ジルの身の丈

ひづき

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 花を贈るのはもうやめてくれと再三言っているのに聞いてくれない、そんな独り善がりな男と結婚などしたくない。

 求婚を断れるだけの、理由が欲しい。

 まだまだ、主の隣で、変化を見届けたい、携わりたい。



 ポロリと涙を流したジルの頬を、大きな両手が包み込む。

「他の男とではなく、私と結婚してくれないか」

 ジルが大切だから、隣にいさせて欲しい。主の懇願に、ジルの両目からは更に涙が溢れていく。





 身の丈とか、相応の、とか。自分の限界を決めつけるための言い訳に過ぎなかったのだとジルは気づいていた。今まではそれでも良かった。

 ジルの母親は恋多き女で、酒場の舞台で歌うことを生業としていた。父親と恋に落ち、ジルが生まれたけれど、貴族である父親には正妻と嫡子がいた。

 ジルの母親は妾に過ぎず。ジルは庶子。恋多き母親は父親に飽きると、ジルを父親の屋敷に置き去りにして風のように去ってしまった。

 残されたジルは、義母から「身の程を知れ」とよく叱られた。父親がジルに買い与えた服も玩具も、その言葉と共に取り上げられた。

 身に過ぎる物は手にしたらいけない。手にしても一時のことであり、執着すれば辛いのは自分だ。そう考えたジルは、取り巻く環境の何もかもが自分には不相応だと納得し、父親に宛てた手紙だけを残して家出をした。

 借金で没落して一家離散したという作り話をしつつ、雇って欲しいと、新聞に求人を出していた屋敷の門を叩いて。

 そして、今に至る。

「君の容貌はお父上によく似ているらしくてね、姉は君を雇い始めてすぐに連絡を取ったそうだ」

 当時、奥様は20代前半。まさか30代前半で夫に浮気された挙句亡くなるなど、誰も予想していなかった。それなのに、何かあったらジルを頼むと繰り返していたそうだ。一体どれだけ心配されていたのだろう。ジルは、母親には愛されなかったが、その分奥様に愛されていた。

「私も何度かお父上とやり取りさせて頂いてね。君が望むようにしてやって欲しいと頼まれている。君が私を選ばなくても、嫌な結婚なんてしなくて済むように私達は力を尽くすよ」

 父親にも愛されているのだろう。残念ながら、奥様の愛ほど実感は湧かない。既に父親の容貌もジルは覚えていない。

 覚えていないが、ジルが生まれた時、父親はジルを正統な自分の娘として国に申請していた。つまり、ジルが願えば、平民として生きることも、貴族として生きることも、どちらも可能だということである。寝耳に水とばかりに驚くジルは、最早言葉も発せず、ただ瞬く。



 公爵である父親の許可が出るまで公表できなかったが、実は旦那様との縁談が以前から出ていた。───という体で、ジルは庭師の求婚を断った。申し訳なさを覚えないのは、毎日押し付けられる花の山に辟易していたからかもしれない。

 恋でも打算でもなく、この人の作る未来を隣で見届けたいという願望だけで決めた結婚だ。正直、自分にも誰かを愛する心というものがあるのか、ジルには自信が無い。それでも、いつも誰かに愛されてきたのだから、きっと夫との関係も大切にできるはず。





 ジルは望んだ。

 身の丈に合った幸福を。

 飢えることがなく、雨風が凌げて、温かい寝床のある生活を。暴力とは無縁の人間関係を。

 他ならぬ夫の隣で生きる時間を。





 おばあちゃん、と呼ばれる声がしてジルは薄く目を開けた。初夏の陽射しがジリジリと室内に差し込んで暑い。そんなジルの内心を察したかのように、誰かがカーテンを閉める音がした。

「おばあちゃん、こんなところで昼寝してたの?みんな探してたよ」

 7歳ほどの少女に、こんなところ、と評されるような場所とはどこだろう。書斎だ。結婚後は大半をこの部屋で過ごしていた。よく夫と喧嘩したのもこの部屋だった。

 夫の姿は見えない。

 見回していると、どうしたのか、と尋ねられたので、素直に夫の居場所を問い返した。すると少女は困ったように眉根を寄せる。知らないのかもしれない。ジルは深く考えるのをやめて、改めて室内を見渡した。

 夫はデスクに腰掛けて本を読んでいる。───ああ、なんだ、そこにいたのね。机に座るのはやめてって、いつも言ってるのに。

 ジルが安堵すると、夫は顔を上げて、ニコリと微笑んだ。

 ───人にはあるべき場所というものがある。然るべき時に、然るべき場所。私はそこに行かなくてはならない。それこそが私に今求められる役割なのだから。

 高説を説くのが好きな貴方に、頭の硬い私はお似合いだわ、とジルは応えた。どこに行くのかは行ってからのお楽しみなのだろう。悪戯好きな彼は道中で限られた資料を提示し、ジルに行く先を当てさせようとする。プライベートの旅行ならともかく、視察でそれをされると事前調査が出来ず効率が悪いと何度か怒った覚えがある。相変わらず、彼は少しだけ意地が悪い。

 ───ダメだと言っても来るのだろう?

 呆れたように肩を竦める。その表情は幸せそうで。呆れなど単なるポーズでしかないと察しているジルは、言葉なく席を立った。不思議と身体が軽い。ジルが立ち上がった後の椅子には、見慣れないしわくちゃのお婆さんが腰掛けている。どちら様だろう、不思議に思ったが、今は夫を追いかけなくては。

 ジルは夫から貰ったお気に入りの靴で、夫の隣を歩き始めた。





[完]
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