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しおりを挟む子供が出来た時、カトレアは幸せの頂点にいた。秘密の恋、誰にも言えない恋。そこに、愛し愛されて授かった子供。彼からの贈り物。子供の存在が、彼の助けになるかもしれない。身分を超えた交際を、結婚を、ご両親に認めて頂くための材料になるかもしれない。
愚かだったと、カトレアは自嘲する。
あの男は、カトレアの妊娠を聞くなり『もう使い物にならねぇな』と、吐き捨てるように言ってカトレアを突き飛ばしたのだ。
娼婦を買うのは金がかかる。安い娼婦は病気を伝染されそうで怖い。その点、初心な阿呆は甘い言葉さえ囁けば無料だし、夢中にさえさせておけば病気を伝染す心配もない。便利だったが、孕めば用はない。
泣き縋るカトレアを何度も突き放しながら、そのような考えを、口汚く宣う男。それが自分の愛した男で、胎にいる子供の父親。
絶望するカトレアに、彼は名案が浮かんだと声を弾ませて『フォルミナ公爵を誘惑しろ』と言った。
『奴は俺たち家族を捨てて自分だけ良い身分の女と結婚した弟だ。俺と瓜二つだからな、一晩だけ関係を持って子供の父親だと思い込ませてやれ。奴をどん底に落として幸せな家族を不幸にして来いよ』
子爵家ですら雲の上の存在なのに、公爵だなんて無謀にも程がある。カトレアは泣きじゃくり、首を左右に振る。
『別にいいけどな、考えても見ろよ?このご時世、未婚の母なんて身持ちの悪い女だと世間から避けられるぜ?そういう世の中なんだ。今働いている食堂だってクビだろうし、マトモな仕事になんて就けやしない。貴族なら兎も角、平民のそんな女に縁談なんて来ないさ』
そういう世の中を生きている。後ろ指を指されるのは容易に想像ができた。
『家督を継がない貧乏貴族の次男坊に愛人を持つのは無理だ。よその子爵家に婿入りする予定があるし、何より金がない。しかし、弟は、公爵様は違うぜ?妾とその子供を養うくらい容易い。上手く行けばお前は働かなくて済む。楽な暮らしができる、今より贅沢もできる』
彼に、愛されていると思っていた。それが絵空事だと知っても、カトレアは現実を生きなくてはいけない。
『どう、やって、接触すればいいの?どうすれば騙せる?』
『前向きになったな。俺は少なからずバカなお前を気に入っていたんだ。これをやろう』
彼が取り出したのは、赤い宝石のついたネックレスだった。彼が身につけているのを、いつも見ていた。
───これは魔石だ。
───魔石を見せながら、優しく囁け。
───誰も彼もがお前の虜になる。
そんなバカな、と半信半疑でいると、彼は疑う前に試せ、成功したら奴を不幸にしてこいとカトレアに命じた。
そしてカトレアは、彼の手引きでフォルミナ公爵夫妻を覗き見た。誘惑する前に念の為容貌を確認するためだ。そこで見たのは、幸せそうに笑う女。夫に愛され、使用人に慕われ、お腹を慈しむように撫でる女。
カトレアが手に入れられなかった、愛を手にした幸せな女───ミレーユがそこにいた。
───私は手に入れられなかったのに!
湧いたのは嫉妬。理不尽な怒り。カトレアは目の前の女から全てを奪ってやると心に決めた。
その結果が“今”だ。
生まれた子は、彼や公爵と同じ紅茶色の瞳。カトレアと同じ赤い髪。キャシーと名付けたのはカトレアであって、カトレアではない。色褪せたピロートークの中で、あの最低な男が、もし子供に名付けるなら…と、そのつもりも無いくせに語った夢物語。
領地に追いやられたとはいえ、飢え死にすることはない。キャシーは公爵に寄生するための道具。あの男に裏切られた瞬間から、愛情など抱いていない。あの男から貰ったネックレスをキャシーに渡したのは、それによってミレーユの娘が不幸になればいいと思ったからだ。実の父親から娘に引き継がれたと考えればちょうどいいだろう。
しかし、何故公爵の洗脳が解けたのか。それだけが解せない。
公爵も、キャシーもユーリエも、みんな不幸になればいい。そう考えるだけで、カトレアは楽しくて楽しくて、笑いが止まらない。
「───ふふふ、ふはははははっ」
高らかな笑い声に応えるように、ノックの音が響いた。使用人たちはカトレアを過剰に恐れ、いつもノックは聞こえないくらい控え目だ。
───さて、誰だろう。
カトレアは愉悦を浮かべた。退屈しのぎにはなるかもしれない。
現れたのは、黒いマントを目深に被った女。整った容貌をしているのだろう、唯一見えている口元は同性であっても目を惹かれる美しさだ。
「どちら様?」
「───貴女とお話したいだけの暇人よ」
客人の訪れを告げる使用人の姿がないことに、カトレアは眉を顰める。しかし、すぐに表情を緩めた。
「死神さんかしら?」
「───いいえ、魔女よ」
絵画のように美しい唇が弧を描く。
「奇遇ね。私は悪女なのよ」
カトレアは無邪気に微笑んだ。
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