追憶令嬢の徒然日記  小話

夕鈴

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パラレル  レティシアの初恋2

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リオ・マールは生徒会役員である。
外交一家の三男であり、父親や兄から仕事を頼まれることもある。
生徒会役員であるリオに与えられている部屋で、積み上げられた書類をぼんやり眺めているとノックの音が聞こえた。

「リオ兄様、失礼してもいいですか」
「どうぞ」

レティシアは廊下で会えば抱き着いてくるが、リオの部屋を訪ねることはあまりない。
レティシアはリオの部屋に入ると、机の上に重なる書類に笑みを深めた。

「どうした?」

レティシアは机の上の書類の山をめくりながら、二つの山に分け始めた。
仕分けを終えたレティシアは小さいほうの山を後ろに控える侍女のシエルに渡した。

「お仕事が大変と伺いまして、頂いていきます。殿下に許可はいただいておりますのでご安心ください。私、暇なので翻訳等も引き受けますよ」

リオが何か言う前に、リオの侍従がマール公爵から預かっている書類をレティシアに渡した。
マール公爵夫妻のお気に入りのレティシアはマール公爵家の執務を手伝っても咎められない。リオ以上に完璧に仕上げることもあり歓迎されている。

「お邪魔致しました。失礼しますわ」

レティシアは忙しいリオの時間を無駄にしないため礼をして颯爽と立ち去った。
レティシアはリオが多忙になると突然部屋に現れ、仕事を引き受けていく。
もちろんマール公爵夫妻や生徒会長の王太子の許可を事前に取っており、リオが咎められないための手回しも忘れない。
リオの多忙にいつもレティシアが気付くのはリオのことをよく見ているから。
そしてエイベルが書類仕事に襲われているのを目にするから。
レティシアの行動にリオは気付いてない。
気付かなくてもレティシアの手伝いに助けられている自覚をリオに持っている。

「落ち着いたら連れ出すか」

レティシアにたしなみを注意しているのに、年頃の令嬢を誘うことの意味を忘れているリオの呟きに侍従は無言を貫いた。


***


ステイ学園は突然ラル王国から短期留学生を迎えると知らせを受けた。
生徒会が主体となりもてなし、生徒会長の王太子と外交一家のマール公爵家三男のリオが中心に指揮をとることが決まった。
もともと多忙な生徒会は突然の留学生を迎える準備にさらに多忙に襲われていた。
社交界でもラル王国からのお客様を迎える準備はされており、中心にいるのはマール公爵家。
婚約者を持たない年頃の令嬢・令息、姫をフラン王国貴族としてきちんともてなすように上位貴族達は王家から命令を受け、マール公爵家の指示にしたがい準備を整えていた。
準備を終えて無事にステイ学園に留学生を迎える日を迎え、学園内には普段の平穏な空気ではなく、緊迫した空気が流れていた。

生徒会には王太子やリオ、エイベルをはじめ、容姿端麗で成績優秀な上位貴族の生徒達が所属している。
学園で人気の生徒会役員に丁重にエスコートされる留学生に嫉妬の視線が注がれていた。
ラル王国とフラン王国は文化の違いがあるため、積極的に生徒会役員を口説く留学生の行動はフラン王国でははしたないものである。
エスコートの腕に胸を押し付ける女子生徒に向ける視線は様々だった。
レティシアは留学生の姫や令嬢達が生徒会役員にエスコートされる姿を静かに見つめていた。
フラン王国の礼儀をわきまえて、婚約を結んだあとのことを考えて貴族らしく行動するのが良識的である。後先を考えず全てを使い目的を達成するための手段を選ばない気持ちもリオに振り向いてほしいレティシアにはよくわかった。

「大丈夫?」
「両国の友好のために必要なことですから」

レティシアの親友のセリア・シオン伯爵令嬢は切なそうな顔で見つめるだけで決して割り込むことはしないレティシアの頭を優しく撫でた。
レティシアはセリアの気づかいに嬉しそうにニコッと笑う。
レティシアはリオにアピールしているが、他の令嬢のアピールの邪魔はしない。
他の令嬢とリオが話していれば近づくことはない。

「ないものねだりはいけませんわ。あるものを最大限に利用するしか道はありませんのよ」

レティシアは周囲に聞こえるようにはっきりした声音でセリアに話しながら優雅に微笑んだ。
レティシアは留学生の無礼な行動を認めると公言した。
平等精神を掲げる学園の方針でも上位貴族はルーン公爵令嬢の言葉に従う。
平等の学園とはいえ王家が留学生を丁重にもてなすように命じた命令は適応されている。
立場を理解していない者にレティシアはきちんと警告した。
あとは当人の自由でそれ以上は介入するつもりはない。


セリアは優雅に微笑み強気な発言で、場の空気を支配するレティシアを美しいと思っている。
さきほどまで留学生に向けられていた不躾な視線は全てレティシアに注がれている。
レティシアの小柄で華奢で成長途中な体は男性受けするプロポーションは持たない。レティシアは自分の体に物足りなさを感じているが、リオが振り向かないのはレティシアの成長途中の体の所為ではない。
思い込みの激しいレティシアに伝えても無駄だと知っているのでセリアは伝えない。
ただ男の趣味の悪さを指摘するのはやめない。

「レティは趣味が悪いのが最大の欠点じゃない?」

「趣味?これですか?」


弟から贈られた髪飾りを触るレティシアにセリアは首を横に振り否定する。
レティシアの弟のエドワードが姉に贈るものはレティシアに似合うものばかり。
ラル王国からの客人をもてなすパーティーで青を基調に作られたお揃いの正装で会場に現れたルーン公爵家の姉弟は視線を集めた。
ラル王国の姫を凌駕する優雅な振舞いで会場の視線を虜にしながら美しいダンスを披露した。
フラン王国の令嬢の美しさは諸外国でも称えられる。
魔力を持たないことで、高嶺の花ではないルーン公爵令嬢に魅了され、婚約を望む者も多い。
レティシアがリオへアピールしているのはルーン公爵家の意向か、沈黙を貫く序列一位のマール公爵家の意向は、などフラン王国で力のある二家の意図がわからず、フラン王国ではレティシアとリオに婚約の申し入れをする家はなかった。
マール公爵家とルーン公爵家は周囲の貴族の反応を知っていたが、沈黙を貫く姿勢は変えなかった。

***

リオは生徒会役員としてもマール公爵家三男として留学生が穏便に留学をおえるように気を配っていた。
留学生への苦情を受ける立場のリオも煩わしいことが起こっていた。

「私達の婚姻は両国の友好になりますわ。ぜひ、私と婚約しましょう」

リオは留学初日から自分につきまとう侯爵令嬢に何度目かわからない返答を返した。

「俺の婚約は父上達が決めますので」

リオはレティシアによく抱き着かれるが、しつこく付き纏われることはない。
フラン王国の良識ある令嬢はマール公爵家とはいえ嫡男ではないリオにルーン公爵令嬢を敵に回して近づくメリットを感じないためアピールする者は少ない。
フラン王国の令嬢にとってはリオよりも生徒会長である王太子やビアード公爵家嫡男をはじめ、当主夫人を目指せる令息達のが魅力的だった。


***
レティシアのクラスにも留学生の侯爵令息が滞在している。
ぼんやりと窓の外の風景を見つめているレティシアは美しい。
それはレティシアのクラスメイトのほとんどが認めることである。
リオにアピールするときだけは愛らしい令嬢に豹変するが、普段は淑やかで上品な貴族らしい令嬢である。
クラスで一番身分の高いレティシアのぼんやりを邪魔できるのはレティシアの数少ない友人だけだが、最近は違った。

「ルーン嬢!!」

ぼんやりしていたレティシアは勢いよく話しかけられ、驚き令嬢モードの仮面が剥がれ落ちそうになり、慌てて社交用の笑みを浮かべた。
留学生の侯爵令息はレティシアの美しい笑みに頬を染めて、肩をがっしりと掴んだ。
レティシアは無礼な行動に戸惑いながらも、態度には一切出さず、上品な微笑みを浮かべたまま見つめ返す。

「どうされました?」
「まだ婚約者がいないって本当ですか」
「ええ」
「でしたら、私の婚約者になってもらえませんか?」
「お戯れを」
「本気です。美しさだけでなく、聡明さも持ち合わせているなんて私の妻に相応しい。外国語も堪能とはこれは運命でしょう。貴方の周りには見る目のない男ばかりなのが私にとって幸運でした」

甘さを含んだ声音で口説く言葉に一部の女子生徒が頬を染めるもレティシアは違った。ドン引きしていることを隠して微笑み続けた。

「申しわけありません。お恥ずかしながら私はそんなに優秀ではありませんので」
「ご謙遜を」

ラル王国よりもフラン王国のほうが国力は強い。そしてフラン王国屈指の権力を持つルーン公爵家の令嬢に侯爵子息が妻にふさわしいとは侮辱である。
立場のわかっていない留学生。
シスコン疑惑のあるレティシアの弟が知れば報復に乗り出すがレティシアは煩わしいことは嫌いである。
平等の学園なので無礼も目をつむることにしているレティシアは肩に置かれた重たい手をどうしようかと思考する。
何を言っても通じない、話を聞かない留学生にレティシアが困っていると突然肩が軽くなった

「申し訳ありません。俺の友人が怯えているのでその手を離してくれますか?」

レティシアの友人の一人が終わりの見えない二人の会話に割り込んだ。
カーチス侯爵家次男のクラムが留学生の手をレティシアの肩から剥した。

「レティシアは男に免疫がないので触れるのをお控えください。もし婚約を申し込まれたいならルーン公爵にご相談を。彼女には選択肢はありませんので」
「我が国は婚姻にはお互いの気持ちが優先される」
「フラン王国の貴族は当主の命令第一です。特に貴族令嬢は選択の権利を持ちません。レティシアはフラン王国の公爵令嬢なので婚約相手は公爵が決めます。俺達はここで。レティシア、行こう」
「失礼しますわ」

クラムにエスコートされレティシアは教室から出た。
普段は貴族らしくない、明るく礼儀にこだわらないクラムの新たな一面に微笑んだ。

「クラム様ありがとうございます。クラム様が貴族らしくて驚きましたわ」
「一応俺も侯爵家の人間だからな。平等の学園でも無礼が過ぎる。あの勢いには驚いたよ。肩大丈夫か?」
「ええ。殿方の手を振り解くためにもっと修行に励まないといけませんね。あと5日もいらっしゃるんですね」
「リオ様に相談しないのか?」
「しませんわ。リオには関係ないことですから。留学生の接待は生徒会の管轄ですがこれは私の問題です。どうにもならなかったら助けてくださいませ」
「友達だからな。連れ攫われないようにだけ気をつけろ」
「ええ」

クラムの冗談にレティシアは笑って流したが現実は甘くなかった。
レティシアは留学生に付き纏われた。
二人になりたがる留学生の誘いを丁重に断るも強引に迫られれば、クラムを始めとするクラスメイトが間に入ってくれた。
おかげで貞操の危機は免れた。
婚前交渉を許すラル王国はレティシアにとって心象の悪い国になってしまった。
留学生のおかげでレティシアにラル王国と大柄な男への苦手意識が生まれたのは本人だけの秘密である。



「ルーン様を呼んでくださる?」
「先触れもご存じないんですか」

レティシアを呼び出すように一つ年下の留学生に言われたアリッサ・マートン侯爵令嬢は不機嫌を隠さずに問いかけた。
レティシアは廊下で争う声にため息を飲み込み、席を立ちあがり廊下に向かった。
ルーン公爵令嬢が身分の低い侯爵令嬢に呼び出されるなどありえないが、ラル王国貴族に常識を問うことはしない。
文化の違いで常識もことなるが、ラル王国がフラン王国の礼儀に合わせるつもりがないのはクラスメイトの留学生を見れば一目瞭然だった。

「アリッサ様、この場は私に任せてくださいませんか。こちらでよろしければご用件をうかがいますわ」


笑っていない瞳でレティシアに微笑まれたアリッサは寒気に襲われた。
幼い頃はいろいろあったが、レティシアが魔力を持たないため王子の婚約者を目指せない立場になってからは良識ある関係を築いていた。
王子の婚約者候補を狙う年上の令嬢達に劣るアリッサの所作の指導をしたのはレティシアである。
指導者のレティシアが冷たい微笑みを浮かべるときは従うのが安全と身を持って知っているアリッサは礼をして教室に戻っていった。
レティシアは個室に移動することなく、呼ばれたままの廊下で応対することを選んだ。
人目があるほうが安心なことがある。
信用のない者と人目のない個室で会うリスクを冒すよりも、周囲に面白おかしく噂されるほうがいい。
噂ならいくらでも対処できる自信がレティシアにはあった。


「私、ご挨拶に参りましたの」

レティシアは留学生のために王家が開いたパーティーで自己紹介はしている。

「リオ様の従妹ですよね?」
「ええ」
「リオ様は卒業後我が侯爵家を継いでくださることになりました。春には親戚になりますのでご挨拶に」

侯爵令嬢はレティシアの1歳年下である。侯爵令嬢は自分とは正反対の華奢な体系のレティシアを見て勝ち誇った笑みを浮かべた。

「婚姻は両者が成人後では?」
「リオ様が一緒にいたいと望んでくださいましたので私が成人資格をいただいてからすぐに婚儀を。お待たせするのが申しわけないんですが、婚儀を上げなくてもできることはありますから」

頬を染めうっとり微笑む侯爵令嬢の言葉にレティシアの胸が痛む。クラスメイトの留学生は色狂いである。
欲の籠った視線にいやらしい手つきでエスコートをする男の思考を読むのは簡単だった。
男というものは色欲に弱い者が多いこともレティシアは知っている。
レティシアにとって気持ちの悪い思考に襲われそうになっているとカシャンと何かが割れる音が耳に響いた。
侯爵令嬢の顔ではなく、周囲を見渡したレティシアは注がれる視線に気づいて気を引き締めた。
平等の学園でも醜態をさらせば、評判は落ちる。
特に国外の貴族相手に醜態をさらして侮られることも弱みを握られることは許されない。
動揺を隠してレティシアは微笑んだ。

「ご婚約おめでとうございます。正式に公表されたらお祝いを贈らせていただきますね。リオ兄様をよろしくお願いします」
「ルーン様も祝福してくださいますか?」

侯爵令嬢の口元は笑っているのに瞳は笑っていなかった。レティシアは侯爵令嬢の瞳に蔑みや嘲笑いなどを宿しているのに気づいたが、微笑みを崩さない。
ルーン公爵家からの祝福をレティシアに求める強欲な侯爵令嬢に利用されないように言葉を選んだ。

「マール公爵家が認められた方でしたら従妹としてリオ兄様達のお幸せをお祈り申し上げますわ」
「よかったわ。それだけ言いたかったの。失礼しますわ」

レティシアの返答に満足して侯爵令嬢は満足げに微笑み去っていった。

「趣味悪すぎない?」

レティシア達のやり取りを遠目から眺めながら小瓶を割ったセリアの言葉にレティシアは無言を貫いた。
侯爵令嬢との会話に外交官に必要な社交力の高さは感じとれなかった。
好きな人の選んだ人への評価は厳しくなる。
レティシアは侯爵令嬢のあら探しをしている自分に気付き、胸が傷んだ。
レティシアは穏便に初恋を終わらせるための方法を思案した。
授業を聞かずに真剣に悩み導き出せた答えは一つだけだった。

「ルーン様!!」

侯爵令嬢はその日から頻繁にレティシアを訪ね、リオとの逢瀬について語っていくようになった。
寮のレティシアの部屋にも突然押しかけてくるのでレティシアは放課後も気を抜けない。
ルーン公爵令嬢として情報収集は大事とわかっていても、細かな恋愛事情まで必要ない。

「リオ様は私を抱きしめてくださいますの。人目があるところで恥ずかしいんですが、でもリオ様が望まれるなら」

レティシアは耳を塞ぎたいのに、立場上許されない。
一つの話題が終わって、次が始まる前にレティシアは口を挟んだ。

「申し訳ありませんが、用があるので失礼します」

レティシアは留学生が追いかけようとするのでつかまらないように足早に立ち去る。
優雅に歩きながら、生徒の人の波に紛れ込む。
そして留学生が入ってこれなそうな場所を探す。
寮も図書室も声を掛けられるのでレティシアにとっては危険な場所である。
レティシアはエイベルの部屋に許しを得る前に入った。

「匿ってくださいませ」
「は?」
「厄介な方に付きまとわれてまして。仕事は手伝いますのでここに置いて」
「ああ。好きにしろ」
「ありがとう」

意味がわからなくてもエイベルはレティシアを追い出すことはない。
レティシアはお茶を淹れて、ソファに座りお茶の香りを思いっきり吸う。
ルーン公爵家に献上された爽やかな香りのお茶はレティシアの荒れている心を慰める。
エイベルは目が虚ろなレティシアを見て、引き出しからお菓子の袋を取り出し投げた。

「これやるよ」

レティシアは飛んでくる何かを片手で掴んだ。
丁寧に包装されたお菓子にエイベルのファンからの贈り物だと理解した。

「机に置かれたから。俺は甘い物が嫌いだから捨てるよりはお前に食われる方がいいだろ?」

慕う男子生徒に贈り物をするのはよくあることである。
受け取る生徒もいれば拒む生徒もいる。捨てる生徒も。
贈り物をどうするかは贈られた相手の自由だとレティシアは思っている。
エイベルは直接渡されれば断る。
ただ置かれたものはきちんと持ち返り、見える場所に捨てることはしない。
食べ物は危険なので捨てられることも多いが、既製品は孤児院に寄付されることもある。


レティシアは毒耐性があるので、危険物でも問題ない。
投げられたのは王都で有名な店のお菓子なので危険はないだろうと口にする。
エイベルが甘い物が嫌いと知っている者は少ない。
貴族は弱みを見せてはいけないので苦手なものは本当に信頼している人にしか教えない。偶然見つかってしまえば口止めするために取引する。

レティシアはお菓子を口に入れると広がる甘みに笑う。
そして王都で人気でもエイベルの嫌いな味だということを知らないエイベルのファンに少しだけ同情する。
エイベルの好みをきちんと調べず、贈るのは短慮だと思うが、気持ちが先走りするのが恋とも知っている。

恋に夢を見るのは子供のうちだけとレティシアは知っている。
夢から覚めて冷たい現実を知った時レティシアの体はいつも冷たくなってしまう。
厳しい母に怒られ、落ち込むレティシアを抱き上げてくれた人はもういない。
ただレティシアの傍には丁度よく寒さとは無縁の人物がいた。

「ねぇ、エイベル、仕事は手伝うから抱きしめて」
「は?」
「お願い」

すがるような視線を向けるレティシアにエイベルは苦笑して席から立ちあがった。
レティシアは勢いよくエイベルに抱きつくがエイベルが後ろに倒れることはなかった。
レティシアは記憶にあるリオの腕とは違うたくましい体に身を預ける。
留学生に触れられた時に感じた不快感をエイベルに感じないことにレティシアは安堵する。
ゆっくりとした胸の鼓動、レティシアとは正反対の生命力の溢れるあたたかい体の温もりを感じレティシアの強張った体の力が抜けていく。


「何かあった?」
「失恋しました。リオは他の方を選んだのでゲームオーバーですわ」

強気なレティシアの弱った声にエイベルは驚く。
泣き叫んで、喚き散らすのではなく静かなレティシアが不気味だった。

「大丈夫か?」
「私はルーン公爵令嬢ですもの」

ルーン公爵令嬢として振舞う虚勢を貫くレティシアにエイベルは笑う。
強がりでも本人がきちんと立とうとするなら邪魔しない。

「そうか」
「仕事は手伝いますし欲しい情報も集めます。だから立ち直るまで時々助けてください」

正直に助けてというレティシアは珍しい。
エイベルはレティシアの苦手なものをいくつか知っている。
それはターナー伯爵家で修業を受けたときにレティシアのいろんな顔を見たから。
蛇を見つけて、強気に微笑みながら、震える手で射殺した。そして気を失い倒れたレティシアの体は氷のように冷たかった。その翌日熱を出し、夢で蛇にうなされていたレティシアを。
その時にエイベルが隣にいたのに、任せることも背中に隠れることもなかった。


蛇が苦手なレティシアが倒れた時と同じくらいにレティシアの体は冷たかった。
エイベルが冷たい体をそっと抱きしめるとエイベルの胸が濡れた。
レティシアは怖くないぬくもりに、こらえきれなかった涙を止めるために目を固く閉じた。なだめるように頭を乱暴に撫でるエイベルの手に気づいて噛みしめていた唇に気づいた。

「仕方ないな」
「頭、もう少し優しく撫でて」
「わがままだな」
「今更ですわ」

エイベルは文句を言いながらも弱っているレティシアの要望に従う。
我儘をいう元気があるのはいいことだと笑いながら、珍しく本気で弱っている妹分を甘やかすことにした。
留学生がリオと結ばれてからレティシアは気を抜ける瞬間がなかった。
レティシアは思考すればするほど胸が痛くて、苦しくて、涙をこぼれそうになる。
力のない侯爵令嬢との婚約をルーン公爵家の権力を使えば破断にできるが、やってはいけないことをわかっている。
いつも助けてくれた大好きだった優しい人の幸せのためにレティシアの存在は邪魔になる。
考えれば考えるほどレティシアの心を抉っていく。
それでも思考はやめない。
初恋の人のためにできることをまとめ、痛む胸には気付かないフリをして無理やり笑みを浮かべた。
レティシアはエイベルの腕の中で決意を固める。

「自立しますわ。リオ兄様とはもう終わり。ありがとうございます。手伝いますわ」

レティシアは強気に微笑み、エイベルの腕から抜け出す。
エイベルは切り替えの早いレティシアに笑いながら書類を渡す。
転んでも、ボロボロになっても立ち上がり前を向くレティシア。
魔力のないルーン公爵令嬢は弱そうな外見に反して強かで打たれ強い。

「今は無理でもいずれは。魔力がない分、他の価値をつければいいだけですもの。私は皆が魔力のお勉強する時間を有効活用してみせますわ」

武術を学ぶ公爵令嬢を遠目にはしたないと笑う貴族令嬢達。
エイベルが反論しようとするのをレティシアは余計なことをするなと止める。
そして令嬢達を眺め、冷たい微笑を浮かべることもある。

「直接伝えられない言葉に価値はありません。私に負けると思っているのに吠えるのをやめられないなんて子供らしいでしょう?弱い犬ほどよく吠えるなんて失礼な言い伝えですよねぇ。本当に弱いものは何も考えずに、震えながら動かず食べられるのを待っているものでしょう」

ターナー伯爵家では思考をやめるときは死ぬときと教えられる。強い者に追い詰められても、思考を止めない限りは活路はあると。
強さが全てと考える騎士も多いが、それは井の中の蛙と厳しい指導を受ける。
いくつもの微笑みを使い分けるレティシアが冷たい微笑を浮かべられることを知る者は少ない。

「魔力を持たないのは貴族として受け入れられにくいこと。でも魔力よりも大事なのは矜持や誇でしょ?魔力があっても、礼儀をわきまえられないなら排除されるのが社交界」

レティシアの冷たい微笑にエイベルが寒気に襲われ、年下の妹弟子に圧倒されたのが悔しくてさらに修行に励んだのはエイベルの秘密である。



書類仕事に没頭しているレティシアが我に返るとあたりは真っ暗だった。
エイベルは仕事をほとんど片付けてくれたお礼にレティシアを食事に誘い、寮まで送った。
無愛想なエイベルがレティシアと一緒のおかげで留学生に絡まれることはなかった。
レティシアは自室ではなくセリアの部屋に突撃した。
突然抱きついて放れないレティシアの頭をセリアは優しく撫でた。
号泣しているレティシアにセリアは何も言わない。
しばらくして涙を拭いたレティシアが顔を上げた。

「セリアは誰に賭けてた?」
「賭けてないわよ。あんな不謹慎なこと趣味が悪い」

レティシアは自分の初恋が終わったのでわずかなお金が手に入る。
配当は高くないので有意義な使い方が思いつかない。
孤児院に寄付でもすればいいかと思いながら、不謹慎な賭けに怒っているセリアの優しさが嬉しくてまた涙がこぼれた。

「ありがとう」
「リオ様は諦められたの?」
「うん。リオが私以外の人を選んだら諦めるって決めてたから」
「リオ様が来たら私が追い払ってあげるわ」
「リオが会いにくるなんてありえない。でも気持ちは嬉しい。ありがとう」

セリアはレティシアがリオに何も期待していないのを知っている。
でもリオはレティシアの世話をしようとすることが多い。
泣き笑いを浮かべるレティシアを見れば、過保護なリオは放っておけない。


「セリアみたいに綺麗に笑えたらリオは振り向いてくれたかなぁ。未練がましいねぇ」

自分で口にした言葉に傷つくレティシアにセリアはレティシアの好物の蜂蜜菓子を口に入れた。
好物にうっとりするレティシアにセリアは微笑む。

「見る目がない男なんてさっさと忘れなさい。時とともに記憶は薄れるもの。たまにはレティも時に身をゆだねるのもいいんじゃない?話したいなら聞いてあげるけど。リオ様の悪口大会なんて楽しそうじゃない?」

レティシアはセリアの言葉に曖昧に笑う。リオの悪口大会に参加できるほど悪いところは思いつかなかった。
恋は盲目という言葉はレティシアを見てセリアは意味がわかった。
レティシアの意識がリオから逸れるようにしてあげようとセリアが考えているとはレティシアは気付かない。


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