができたのは驚くべき成長だとレティシアは目を丸くした。
そして馬鹿にした笑みではなく、やわらかな自然な笑みをこぼした。
エイミーに会いに行くと同じ教室にリオがいる。
リオの近くで平静を装うためのレティシアの訓練の最終目標は初恋を捨てること。
同じ教室にいてもレティシアに声を掛けないリオ。
用がなければ話す価値もない単なる従兄妹という関係に胸が痛くなるレティシアにはまだまだゴールは見えない。
でも無意識なエイベルが変われたなら努力しているレティシアも変われるかもしれないと前向きになる。
「聴きたい曲はありますか?」
「ない」
レティシアは素っ気ないエイベルに笑いながら選曲を始めた。
楽しそうなレティシアにつられて笑うエイベルの顔に好きな曲を勘違いされたことはエイベルは気付かない。
****
サイラスはリオに哀れみの視線を向けた。
エイミーに会うためだけに教室を訪ねるレティシアを物言いたげに見つめるリオ。
レティシアは決して振り向かず、エイミーも愛らしい笑みを浮かべたまま気づかないフリをしている。
リオとサイラスが廊下を歩いていると聞き覚えのある声が響いていた。
「ありえませんわ。エイベルの」
「落ち着けよ。うるさい」
「うるさい!?」
頬を膨らませたレティシアがエイベルと言い争っていた。
視線を集めていても見られることになれているレティシアもエイベルも気にしない。
レティシアの頭を乱暴にエイベルが撫でるとレティシアはため息を飲み込んだ。
そして自分達に注がれている視線に気づき、礼をして立ち去ろうとしたがリオの銀の瞳と目が合った。
今のレティシアは無防備だった。
レティシアにとって向けられれば自然に笑みがこぼれた銀の瞳。
不機嫌を宿したリオの瞳にレティシアは悲しくてたまらなくなる。
レティシアの青い瞳がどんどん潤み、唇と目を固く結んで、隣にいるエイベルの背中に手を伸ばした。
エイベルは一瞬で背中にしがみついて顔を隠したレティシアに驚く。
そしてエイベルに悟られることなく素早く動いたレティシアの成長に笑った。
虚勢を張って無理して倒れるよりも、自分より強い者の後ろに隠れて身を守るために動くほうが貴族令嬢のレティシアには必要な行動である。
リオはエイベルの背中に抱き着くレティシアと笑って受け入れるエイベルに衝撃を受けた。
エイベルは睨まれていることに気づいて笑うのをやめて、無言で睨むリオを強い瞳で見つめ返した。
「マール、色々言いたいことがありそうだけど何?」
「いや、それ大丈夫なのか?引き受けるよ」
苦笑を浮かべたリオが泣きそうなレティシアに視線を向けると、エイベルにしがみつく腕に力が入った。
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「レティシア、腕緩めろ、苦しい。そのままでいいから、力だけ緩めて。引き渡さないから」
レティシアは自分を物のように扱うエイベルの無礼な言葉に反論する余裕はなかった。
エイベルを盾にして、この場から消えたい。いまだにリオを見て動揺し続ける自分も嫌だった。
「最近宥めるコツ覚えたから平気だ。レティシアは俺が引き受けるから安心して幸せになれよ」
「は?」
「俺達はこれで。歩きにくいんだけど。嫌?仕方ないな。悪いが先に行ってくれ。たぶんこれ、お前が近くにいる限り動かない」
レティシアはエイベルの背中にしがみついたまま動かない。
リオはレティシアからの無言の拒絶に動揺しながらもサイラスに促され、通り過ぎた。
「邪魔、運ぼうか?」
「嫌。少しだけ、頭撫でて」
リオを諦めると決めたのに、会うと動揺する弱い自分が嫌でたまらないレティシア。
令嬢モードを纏えるようにエイベルの胸に抱きつき、ぬくもりに目を閉じる。
優しく頭を撫でてほしいのに、乱暴に頭を撫でるエイベルに指摘する余裕はない。
人目はエイベルが視線で散るように命じたからなくなった。
そんなことに気付く余裕は自分のことでいっぱいのレティシアにはなかった。
レティシア達から離れて、死角に入るとリオは振り返った。
サイラスは殺気を垂れ流しているリオの肩を叩いた。
「殺気出てるからやめて」
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「殺気を向けるほど?」
「いや、それは…。脳筋に預けるのは…。雛鳥の巣立ちに複雑かもな」
「嫉妬じゃないの?相手がビアードじゃなくてカナト様で想像したら?」
「は?」
「例えだよ。リオがレティシア嬢を任せてもいいと思う相手でさっきの光景を想像しなよ」
「思い当たらない」
「レティシア嬢はいずれ誰かと婚約するよ。リオの許しに関係なく」
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「じゃあ今まで向けられてた好意が全部ビアードに向けられたらどうするの?」
リオはサイラスの問いに想像した。
自分以外に抱き着くレティシアを見るのは初めてだった。エイベルに満面の笑顔で抱きつき甘えるレティシアを想像するだけで不愉快な気持ちに襲われた。
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「レティシア嬢のビアードとの婚儀はきちんと祝福できる?」
リオはエイベルの腕に上品に微笑みながら寄り添うレティシアを想像すると不愉快でたまらなかった。
「無理そうだよね。リオとの婚儀は?」
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「そのにやけてる顔の意味わかる?」
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社交界の花の一つに数えられるルーン公爵令嬢。
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不在の時はルーン公爵をはじめ、親族が務めている。
社交界ではレティシアはリオに恋慕の態度は一切見せない。
学園でのレティシアのリオへのアピールを目にしたものでなければ、ルーン公爵令嬢がマール公爵家三男に惚れているなんて誰も気づかなかっただろう。
社交界では公爵令嬢としてふさわしく振舞うレティシアが学園でリオにアピールしているのは、婚約者を選ぶ権利をレティシアが持っているからと予想している者が多い。
だからリオが素っ気ないので自分にも可能性があるとアピールする者が絶えない。
「まさか、叔父上の了承を?」
「さぁね。ただ縁談を控えたルーン公爵令嬢が恋心だけであんなに素直に動くとは思わない。好意を全面的にぶつけることが駆け引きかどうかは怪しいけど。社交の駆け引きは上手いのに不思議だよね」
「俺が他の令嬢を選べば素直に諦めるって言ってたのは」
一度も本気にしなかったレティシアの恋慕の言葉。
サイラスは思考できていない呆然としているリオの呟きに苦笑した。
「リオらしくないね。頭使うの得意なのに」
「ビアードが一緒にいるのは、」
武門貴族の間ではエイベルとレティシアが一緒に修行している姿は有名である。
放課後訓練場でエイベルとレティシアが手合わせをしている姿も、レティシアが差し入れにくる姿も騎士一族のサイラスには見慣れたもの。
文官貴族よりも礼儀に緩い武門貴族は兄妹のような遠慮のない掛け合いを微笑ましいと見ている者も多い。
「あの二人はもともと兄妹弟子で仲がいいからね。きっとビアードが慰めてるんじゃない?レティシア嬢は有言実行。お前に他の相手がいると思い込んでるなら諦めるだろ」
「事実無根なんだけど、なんでそうなったんだよ。シアは情報の裏取りしてないのかよ。どうすべきか」
「どうするかはリオがよく考えて決めるべきだと思うよ。リオにとって事実無根でもレティシア嬢にとっては信憑性があったんだから彼女だけが悪いとは思えないけど。一応教えてあげるけど、レティシア嬢は俺達武術の名門一族からすれば理想的だよ」
「は?」
「どんな時も家を最優先に考えてくれるだろう?戦地にも名誉なことと快く送り出してくれる。私情より家の利を優先してくれて社交に優れ、家を管理する能力もある。国で最高峰のルーン公爵家の治癒魔導士の力も借りられる。武門貴族の嫡男なら是非夫人にしたい。魔力がなくても」
「ビアードが傍にいるのは、」
「俺は思惑があると思うけど。ビアードは単純だけどバカじゃない。レティシア嬢、留学生にも気に入られてたし」
「留学生?」
「侯爵令息が一人いただろ?レティシア嬢の同級生に」
「いたな」
「レティシア嬢が外国語に堪能なのを知って必死に口説いてたみたいだよ。容姿もあるだろうけど」
「留学生関係の苦情は受けているけど、レティシアの話題はなかった」
「レティシア嬢がリオに話すわけないだろ。あんまり積極的に口説かれすぎて困ってるレティシア嬢を見かねてカーチス達が間に入ったみたいだけど。連れ攫われなくて良かったよな」
「俺が知らないだけで、シアって人気あるのか?」
リオの問いかけに丁寧に答えていたサイラスは言葉を失った。
魔力を持たない貴族令嬢の価値は暴落する。
ルーン公爵家がレティシアを厳しく教育しているのは有名である。冷遇はしていないが、溺愛もしていない。
レティシアを迎え入れてもルーン公爵家からの手厚い援助は期待できない。
レティシアが美人でも容姿だけで娶ろうとする上位貴族はほとんどいないと考えるリオの常識は恋愛結婚を認めるグランド伯爵家次男のサイラスには通じない。
「レティシア嬢より身分が低い生徒は自分から話しかけれないからわかりずらいかもしれないね。ルーン公爵家の後見、容姿端麗、品行方正、才色兼備。魔力がなく、リオに惚れてるという欠点を除けば理想の令嬢だろ?嘘だろう?まさか知らなかったの?」
「ああ。考えたこともなかった」
「男に絡まれてるの見た事ない?そっか、リオを見つけたら周りのやつなんて見向きもせず抱きついてくるもんな。それはわからないよな。どうするの?」
「わからない。シアと話してみるよ」
リオはレティシアへの気持ちがどんなものかははっきりしない。
でもエイベルに託したくない気持ちは認めざるおえなかった。
***
レティシアは夢中で本を読んでいた。
読書をして本の世界に引き込まれるのも今のレティシアにとっては好ましい時間である。
読書に集中しているレティシアに近付ける者は少ない。
エイベルから借りた兵法の本を真剣に読んでいるレティシアを見つけたリオをセリアが見つけた。
「タイムリミットですわ。もう終わり。略奪なんてしたくありませんし、できるとも思ってない。わかっているのに、痛くて、痛くて」
しばらく前にセリアの部屋を訪ねて、号泣したレティシア。
その後も何度か静かに泣いていた。
セリアはレティシアの誤解に気づいていた。
でもレティシアは諦めると決めたなら、それでいい。
セリアに恋はわからない。それでも記憶と同じく時とともに薄れていくと認識している。
前を向き、突き進むのが得意なレティシアならいずれ断ち切れると信じていた。
強がりでもエイミーと一緒に演奏したり、エイベルと手合わせしたり楽しそうに笑っている。セリアに抱き着いて放れない時もあるが頭を撫でると嬉しそうに笑う。エドワードからの手紙を読みながら嬉しそうに自慢の弟を褒めている。泣きながらよわよわしい微笑みを浮かべていたのが嘘のようだった。
セリアは前を向く努力をしている親友の邪魔者は排除すると決めている。
レティシアの優しさに甘えているのに気づかない、思わせぶりな態度ばかりとるくせにレティシアの気持ちは勘違いと突き放す男なんてレティシアの世界から消えてしまえばいいと思っている。
「リオ様、私、言いましたよね?」
「誤解だよ。婚約なんてしていない」
「だから?」
「は?」
「私はリオ様の婚約なんてどうでもいいです」
「なんで?」
機嫌の悪いセリアは何もわかっていないリオに教えてあげることにした。
「レティ、やっと自然に笑えるようになったんですよ。せっかく初恋を諦めたのに蒸し返すようなことはやめてください。さっさとお帰りください。レティのことは私にお任せを。取り巻きならいくらでもいるでしょ?女遊びはレティ以外でお願いします」
リオはセリアからの言葉に衝撃を受けた。
レティシアが勘違いに気づいたならリオにとっては喜ばしいことのはずだった。それでも全然嬉しい気持ちは起きず、逆に気持ちは沈んでいく。
午後の授業があるため教室に戻ったリオ。
授業が終わってもぼんやりしたまま動かないリオにサイラスが肩を叩いた。
「リオ、授業終わったけど帰らないの?」
「終わったのか。ありがとう」
「休み時間に話せたの?」
「セリアに近づくなって」
「シオン嬢の気持ちもわかるけど、このままでいいの?」
「それは」
「ビアードの部屋に行ってみなよ。きっといるから。そこで話してきなよ」
サイラスはレティシアが近づかなくなってから様子のおかしいリオの背中を叩く。
リオを追いかけていたレティシアが足を止めた。
それならリオから近づくしか先はない。
情けない男に惚れたレティシアには次があるかもしれない。
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