好きすぎて辛い

ひづき

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好きすぎて辛い

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「破棄だ!」

 淑女の───それも未婚の───私室のドアを予告なく開け放ち、少年は叫んだ。

 部屋の主である少女は、幸いにもソファで刺繍を嗜んでいる最中だった。驚きで危うく針を指に突き立てそうになったが、着替え中でなくて良かったと思う。いや、もちろん、非礼にも程があるレベルで許されざる行為なのだが。

 少女は刺繍から目を離さず、顔も上げず、闖入者を見遣ることもせず、サイドテーブルの紅茶に口をつける。そんな動作の一つ一つを、射抜かんばかりの勢いで少年が見ているのは、嫌でもわかった。

「何を、と伺っても?」

 努めて冷静に問うと、少年が分かりやすく息を呑んだ。

「こ、婚約を」

「誰と、誰の、でしょう?明確に子細をお話頂けないと愚鈍な私にはわかりません」

「それは、君と、僕との…」

 最初の勢いは何処へやら。少年は言い淀む。

「私と貴方の、婚約を、どうなさるんです?」

「は───」

「ちなみに、今刺しているのは、貴方に差し上げるためのクラバットですわ。もうすぐ刺し終わります。───私は、この想いを、この布地を、この糸を、引き裂かなくてはいけませんの?」

 わざと言葉を遮って、憂い顔で溜め息をつきながら刺繍を撫でる。少年は覚束無い足取りで一歩後ろに下がった。───見なくとも、少年のその様は手に取るようにわかり、少女は憂い顔を保つのに必死だ。顔が、頬が、筋肉痛になりそうである。

「は、破棄しません!」

 大声で叫び、少年は走り去っていく。その足音を聞きながら、少女は盛大に破顔した。おかしくて、おかしくて、笑いが止まらない。

 室内で空気と化していた侍女が、開け放たれたままのドアを閉める。

「お嬢様、笑いすぎですよ」

「あはははは!だってもう、おかしくて、おかしくて!」

 少年が何故今日のような蛮行に出たか、その理由には心当たりがあった。少女が昨日招かれたお茶会で、伯爵家の令息から熱烈なアピールを受けたのを聞いたのだろう。王家からの信頼が厚い公爵家の令息である彼を狙う女狐も、家も多い。そういった輩が『何もご存知ないなんて、お可哀想に』という体裁の元、過剰に盛り立てて少年に告げ口する。───貴方は騙されているんですよ、と。

 少年はその度に少女の元に勢い良く怒鳴り込んでくるのだ。

 嫉妬深く、心配性。それだけ自分は想われているのだと、少女は嬉しくなり、同時に浮き彫りになる外野の醜さに、ついつい笑ってしまう。最初こそ、淑女の部屋に突然押し入るなど!と咎めていたが、あまりに頻繁に来るので慣れてしまった。

 過去に2度ほど着替えの最中に来られたこともある。「もう───、私はお嫁にいけない!」と泣き真似をしたら、少年は嬉しさを隠しきれない渋面顔で「責任をとります!」と言ってくれた。書面にもその旨を認めて頂いてある。

「私の婚約者が彼で良かったわ。可愛くて素直で嫉妬深くて心配性で、とても弄りがいがあるもの」

「程々になさらないと、本当に愛想を尽かされてしまいますよ」

「ふふ、もちろん心得ているわ。彼以外との結婚なんて考えられない。───至急、余計なことを吹き込む噂雀の舌は切り落とすよう指示を出しなさい」

「畏まりました」

 少女は平民だ。表向き裕福な商人の娘でしかないため、不釣り合いだと叩く者は多い。───しかし、単なる豪商ではなく、裏社会を牛耳る豪商の娘である。身分を与えようとする国を、身動きが制限されるのは嫌だという理由で長年拒み続けてきた一族だ。

 この婚約は国王が結ばせたもの。最も王家に近い公爵家と裏社会を牛耳る一族を婚姻させることで、社会の表も裏も関係なく王の権力下にあるのだと示したいという思惑がある。裏が肥大化し、王家と国家を二分する勢いの今だからこそ避けられない王命であり、身分しか誇れるものがない貴族如きが騒ごうと覆せるものではない。

 何より、7人目でようやく生まれた待望の長女ということもあり、父は少女にとことん甘い。そんな少女が少年に一目惚れをした時点で、少年は逃れられないのだ。

 例え手足を切り落としてでも、少女は少年を手放さない。

「本当、可愛い嫉妬だわ」

 少女の抱く執着に比べれば、可愛いものである。



[完]
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